兎神伝
紅兎〜惜別編〜
(7)箱車
暁七つ半…
雪積もる庭先に座して瞑目…
静かに呼吸を整える。
ヒラヒラと、粉雪が一雫舞い落ちる。
一尺離して左脇に置く、鍔無しの居合刀…
狸の頭を象る柄に、胴を象る鞘…
胴狸に手を伸ばす。
刹那…
鞘走る白刃の煌めきは息を凍らす風を切り、粉雪は二つに割れて地に落ちた。
朧流居合術雫切り…
一つ大きく息を吐きながら、既に鞘に収まる胴狸を再び左脇に置く。
空を見上げれば、白む空から、粉雪がさらに舞い落ちる。
気づけば、此処に来てもう半月…
愛はどうしてるだろう…
早く帰らねば…
年が明けてしまったら…
この雪が消えると同時に、あの子達も消えて行く…
愛も…
愛の産んだ私の子も…
『愛ちゃん…』
『大丈夫、怖がらないで…』
あの夜…
愛は、徐に着物を脱いで産まれたままの姿になると、ニッコリ笑って唇を重ねてきた。
舌先で私の口の中を弄りながら、首に回す手で、器用に私の帯を解き、寝巻きを脱がせ始めた。
やがて、褌も解かれると、私も産まれたままの姿になった。
『親社(おやしろ)様、好きよ。大好き。』
愛は、十八番の片目瞬きをしながらそう言うと、震える私の首筋から胸に向かって、ゆっくり唇を這わせてチロチロと舐め回し始めた。
指先で、私の乳首を転がすように揉み、やがて唇が胸元までくると、その手を私の股間に持って行った。
『愛ちゃん…』
『親社(おやしろ)様、怖かったら目を瞑って…』
愛は言いながら、股間の穂柱を慣れた手つきで揉み扱き始めた。
『裏山に出かけた時、いっぱい、切り絵を描いた時、楽しかったね。
あの秘密の場所で、お弁当食べて、寝転がって、空を見上げて…』
『愛ちゃん…戻りたい…あの時に戻りたい…』
『戻してあげる。だから、そのまま目を瞑っていて…』
次第に、穂柱を揉み扱く小さな手の動きが早くなり、合わせて私の息遣いも早くなった。
愛が、両乳首を丹念に舐め回し始めると、瞼の裏側に、初めて出会った日々が蘇った。
まだ、社(やしろ)の兎神子(とみこ)達に愛の存在を知らせてなかった頃…
私の秘密の友達だった頃…
こっそり社(やしろ)を抜け出しては、毎日、裏山に遊びに出かけた日々…
手を伸ばせば届きそうなところに、思い出の光景が蘇ってきた。
しかし、今となっては遠き日々の優しい思い出…
『親社(おやしろ)様、早く早く!』
あの日、私を置いてどんどん山道を駆けて行った愛と共に、思い出も遠く私から離れて行った。
『愛ちゃん…待って、私を置いて行かないで…』
私は思わず手を伸ばしていた。
思い出の光景の中…
ケラケラ笑って走る愛に対してなのか…
それとも思い出そのものに対してなのか…
『大丈夫、私、ちゃんと此処にいる。親社(おやしろ)様を置いて何処にも行かないから、安心して。』
愛は伸ばされた手を取り愛しそうに頬擦りした後、躊躇う私の股間に顔を埋めてニッコリ笑い、それまで揉み扱いていたモノに唇を近づけた。
『よせ…もうやめろ…』
顔を背けて言う私の意思とは裏腹に、愛の小さな舌先がチロチロくすぐりだすと、穂柱が反応する。
『穂柱、勃っているね。』
愛は、穂柱から口を離すと、扱く小さな手の中で更に聳り立つモノを見つめながら、クスクス笑い出した。
『する気がなくても、好きな子の身体(からだ)を見て勃つのは、身体(からだ)がその子を本当に好きだって言ってるのよね。』
私が無言で小さく頷くと…
『親社(おやしろ)様の身体(からだ)が、やっと私の事を好きだって言ってくれたね。』
愛は、再び小さな口いっぱいに私の穂柱を頬張り、一層丹念に舐め始めた。
『ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…』
次第に荒くなる呼吸と、激しく高鳴る鼓動…
『何故だ…何故…太郎君ではなく…私に…』
愛は、譫言のように呟く私の声を聞き流すように、穂柱の先端を撫でるような舐める舌先の動き早めてゆく。
