入口前に歌碑と、文京区教育委員会の説明板があって、啄木が上京しここで苦労したさまが記録されている。
私は、こういう説明看板の写真を撮って、あとで読むようにしているが、懇切な説明で往時のいろいろが偲ばれて、とても参考になるのだった。
説明板の全文
石川啄木(1886~1912)は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館(オルガノ工場内、現本郷5-5-6)に下宿した。
小説五篇を執筆したが売り込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。
前の歌碑は、この時の歌である。
東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。
三階の三畳半の室にはいったが、「富士が見える」と喜んだという。
ここでは小説「鳥影(チョウエイ)」を書き、東京毎日新聞に連載された。
また「スバル」が創刊され、啄木は名義人となった。
北原白秋や木下杢太郎、吉井勇などが、編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2-38-9)の喜の床に移った。ここでの生活は9ヶ月間だった。
蓋平館は、昭和10年ごろ太栄館と名称が変わったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
父のごと 秋はいかめし 母のごと 秋はなつかし 家持たぬ児に
(明治41年9月14日 蓋平館にて作)
最新の画像もっと見る
最近の「文化」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事