サテュロスの祭典

神話から着想を得た創作小説を掲載します。

兎神伝〜紅兎〜(9)

2022-02-01 00:09:00 | 兎神伝〜紅兎〜惜別編
兎神伝

紅兎〜惜別編〜

(9)面影

希美は、スヤスヤ気持ち良さそうに眠っている。
時々…
「お馬ちゃん、パカポコ、お馬ちゃん、パカポコ…」
「ハーシ、ハーシ、美味ちいねー」
「お父さんのお魚貰った、お魚貰った…」
ブツブツ寝言を言いながら、クスクス笑っている。
きっと、楽しい夢を見てるのだろう。
今夜は、悪夢にうなされて、オネショをする心配はなさそうだ…
和幸は、起き上がって、希美の寝顔を覗き込みながら、その頬を撫でてやる。
昼間は、殆ど菜穂に独占されてるが、菜穂も眠れば、ほんの少し自分のものにもできる。
と…
「赤ちゃん!私の赤ちゃん、何処!赤ちゃん、いない!」
突然、菜穂が起き上がったかと思うと、何かを抱くような仕草をした両腕の中を見て…
「いない…いない…私の赤ちゃんがいない…」
見る見るうちに涙ぐみ、シクシクと泣き出した。
「ナッちゃん…」
和幸は、優しく菜穂に声をかけた。
菜穂は、寝ぼけた顔して、和幸の顔を見る。
「カズ兄ちゃん、赤ちゃん…私の赤ちゃん…連れて行かれちゃったよ…」
そう言うと、また、ポロポロ涙を零した。
「落ち着いて…ナッちゃんの赤ちゃんなら、ちゃんと此処にいるだろう。」
和幸が言うと、菜穂は希美の方を見た。
「希美ちゃん…」
菜穂は、忽ち笑顔になって、希美の寝顔を撫でた。
漸く、目が覚め、正気に戻ったようだ。
「お母さん…お母さん…」
希美は寝言を言いながら、また、クスクスと笑いだした。
「希美ちゃん、可愛い。」
菜穂もクスクスと笑い出す。
「この子は、誰にもとられないよね。ずっと、私達の子よね。」
「そうだよ。」
「良かった。希美ちゃん、お母さんとネンネしようね。」
菜穂は、また横になって希美の肩を抱いた。
「ナッちゃん…」
「なあに、カズ兄ちゃん。」
「寝ボケるのは良いけど、オネショするなよ。ナッちゃんのオネショまで、僕のせいにされてはかなわないからね。」
「まあ!私、オネショなんかしないわ!」
菜穂は、プッと膨れ面すると、そのままじきに寝入ってしまった。
『夜も、やはり、ナッちゃんの独り占めか…』
和幸は心の中で呟くと、希美を抱いて眠る菜穂を愛しそうに見つめた。
希美は、以前のように、何が何でも離すまいと言うようには、菜穂にも和幸にもしがみついたりしなくなった。二人とも、もう絶対に自分から離れないとわかり、安心しきっているようである。
むしろ、菜穂の方が、希美に強くしがみついている。
社(やしろ)で産んだ二人の子供達が取り上げられて以来、度々見る夢のように、突然腕の中から消えてしまうのではないか…目が覚めたら、そこにもういないのではないか…そんな不安から、希美を決して離すまいと、しがみつくように抱いて眠っていた。
『トモちゃん…』
ふと、希美にしがみつくように抱く菜穂の姿が、智子の姿に重なった。
智子もまた、今の菜穂のように、しがみつくように…いや、縋りつくように希美を抱いて、よく眠っていた。
一つには、子供を産めない智子が、和幸との間に産む筈であった赤子と重ね見ていたと言う事がある。
しかし、それ以上に…
かつて、菜穂に二人の腹を痛めて産んだ子がいたように、智子にも和幸との間に産む筈だった赤子と重ね見た少女がもう一人いた。
『美香ちゃん…』
赤兎の美香…
あの子も、希美のように身体(からだ)中傷だらけであったなと、和幸は思った。
前の宮司(みやつかさ)眞悟は、男色家であった。
女と言うものに全く興味を示さぬどころか、自分が関心を寄せる美男美少年を寝取る仇のように歪んだ憎しみを抱いている節があった。
特に、黒兎達に懸想する彼は、社(やしろ)の赤兎と白兎達に激しい嫉妬と憎悪を抱いていた。
黒兎とは、元来、赤兎と白兎達の穂供(そなえ)を行う練習台となる少年達である。
また、神饌共食祭の一つで、例祭や月次祭後に行われる皮贄と言う祭儀がある。それは、参列者の見守る中、選ばれた白兎を神楽殿に上げて全裸にさせ、脱いだ着物を御祭神に奉納する祭儀である。
その際、白兎の着物を脱がせて奉納し、御祭神の前で穂供(そなえ)を行う役割を担うのも、黒兎であった。
いつの頃からか、男色家や男漁りの女参拝者相手の男娼になりはしたが…
今でも、基本、赤兎や白兎達の練習台であり、皮贄と称する余興の片割れを担っている事に変わりはない。
ただ…
兎神子(とみこ)達を欲望の捌け口か、仔兎神(ことみ)を産む繁殖兎程度にしか思ってない三官(みつのつかさ)に属する、神職(みしき)、神漏(みもろ)、神使(みさき)達と、大きく異なる所があった。
黒兎達と赤兎や白兎達の間には、兄妹姉弟のような絆が結ばれていたのである。
