【神様・仏様・稲尾様】
西鉄ライオンズのエースとして大活躍し、通算 276勝を挙げた稲尾
和久さんが11月13日にお亡くなりになりました。心からご冥福をお祈
りいたします。14日の「日刊スポーツ」でトップを含め3面にわたり
関連記事が掲載されていたのを見て、あらためて稲尾さんが「大投手」
だったのだなと感じました。
稲尾さんといえば「神様、仏様、稲尾様」と賞賛された、1958年の
日本シリーズを思い出すかたも多いのではないでしょうか。
三原脩監督率いる西鉄ライオンズは、1956年、57年と讀賣ジャイア
ンツを下し二年連続日本一に輝いていました。しかし1958年は第1戦
から3連敗。しかも第3戦にエース・稲尾和久を立てて0対1で負け
ているだけに、巷では「西鉄4連敗」と噂されていました。
稲尾和久「0対1の敗戦の中のピッチングに自信を持った」
しかし、平和台球場で行われる予定の第4戦は「雨」のため午前10
時半に中止決定となったのです。「雨」は昼前には上がり薄日がさし
たのですから、なんとも微妙な決定でした。
水原 茂「おかしいぞ」(延期決定を知り、三原宅へ電話で抗議)
三原 修「今さらジタバタしても始まらん」(自宅で麻雀をし)
稲尾和久「20時間は眠った・・・」
1日のそして、十分すぎる休養をとった西鉄、いや稲尾は第4戦に
先発すると6対4で勝利。続く第5戦は3点ビハインドの状況で4回
表からリリーフ登板。そして劇的なシーンを迎えるのです。9回裏、
西鉄先頭の小淵泰輔が三塁線を際どく抜ける打球を放ちます。二出川
塁審は「フェア!」。すると、讀賣の水原茂監督と長嶋茂雄三塁手が
「ファウル」を主張し猛抗議。この抗議は退けられ試合再開。西鉄は
2死から辛くも同点に追いつくと、10回裏、稲尾のサヨナラ本塁打で
2勝目をあげたのです。
水原 茂「あれはファウルだった・・・」(西鉄小淵の打球に)
稲尾和久「思いっきりバットを振るしかない」(サヨナラ本塁打前)
三原 修「稲尾っ、ベースをちゃんと踏め」(稲尾のホームイン時)
こうなると追うものの強みです。舞台を後楽園に移した第6戦、第
7戦と西鉄は稲尾の連続完投で、みごと逆転優勝し三連覇を果たしま
した。このシリーズ、稲尾は第2戦を除く6試合に登板し47イニング
投球。そのうち5試合を先発し4試合を完投しました。西鉄のその他
の投手陣は、5人で15イニングしか投げていません・・・。
稲尾和久「ああ、これですべて終わった」
水原 茂「あの、昼には晴れ上がった日の『雨天延期』が、稲尾を
よみがえらせた・・・」
三原 修「人、盛んなれば、天に勝つ、ですよ」
稲尾さんの名を聞くと、1950年代から1960年代前半にかけて名勝負
を繰り広げた西鉄ライオンズと南海ホークスの経緯を思い出さずには
いられません。この名勝負、均衡関係は1960年代後半の西鉄の衰退に
よって崩れます。西鉄は1973年に太平洋クラブ、1977年にクラウン・
ライターと変遷し、低迷期が続きました。そして1979年から西武ライ
オンズとして本拠地を埼玉・所沢に移し1980年代に黄金期を築きまし
た。皮肉にも西武としてライオンズが復興すると、今度は南海が衰退
します。1988年に大阪からかつてのライオンズの本拠地・福岡に移転
し再出発。ダイエー、ソフトバンクと変遷し、今やパ・リーグを牽引
するチームに復活しています。
福岡を共通点としたライオンズとホークスの関係と経緯は不思議な
「何か」を感じずにはいられません。球団は変われど「ライオンズは
ライオンズ」「ホークスはホークス」です。いろいろと複雑なことも
あるようですが、球団関係者やファンのかたがたはこの歴史の流れを
真摯に受け止めてほしいと切に願うのであります。
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それがパリーグの人気が一時凋落した原因にもなった
そうですね。
選手としてそのとばっちりを受けたのが東尾さん。
監督としては稲尾さんだったそうですね。
でもパリーグの人気復活を先導したのもライオンズ
だったように思います。
あの事件・・・。
確かに球界に大きな影響を与えましたね。
西鉄、南海、大毎、阪急、近鉄、東映・・・
すべて変わってしまいました。
そして東尾さん。
東尾さんは西鉄から西武にいたる「ライオンズ」を
つなぐことができる数少ない人材です。
西武は現在、地元定着という意味で遅れをとって
いると言われています。
しかし、福岡ダイエー、千葉ロッテ、北海道日本ハム
よりも前に「福岡」から「武蔵西部」のエリアに移転し
地域のファンを多く球場に呼び寄せた球団
だったのですね。