『アッ…アッ…私は…アッ…アッ…君の為に…アッ…アッ…何も…アッ…アッ…しなかった…』
私は、穂柱の先から下腹部、下腹部から全身へと広がる温もりの感触に、次第に真っ白く意識を遠のかせてゆく。
『でも…アッ…アッ…太郎君は…アッ…アッ…君を…アッ…アッ…守り続けた…アッ…アッ…必死に…アッ…アッ…守り続けた…だのに…』
不意に、愛の舌先の動きが止まった。
『愛ちゃんも、好きなんだろう、太郎君の事が…
だのに、何故…』
漸く小さな口腔内と舌先の温もりから、穂柱から解放されると、呼吸と鼓動と落ち着かせながら、私は、天井を見上げる目を瞑った。
愛は答える代わりに…
『親社(おやしろ)様、こっちを見て。』
言うなり、私の手を取り、愛の神門(みと)へと導いていった。
『私の身体(からだ)も、親社(おやしろ)様を好きだって言ってるよ。』
確かに…
まだ、萌芽の兆しもない神門(みと)のワレメに触れると、中はシットリと潤んでいた。
『私、親社(おやしろ)様が好き、大好き。初めて会った時から、ずっと…』
『愛ちゃん…』
私が震える声で何か言いかけると…
『親社(おやしろ)様の悪い夢、食べてあげる。私が全部、食べてあげる。』
愛は遮るように、私の頬を撫でて言いながら、唇を重ねてきた。
一瞬…
時が止まった。
『愛ちゃん…愛ちゃん…』
『親社(おやしろ)様、一緒に行こう。』
愛は唇を離すとニッコリ笑い、私の下腹部を跨いで、ゆっくり腰を沈め、舌先で膨張させた穂柱を参道の中へと導き挿れて行った。
『アン…アン…アン…』
愛は腰を動かしながら、甘えるような声をあげた。
再び時が動き始めた。
私の下腹部から極部にかけて、暖かなものが次第に広がってゆくのを感じた。
次第に微睡みが襲い、瞼に広がる光景が、思い出なのか、夢なのかわからなくなって行った。
『アーンッ!』
愛の一際大きな声が発せられると同時に、参道の中で思い切り吸い上げられるのを感じた。
次の刹那…
穂柱から一気に白穂が放たれた。
同時に、愛の中にある穂柱は、何とも言えない暖かく優しい温もりと心地よさに包み込まれた。
その温もりと心地よさは、愛の御祭神に白穂を捧げ尽くすまで続いた。
『愛ちゃん、眠い…』
全て放ち終えると、私はゆっくり呼吸をしながら呟いた。
『良いよ、ゆっくり眠って。』
愛はそう言うと、参道からを穂柱を引き抜き、軽く扱きながら、先端をチロチロと舐め回し始めた。
その舌先のザラつきと暖かさ…
舐め回される穂柱先端のくすぐったさが、更に私に眠気を誘った。
私は、産まれて初めて深い眠りについた。
そして、毎日愛を抱いた。
いや…
愛に抱かれたと言う方が正しいかも知れない…
『親社(おやしろ)様、一緒に行こう。』
そう言って、片目瞬きをしながら着物を脱ぐ愛は、来る日も来る日も私を深い眠りに誘った。
愛と唇を重ねる度に…
愛と肌を重ねる度に…
愛と一つになる度に…
眠りは一層深くなっていった。
そして…
長く安らかな眠りは、産声によって覚まされた。
振り向けば、赤子を抱く愛が、十八番の片目瞬きをして笑いかけていた。
早く帰らねば…
早く愛に会いたい…
早く愛の産んだ赤子を抱きたい…
障子が開いた。
中から、希美がメソメソ泣きながら出てくる。
寝巻きが濡れている。
また、怖い夢を見て、オネショをしたのだろう。
赤兎だった頃の夢を見ては、よくオネショをすると、百合が話していた。
後を追うように、菜穂が出てくる。
部屋に戻るよう諭してるようだ。
しかし、希美はイヤイヤをして泣き続けてる。そうしている間にも、その顔は見る間に蒼くなり、苦しそうに、胸を押さえている。
菜穂は、途方に暮れかけると、隣の部屋から百合が出てきた。
「あらあら、希美ちゃん、またしちゃったのね。」
百合はクスクス笑いながら…
「大丈夫、大丈夫。そうだ、良い考えがあるわ。」
近くの井戸で、柄杓に一杯水を汲み、菜穂と顔を合わせて、クスクス笑いだした。
『あいつら…』
私も、思わず吹き出すのを我慢する。