また、恋愛感情で結ばれている者も少なくなかった。
眞悟宮司(しんごのみやつかさ)は、自分が懸想する黒兎達と兄妹姉弟や恋愛感情で結ばれている赤兎や白兎達に、激しい嫉妬を抱いていた。
それでいて、立場上、懸想する黒兎達に、赤兎や白兎達を抱かせなくてはならない事が、嫉妬心を憎悪に変えさせてしまっていたのだ。
更に言えば、残忍を好む異常性格者でもあった。
和幸は、当初、男色と言うものも理解できなければ、異常なまでに、自分と仲の良い赤兎や白兎達が苛め抜かれる理由も理解できなかった。
只々、友達が苛められるのが辛く、守り庇おうとすれば、余計に苛められるのが、更に辛かった。
しかし…
ある時期から、自分に対して、男が女に抱くような関心を抱いている事と、自分の方から言い寄れば、欲しいものは何でも与えてくれる事を知るようになった。
和幸は、試しに自分から望んで玩具にされた後、仲間の兎神子(ことみ)達を虐めるのをやめるよう哀願してみた。
それも、可哀想だからやめて欲しいと言うではなく、自分以外の者に、そのような関心を寄せられては、嫉妬に狂いそうだからやめて欲しいと願ってみた。
すると、あっさり笑って仲間達を虐めるのをやめ、代わりに一層激しく執拗に和幸を玩具にした。
自分から求めれば、その分、仲間達が虐められない…
自分に関心を寄せ、自分が執拗なまでの陵辱を受けてる間は、仲間達は苛められない…
苛められないどころか、求めれば、日頃殆どまともなものを食べさせて貰えない仲間達の為に、食べ物を貰う事もできる…
その事を知った和幸は、女の立ち居振る舞いを、一挙手一投足を徹底的に観察し、女以上に女らしく、女以上に雅に、女以上に妖艶に振る舞おうとした。
何より、女以上に美しくあろうとした。
そうして、和幸の方から求めて眞悟宮司(しんごのみやつかさ)の玩具になり、陵辱を受け、とことん、和幸の虜にしていったのである。
ある時…
『さあ、お腹すいたろう。おにぎり、貰ってきたよ。』
その日も、一日中、眞悟宮司(しんごのみやつかさ)に陵辱され尽くされた見返りに、手に入れた握り飯と漬物を、仲間達に分け与えようとした。
和幸がどんな思いをして、それを手に入れてきたか知ってる仲間達は、泣きながらそれを受け取り、なかなか口にする事が出来なかった。
特に、そもそもは、自分を庇う為にそうするようになった事を知ってる智子は、貰った握り飯を抱いて泣き続けていた。
しかし…
一人、自分から好んで眞悟宮司(しんごのみやつかさ)に弄ばれる和幸に対して、反感と嫌悪感を抱いている者がいた。
生来血の気が多く、和幸とは逆に、年中、眞悟宮司(しんごのみやつかさ)はじめ、神職(みしき)達に歯向かっては、騒ぎを起こしていた貴之であった。
『汚ねえ手で触るな!』
和幸が側によるなり、貴之は怒鳴り声を張り上げ、突き飛ばし…
『こんなもん、食えるか!』
差し出された、経木に包まれた握り飯を床に叩きつけて踏みつけた。
『いつも、ヘラヘラ笑って、あのクソ爺いに媚びへつらいやがって…
てめえには、誇りってもんがねえのか!誇りってもんが!』
貴之は、今日と言う日は、もう我慢できぬと言うように、和幸の胸ぐらを掴み、殴りつけようとした。
そこへ、黒兎の秀行がスッと分け入り、貴之の腕を掴んだ。
『ヒデ、てめえ、このオカマ野郎の肩持つ気か?』
秀行は何も答えず、ただ怒りに青白く燃えた眼差しを傾け、腕を握る手の力を一層強めた。
『やる気か?』
横目で睨みつける貴之に、秀行が答える代わりに、横から割り込む智子が、思い切り貴之の頬を叩いた。
『あんたに、カズちゃんの何がわかるの!』
智子は、涙を溢れさせ、声を震わせて、貴之を怒鳴りつけ…
『カズちゃん…毎日、どんな思いして、これを手に入れてくれたの思ってるのよ…どんな思いして…』
言うなり、その場にしゃがみ込んで、ワッと声を上げて泣き出した。
『おい、おまえ…』
すると…
『タカ兄ちゃん、これ食べて。』
全身、鞭や火傷の傷だらけの全裸の少女が側に寄り、自分が貰った握り飯を、貴之に手渡した。
『美香ちゃん…』
貴之は、片やまだ大泣きすしてる智子、片や新たに手渡された握り飯、どちらもどうして良いか途方にくれた。
すると…
『美味しい…美味しい…タカ兄ちゃん、このおにぎり、とっても美味しいよ。』
美香は、貴之が投げつけ踏みつけた握り飯を拾い、むしゃむしゃ食べて見せると、和幸にニッコリ笑いかけた。
『カズ兄ちゃん、おにぎり、ありがとう。』
和幸は、菜穂に抱かれて眠る、希美の安らかな寝顔を見つめながら、あの日の美香の笑顔が、何度も何度も過ってゆく。
あんな子が何故…
和幸は、今夜は眠れそうにないなと思うと、不意に立ち上がり、そっと障子を開けて部屋を出た。
少し、外の空気を吸って来ようと思い立ったのである。

