朝の7時半過ぎに金成SAを出発し、いよいよ岩手県に入ります。
一関ICで東北自動車道を降りて、まずは 名勝天然記念物・厳美渓(げんびけい) の渓谷へと向かいましたが、何しろまだ時間が早すぎて、どこの駐車場も開いていません(泣)
しかたがなく、川沿いの道や橋の上からその猛々しい景観を呈する渓谷を目に焼き付けて、次なる目的地へ。
伊達政宗が松島とともに愛でたと云われる厳美渓でしたが、朝霞で曇っていて視界がよくなかったこともあり、写真は諦めました。
そこから県道31号線を3kmほど下り、『達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)』 へ到着。
が、やはりここもまだ開いていません(←当たり前か…)
通りの反対側にある駐車場で待機しよう思いましたが、時間つぶしも兼ねて、今来た道を戻り厳美渓 道の駅に寄ることにして、その中にある地場産の食料品などを販売しているお店の中を物色していると、もう美味しそうなものがいっぱい!
川崎では野菜高騰でキュウリも思い切り使えなかったというのに、採れたて新鮮野菜が、すごく安い!
おまけに、大好きな南蛮味噌の種類が豊富で、これまたリーズナブル!
うーん…、買って行きたいけど、まだ旅は始まったばかりだし。
帰りにまたこちらに寄って、必ず買って帰ろうと心に決めました(笑)
さて、時間もそろそろかなということで、またさきほどの毘沙門堂に戻りました。
拝観時間の表示が見あたらなかったのですが、しばらく待てば開くだろう(笑)と、のんびり構えていると…。
山からご婦人が下りて来て、年数を経て味のある受付の小屋を開け始めました。
主人が時間を伺いに行くと、まだ早いけど今開けますからどうぞ、とのお言葉で、ありがたく甘えさせていただきました。
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)
コンクリート製の壱之鳥居が見えます
時間が早いということもあり、貸しきり状態の贅沢を味合わせていただきました
弐之鳥居
参之鳥居
この鳥居をくぐると、ふわっと視界が開け、お堂が目に飛び込んできます
窟毘沙門堂
デジカメに撮っておいたキャプションの文によると…
源頼義公、義家公が戦勝祈願の為に寺領を寄進、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したとも伝えられているそうです。
源頼朝公は奥州合戦の帰路、この毘沙門堂を参詣した模様が『吾妻鏡』にも記されていています。
延徳2年(1490年)、大火で焼失するがただちに再建。
天正の兵火にかかり毘沙門堂を除いて焼失、慶長20年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂も再建され、のち伊達家の祈願寺として寺領を寄進されました。
昭和21年の火事で、ご本尊以下20数躰を救い出したものの毘沙門堂は全焼。創建以来2度の焼失に遭った毘沙門堂は、昭和36年に再建され、現堂は5代目だそうです。
平成17年に国指定史跡になりました。
私たち一行がお堂を仰ぎしばし時を忘れている間、受付のご婦人がお堂の戸を開け、バタンバタンと結構な大きな音を立てながら中の用意をしてくれています。
そのお堂から聞こえる木の当たる音でさえも、湿気を帯びた空間に響き渡りとても心地が良いのです。
『はい、どうぞぉ』 の声に、ゆっくりと歩を進めてお堂への階段を上ります。
待つ間に子どもたちは、無邪気にも小さい小さいカエルを階段で見つけて戯れていて、『カエルを踏まないように気をつけてね』。
毘沙門堂の内部はもちろん撮影禁止。
急いで内部を見せて下さったためでしょうか、中央の扉以外に蔀戸(しとみど)が2ヶ所のみ開いていただけなので、薄暗いお堂の中に灯されている蝋燭の光に浮かび上がる像の数々が、とても霊験あらたかに感じられます。
内陣の奥にある厨子の中には、ご本尊・吉祥天・善膩子童子(ぜんにしどうじ)が秘仏として安置さているそうです。
次のご開帳は平成22年とのこと。
入り口からは反対側に位置する出口から階段を下りていきます。
そのまま境内の奥に進むと、西側の切り立った岸面壁に11世紀に彫られたという 『顔面大仏』(大日如来磨崖仏) があります。
大日如来磨崖仏
高さ約16.5m、顔の長さ約3.6mもあり、北限の磨崖仏(まがいぶつ)だそうです。
源義家公が前九年後三年の役の戦死者の霊を弔うために弓弭(ゆはず)を以って刻んだと伝えられ、日本五大磨崖仏に数えられているそうです。
(明治29年)1895年に胸から下が崩落、現在は顔の部分が確認できるだけです。
ただこのお顔も風化が激しく、言われないとうっかり見過ごしてしまいそうです。
