吾妻橋は、東は本所、西は浅草(雷門通り)を繋いでいる。
浅草寺、かたわらの浅草神社(三社祭のお宮)は、今更ここで云わなくてもよかろう。
橋の西詰の取っ掛かり、浅草1丁目1の1に神谷バーがある。
明治13年、酒の一杯売りから始まった。独特の電気ブランを売って100年になるという。
飲み屋で、一本線でこんなに長く盛業を続けているのは信じられない、稀有だ、最長不倒距離だ、心より敬意を感じている。
橋の西たもとには、隅田川遊覧船の乗り場がある。お台場、浜離宮から東京港、日の出桟橋を往来している。
たこ焼ののれんが浅草らしく写っている。
写真の金斗雲のようなのは、対岸にあるアサヒビール本社の別館で、フランス人がデザインした。
左の本館は、大ジョッキに琥珀色のビールが溢れそうに泡立っているイメージだそうだが、金斗雲の横では影が薄くなる。
アサヒビールのあるところは、以前は大日本麦酒吾妻橋工場、その前が札幌麦酒東京工場だったそうだ。集中排除法などのため、ビール会社が分散したり合併したりしたのだと思う。
それに比べても、サービス業の神谷バーがずーっと続いていることが実に貴重だと思うのである。
アサヒビール本社のまえの橋ぎわに、勝海舟の像が遠く東京湾を見つめている。
海舟は、文政6年、貧乏旗本(小普請組無役)の子として本所に生まれた。
幕臣として、黒船などの脅威のなか、海軍伝習所や軍艦奉行として、近代西欧の技術の導入や国防、軍備の充実などに心を砕いた。
万延元年、日本人として始めて咸臨丸を操船して日本からの使節として渡米。
慶応6年、西郷隆盛らと談じて薩長連合、朝廷に江戸城を明け渡した。
新政府でも外務、海防、元老院などで役割を演じた。
明治31年、江戸城を追われた最後の将軍徳川慶喜に、明治天皇拝謁の機を周旋して、慶喜の名誉回復を実現した。
翌32年、コレデオシマイ と言葉を残して77才で死去した。
彼は、尊皇攘夷、勤皇佐幕、幕府、薩長土佐、水戸など思惑渦巻く波乱の江戸末期にあって、幕臣でありながら、日本を守るためにオールジャパンで、意思と熱意ある人を掴まえ、動かした。
彼の、立場を超越した行動があったればこそ、明治維新が極端な齟齬もなく成立し、封建国家から近代国家へと進化することができたのである。
かくて、日本は、東洋では唯一、西欧に征服されない、自立国家となった。
実に志の強い人なのであった。
注:金斗雲
孫悟空が金の雲に乗って、千里をかけ、着いてみたら仏様の手のひらの上だったという物語の雲
最新の画像もっと見る
最近の「街歩き」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事