兎神伝〜紅兎〜(8)

2022-02-01 00:08:00 | 兎神伝〜紅兎〜惜別編
兎神伝

紅兎〜惜別編〜

(8)溺水

帰り道…
いくら菜穂に撫で回されても全く目覚めなかった希美は、岩戸屋敷に戻り、煮物の甘い香りを嗅いだ途端に目を開けた。
クンクン鼻を鳴らして、満面の笑顔になる。
「おやおや、希美ちゃん、可愛いのに乗っかってるねー。」
「お父さんに作って貰ったんかい。良かったねー。」
屋敷の住人達が、希美を背負う背負子を見て口々に言うと、希美は得意げに、お腹の部分に嵌められた仔馬の頭を撫でて見せた。
「さあさあ、ご飯ですよ。」
百合が、食事係の住人達と鍋を抱えて食堂に入ると、皆、てんでに好きな席について、運ばれる御膳を待った。
やがて、みんなで昼餉の感謝の祈りを捧げると、食事が始まる。
煮物と汁物各一品、漬物一皿…
特に代わり映えない献立だが、皆で作り、皆で食べれば、何でも美味しい。
「希美ちゃん、よく食べられるようになったね、偉い偉い。」
「朝も、お寝坊さんなお父さんの分のおかずまで食べたもんね。」
希美が、和幸と菜穂に挟まれ、何でも美味しそうに食べる姿を見て、正面に座る住人達は、感心したように口々に言った。
「この分だと、お父さんとお母さんのお家に行く頃には、すっかり元気になるぞ。」
誰かがそう言うと…
「でもって、此処に戻る頃には、病気なんかすっかり治って、走り回るようになってるさ。」
誰かがまたこう言って、希美は益々笑顔になった。
「希美ちゃん、それはお匙でなくて、お箸でしょ。」
菜穂が、煮物の芋に木匙を伸ばす希美に言うと、希美は大きく頷いて、箸で器用に摘んで椀に取った。
「おやおや、お箸、使えるようになったんだ。偉いねえ。」
また、誰かが褒めると、希美は得意そうに、箸で他のおかずも頬張ってみせた。
益々、皆、感心する。
此処にきた当初は、何でも手掴みで食べようとした。酷い時には、犬のように、椀に顔を突っ込んでたべようとしていた。
首には、今も、縄で繋がれた跡が大きく残っている。
今まで、どんな食事の与えられ方をしてきたのだろう。
殆ど言葉を発しなかった希美が、椀に装われた重湯を見るなり、「エサ、エサ…」と言って鼻を鳴らした時は、思わず智子が泣き出したと言う。
それを、智子が根気よく椀の持ち方、匙の使い方を教えて、人らしくものを食べられるようにした。
その教え方も、少しでも物言いがきつくなったり、苛々した様子を見せると、カタカタ震えだし…
『ごめんなさい…ごめんなさい…』
身を縮こませ、震えて怯え出したので、非常に慎重に言葉を選び、物言いを考えながら、何とか匙の使い方、椀の持ち方まで教え込んだのだ。
それでも、どうしても、箸の使い方は覚えられず、智子も、無理に教えようとはしなかった。
それを、菜穂が上手に箸の使い方を教えたのだ。
「ハーシ、ハーシ、美味しいね。」
希美が、箸でつまんだ芋を頬張ってニコニコ笑うと…
「美味しいね。お利口、お利口。」
菜穂は、希美の肩を抱いて頬ずりした。
和幸は、さりげなく、自分のおかずの中から、キノコをいくつか、希美の椀に乗せてやる。希美の大好物なのだ。
希美が、和幸の顔を見上げると…
「箸が使えるようになったご褒美だよ。」
と言って、和幸はニッコリ笑った。
やがて、食事が終わると、希美は寝床に戻って少し昼寝して、起きると、枕元に座る菜穂と着せ替え人形で遊び始めた。
和幸は、菜緒とは反対側の枕元に腰掛け、二人の遊ぶ姿を愛しそうに見つめていた。
希美は、菜穂とばかり遊んでいて、和幸の方を向くことは殆どなかった。ただ、時折、菜穂に新しい着物を着せて貰った人形を、思い出したように和幸に見せた。
和幸が、ニコッと笑って頷くと、希美も嬉しそうに笑って、また、人形遊びに没頭した。
和幸は、それで良かった。殆ど、娘と会話がなくても、菜穂とばかり遊んでいて、自分を顧みる事も、相手される事もなくても、ただ、側にいて、娘と妻が楽しげに遊ぶ姿をみる。それだけで、何か満ち足りたものを感じる。
眠たくなってきた…
和幸は思った。
振り向き話しかける事は稀だけど、そこにいるのが当たり前に、寄りかかってくる希美の柔らかな温もりに触れるだけで、全身が暖まる気がして眠たくなる。
和幸は、目を瞑った。
思い出すのは、三年前…
まだ、赤兎になる前の愛がよく遊びに来ていた頃。
今と同じように、和幸が部屋の片隅に座り、ジッと見つめる側で、菜穂と愛…そして、朱理の三人でよく遊んでいたのだ。
菜穂が新しい人形や人形に着せ替える着物を縫っている間、朱理は自分が縫っておいた新しい本物の着物を持ってきて、愛を着せ替え人形のように、取っ替え引っ替え着せ替えて喜んでいた。
そして、漸く、愛と言うより朱理がお気に召した一着が見つかると…
『えっへん!どーじゃ、凄いじゃろう!』
鏡に写る愛に向かって、鼻の下を人差し指で擦りながら、得意げに言った。
『まあ!これ、本当に私なの!昔話に出てくるお姫様みたい!』
愛が、鏡の中の自分に思わず感嘆して言うと…
『私の最高傑作でごじゃるよ。まあ、でも、中身が元々可愛いから、私の着物も映えるでごじゃるけどね。』
朱理はまた、今度は半分照れ隠しに、鼻の下を擦り出していた。
すると…
『愛ちゃん、おいで。できたわよ。』
菜穂が縫いあがった人形と人形の着物を満足そうに見つめながら、愛を呼び寄せる。
今度は、菜穂と愛が人形遊びに夢中になる側で、愛が好んで着せる人形の着物を見ながら、朱理は新しい着物を縫い始めるのだ。
その間。
愛がいない時は、交代で和幸に齧り付き、甘えてくる菜穂と朱理が、彼を蚊帳の外に置く。いや、同じ蚊帳の中に置きはするが、その存在を意識しなくなるのである。
女にとって…
子供の存在を見出すと、男の存在などそんなものなのだろう。
いや、そうとは限らない…
智子は違かった。
希美が側にいる時も…
希美が側にいる時こそ…
いつも、その目は和幸を見つめていた。
『ねえ、カズちゃん。美香ちゃんが笑ったの。私の顔を見て笑ったの。』
『ねえ、カズちゃん。美香ちゃんが、今日も私の事、お母さんって呼んでくれたわ。私の胸を弄りながら、可愛い顔して、お母さんって呼んでくれたわ。』
『ねえ、カズちゃん。美香ちゃん、自分で腕を持って、お匙でご飯食べたのよ。上手に溢さず食べたのよ。』