実際この窟に近づいて見てみると、あまり頑強な岩のようには見受けられませんでした。地質的にはどうなのか、詳しくは素人で分かりませんが、硬質の塊状砂岩か何か、比較的風化し易そうなものであるように感じました。
顔面大仏のある西側から毘沙門堂を望む
こちら角度からの眺めも素敵です。
今、このレポートを書いていてふと思ったことは、規模は違えどこの景観が エジプトのハトシェプスト女王葬祭殿 のそれと何となく似通っている、ということです。
どちらも背後に絶壁を配している。
(もちろんこちらのお堂は、めり込んでいるわけですけど)
そして建物は絶壁に圧倒されることなくしかと存在感を持ち、これらが見事に融合して絶妙なコントラスト(対比)と景観美を作り出しています。
ここが 『もののけ姫』 に登場する館のモデルになっているということは有名ですね。
『その地に趣き、曇りの無いまなこで物事を見定めるなら…』
ヒイ様がアシタカに語り悟らせていた、あの館です。
参之鳥居の脇の小道を上ると、立派な杉の御神木があり、その向こうの不動堂へ向かおうとしていると、さきほどの受付のご婦人が子どもたちに 『おいで』 と声をかけてきました。
逡巡している子どもらに、また、『こっちにおいで』 と。
わぁ、何だろう。秘密の場所でもあるのかなぁ♪なんて思っていると、不動堂の隣にあるこじんまりした 『鐘楼』 に案内してくれました。
中まで子どもたちを入れてくれて、時計を確認してから1度鐘を撞いたあと 『はい、どうぞ』 と息子に2度、娘にも2度、時を告げる鐘を撞かせてくれたんです!
遠慮がちだった娘の1度目の鐘の音は、ちょっとへなちょこな音でしたが(爆)、こちらの鐘からは重厚なとても良い音色が轟きました。
まさに僥倖
突然のことでいささか夢心地の子どもたちと、ありがたさに舞い上がる親!
とっさの事に、写真を撮るのも忘れていましたぁ(汗)
朝の8時、それにお昼と夕方と1日3度鐘を撞いて時を知らせるそうです。
セミの声と緑の匂い。鐘の音とともにある日常。
素敵ですね。
その後、この画像に軒が写っている不動堂で、娘は合格祈願を絵馬に込めて、一心に祈っておりました。
もう一度、御神木の 『奉行坊杉』 に手をかざして。
さきほど、鐘を撞く前にここを通った時のこと。
以前、近所に住むスピリチュアルなパワーを持ち修行もしている友人から、『御神木に手をかざすとパワーを感じるよ』 と教えてもらったことがあり、厳かな気持ちで手をかざしてみると…。
手首の辺りまでカァーっとすごい熱さ(パワー?)が来るので吃驚!
『すごい熱い!』 と声をあげると、娘が 『手首まで熱さが来る!』 って同じことを感じていたんです。
息子も 『熱い』(ホントかなぁ?)、主人は無言。
すごーい!本当に熱さが手に伝わるなんて!と半ば信じられずにいると、主人が 『火の神が宿っているらしいよ』 と。
「奉行坊杉昭和21年、隣家から出火し、西風に煽られた炎は毘沙門堂と弁天堂に燃え移ったが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂・鐘楼等の諸堂が類焼が免れたのは、古来暫々雷が落ち神宿木(ひむろぎ)である大杉に、火之神不動尊が降りた為であると云われている」 とキャプションにありました。
奉行坊杉の名は、かつてこの杉の元に各坊の僧が参集したことから名付けられたそうです。
不思議で神秘的な体験でした。
現地では詳しく目を通していなかったので、資料として写真に収めておいた毘沙門堂の説明文を、このレポートを書くために改めて詳しく読んでみて初めて、毘沙門天が私の干支の守本尊(まもりほんぞん)だということを知りました。
ここを訪れたのは必然だったのかな?なんて、無理やり結びつけては思いにふけっています。
拍手を打つか合掌して参拝する、神仏習合の社寺の鳥居をくぐり戻って、受付で改めてお礼を言って、心に余韻を残しながら次の目的地・平泉に向かいます。
一関ICで東北自動車道を降りて、まずは 名勝天然記念物・厳美渓(げんびけい) の渓谷へと向かいましたが、何しろまだ時間が早すぎて、どこの駐車場も開いていません(泣)
しかたがなく、川沿いの道や橋の上からその猛々しい景観を呈する渓谷を目に焼き付けて、次なる目的地へ。
伊達政宗が松島とともに愛でたと云われる厳美渓でしたが、朝霞で曇っていて視界がよくなかったこともあり、写真は諦めました。
そこから県道31号線を3kmほど下り、『達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)』 へ到着。
が、やはりここもまだ開いていません(←当たり前か…)
通りの反対側にある駐車場で待機しよう思いましたが、時間つぶしも兼ねて、今来た道を戻り厳美渓 道の駅に寄ることにして、その中にある地場産の食料品などを販売しているお店の中を物色していると、もう美味しそうなものがいっぱい!
