むかし書いた 文章 。 記憶の 「SANPO」 、 記憶の インスタレーション です 。
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「胡蝶の夢」 森で一緒に遊びませんか?
井の頭公園。 女房と初めて2人で行った場所である。 1976年 夏、雨の晩だった。
ここを訪れた男女は別れるという。 だが幸いにも1979年に結婚した。
1986年4月。
長女の小学校入学に合わせ、わが一家4人は金沢文庫にある女房の実家に越して来た。
前年の5月に女房の母親が他界し、義父が一人で暮していた。
オトウさんはこの1年で、すっかり痩せていた。
2000年、埼玉県で父が死ぬ。 横浜に越して来た母も2003年に死んだ。
こちらは、おれの両親。
2004年某日、仕事で横浜に来た弟に会いに行く。 馬車道を海側に抜ける。
以前、銀行だったという石造りの建物。 高い天井を8本の円柱が支えている。
そんな横浜の文化的遺産の片隅で相続の話をした。
用件は数分で終わる。
別の建物にも案内された。 ここも元銀行、金庫室が印象的だった。
この2つの建物でアート関係の団体が活動していた。 それに弟が関わっていたのだ。
当時ここで、松本秋則君の作品を展示する話があった。
工夫すれば 「文殊の知恵熱」 公演も 可能だろう。
だが松本君の事情で話はいったん流れた。
「文殊の知恵熱」 ? ジャンル不明のパフォーマンスグループである。
松本秋則(不思議美術家)、とうじ魔とうじ(特殊音楽家)、村田青朔(元舞踏演芸家)、
3人が共同して構成し、3人ともに出演する。
1989年に旗揚げした。 わが家に集まってグループ名を決めた。
家の近所でチラシの写真を撮影する。 女房がシャッターを押した。
すでに義父は他界している。
1981年、おれは井の頭公園でパフォーマンスを始めた。
1週おきの日曜日、劇団仲間と数人で勝手に踊り音を出した。
実はまだ パフォーマンス という言葉を知らない。
「風騒儀(ふうそうぎ)」 と呼んでいた。
おれは白塗り。 長女をオブい、見えない洗濯物を公園に干して回る。
芝居でなく舞踏でもない、おれの表現を探していた。
いつのまにか 人数が増えていく。
とうじま君がやって来た。
ミュージシャンだと言うが、ここではほとんど演奏していない。 じっと見ていた。
寒い冬の日、松本君が登場する。
ガラクタを持ち出し、突然ガシャガシャ鳴らす。 踊っている周囲にロープを張る。
邪魔なのだが面白い。
表現で勝負を挑む根っからのアーチスト。
松本君はとうじま君に誘われ、ライブハウスでもガシャガシャを始めた。
やがて音具製作に本腰を入れる。
メンバーはそれぞれ活動の場を他所に移していった。
しかし、おれは井の頭公園にこだわった。
長男が生まれる。 息子をオブイ、娘と手をつないで 公園をうろついた。
横浜に引っ越す前年まで続ける。
とうじま君は、ずっと見ていた。
1997年10月。 「文殊の知恵熱」 は新潟にいた。
「新津市美術館」 こけら落し公演。 館内の様々な空間に仕掛けをした。
音と光のイリュージョンは裏山に及ぶ。
だが、野外シーンを担当していたおれは降り続く雨に倒れた。 死を意識した。
多くの人に助けられ、公演は盛況に終わる。
まもなく、スタッフの女性が東京に出て来て松本君のオブジェ作りを手伝い始めた。
気が付くと同居していた。
90年代後半。 日曜日、女房と横浜を歩く。
子守りの心配はない。 2人で歩く。
春は大岡川沿いに花見をした。
横浜美術館に通い、ろくな企画がないと憤慨する。
赤レンガ倉庫を覗いた。
山下公園を抜け、港の見える丘公園まで散歩した。 か
2006. 7/7~8/31 「緑陰銀行 Bamboo Bank 松本秋則展」
BankART 1929 Yokohama 1F 1929ホール
白い壁、例の8本の円柱。 窓の外は 横浜。
竹を素材とするサウンドオブジェが広い空間に配置されている。
微妙な音色がスコンと響く。
あちらでボ~~ボ~、こちらでサワサワサワ、森の気配が漂う。
目を閉じれば、ここは井の頭公園!