『ねえ、カズちゃん。美香ちゃんがね…』
智子の夢は、和幸の子供を産む事であった。
十二の時、初めて和幸と結ばれて以来…
『カズちゃんのお白穂様が、御祭神様を探して泳いでらっしゃる。
ちゃんと辿り着けると良いな…赤ちゃんになれると良いな…』
『赤ちゃん、産みたいのか?』
『うん。』
『どうせ、一月経てば他所にやられてしまうんだよ。』
『それでも良い…一月でも、半月でも、一日でも…
カズちゃんの赤ちゃん産んで、カズちゃんと思い切り可愛がってあげるの。それで、他所にやられたら、死ぬまで、カズちゃんと何処かで幸せに暮らしてる事を祈り続けるの…』
和幸と一つになる度に腹を撫で、放たれた白穂の余韻を噛みしめながら、智子はうっとりした目を向けて言った。
和幸と愛し合い、一つになって産まれてきた命が、この世の何処かで生きて行く。幸せに暮らして行く。
智子は、それだけを夢見て、支えにして生きていた。
しかし、その夢はあえなく潰えてしまった。
ある日、神饌共食祭に訪れた数多の男達の相手をしている最中、智子の御祭神が破けて血が止まらなくなった。
その際に下された診断は、子供を産む事はできないとの事であった。
しかも、その時の傷が原因で産めなくなったのではない。
智子は、オシメが外れて間もない頃から、父親の玩具にされていた。
父親だけではなく、酒代欲しさに鐚銭で売られた貧民窟の男達にも玩具にされていた。
まだ小さ過ぎて、男の穂柱を受け入れられない智子は、替わりに参道を指や異物で掻き回された。泥だらけの小枝を差し込まれた時もあった。
四つの時、兎神家(とがみけ)でもないのに、多額の酒代を突きつけられて、前の宮司(みやつかさ)に売られた。
通常、兎神子(とみこ)が神饌共食祭で、穂供(そなえ)参拝の相手をするのは、十二歳からである。田打が始まるのも、十一…早くとも十歳からであった。
しかし、智子は売られたその日から、田打と称して数多の男達の玩具にされた。その中には、親子揃って社(やしろ)に囲われた父親もいた。
おそらく、七歳の時には、御祭神は用をなさなくなっていたであろうとの事であった。
背丈が伸びず、未だに月のモノが訪れないどころか、胸の膨らみもなく、神門(みと)に若草萌ゆるどころか、萌芽の兆しすらないのも、そのせいであろうとの事であった。
子供を産めない智子にとって、希美は紛れもない娘であった。
和幸と二人きり愛し合って暮らす中で出会った希美は、正しく和幸との愛の証であった。
和幸が愛しい分、希美が愛しくなり、希美が愛しくなる毎に、和幸に対する愛も深まっていった。
智子にとって、希美を見つめる事は和幸を見つめる事であり、和幸への愛の深さがそのまま希美への愛の深さにつながっていた。
『愛ちゃんは、どんな母親になったのだろう…』
和幸は、希美と遊ぶ菜穂を見つめながら思った。
母親と言っても、まだ十二歳…
しかも、雪に閉ざされ他所にやられるのは先に伸びたとは言え、年明けの雪解けには、子供と別れる定めにある。
子供だけではない…
子供を産んだ赤兎は、聖領(ひじりのかなめ)に捧げられるのだ。
『今、一番、赤子の父親に側にいて欲しいだろうに…』
側近くからは、人形遊びを続ける菜穂と希美の明るい笑い声が聞こえてくる。
暖かな微睡…
心地良い眠気…
また、深い眠りにつけそうだ…
女と子供の存在があると、幾らでも、いつまででも眠れる気がしてくる。
今が安らかで幸福な分…
愛の事を思うと、また胸の痛みを覚えた。
一眠りしよう…
一眠りしたら…
『どうあっても、親社(おやしろ)様を説き伏せねば…
三年前…
親社(おやしろ)様を説き伏せられなかったばかりに、愛ちゃんを赤兎にしてしまった…』
和幸は、その事を一日足りとも忘れた事はなかった。
『僕に力がなかったばかりに…愛ちゃんは三年もの間、丸裸で過ごさせられ、晒しものにされ、神饌共食祭など関係なしに凌辱され続けてしまった。
今度こそ…
今度こそ…』
その時…
希美は突然声を上げて泣き出した。
「まあ、どうしたのかしら…」
隣の部屋で、百合は、膝枕する私の耳掃除の手を止めた。
しばし、居眠り仕掛けていた私も目を開けた。
百合と目を合わせて、頷きあい、隣の部屋に行く。
「どうしたの?」
百合が、先に中に入ると…
「ごめんね、お人形さん、裸ん坊可哀想、可哀想…」
菜穂が、希美を優しく抱きしめ、一生懸命撫でてやっていた。
側では、和幸が着せ替え中の人形に急ぎ新しい着物を着せて、希美に差し出していた。
「ほら、着物着たよ。」
希美は、人形を手に取ると、ギュッと抱きしめ頬ずりしながら、頭を撫で始めた。漸く、声をあげるのはおさまったが、まだ、メソメソし続けていた。
「すみません…うっかり、人形の着物を脱がせてるところを、見せてしまって…」
「そう言う事なのね…」
百合は言うと、納得したように頷いて…
「お人形さん、可愛いおべべ着せて貰って、良かったねー。よしよし…」
百合が言いながら、希美と人形を代わる代わる撫でてやると、希美は涙を拭って少しずつ落ち着いてきた。
此処に初めてやってきた時…
逆に智子が、全裸だった希美に着物を着せようとすると、ブルブル震え出し…
『着てはいけまちぇん!着てはいけまちぇん!』
繰り返し、繰り返し、そう言って怯えて大泣きし、なかなか、着物を着ようとしなかったと言う。
漸く、ここでは着物を着ても良い、裸でいなくても良い事を理解すると、今度は、人前で着物を脱がせようとすると、火がついたように泣くようになった。
和幸と菜穂と百合以外の者が、着替えを手伝ってやる事も、まして一緒に風呂など入れたものではない。
なので、私は一度も見た事はないが、百合の話では、背中一面、いたる所に無残な傷跡があると言う。
鞭で叩かれたなどと言う生易しいものではない。
目を覆うような、大きな火傷の跡だらけなのだと言う。
足の裏に、焼け火箸を押し付けられたような火傷の跡は、私も見た事がある。
かつては着物を着る事が恐怖であり、今は、人前で脱ぐ事が恐怖であり…
誰かが着物を脱ぐのを見れば、それが、例え人形であっても、かつての恐怖を思い出させてしまうのだろう。
しかし…
私の目は、漸く泣き止む希美ではなく、彼女を見つめる和幸に向いていた。