川崎では野菜高騰でキュウリも思い切り使えなかったというのに、採れたて新鮮野菜が、すごく安い!
おまけに、大好きな南蛮味噌の種類が豊富で、これまたリーズナブル!
うーん…、買って行きたいけど、まだ旅は始まったばかりだし。
帰りにまたこちらに寄って、必ず買って帰ろうと心に決めました(笑)
さて、時間もそろそろかなということで、またさきほどの毘沙門堂に戻りました。
拝観時間の表示が見あたらなかったのですが、しばらく待てば開くだろう(笑)と、のんびり構えていると…。
山からご婦人が下りて来て、年数を経て味のある受付の小屋を開け始めました。
主人が時間を伺いに行くと、まだ早いけど今開けますからどうぞ、とのお言葉で、ありがたく甘えさせていただきました。
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)
コンクリート製の壱之鳥居が見えます
時間が早いということもあり、貸しきり状態の贅沢を味合わせていただきました
弐之鳥居
参之鳥居
この鳥居をくぐると、ふわっと視界が開け、お堂が目に飛び込んできます
窟毘沙門堂
達谷窟毘沙門堂縁起 要略 この窟に塞を構え、領民を苦しめ女子供を掠(かす)める等、暴虐の限りを尽くした蝦夷の頭・惡路王、赤頭、高丸等を延暦20年(801年)桓武天皇の詔を奉じた征夷大將軍坂上田村麿公が激戰の末征伐しました。大將軍は戰勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御禮(おんれい)に京の清水の舞台造りを模ね、九間四面の舎を創建し、百八躰(たい)の毘沙門天を祀り、國を鎭(しず)める祈願所とし窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けました。 |
デジカメに撮っておいたキャプションの文によると…
源頼義公、義家公が戦勝祈願の為に寺領を寄進、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したとも伝えられているそうです。
源頼朝公は奥州合戦の帰路、この毘沙門堂を参詣した模様が『吾妻鏡』にも記されていています。
延徳2年(1490年)、大火で焼失するがただちに再建。
天正の兵火にかかり毘沙門堂を除いて焼失、慶長20年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂も再建され、のち伊達家の祈願寺として寺領を寄進されました。
昭和21年の火事で、ご本尊以下20数躰を救い出したものの毘沙門堂は全焼。創建以来2度の焼失に遭った毘沙門堂は、昭和36年に再建され、現堂は5代目だそうです。
平成17年に国指定史跡になりました。
私たち一行がお堂を仰ぎしばし時を忘れている間、受付のご婦人がお堂の戸を開け、バタンバタンと結構な大きな音を立てながら中の用意をしてくれています。
そのお堂から聞こえる木の当たる音でさえも、湿気を帯びた空間に響き渡りとても心地が良いのです。
『はい、どうぞぉ』 の声に、ゆっくりと歩を進めてお堂への階段を上ります。
待つ間に子どもたちは、無邪気にも小さい小さいカエルを階段で見つけて戯れていて、『カエルを踏まないように気をつけてね』。
毘沙門堂の内部はもちろん撮影禁止。
急いで内部を見せて下さったためでしょうか、中央の扉以外に蔀戸(しとみど)が2ヶ所のみ開いていただけなので、薄暗いお堂の中に灯されている蝋燭の光に浮かび上がる像の数々が、とても霊験あらたかに感じられます。