二人は、ソーっと希美の出てきた部屋を開け、掛け布団を開けると、よく眠る和幸の股座のあたりに、その水をチョロチョロとかけた。
『これでよし…』
百合と菜穂は、目で言って頷き合うと、またクスクス笑いながら、部屋をでてきた。
希美は、涙目を擦りながら、まだスヤスヤ寝息を立ててる和幸の方をジーッと見る。
「さあ、おばちゃんの部屋でもう一眠りしましょうね。」
百合は希美の小さな頭を撫でながら言い…
菜穂は、希美の替えの寝間着を取ってくる。
二人は、また、顔を見合わせてクスクス笑いだすと、希美を連れて、百合の部屋へと消えて行った。
『これで、私の寝場所も無くなったと言うわけだ。』
私は、やれやれと首を振りながら、また庭先に正座して瞑目した。
再び浮かぶ愛の笑顔…
大人びた笑顔…
やがて、冬の長い夜が明けようとしていた。
和幸は、少し遅くに目を開けた。
元々眠りが浅く、目覚の早い彼が、ここ最近、この時間まで眠るようになった。
菜穂の温もりに合わせ、希美の温もりが加わって、彼の眠りを深く安らかにしたようだ。
そう言えば…
菜穂との間に赤子が生まれた時も、一時ではあったが、よく眠るようになっていた。
「ナッちゃん、希美ちゃん…」
ふと、隣に二人の姿がない事に気付き、キョロキョロする。同時に、股座が冷たい事に気付いて、さっと掛け布団を剥いだ。
見れば、自分の寝間着も、敷布団もグッショリ濡れている。
その時…
「あーっ!お父さん、オネショしたー!」
ガラッと障子が開くと同時に、菜穂が和幸の方を指差してクスクス笑いだした。
「オネショ?」
和幸が狐につままれた顔すると…
「あらー、本当。カズ君、もう良い大人なのに、しょうがないわねー。」
続けて入って来た百合も、菜穂と一緒になって、ゲラゲラ笑いだす。
「お父さんがオネショした、お父さんがオネショした…」
「カズ君がオネショ、カズ君がオネショ…」
二人は、笑い転げながら、更に囃し立てた。
「あー!やったなー!」
和幸が布団から飛び出して声をあげると…
「オネショだー!オネショだー!」
「カズ君がオネショだー!」
二人は更に笑い転げながら、部屋を駆け出して行った。
「しょうがないなあ…」
和幸は、急いで着替えながら、びしょ濡れの布団をどうしてくれようと、途方に暮れた。
そこへ、希美がやってくると、障子の側で中にも入らず、ジーッと和幸の方を見つめていた。
寝間着の上に、花柄の大き過ぎる半纏。百合がいつも着てるものである。
「どうした、そんな所で…風邪引くぞ。」
和幸が言うと、希美はメソメソ泣き出した。
「ごめんなさい…お父さん、ごめんなさい…」
和幸は、びしょ濡れの布団と見合わせて…
『そう言う事か…』
と、一人頷いた。
「良いよ。それより、こっちにおいで…」
和幸は、希美を手招きして呼び寄せると、胸に抱き上げて部屋を出た。
屋敷の裏手玄関まで来ると…
「わー…」
希美は思わず声を上げた。
そこには、木製の可愛い箱車が一台置かれている。
外見は仔馬のような形をし、中は綿を詰めた木綿で裏打ちされ、背もたれから足先にかけて、取り外しのきく布団が当てられていた。
勿論、中でかける毛布も用意されている。
「これに乗って、父さん達とお出掛けするんだよ。」
和幸は言いながら希美を乗せてやると…
「あったかーい。」
希美は、クスクスと笑いだした。
「さあ、散歩に出かけようか。」
「うん。」
和幸は、希美を乗せた箱車を押して、屋敷を出る。
希美は、久しぶりに見る外の景色に目を輝かせた。
拾里は更に粉雪に敷き詰められ、銀色に輝いていた。
「やあ、希美ちゃん、良いのに乗ってるねー。」
「お父さんとお散歩かい?」
「カズ坊も、すっかりお父さんが肌についてきたねー。」
口々に声をかけてくるのは、身動きが効き、雪かきをしている拾里の人々であった。
希美は、素敵な馬車にでも乗せられた気分で、ご機嫌に手を振っていた。
と…
希美は、後ろの方をジーッと眺めやった。
