あの年、あのころ・・・。
就職活動真っ只中であった。記憶では、その日は月曜日だったかと
思う。束の間のオフで、横浜の実家の居間にいた。夕刻18時30分前、
ふと南の空を見上げてみた。青くきれいな空だ。
その日は暑い日だった。そんな暑さも、夕方になるといくぶん和ら
いでいた。「JAL123便」は、羽田空港C滑走路を18時12分に離
陸、東京湾の房総半島寄りの上空を通過し相模湾へ向った・・・。
南の空を見上げていたころ、相模湾上空を通過していた123便に
異変が起きた。そして、19時前後「不明」の一報が羽田レーダー室に
監視していた次席管制官から自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備
救護課、そして運輸省航空局管制保安部運用課に通知された。
私が「そのこと」を知ったのは、何時かのNHKニュースであった。
就職活動真っ只中であった。記憶では、その日は月曜日だったかと
思う。束の間のオフで、横浜の実家の居間にいた。夕刻18時30分前、
ふと南の空を見上げてみた。青くきれいな空だ。
その日は暑い日だった。そんな暑さも、夕方になるといくぶん和ら
いでいた。「JAL123便」は、羽田空港C滑走路を18時12分に離
陸、東京湾の房総半島寄りの上空を通過し相模湾へ向った・・・。
南の空を見上げていたころ、相模湾上空を通過していた123便に
異変が起きた。そして、19時前後「不明」の一報が羽田レーダー室に
監視していた次席管制官から自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備
救護課、そして運輸省航空局管制保安部運用課に通知された。
私が「そのこと」を知ったのは、何時かのNHKニュースであった。
あの時、乗客名簿の漢字化に2~3日かかったそうです。
乗客509名、乗員15名のすべてが漢字化され
乗客の旅行目的が新聞に掲載されました。
旅行目的を読み、123便に集合した経緯を
慮ると、複雑な気持ちになりました。
あの時、乗客名簿がニュースで延々と流れましたが、
ご家族や友人が乗っていたかたの気持ちを思うと
心痛みます。
おそらく「乗っていないでくれ(乗り遅れていてくれ)」と
祈るような気持ちだったのかも知れません。
あの事故に関する出版物が数多く発行されました。
真相はいずこに・・・
状態でした。。。。。
数年前に山崎艶子の「沈まぬ太陽」を読んで某
航空会社に乗るのはやめました。。。。