内陣の奥にある厨子の中には、ご本尊・吉祥天・善膩子童子(ぜんにしどうじ)が秘仏として安置さているそうです。
次のご開帳は平成22年とのこと。
入り口からは反対側に位置する出口から階段を下りていきます。
そのまま境内の奥に進むと、西側の切り立った岸面壁に11世紀に彫られたという 『顔面大仏』(大日如来磨崖仏) があります。
大日如来磨崖仏
高さ約16.5m、顔の長さ約3.6mもあり、北限の磨崖仏(まがいぶつ)だそうです。
源義家公が前九年後三年の役の戦死者の霊を弔うために弓弭(ゆはず)を以って刻んだと伝えられ、日本五大磨崖仏に数えられているそうです。
(明治29年)1895年に胸から下が崩落、現在は顔の部分が確認できるだけです。
ただこのお顔も風化が激しく、言われないとうっかり見過ごしてしまいそうです。
実際この窟に近づいて見てみると、あまり頑強な岩のようには見受けられませんでした。地質的にはどうなのか、詳しくは素人で分かりませんが、硬質の塊状砂岩か何か、比較的風化し易そうなものであるように感じました。
顔面大仏のある西側から毘沙門堂を望む
こちら角度からの眺めも素敵です。
今、このレポートを書いていてふと思ったことは、規模は違えどこの景観が エジプトのハトシェプスト女王葬祭殿 のそれと何となく似通っている、ということです。
どちらも背後に絶壁を配している。
(もちろんこちらのお堂は、めり込んでいるわけですけど)
そして建物は絶壁に圧倒されることなくしかと存在感を持ち、これらが見事に融合して絶妙なコントラスト(対比)と景観美を作り出しています。
ここが 『もののけ姫』 に登場する館のモデルになっているということは有名ですね。
『その地に趣き、曇りの無いまなこで物事を見定めるなら…』
ヒイ様がアシタカに語り悟らせていた、あの館です。
参之鳥居の脇の小道を上ると、立派な杉の御神木があり、その向こうの不動堂へ向かおうとしていると、さきほどの受付のご婦人が子どもたちに 『おいで』 と声をかけてきました。
逡巡している子どもらに、また、『こっちにおいで』 と。
わぁ、何だろう。秘密の場所でもあるのかなぁ♪なんて思っていると、不動堂の隣にあるこじんまりした 『鐘楼』 に案内してくれました。
中まで子どもたちを入れてくれて、時計を確認してから1度鐘を撞いたあと 『はい、どうぞ』 と息子に2度、娘にも2度、時を告げる鐘を撞かせてくれたんです!
遠慮がちだった娘の1度目の鐘の音は、ちょっとへなちょこな音でしたが(爆)、こちらの鐘からは重厚なとても良い音色が轟きました。
まさに僥倖
突然のことでいささか夢心地の子どもたちと、ありがたさに舞い上がる親!
とっさの事に、写真を撮るのも忘れていましたぁ(汗)
朝の8時、それにお昼と夕方と1日3度鐘を撞いて時を知らせるそうです。
セミの声と緑の匂い。鐘の音とともにある日常。
素敵ですね。
その後、この画像に軒が写っている不動堂で、娘は合格祈願を絵馬に込めて、一心に祈っておりました。
もう一度、御神木の 『奉行坊杉』 に手をかざして。
さきほど、鐘を撞く前にここを通った時のこと。
以前、近所に住むスピリチュアルなパワーを持ち修行もしている友人から、『御神木に手をかざすとパワーを感じるよ』 と教えてもらったことがあり、厳かな気持ちで手をかざしてみると…。
手首の辺りまでカァーっとすごい熱さ(パワー?)が来るので吃驚!