和幸も、後ろを向く。
見れば、かなり離れたところから、羨ましそうに菜穂がつかず離れずついてきている。
和幸は、敢えてプイッと前を向いた。
希美が、心配そうに、和幸の袖を引く。
「良いんだよ。嘘つき母さんなんか、放っておこう。」
和幸は、希美の頬を撫で、笑いながら言うと、また歩きだす。
菜穂はまた、唇をかんで後をついてきた。
希美は、不安そうに、菜穂の方を見つめたまま、和幸の袖を引っ張り続けた。
やがて、不安そうな顔からベソかき顔になり、希美は鼻を鳴らし出し、最後には本当に目から涙を溢れさせた。
「しょうがないな…」
和幸は立ち止まると…
「お母さーん。」
後ろを向いたまま、菜穂に呼びかけた。
菜穂は、顔を明るくして立ち止まる。
「この箱車、僕が作ったんだぞ。良いだろう。」
和幸が言うと、菜穂はますます顔を明るくした。
「お母さんも、押してみたい?」
菜穂は、張り子のトラのように、何度も頷いてみせる。
「だったら…」
和幸はようやく振り向いて…
「あの布団の始末、ちゃんとしておいてくれよ。あれじゃあ、夜、眠れないからな。」
少し睨んで言った。
「はーい!」
菜穂は元気よく言いながら駆け寄ってくると、和幸と並んで箱車を押し始めた。
「希美ちゃん、良いの作ってもらったね。良かったね。」
ニコニコ笑って頷く希美を撫でながら、菜穂は興味深そうに、箱車のあちこちを弄り回した。
「へえ、こうすると、背もたれが倒れるんだ。」
言いながら取っ手を引くと、背もたれが倒れ、希美は真上正面に来る菜穂の顔を見上げて、クスクス笑った。
「楽チン、楽チン。」
菜穂も言いながら、クスクス笑う。
やがて、天安川の河原に辿り着くと、菜穂はいつの間にか箱車の希美を一人占めにして、あちこち押して歩きまわり始めた。
和幸は、土手に腰を下ろすと、目を細めて妻と娘を見つめ出した。
私は、そんな三人を眺めていると、様々な胸の痛みを忘れられるような気がしてくる。
過去を全て消し去って、このまま永遠に安らかな時が続く気がしてならなかった。
叶うものなら、二人をこのまま、此処に置いて行きたかった。
和幸はもう二十歳。いくつかの手続きを済ませれば、黒兎を解かれる。
できれば、菜穂も解放してやりたい。
和幸以外の男に、もう抱かせたくはない。
和幸以外の男の子を、もう産ませたくはない。
「ふーん…これとこれを外して、こうすると、担架になって…こうすると、寝台に…よく出来てるわねえ。でもって、こうすると、背負子…」
そのうち、菜穂は箱車から希美を降ろすと、板の付け替えでいろんなものに変わる箱車で遊び始めた。
希美は、側で不安そうにジーッと見つめてる。
特に、馬の頭がポロリと落ちると、驚き慌てて拾い抱きしめて…
バラバラになった板を、なかなか背負子に作り変えられないのを見ると、今にも壊されるのではないかと、ベソをかきそうになった。
「行ってやらんのか?」
私がさりげなく隣に座って言うと…
「良いんですよ。少し、遊ばせてやりましょう。」
和幸は、私の方を振り向きもせず、難しい顔をして箱車の部品と睨めっこをする菜穂を、愛しそうに見つめ続けた。
『トモちゃんなら、簡単に組み立てるだろうに…』
和幸は、本当なら、菜穂の代わりにここに居るはずだった少女の面影を追いながら、ふと思った。
とうとう、智子には、この箱車を見せる事すら出来なかったが…
「できた!」
悪戦苦闘した末、漸く箱車を背負子に組み立て直すと、お腹の部分に仔馬の頭を嵌めて完成。
菜穂は、早速、その背負子に希美を乗せて、背負い歩きだした。
「お馬さん、パカポコ、お馬さん、パカポコ…」
「お馬ちゃん、パカポコ、お馬ちゃん、パカポコ…」
菜穂は、河原中を歩きまわり、二人で口ずさみながらクスクス笑いだした。
どっちが子供だかわからない、あどけない笑顔…
その笑顔を、この世の全ての宝が集まったように、愛しそうに見つめる和幸の眼差し…
時が、永遠にこのまま止まれば良いと、私は切に思う。
