中学一年の夏休みの終わりごろ、五人の仲間といっしょに塩釜に遊びに行ったことがある。高城駅まで歩き、まだ運行回数も少なかった電車で、高城、松島海岸、浜田、東塩釜、本塩釜と乗って行った。
塩釜では、有名な塩釜神社にお参りし、商店街をぶらつき、船着場の方に行って海や船を見るぐらいであったが、みんなと街を歩くことに特別楽しいものがあった。不良などにたかられるかも知れないという恐れは全くないという安心感もあったし、私はいささか得意にもなっていた。そして、最年少の耳の遠い私を、心なしかみんなは普段より優しくしてくれているように思った。
午後四時ごろ駅にもどり、帰りのキップが買えないと分かったとき、みんなの顔が青くなったように見えた。電車に乗れなければ、はるばる来た道を今から歩いて帰って行かなければならない。太平洋戦争に敗れて間もなかったとは言え、これほど電車に乗ることを制限されているとは思わなかった。それまでの浮き浮きした気持ちは、たちまちしぼんで行った。だが、リーダーのKさんの 「歩いて帰るからな」 の一言で、みんなは迷わず歩き出した。私より四歳上のKさんは、海軍電信兵に志願し、すぐ終戦となったので復員して来て、また私たちと遊んでくれたのである。
そのKさんも、他のみんなも、私と違って体力は二倍も三倍もあるような人ばかりだったから、塩釜から歩かなければならない道のりは、それほど深刻ではなかったかも知れない。私は、初めて体験する約三十キロの距離である。既に足のだるさを感じていたし、なによりも空腹だった。東塩釜を通過してしばらく行くと海岸が見えて来る。右側に海岸、左に線路が並行していて、そこを警笛を鳴らしながら三輌ほどで編成された電車が通過して行くのを横目で見ながら歩いた。
〈たそがれ〉 の海は、牡蠣や海苔を養殖するためのものらしい筏 (いかだ) などが浮かび、にび色に澄んでいて静かだった。それが美しいと思った。そして浜田に到り、そこから松島に通じる道に入ったあたりからすっかり暮れて暗くなった。塩松道路と言われていたこのコースは、そのころは海岸沿いの何度も迂回する未舗装の旧道であったから、行けども行けども同じ所を堂々めぐりしているのではないか、という気持ちにも襲われた。みんなはただ黙々と歩いたのだったと思う。私も、やせがまんだけは強い方だったから、みんなに 〈はぐれ〉 ないように必死について行ったのである。
その時の私を印象づけたものは、時々すれ違った進駐軍のジープだった。松島や石巻に遊びに行ったらしいアメリカ兵たちが、仙台のキャンプに帰って行ったのだろう、エンジンの唸る音や、あの独特のギザギザしたタイヤが土面を蹴る音などを響かせながら、土ぼこりを巻き上げて (後続のジープのライトがそれを示した)、私たちをあざ笑うかのように疾走して行った。あの暗やみの中で見たジープの前照灯の強烈な明るさが、今もこの目に焼きついて離れない。
それまでこのジープについては、その小さな姿に似合わず、例えば塩釜様の急で長い石段を楽々と登ったということを聞いていた。それは四輪駆動という、そのころの日本車には見られない性能を持つものであったからできたらしかったのである。そのジープが、良質のガソリンをたっぷり使い、馬力があり、かなりのスピードを出せるものであること、照明は昼をあざむくほどの明るさであることを見せつけられ、私はアメリカの豊富な物質文明の一端を知る思いだったのである。そのジープが通り過ぎると、再び闇のなかに私たちは置かれた。遠くの岬の方で灯台の明かりが点滅していた。
かっこよく走って行くジープに比べて、電車に乗れなかった私たちは惨めだった。しかし、仲間といっしょだという気持ちが、私の意気を沮喪させなかったことも確かである。少なくともみんなの足音が、私たちはいま心を一つにして行動しているのだという思いをさせた。身辺の音というものはいかに心強いものであるか、それが立体的に私を包んで、暗闇の中を歩く不安をなくさせていたのである。
そんなふうにして、とうとう松島海岸通りの灯が見えるところまで来て、元気をとりもどし、郡境を越え田布施に入ったら、心配して迎えに来てくれた姉たちに会った。家に着いたのは八時ごろだったと思う。
囲炉裏ばたに座っていた父は黙って私を見た。母はすぐ食事の用意をしてくれた。
(1998・秋)
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