サンズ・トーク

佐倉城址公園(四) 陸軍の時代

明治維新によって成立した新政府は、早速、欧米列強の東アジアに向けられた侵略の下心に対抗する策を講じなければならなかった。
イギリス、アメリカ、フランス、ロシアなどは、産業革命を経たため、機械文明の発達著しく、永らく鎖国を続けてきたわが国は、外国との技術力の差を早急に埋め、追い付く政策に重点をおいた。
富国強兵が目先の最大の目標になって、政府の軍隊を創設、充実することとなった。

佐倉は東京から近く、陸軍の有力な拠点として、城を壊したあとに陸軍の連隊施設を置いたのである。



太平洋戦争敗戦による武装解除があったためか、当時の建物は、何ひとつ残っていない。
皮肉なことに、当時、兵営だったところに、便所の跡のコンクリートが、それだけ残っている。

   

明治10年、ここから、西南戦争に政府軍が出兵した。
西南戦争とは、新政府の廃藩置県、中央集権化などによる旧藩主や各地士族の不満が嵩じ、鹿児島に下野した西郷隆盛が旧藩の勢力に推されて政府軍と戦った悲劇の戦であった。
雨はふるふる陣馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂 ♪♪ と歌にのこる日本最後の内乱であった。

そのあと、日清、日露、支那事変、そして太平洋戦争と続く戦争では、ここの陸軍連隊が出兵した。
最後の戦争では、昭和19年、フィリピンのルソン島や、レイテ戦で苦戦を続け、玉砕して、連隊は殆ど壊滅した。

海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍となり、英霊となって終わったのである。

わずかに残された便所の跡が、悲しい歴史の記憶を物語っている。
(便所は2列向き合って並んでいる。戦争の歴史の重さを考えると、両方の写真は同じようであっても、どちらをも省略する気にならないのである。)

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