それまでの幸福と安らぎに満ちた笑顔が消え失せ、能面のように表情を失った和幸の切れ長の眼差しが、暗く憂いに沈んでいた。
そして、その表情と眼差しは、再び、菜穂と希美が楽しげに遊び出しても変わらず、何か思いつめたように二人を見つめ続けた。
『親社(おやしろ)様、貴方と共に戦いたい。』
また、和幸の言葉が、私の脳裏を過って行く。
束の間の休息を終え、百合の忙しい午後が始まる。
寝たきりの住居人達の諸々の世話、掃除に洗濯…
身体(からだ)の自由が利く拾里の人々の手を借りながら、一つ一つの仕事をこなす百合の姿は、生き生きとしていた。
百合だけでなく、手伝う人々も生き生きとしている。
世話する相手の姿は、皆、明日の自分の姿。
そう遠からず迎えるであろう、自身の姿。
しかし、今日ある事に感謝しながら、皆、生き生きと働いている。
私も、百合の手伝いをしていると、何か思い悩む事そのものが、馬鹿馬鹿しくなってくる。
智子も、身体(からだ)が効く間、此処で働いていた時は、明るく闊達であったと言う。
社(やしろ)にいた頃…
心から笑った顔を見た事のない彼女からは、想像つかない姿が、そこにあったと言う。
此処にいた時の彼女は、その明るい笑顔が、死を待つ人々に明日の夢を見させる希望となっていたと言う。
和幸も、ずっと此処にいたら、そうなれるのだろうか…
いや、既になりかけているではないか…
希美を相手に、あんなによく笑うようになったではないか…
『もう、希美ちゃんや美香ちゃんのような子を…トモちゃんやサナちゃんのような子達を出したくありません…』
だから、神職(みしき)につくのか…
私と同じ道を歩もうと言うのか…
また、紅兎として修羅の道を行こうと言うのか…
三年前のように…
「どうしたの、お兄ちゃん。」
住居人達の風呂の世話を全て終えると、百合は、私に声をかけてきた。
「今日もありがとうね。本当、元気な男が一人いてくれると助かるわ。
前は、カズ君に随分助けて貰ったけど…
トモちゃんが容態悪化してから、トモちゃんに…今は、希美ちゃんにつきっきりだからね。」
「すまない。カズ君と言う働き手を一人取ってしまって。」
「何言ってるのよ、希美ちゃんも大事な此処の住居人。あの子の世話をしてくれて、凄く助かってるわ。」
言いながら、百合は私と一緒に、山のような洗濯物を干し始めた。
「百合ちゃんは、少し休むと良い。その身体(からだ)で無理し過ぎだ。」
「それを言うなら…お兄ちゃんは、そんなボロボロの心して、一人で無理し過ぎでしょう。」
「私の心がボロボロ?」
私の問いに、百合は返事をする代わりに軽く肩を窄めて、両手を小さく開く仕草をした。
空いた風呂場から、和幸と菜穂と希美が、仲良く歌う声が聞こえてくる。
さっき、あんなに大泣きしたのが嘘のように、希美はご機嫌だった。
また、和幸と菜穂が交代でくすぐってるのだろう。
希美が、ケラケラ笑う声が聞こえてきた。
「お兄ちゃんと一緒に戦いたいかあ…」
百合は、私の話を聞きいて、しみじみ言ったかと思うと、突然、洗濯物のシーツを、私の頭から被せて大笑いした。
「おいおい、何すんだ!」
「幽霊!」
百合は、私を指差して、またゲラゲラ笑いだす。
「幽霊じゃないだろ、全く…」
私が、少々踠いて、何とかシーツを剥がすと、百合は柱に凭れかかって佇み、床をトントンとつま先で小突いていた。唇を尖らせ、寂しそうに眼差しを俯かせている。
「百合ちゃん…」
「お兄ちゃんって、どうして、そうやって、伸ばしてくる手を突っぱねるかなあ…」
「百合ちゃんは、カズ君に私と同じ道を歩ませろと言うのか?また、紅兎とか称して、昔のように修羅の道を行かせようと言うのか?
彼は、やっと穏やかな暮らしができるんだぞ。此処で、人間らしい暮らしをしながら、五年待てば、ナッちゃんと結婚して、今度こそ、誰にも奪われない子供もつくれる。だのに…」
「拾里の外では、多くの兎神子(とみこ)達が苛め抜かれて、傷ついて、多くは二十歳を待たずに死んでゆく。二十歳まで生きて、兎神子(とみこ)を解かれたとしても、殆どは子供なんかもうつくれない程ボロボロになって、三十になるのを待たずに死んでゆく。そんなのを横目でみながら、自分だけ幸せになる。それがどんなに辛いか、お兄ちゃんが一番知ってるんじゃない?」
百合は、私に被せたシーツを横から取り上げると、後ろ向いて干し始めた。
「お兄ちゃんって、優しい顔して、結構冷たいのね。」
「だから、私は…」
「あー、また…それ以上言ったら、ナッちゃんに言いつけちゃうぞー。そーしたら、ナッちゃん、二度と口きいてくれないぞー。」
百合は、私の方を向いて指差して言い、私が押し黙ると、鼻に皺寄せて笑った。
「そう言う事言ってんじゃないの。お兄ちゃんに手を伸ばす人達は、溺れてるお兄ちゃんの手をとってあげようとしてるんじゃない。その人達が溺れてるから、手を伸ばして、お兄ちゃんにその手をとって欲しいのよ。
そう…
母様にしても、義隆先生や勇介様にしても…
カズ君にしてもね。」
「カズ君が溺れてる?」
「やっぱり、なーんにもわかってない。」
私が、住居人達の下着を持ったまま、眉を寄せて首を傾げていると、百合はその下着を横取りして干した。
「お兄ちゃん、希美ちゃんの身体(からだ)中の傷、見てないもんね。痛々しいなんてもんじゃないわ。
でも、あの子は二度とそんな思いはしなくて済む。最後の一日まで、赤ちゃんみたいにチヤホヤされて、幸せに逝く事はもう決まってる。
その代わり…
あの子の代わりに赤兎になった子が、同じ地獄を見ているわ。それが、カズ君にはたまらなく辛いのよ。」
風呂場から、歌声も笑い声も聞こえなくなった。
親子三人水入らずの入浴が終わったのだ。
「オーハーシ、オーハーシ…上手、上手、お利口ね。」
代わって、希美が夕食よりも、箸を使うのが楽しみで仕方ないと言う声が聞こえてくる。
「今夜は、お匙は使わないで、全部、お箸で食べてみようか。」
「うん。」
「ちゃんと、お箸で全部食べる事ができたら、お父さんがオカズの焼き魚、全部、希美ちゃんにくれるって。」
「わーい。ハーシ、ハーシ、美味ちいね。』
「おいおい、ナッちゃん!焼き魚、僕の好物なんだぞ!」
「お魚、お魚、美味しちいなー。お箸、頑張る。」
三人は、楽しそうに話しながら、食堂に向かって行き、次第に聞こえる声が小さくなった。