と…
和幸の至福の笑顔は、不意に憂いに沈みだした。
何か、思いつめたような表情に変わる。
またか…
私は思った。
希美を引き取る事に決めた次の日から、和幸は度々、二人を見つめながら、同じ表情をするようになった。
やはり…
あの時の事が忘れられないのだろう…
そう…
二人の間に生まれた娘を取り上げられた時の事を…
私とて、忘れた事はない。
無理やり抱いてる胸から赤子を剥ぎ取られた時、狂ったように泣き喚く菜穂の事も…
一滴の涙も流さず、表情も変えなかったが、血の気が失せて、変色する程拳を握りしめて、いつまでも赤子の後を目で追い続けていた和幸の事も…
『愛ちゃん…』
赤子を愛しそうに抱いた愛の笑顔が脳裏を過ぎる。
決して望んでもうけた子ではないが…
今となっては世界の何者にも増して愛しい…
手放したくはない…
このままずっと、愛と赤子と三人で暮らしたい。
今更ながらに、あの時の和幸と菜穂の胸の痛みがよくわかる。
しかし…
和幸の口から出てくる言葉は、全く予期せぬものだった。
「僕だけ、幸せで良いのでしょうか?」
菜穂は、今度は希美を背負って駆け出した。
背中で、希美がケラケラ笑っている。
「幸せは、みんなで分かち合うもの。みんなが笑顔になれて、初めて、自分も本当の笑顔になれる。此処で暮らし始めて、そう思いました。」
「私もそう思うよ。だから、あの子達を幸せにしてやれ。希美ちゃんがいなくなったら、此処に戻り、ナッちゃんを待て。本気で愛してるなら、五年などあっと言う間だ。」
私が言うと、和幸は一層難しい顔をした。
「待てんのか?だろうな…私とて…」
「他の兎神子(とみこ)達は…」
和幸は、しばし考え込むように黙り込んだ後、重い口を開いて言った。
「あの子達以外の兎神子(とみこ)達にも、僕のような幸せを…」
「なるほど…君は、優しい男だな。安心しろ、アケちゃんやユキちゃん達の事もちゃんと考えてる。大した事をしてやる事は出来んが、皆の事も考えてる。」
私が言うと、和幸は大きく首を振って見せた。
「親社(おやしろ)様の兎神子(とみこ)達は、幸せですよ。」
「私の兎神子(とみこ)達が幸せ?」
「神領(かむのかなめ)には、大勢の兎神子(とみこ)達がいます。親社(おやしろ)様の預かる社(やしろ)以外にも…」
和幸は、しばし目を瞑っておし黙った。
河原の方を見ると、希美を背負って走り回っていた菜穂が、とうとうへばって座り込んでいる。
さすがに疲れたのであろう。
いくら希美の身体(からだ)が小さく痩せこけていて、箱車も軽い素材を集めて拵えてると言っても、子供一人乗せた木製の箱車を背負って走り回っていたのである。
菜穂は、箱車を降ろして座りこむと、更に途方に暮れ出した。
いつの間にか、中の希美がスヤスヤ眠りこけているのである。
これでは、降ろして元の箱車に組み立てなおす事が出来ない。
私が思わず吹き出しそうになると…
「親社(おやしろ)様、確か、黒兎は黒兎を解かれると、下級の神職(みしき)になれるのでしたね。犬神人(いぬじにん)に…」
和幸は、漸く心を決めたように重い口を開いた。
「それが、どうした?」
私は、思いもかけぬ問いに、頬がひきつるのを感じた。
「僕でも、なれるでしょうか?」
「何だと…」
「僕は、貴方と共に戦いたい…」
振り向く和幸の視線が、射抜くように真っ直ぐ私を見据えた。
「希美ちゃんや美香ちゃんのような子を…トモちゃんやサナちゃんのような子を、もう出したくありません。」
「だから、戦いたいと?三年前のように…紅兎として…」
「親社(おやしろ)様が、僕達を率いて下されば、この次こそ…」
その時、菜穂は救いを求めるような眼差しを向けている事に気付いた。
「行ってやれ。」
私が促すと、和幸は菜穂の方を見た。
「君の戦いは、あの子を支えてやる事だよ。」
「親社(おやしろ)様…」
「まずは、目の前にある大切なものをしっかり守り支えぬく事だよ。それができて、初めて隣にあるものにも手を差し伸べる事ができる。」