『すごい熱い!』 と声をあげると、娘が 『手首まで熱さが来る!』 って同じことを感じていたんです。
息子も 『熱い』(ホントかなぁ?)、主人は無言。
すごーい!本当に熱さが手に伝わるなんて!と半ば信じられずにいると、主人が 『火の神が宿っているらしいよ』 と。
「奉行坊杉昭和21年、隣家から出火し、西風に煽られた炎は毘沙門堂と弁天堂に燃え移ったが、この杉が西側の枝葉を失いながら炎を防ぎ、不動堂・鐘楼等の諸堂が類焼が免れたのは、古来暫々雷が落ち神宿木(ひむろぎ)である大杉に、火之神不動尊が降りた為であると云われている」 とキャプションにありました。
奉行坊杉の名は、かつてこの杉の元に各坊の僧が参集したことから名付けられたそうです。
不思議で神秘的な体験でした。
現地では詳しく目を通していなかったので、資料として写真に収めておいた毘沙門堂の説明文を、このレポートを書くために改めて詳しく読んでみて初めて、毘沙門天が私の干支の守本尊(まもりほんぞん)だということを知りました。
ここを訪れたのは必然だったのかな?なんて、無理やり結びつけては思いにふけっています。
拍手を打つか合掌して参拝する、神仏習合の社寺の鳥居をくぐり戻って、受付で改めてお礼を言って、心に余韻を残しながら次の目的地・平泉に向かいます。
アシタカの台詞、泣けますよね(笑)。
その舞台だとは、つゆ知らず。良い事を教わりました。思いがけず、我がエリア内の建物が、有名な作品場面のモチーフになっていたとは!(ちなみに、宮崎作品の中では、やはり、もののけ姫が一番好きです。)
日本の他地域、含め世界の遺構・遺跡・遺産。そういうものの中から、類似性を見出すと言うのは、とても有意義な事ですよね。脳みそにも刺激があります。で、そういう事を考えていくと、国は違えど、文化的に、人間的に、通奏低音している部分、そういう部分を感じれると、僕は救われる気がするんですよね。根っ子の所では『あ~同じなんだぁ』って。
神仏習合なんですね。存じ上げませんでした。とすると、明治大正にかけては、受難の時期もあったのでしょうか…。
平泉編楽しみにしております。
こんにちは(^^)
何かの導きで岩手に呼ばれたんでしょうか(笑)
私は思い切り「そういうスピリチュアルなお話」に傾倒しているわけではありませが、確かに良い偶然が重なったりすると、何かの力のお陰かと感じありがたく思います。
私も「もののけ姫」がなんてったって1番好きです!
昨日も、確認のためもあり(笑)大切なハードケース入りのビデオを久しぶりに観ましたよ~。
「岩屋」、出てきました。くりそつです
お金と時間(と体力)があれば、屋久島も白神山地も行ってみたいなぁ…。
>神仏習合
神仏分離令に苦労されたようだと、どなたかのレポートにもありました。
廃仏毀釈に発展してしまった受難の時代には、きっぱりと神道とは切り離したフリをしてやり過ごし(言葉が適切ではないですが)、後の時代に元の形である神仏習合のスタイルに戻している寺社は多いでしょうから、こちらもそうではないかなと。
鳥居も新しい時代のものですし。
実はここを訪れるまで、神仏習合のお寺では、どのような参拝をすればいいのかあやふやだったんですが(だって賽銭箱の上に鈴があるし!)、でもどちらでも良いことが今回判って、それも私にとっては大きな実りです。
平泉編ですが、何しろ暑さと寝不足でボーッと頭がしていたので、写真をほとんど撮ってないんです(泣)
見学ポイントも随分と割愛(パス)しているし…
毘沙門堂に比べて、あれっ?というほどあっさりと簡単にレポートが終わってしまうと思いますが(汗)、しばしお時間を下さいませ
お心遣いをいただいて、お返事コメントありがとうございました。
疲れもあったのかすっかり体の毒を出し、
元気になってます。
今週はかかりつけ医がお盆休みでまだ報告に行ってませんが・・・。
ああ、岩手だー、平泉だーいいなーと思います。
上野から北へ向かう電車はいいものです。
そして中学3年での修学旅行以来行ってない参道が懐かしいですねー。
あ、娘さんも修学旅行って感じだ!
いいなあ、あたしもこのままりょうさまの記事で旅にお供させてくださいね。
久しぶりに更新しました。
まだ本調子ではないですが、
ぼつぼつ書いておりまする。
ご配慮ありがとうございました。
こんばんは(^^)
息子さんもどんべさんも、お元気になられてよかったよかった!です
ここへのコメントは“ピー音”が出なければ何でもOKですので(笑)、どうぞお気兼ねなくネ!(^^)!
そうそう!どんべさんの修学旅行は平泉だったんですものね
私も高校ぐらいの時に、家族と仙台の従兄と訪れて以来です。
が、金堂と資料映像のことしか覚えていなかったので、まるで初めて行ったような感じでした
暑くてフラフラでしたよぉ~。
>大日如来
盧遮那仏が発展したものですね!
全宇宙を照らし根源となる仏さま。
どんべさんのお人柄そのものです