兎神伝〜紅兎〜(7)

2022-02-01 00:07:00 | 兎神伝〜紅兎〜惜別編
兎神伝

紅兎〜惜別編〜

(7)箱車

暁七つ半…
雪積もる庭先に座して瞑目…
静かに呼吸を整える。
ヒラヒラと、粉雪が一雫舞い落ちる。
一尺離して左脇に置く、鍔無しの居合刀…
狸の頭を象る柄に、胴を象る鞘…
胴狸に手を伸ばす。
刹那…
鞘走る白刃の煌めきは息を凍らす風を切り、粉雪は二つに割れて地に落ちた。
朧流居合術雫切り…
一つ大きく息を吐きながら、既に鞘に収まる胴狸を再び左脇に置く。
空を見上げれば、白む空から、粉雪がさらに舞い落ちる。
気づけば、此処に来てもう半月…
愛はどうしてるだろう…
早く帰らねば…
年が明けてしまったら…
この雪が消えると同時に、あの子達も消えて行く…
愛も…
愛の産んだ私の子も…
『愛ちゃん…』
『大丈夫、怖がらないで…』
あの夜…
愛は、徐に着物を脱いで産まれたままの姿になると、ニッコリ笑って唇を重ねてきた。
舌先で私の口の中を弄りながら、首に回す手で、器用に私の帯を解き、寝巻きを脱がせ始めた。
やがて、褌も解かれると、私も産まれたままの姿になった。
『親社(おやしろ)様、好きよ。大好き。』
愛は、十八番の片目瞬きをしながらそう言うと、震える私の首筋から胸に向かって、ゆっくり唇を這わせてチロチロと舐め回し始めた。
指先で、私の乳首を転がすように揉み、やがて唇が胸元までくると、その手を私の股間に持って行った。
『愛ちゃん…』
『親社(おやしろ)様、怖かったら目を瞑って…』
愛は言いながら、股間の穂柱を慣れた手つきで揉み扱き始めた。
『裏山に出かけた時、いっぱい、切り絵を描いた時、楽しかったね。
あの秘密の場所で、お弁当食べて、寝転がって、空を見上げて…』
『愛ちゃん…戻りたい…あの時に戻りたい…』
『戻してあげる。だから、そのまま目を瞑っていて…』
次第に、穂柱を揉み扱く小さな手の動きが早くなり、合わせて私の息遣いも早くなった。
愛が、両乳首を丹念に舐め回し始めると、瞼の裏側に、初めて出会った日々が蘇った。
まだ、社(やしろ)の兎神子(とみこ)達に愛の存在を知らせてなかった頃…
私の秘密の友達だった頃…
こっそり社(やしろ)を抜け出しては、毎日、裏山に遊びに出かけた日々…
手を伸ばせば届きそうなところに、思い出の光景が蘇ってきた。
しかし、今となっては遠き日々の優しい思い出…
『親社(おやしろ)様、早く早く!』
あの日、私を置いてどんどん山道を駆けて行った愛と共に、思い出も遠く私から離れて行った。
『愛ちゃん…待って、私を置いて行かないで…』
私は思わず手を伸ばしていた。
思い出の光景の中…
ケラケラ笑って走る愛に対してなのか…
それとも思い出そのものに対してなのか…
『大丈夫、私、ちゃんと此処にいる。親社(おやしろ)様を置いて何処にも行かないから、安心して。』
愛は伸ばされた手を取り愛しそうに頬擦りした後、躊躇う私の股間に顔を埋めてニッコリ笑い、それまで揉み扱いていたモノに唇を近づけた。
『よせ…もうやめろ…』
顔を背けて言う私の意思とは裏腹に、愛の小さな舌先がチロチロくすぐりだすと、穂柱が反応する。
『穂柱、勃っているね。』
愛は、穂柱から口を離すと、扱く小さな手の中で更に聳り立つモノを見つめながら、クスクス笑い出した。
『する気がなくても、好きな子の身体(からだ)を見て勃つのは、身体(からだ)がその子を本当に好きだって言ってるのよね。』
私が無言で小さく頷くと…
『親社(おやしろ)様の身体(からだ)が、やっと私の事を好きだって言ってくれたね。』
愛は、再び小さな口いっぱいに私の穂柱を頬張り、一層丹念に舐め始めた。
『ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…』
次第に荒くなる呼吸と、激しく高鳴る鼓動…
『何故だ…何故…太郎君ではなく…私に…』
愛は、譫言のように呟く私の声を聞き流すように、穂柱の先端を撫でるような舐める舌先の動き早めてゆく。
『アッ…アッ…私は…アッ…アッ…君の為に…アッ…アッ…何も…アッ…アッ…しなかった…』
私は、穂柱の先から下腹部、下腹部から全身へと広がる温もりの感触に、次第に真っ白く意識を遠のかせてゆく。
『でも…アッ…アッ…太郎君は…アッ…アッ…君を…アッ…アッ…守り続けた…アッ…アッ…必死に…アッ…アッ…守り続けた…だのに…』
不意に、愛の舌先の動きが止まった。
『愛ちゃんも、好きなんだろう、太郎君の事が…
だのに、何故…』
漸く小さな口腔内と舌先の温もりから、穂柱から解放されると、呼吸と鼓動と落ち着かせながら、私は、天井を見上げる目を瞑った。
愛は答える代わりに…
『親社(おやしろ)様、こっちを見て。』
言うなり、私の手を取り、愛の神門(みと)へと導いていった。
『私の身体(からだ)も、親社(おやしろ)様を好きだって言ってるよ。』
確かに…
まだ、萌芽の兆しもない神門(みと)のワレメに触れると、中はシットリと潤んでいた。
『私、親社(おやしろ)様が好き、大好き。初めて会った時から、ずっと…』