「ならば…」
暫し菜穂を見つめて押し黙っていた和幸は、また、私に射抜くような眼差しを向けてきた。
「愛ちゃんは…愛ちゃんが産んだ赤子は、どうなさるおつもりですか?」
「何だと?」
「三年前…皮剥の儀式を中止する事なく、おめおめと赤兎にされた愛ちゃんを、今度は指を咥えて聖領(ひじりのかなめ)に送られるおつもりですか?」
今度は、私が押し黙る番であった。
「目の前の大切なものと言われるのでしたら…愛ちゃんは、紛れもなく僕達みんなの目の前にある宝物…
いや、誰よりも親社(おやしろ)様にとって、一番大切な宝物の筈。百合さんと並んでね…」
「私の宝物…」
「惚けないでください。もう、ご存知なのでしょう?愛ちゃんが、親社(おやしろ)様を愛してる事。それに、親社(おやしろ)様も、愛ちゃんを愛しておられる。」
和幸はそう言うと、菜穂の方に向いて歩き出した。
菜穂は、気持ち良さそうに眠る希美を見て、途方に暮れた。
『まさか、こんな所で寝るなんて…』
菜穂は、起こしたくないなと思う。寝顔のあどけなさも可愛いが、何より、最近やっとよく寝るようになったのだ。
初めて出会った頃…
片時も離れず菜穂にかじりつく希美は、いくら寝かしつけようとしても、なかなか寝ようとしなかった。
余程、突然、智子にいなくなられたのが応えたのであろう。
そこに、菜穂がやってきた。
いや、戻ってきたと言うべきかも知れない。最近わかった事なのだが、菜穂に限らず、相手が誰でも、人の名と言うものを、希美はよく理解してないらしい。
二人の事は、お母さんとお父さんと言う理解の仕方をしている。
そして、同じお母さんと言う理解の仕方をしていた智子と菜穂の見分けができていないのだ。
もう、二度と離れたくないと言う思いから、菜穂から片時も離れようとせず、無理に離せば大泣きし、酷い時は、おもらしをした。
そして、眠っている間に何処かに行かれるのではないかと、全く寝ようとしなかったのだ。
それが、ずっと一緒にいられると知って安心しきったのか、よく眠るようになったのだ。
最も…
智子が連れてきた当初からのオネショの癖も、また復活してしまったのだが…
「さあ、希美ちゃんをおんぶして下さいな、お母さん。」
途方にくれてる菜穂の肩に手を乗せると、和幸は悪戯っ子のような顔をして言った。
「カズ兄ちゃーん…」
菜穂は、甘えるような声を出すと、唇を噛みしめる。
「全く…よくもこんなデタラメに解体してくれたもんだな…これ、箱車から背負子にするより、背負子から箱車に戻す方が難しいんだぞ。しかも、いくつか部品組み間違えてるし…」
和幸は、そこら辺に散らかされた、車輪や手摺などの部品をかき集めながら、ブツブツ言う。
「カズ兄ちゃーん、お願ーい。」
菜穂は、今度は両手を合わせて、何度もペコペコしてみせる。
「えっ?まさか、僕におんぶしろとか…言わないよね。」
和幸がすっ惚けた顔して首を傾げて見せると、菜穂はそのまさかのお強請りの仕草で、また拝み倒した。
「どーしよーっかなー…また、希美ちゃんに背中でお漏らしされて、僕がしたとか言われたら嫌だもんなー…」
「ごめんなさーい、カズ兄ちゃーん…」
菜穂は、今度は嘘泣きにベソをかく。
「しょうがないなー…それじゃあ、これ、戻ったらちゃんと治しておけよ。」
和幸が拾い集めた部品を菜穂に手渡して言うと…
「はーい。」
あのベソかきは何処に行ったと言う風に、菜穂はニコニコ笑って、部品の束を抱きかかえた。
「全く…これ作るのに、どれだけ時間がかかったと思ってるんだか…」
和幸はブツブツ言いながら、希美をおぶって歩き出すと、子守唄を歌いだした。
隣では、菜穂も一緒に歌い出す。
他愛ない子守唄…
誰が作詞作曲したとも知れぬ子守唄…
神領(かむのかなめ)では知らぬ者のない子守唄歌を聴きながら、何故か、早苗の事を思い出した。
人よりも発育が遅く、十五歳で十歳くらいの体躯をしていた少女…