あまりに気持ち良くて 会場で昼寝してしまった。
でも、これで良いのか?
松本君本来の冒険がない。
空調が効いた 毒蛇のいない森。
2000年、女房が体調を崩した。
同時期、松本君の彼女も体調を崩す。
おれは一人身になり、松本君は彼女を背負った。
彼は今も戦い続けている。
松本君から手紙が届いた。 手に取ると声が聞こえる。
「おまえこそ、毒蛇になってみろ!」
封を切る前に目が覚めた。
彼は心優しい人柄だ。
便箋にはきっと、こう書かれていただろう。
「雨の降らない森を用意しました。 一緒に遊びませんか?」
本年8月20日、松本君はこの会場で結婚披露のパーティーを開いた。
とうじま君が司会した。 彼は 「半芸術」 をコンセプトに 幅広く活動中。
おれはシルクハットをかぶり、白塗りして親友の門出を祝福する。
今日は毒蛇ではない。 森を這い回る 白いガマ蛙!
3×1mの赤い絨毯が2枚。 それを花嫁が歩む先に トッカエヒッカエ敷いていく。
新郎新婦に酒を運び、オブジェのスイッチを切ったり入れたり。
大忙しなのだ。
森羅万象。 人生。 インスタレーション。
そこに装置された ・・・、 喜び。
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以下の写真 2点、撮影: 佐々木 敏晴
撮影日:2006-08-20
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2006年の7月いっぱいで、その年の 「福住ゼミ」 は終了した。
横浜バンカートスクール、福住簾 さんによる 「アートの綴り方」 教室 の話である。
ではさっそくと、有志が集まりフリーペーパー作りを企画した。
横浜を絡めた アート評を書こうじゃないか、という事で
フリーペーパーは 「ハマート!」 と名付けられた。
その年の11月に、第1号が発行された。
「胡蝶の夢」 は、それに載せてもらった展覧会評である。
松本秋則 くんの展覧会の事、インスタレーション の事を書く ツモリだったのが、
ほとんど 自分史になってしまった。
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松本 くんの ホームページ。 「サウンドオブジェ」 が、 いっぱい!
不思議美術家・松本秋則
こちらは、 とうじま くん 。 「文殊の知恵熱」のページも、ついてます 。
特殊音楽家◎とうじ魔とうじ◎
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2008-05-18 16:00:00 up -about
「胡蝶の夢」 森で一緒に遊びませんか?
井の頭公園。 女房と初めて2人で行った場所である。 1976年 夏、雨の晩だった。
ここを訪れた男女は別れるという。 だが幸いにも1979年に結婚した。
1986年4月。
長女の小学校入学に合わせ、わが一家4人は金沢文庫にある女房の実家に越して来た。
前年の5月に女房の母親が他界し、義父が一人で暮していた。
オトウさんはこの1年で、すっかり痩せていた。
2000年、埼玉県で父が死ぬ。 横浜に越して来た母も2003年に死んだ。
こちらは、おれの両親。
2004年某日、仕事で横浜に来た弟に会いに行く。 馬車道を海側に抜ける。
以前、銀行だったという石造りの建物。 高い天井を8本の円柱が支えている。
そんな横浜の文化的遺産の片隅で相続の話をした。
用件は数分で終わる。
別の建物にも案内された。 ここも元銀行、金庫室が印象的だった。
この2つの建物でアート関係の団体が活動していた。 それに弟が関わっていたのだ。
当時ここで、松本秋則君の作品を展示する話があった。
工夫すれば 「文殊の知恵熱」 公演も 可能だろう。
だが松本君の事情で話はいったん流れた。
「文殊の知恵熱」 ? ジャンル不明のパフォーマンスグループである。
松本秋則(不思議美術家)、とうじ魔とうじ(特殊音楽家)、村田青朔(元舞踏演芸家)、
3人が共同して構成し、3人ともに出演する。
1989年に旗揚げした。 わが家に集まってグループ名を決めた。
家の近所でチラシの写真を撮影する。 女房がシャッターを押した。
すでに義父は他界している。
