サンズ・トーク

下総国分寺のありかを訪ねる

弘法寺のしだれ桜をこのブログに乗せたが、下総の国分寺は、その寺の北のほうにあった。
京成本線で江戸川駅、川をはさんで東岸に国府台(こうのだい)という駅がある。
北総鉄道では、新柴又、江戸川を渡って矢切、そのつぎが北国分駅(きたこくぶん)になる。
ネットでみると、かつてここに下総国分寺があったと、過去形で書いてある頼りなさ。
バイクのお巡りさんに聞いたが、この辺の担当でないらしく、良く判らない。
曲がったり、戻ったりするうちに、寺を見つけた。



写真でみると、寺は割りに小ぶりだが、発掘調査をした説明や、銘板の記載をみると、創建当初は七堂伽藍の大寺院だったのだ。

奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇が、諸国に詔して、国ごとに僧尼寺を造らしめた。悪疫流行と凶作退散を願い、釈迦像と大般若経を書写し、祀ったのである。
政治的には、大化の改新の仕上げとして、諸国の中心に勅願寺を配し、中央集権のシンボルとした。
当時、このあたり、市川は下総国の首都、国府だったのだ。

諸所の国分寺は、殆どが東大寺様式だったとされるが、ここ下総国分寺は、飛鳥の法隆寺様式で、巾31.5㍍の金堂、巾20㍍の講堂、そして18㍍四方の基坦をもつ七重塔がこの台地の上に聳えていたのだ。興福寺でも法隆寺でも五重塔なのに、ここは七重塔だったのだ。
周辺では、屋根瓦を焼くのに使われた登り窯の遺構が発見された。大量に使われた屋根瓦は、現地で用意されたらしい。その瓦の文様は、当時の朝鮮、新羅の工人の先端技術で造られたことを示している。

数ある国分寺の中で、どうしてここだけ、法隆寺様式だったのか、どんな理由があったのか、なにやら床しい謎なのだ。



当初は、楼門造りの堂々たる南大門があったとされるが、今は、昭和の時代に造られた綺麗な、かわいい、レプリカのような仁王門がある。

度重なる戦乱や火災、武家政権になって以後の朝廷の影響力の低下などで、ここの国分寺も原型がわからなくなり、広かった寺域も畑や墓地、林などに変わってしまったようである。

墓地の一角に、達観したかのような、くつろいだ石仏が笑っていたのが印象に残っている。
この自由な姿勢は、どうみても古い仏のようだった。


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