今、そこは林、竹林、畑になっている。
家康は、土井利勝に造らせた佐倉城を江戸の東の固めとして重視し、代々、親藩譜代の大名に守護させた。
この城は、天然の台地を生かし、石垣を造らず、土塁や空堀を築いて防備とし、周囲に印旛沼の水を引いて堀にしている。
現在は、城時代の建物はなく、遺構によってそれと知られる。
本丸跡の空地でサッカーに興じる子供たち
馬の出し入れに使った空堀
印旛沼の水をひいて堀とした
代々の藩主のうち、老中として幕府の中枢を占めた大名は9名、なかでも幕末、日米修好通商条約締結の当事者となった堀田正睦(まさよし)は、藩の財政を建て直し、学問興隆、西欧文明の導入に努めた英明な殿だった。
おなじ堀田でも、堀田正信という大名があった。
印旛沼の干拓事業がうまくゆかず、領民に重税を課した結果、農民が疲弊し、そのあげく1653年(承応2)、名主の佐倉宗吾郎が将軍家綱に直訴する事件がおきた。
この殿様は、きれやすい殿様だったのか、その後、不服があったらしく、幕府の職を放棄して勝手に佐倉城に戻ってきてしまった。
それで、改易(罷免)され、若狭小浜藩に預けられたが、そこでも勝手に抜け出して京都にいったりしたので、とうとう本当に四国に島流しされてしまった、そういうのもいたそうだ。
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