1981年、おれは井の頭公園でパフォーマンスを始めた。
1週おきの日曜日、劇団仲間と数人で勝手に踊り音を出した。
実はまだ パフォーマンス という言葉を知らない。
「風騒儀(ふうそうぎ)」 と呼んでいた。
おれは白塗り。 長女をオブい、見えない洗濯物を公園に干して回る。
芝居でなく舞踏でもない、おれの表現を探していた。
いつのまにか 人数が増えていく。
とうじま君がやって来た。
ミュージシャンだと言うが、ここではほとんど演奏していない。 じっと見ていた。
寒い冬の日、松本君が登場する。
ガラクタを持ち出し、突然ガシャガシャ鳴らす。 踊っている周囲にロープを張る。
邪魔なのだが面白い。
表現で勝負を挑む根っからのアーチスト。
松本君はとうじま君に誘われ、ライブハウスでもガシャガシャを始めた。
やがて音具製作に本腰を入れる。
メンバーはそれぞれ活動の場を他所に移していった。
しかし、おれは井の頭公園にこだわった。
長男が生まれる。 息子をオブイ、娘と手をつないで 公園をうろついた。
横浜に引っ越す前年まで続ける。
とうじま君は、ずっと見ていた。
1997年10月。 「文殊の知恵熱」 は新潟にいた。
「新津市美術館」 こけら落し公演。 館内の様々な空間に仕掛けをした。
音と光のイリュージョンは裏山に及ぶ。
だが、野外シーンを担当していたおれは降り続く雨に倒れた。 死を意識した。
多くの人に助けられ、公演は盛況に終わる。
まもなく、スタッフの女性が東京に出て来て松本君のオブジェ作りを手伝い始めた。
気が付くと同居していた。
90年代後半。 日曜日、女房と横浜を歩く。
子守りの心配はない。 2人で歩く。
春は大岡川沿いに花見をした。
横浜美術館に通い、ろくな企画がないと憤慨する。
赤レンガ倉庫を覗いた。
山下公園を抜け、港の見える丘公園まで散歩した。 か
BankART 1929 Yokohama 1F 1929ホール
白い壁、例の8本の円柱。 窓の外は 横浜。
竹を素材とするサウンドオブジェが広い空間に配置されている。
微妙な音色がスコンと響く。
あちらでボ~~ボ~、こちらでサワサワサワ、森の気配が漂う。
目を閉じれば、ここは井の頭公園!
あまりに気持ち良くて 会場で昼寝してしまった。
でも、これで良いのか?
松本君本来の冒険がない。
空調が効いた 毒蛇のいない森。
2000年、女房が体調を崩した。
同時期、松本君の彼女も体調を崩す。
おれは一人身になり、松本君は彼女を背負った。
彼は今も戦い続けている。
「おまえこそ、毒蛇になってみろ!」
封を切る前に目が覚めた。
彼は心優しい人柄だ。
便箋にはきっと、こう書かれていただろう。
「雨の降らない森を用意しました。 一緒に遊びませんか?」
本年8月20日、松本君はこの会場で結婚披露のパーティーを開いた。
とうじま君が司会した。 彼は 「半芸術」 をコンセプトに 幅広く活動中。
おれはシルクハットをかぶり、白塗りして親友の門出を祝福する。
今日は毒蛇ではない。 森を這い回る 白いガマ蛙!
3×1mの赤い絨毯が2枚。 それを花嫁が歩む先に トッカエヒッカエ敷いていく。
新郎新婦に酒を運び、オブジェのスイッチを切ったり入れたり。
大忙しなのだ。
そこに装置された ・・・、 喜び。
以下の写真 2点、撮影: 佐々木 敏晴
撮影日:2006-08-20
2006年の7月いっぱいで、その年の 「福住ゼミ」 は終了した。
横浜バンカートスクール、福住簾 さんによる 「アートの綴り方」 教室 の話である。
ではさっそくと、有志が集まりフリーペーパー作りを企画した。
横浜を絡めた アート評を書こうじゃないか、という事で
フリーペーパーは 「ハマート!」 と名付けられた。
その年の11月に、第1号が発行された。
「胡蝶の夢」 は、それに載せてもらった展覧会評である。
松本秋則 くんの展覧会の事、インスタレーション の事を書く ツモリだったのが、
ほとんど 自分史になってしまった。
不思議美術家・松本秋則
こちらは、 とうじま くん 。 「文殊の知恵熱」のページも、ついてます 。
特殊音楽家◎とうじ魔とうじ◎
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2008-05-18 16:00:00 up -about