『愛ちゃん…』
私が震える声で何か言いかけると…
『親社(おやしろ)様の悪い夢、食べてあげる。私が全部、食べてあげる。』
愛は遮るように、私の頬を撫でて言いながら、唇を重ねてきた。
一瞬…
時が止まった。
『愛ちゃん…愛ちゃん…』
『親社(おやしろ)様、一緒に行こう。』
愛は唇を離すとニッコリ笑い、私の下腹部を跨いで、ゆっくり腰を沈め、舌先で膨張させた穂柱を参道の中へと導き挿れて行った。
『アン…アン…アン…』
愛は腰を動かしながら、甘えるような声をあげた。
再び時が動き始めた。
私の下腹部から極部にかけて、暖かなものが次第に広がってゆくのを感じた。
次第に微睡みが襲い、瞼に広がる光景が、思い出なのか、夢なのかわからなくなって行った。
『アーンッ!』
愛の一際大きな声が発せられると同時に、参道の中で思い切り吸い上げられるのを感じた。
次の刹那…
穂柱から一気に白穂が放たれた。
同時に、愛の中にある穂柱は、何とも言えない暖かく優しい温もりと心地よさに包み込まれた。
その温もりと心地よさは、愛の御祭神に白穂を捧げ尽くすまで続いた。
『愛ちゃん、眠い…』
全て放ち終えると、私はゆっくり呼吸をしながら呟いた。
『良いよ、ゆっくり眠って。』
愛はそう言うと、参道からを穂柱を引き抜き、軽く扱きながら、先端をチロチロと舐め回し始めた。
その舌先のザラつきと暖かさ…
舐め回される穂柱先端のくすぐったさが、更に私に眠気を誘った。
私は、産まれて初めて深い眠りについた。
そして、毎日愛を抱いた。
いや…
愛に抱かれたと言う方が正しいかも知れない…
『親社(おやしろ)様、一緒に行こう。』
そう言って、片目瞬きをしながら着物を脱ぐ愛は、来る日も来る日も私を深い眠りに誘った。
愛と唇を重ねる度に…
愛と肌を重ねる度に…
愛と一つになる度に…
眠りは一層深くなっていった。
そして…
長く安らかな眠りは、産声によって覚まされた。
振り向けば、赤子を抱く愛が、十八番の片目瞬きをして笑いかけていた。
早く帰らねば…
早く愛に会いたい…
早く愛の産んだ赤子を抱きたい…
障子が開いた。
中から、希美がメソメソ泣きながら出てくる。
寝巻きが濡れている。
また、怖い夢を見て、オネショをしたのだろう。
赤兎だった頃の夢を見ては、よくオネショをすると、百合が話していた。
後を追うように、菜穂が出てくる。
部屋に戻るよう諭してるようだ。
しかし、希美はイヤイヤをして泣き続けてる。そうしている間にも、その顔は見る間に蒼くなり、苦しそうに、胸を押さえている。
菜穂は、途方に暮れかけると、隣の部屋から百合が出てきた。
「あらあら、希美ちゃん、またしちゃったのね。」
百合はクスクス笑いながら…
「大丈夫、大丈夫。そうだ、良い考えがあるわ。」
近くの井戸で、柄杓に一杯水を汲み、菜穂と顔を合わせて、クスクス笑いだした。
『あいつら…』
私も、思わず吹き出すのを我慢する。
二人は、ソーっと希美の出てきた部屋を開け、掛け布団を開けると、よく眠る和幸の股座のあたりに、その水をチョロチョロとかけた。
『これでよし…』
百合と菜穂は、目で言って頷き合うと、またクスクス笑いながら、部屋をでてきた。
希美は、涙目を擦りながら、まだスヤスヤ寝息を立ててる和幸の方をジーッと見る。
「さあ、おばちゃんの部屋でもう一眠りしましょうね。」
百合は希美の小さな頭を撫でながら言い…
菜穂は、希美の替えの寝間着を取ってくる。
二人は、また、顔を見合わせてクスクス笑いだすと、希美を連れて、百合の部屋へと消えて行った。
『これで、私の寝場所も無くなったと言うわけだ。』
私は、やれやれと首を振りながら、また庭先に正座して瞑目した。
再び浮かぶ愛の笑顔…
大人びた笑顔…
やがて、冬の長い夜が明けようとしていた。
和幸は、少し遅くに目を開けた。
元々眠りが浅く、目覚の早い彼が、ここ最近、この時間まで眠るようになった。
菜穂の温もりに合わせ、希美の温もりが加わって、彼の眠りを深く安らかにしたようだ。
そう言えば…
菜穂との間に赤子が生まれた時も、一時ではあったが、よく眠るようになっていた。
「ナッちゃん、希美ちゃん…」
ふと、隣に二人の姿がない事に気付き、キョロキョロする。同時に、股座が冷たい事に気付いて、さっと掛け布団を剥いだ。
見れば、自分の寝間着も、敷布団もグッショリ濡れている。
その時…
「あーっ!お父さん、オネショしたー!」
ガラッと障子が開くと同時に、菜穂が和幸の方を指差してクスクス笑いだした。
「オネショ?」
和幸が狐につままれた顔すると…
「あらー、本当。カズ君、もう良い大人なのに、しょうがないわねー。」
続けて入って来た百合も、菜穂と一緒になって、ゲラゲラ笑いだす。
「お父さんがオネショした、お父さんがオネショした…」
「カズ君がオネショ、カズ君がオネショ…」
二人は、笑い転げながら、更に囃し立てた。
「あー!やったなー!」
和幸が布団から飛び出して声をあげると…
「オネショだー!オネショだー!」
「カズ君がオネショだー!」
二人は更に笑い転げながら、部屋を駆け出して行った。
「しょうがないなあ…」