だのに、月のモノだけは八歳そこそこで始まり、十歳で最初の子を宿して以来、毎年一人ずつ仔兎神(ことみ)を産んでいた少女…
穂供(そなえ)も、妊娠も、出産も、全てがただ苦痛であった。
人生の殆どは、痛い苦しいだけで、十六年の命を終えてしまった。
にも拘らず、早苗にとって、生きる事は喜びであった。
季節ごとの景色を見ては喜び、小さな生き物が境内に紛れ込んでは可愛がっていた。
何より、一月で別れが訪れる、自らの産んだ子一人一人を慈しんでいた。
一人産み終えては、三月と経たず次の子を宿していた早苗は、いつも大きく膨らんでいたお腹に向かって、話しかけていた。
今日は晴れた、今日は雨が降った…
今日は花が咲いた、友達と遊んだ…
早く産まれておいで…
優しい人達が待っている…
素敵な景色や美しい花が待っている…
何より、母さんが貴方の事を待っている…
この世は、いつも光り輝いているよ…
和幸が、最初に箱車を作ってやったのは、早苗にであった。
希美には、仔馬の形した箱車だったが、早苗には、兎の形した箱車であった。
外枠の板一面には、楓の模様が彫刻されていた。
早苗は、自分達が兎と呼ばれてる事を気に入っていて、兎が大好きだったのだ。
そして、赤ん坊の手みたいだと言って、楓の葉も大好きであった。
『もう!何で、タカ兄ちゃんばかり押してんのよ!』
早苗の世話役は自分だと勝手に決めつけていた親友の亜美が、怒って追い回す傍、貴之は御構い無しに、早苗を乗せた箱車を押して、走り回っていた。
『さあ、チビ!もう一っ走り行くぞ!それーーっ!』
『わあっ!早い早い!』
貴之が、更に速度を上げて駆け出すと、早苗は手を叩いて燥ぎ出す。
『もう!サナちゃん、まだ、身体(からだ)ちゃんと治ってないのよ!無理しちゃ駄目なのよ!サナちゃん、壊す気なの!この悪魔!ケダモノ!人で無し!』
後ろからは、更に亜美が怒鳴り声を張り上げながら、追い回し続けた。
誰もいなくなった河原に目を戻すと、あの時の情景がそのまま蘇ってくる。
『サナちゃん、常世でタカ君に甘えてるか?
いや…
甘えてるのは、タカ君の方か…
あいつは、本当は一番幼く子供だったからな…
むしろ、サナちゃんは見た目とは反対に、一番大人だったのかも知れない…
いや…
子供でも大人でもなく、母親だったのだろう…
常世で、タカ君の子供を産めると良いな…
仔兎神(ことみ)などと呼ばれぬ子…
自分の手で育てられる子…』
すると…
『私の事なんかより、愛ちゃんを幸せにしてあげて…』
何処からとなく、早苗の声が聞こえて来た。
『サナちゃんは、タカ君の事が本当に好きなんだね。』
愛が、皮剥の儀式を受ける少し前…
私は、境内で、早苗の乗る兎の箱車を推して歩きながら言った。
早苗は、貴之から貰ったと言う、下手くそな手作りの簪を大事そうに胸に抱いて顔を赤くした。
『そろそろ、良い返事を聞かせてくれないかな。』
『良い…返事…』
『拾里に行く話さ…このまま社(やしろ)にいて、神饌共食祭で穂供(そなえ)を続けたら、また無理な妊娠と出産を繰り返したら…命の危険に関わるんだよ。』
私が言うと、早苗は唇をギュッと噛みしめ押し黙った。
『拾里には、タカ君に送らせてやろう。タカ君に、この箱車を押して、連れて行って貰うと良い。それで、向こうで何日かタカ君と二人きりで過ごすんだ。』
私は、早苗の乗る箱車を押しながら、話し続けた。
『年に何度か、タカ君一人に見舞いに行かせても良い。それで、アッちゃんの見張りがない所で、二人水要らずで遊ぶと良いさ。
アッちゃんに内緒で、タカ君に抱いて貰っても良いんだよ。
一年に一度か二度くらいなら…
その分、しっかり療養につとめなければいけないけどね。』
早苗は、尚も何も答えず押し黙り続けた。
『拾里で療養しながら、たまに訪れるタカ君と、これまで産んだ子供達を待つと良い。
それで、元気になったら、また、タカ君との子供を産むと良い。もう、仔兎神(ことみ)などと呼ばれない子供、誰にも取り上げられない子供を産むと良い。』
すると、それまでジッと私の話に耳を傾けていた早苗は、ポロポロと涙を零し始めた。
『サナちゃん?』
『その拾里には、愛ちゃんを行かせてあげる事、できませんか?』
『愛ちゃん?』
『うん。愛ちゃんを病気だと言って、拾里に行かせてあげてください。』
『それは、できないよ。』
『どうして?』
『赤兎に兎幣されると決められた者は、どんな事があっても、兎神子(とみこ)を解かれる事は許されない決まりなんだよ。例え、どんな重い病を罹っても、最初の子供を産むまで、赤兎でいなくてはならないんだ。』
『私が…私が、代わりに赤兎になると言っても?』
『おいおい、何を急に…』
『私…どうせ、身体(からだ)ぼろぼろだし、そんなに長く生きられません。でしたら…』
『馬鹿な…君の身体(からだ)は治療と療養で必ず良くなるんだよ。二十歳までには大人の身体にもなれる。タカ君と結婚して、子供産んで…』
『お願い、親社(おやしろ)様。私は良いの…私の事より、愛ちゃんの事を考えてあげて下さい。
愛ちゃん、まだ九歳の子供だけど、親社(おやしろ)様の事が好きなの…愛してるの…
親社(おやしろ)様も、愛ちゃんの事が好きなんでしょう?
私には、わかります。いつか、愛ちゃんが大人になったらお嫁さんにされたがってる…違いますか?』
「どうなのかな…」
私は、今はもういない早苗に向かって、ポツリ答えて呟いた。
意識して考えてみた事などなかった。
愛をそんな風に見ているつもりは全くなかった。
あの子は、まだ子供なのだ…
ただ…
離れてみると無性に寂しい…
離れてみると無性に懐かしい…
離れてみて…
初めて掛け替えのない存在だった事に気付かされる。
そして…
もうすぐ失われてしまう時になって…
初めてその痛みを思い知らされている。
会いたい…
会いたい…
失いたくない…
私は、今にも叫び出しそうになった。
その時…
「親社(おやしろ)様、何考えらっしゃるの?」
だいぶ先を歩いていた筈の菜穂が、いつの間に戻ってきたのか、私の顔を見上げていた。
「何って…」
「当ててあげましょうか?」
「うん?」
「愛ちゃんの事でしょう?」
私が無言で見つめ返すと…
「図星ね。」
菜穂はそう言って、クスクス笑い出した。
「ねえ、親社(おやしろ)様は百合さんと愛ちゃん、どっちがお好きなの?」
「おいおい、何を急に…」
「ねえ、どっち?」
「どっちもこっちも…」
「あー、困ってらっしゃる。」
菜穂は言うと、またクスクスと笑い出した。
「社(やしろ)に戻ったら、希美ちゃんと一緒に愛ちゃんの赤ちゃん、箱車に乗せてあげましょう。それで、親社(おやしろ)様と愛ちゃんにも押させてあげる。」
「それは、楽しそうだね。」
「勿論、その前に私とカズ兄ちゃんが押すのよ。」
「良いとも。」
すると…
「ナッちゃん、何してるんだ?早く岩戸屋敷に戻るぞ。お昼に間に合わないじゃないか。」
相変わらず眠りこけてる希美を背負って、和幸も引き返してきた。
「さあ、帰ろう。グズグズするなら、屋敷まで希美ちゃんをおぶって貰うぞ。」
「はーい。」
菜穂は元気良く返事して、和幸の方へ駆け出した。
と…
和幸はまた、私の方を見つめていた。
あの射抜くような眼差しで…
『戦ってみるか…もう一度…』
私は、あの日、兎の箱車に乗っていた早苗に向かって言った。
『サナちゃんより愛ちゃんの事を思ってではない…
サナちゃんと愛ちゃん、二人の事を思って、もう一度戦ってみよう。』
だが…
『カズ君、君と一緒に戦う気はない。
君はもう、紅兎ではない…ナッちゃんの夫であり、希美ちゃんの父親なのだ…』
私は、いつまでも射抜くように見つめてくる和幸に、返す眼差しで答えて言った。
『君の戦いは、希美ちゃんを乗せた箱車を、何処までも押して行く事だよ。ナッちゃんと一緒にね。』
私の思いが通じてか通じずにか、和幸は漸く菜穂の方に向き直ると、クスクス笑いながら話しかけてくるその言葉に耳を傾け始めた。