和幸は、急いで着替えながら、びしょ濡れの布団をどうしてくれようと、途方に暮れた。
そこへ、希美がやってくると、障子の側で中にも入らず、ジーッと和幸の方を見つめていた。
寝間着の上に、花柄の大き過ぎる半纏。百合がいつも着てるものである。
「どうした、そんな所で…風邪引くぞ。」
和幸が言うと、希美はメソメソ泣き出した。
「ごめんなさい…お父さん、ごめんなさい…」
和幸は、びしょ濡れの布団と見合わせて…
『そう言う事か…』
と、一人頷いた。
「良いよ。それより、こっちにおいで…」
和幸は、希美を手招きして呼び寄せると、胸に抱き上げて部屋を出た。
屋敷の裏手玄関まで来ると…
「わー…」
希美は思わず声を上げた。
そこには、木製の可愛い箱車が一台置かれている。
外見は仔馬のような形をし、中は綿を詰めた木綿で裏打ちされ、背もたれから足先にかけて、取り外しのきく布団が当てられていた。
勿論、中でかける毛布も用意されている。
「これに乗って、父さん達とお出掛けするんだよ。」
和幸は言いながら希美を乗せてやると…
「あったかーい。」
希美は、クスクスと笑いだした。
「さあ、散歩に出かけようか。」
「うん。」
和幸は、希美を乗せた箱車を押して、屋敷を出る。
希美は、久しぶりに見る外の景色に目を輝かせた。
拾里は更に粉雪に敷き詰められ、銀色に輝いていた。
「やあ、希美ちゃん、良いのに乗ってるねー。」
「お父さんとお散歩かい?」
「カズ坊も、すっかりお父さんが肌についてきたねー。」
口々に声をかけてくるのは、身動きが効き、雪かきをしている拾里の人々であった。
希美は、素敵な馬車にでも乗せられた気分で、ご機嫌に手を振っていた。
と…
希美は、後ろの方をジーッと眺めやった。
和幸も、後ろを向く。
見れば、かなり離れたところから、羨ましそうに菜穂がつかず離れずついてきている。
和幸は、敢えてプイッと前を向いた。
希美が、心配そうに、和幸の袖を引く。
「良いんだよ。嘘つき母さんなんか、放っておこう。」
和幸は、希美の頬を撫で、笑いながら言うと、また歩きだす。
菜穂はまた、唇をかんで後をついてきた。
希美は、不安そうに、菜穂の方を見つめたまま、和幸の袖を引っ張り続けた。
やがて、不安そうな顔からベソかき顔になり、希美は鼻を鳴らし出し、最後には本当に目から涙を溢れさせた。
「しょうがないな…」
和幸は立ち止まると…
「お母さーん。」
後ろを向いたまま、菜穂に呼びかけた。
菜穂は、顔を明るくして立ち止まる。
「この箱車、僕が作ったんだぞ。良いだろう。」
和幸が言うと、菜穂はますます顔を明るくした。
「お母さんも、押してみたい?」
菜穂は、張り子のトラのように、何度も頷いてみせる。
「だったら…」
和幸はようやく振り向いて…
「あの布団の始末、ちゃんとしておいてくれよ。あれじゃあ、夜、眠れないからな。」
少し睨んで言った。
「はーい!」
菜穂は元気よく言いながら駆け寄ってくると、和幸と並んで箱車を押し始めた。
「希美ちゃん、良いの作ってもらったね。良かったね。」
ニコニコ笑って頷く希美を撫でながら、菜穂は興味深そうに、箱車のあちこちを弄り回した。
「へえ、こうすると、背もたれが倒れるんだ。」
言いながら取っ手を引くと、背もたれが倒れ、希美は真上正面に来る菜穂の顔を見上げて、クスクス笑った。
「楽チン、楽チン。」
菜穂も言いながら、クスクス笑う。
やがて、天安川の河原に辿り着くと、菜穂はいつの間にか箱車の希美を一人占めにして、あちこち押して歩きまわり始めた。
和幸は、土手に腰を下ろすと、目を細めて妻と娘を見つめ出した。
私は、そんな三人を眺めていると、様々な胸の痛みを忘れられるような気がしてくる。
過去を全て消し去って、このまま永遠に安らかな時が続く気がしてならなかった。
叶うものなら、二人をこのまま、此処に置いて行きたかった。
和幸はもう二十歳。いくつかの手続きを済ませれば、黒兎を解かれる。
できれば、菜穂も解放してやりたい。
和幸以外の男に、もう抱かせたくはない。
和幸以外の男の子を、もう産ませたくはない。
「ふーん…これとこれを外して、こうすると、担架になって…こうすると、寝台に…よく出来てるわねえ。でもって、こうすると、背負子…」
そのうち、菜穂は箱車から希美を降ろすと、板の付け替えでいろんなものに変わる箱車で遊び始めた。
希美は、側で不安そうにジーッと見つめてる。
特に、馬の頭がポロリと落ちると、驚き慌てて拾い抱きしめて…
バラバラになった板を、なかなか背負子に作り変えられないのを見ると、今にも壊されるのではないかと、ベソをかきそうになった。
「行ってやらんのか?」
私がさりげなく隣に座って言うと…
「良いんですよ。少し、遊ばせてやりましょう。」
和幸は、私の方を振り向きもせず、難しい顔をして箱車の部品と睨めっこをする菜穂を、愛しそうに見つめ続けた。
『トモちゃんなら、簡単に組み立てるだろうに…』
和幸は、本当なら、菜穂の代わりにここに居るはずだった少女の面影を追いながら、ふと思った。
とうとう、智子には、この箱車を見せる事すら出来なかったが…
「できた!」
悪戦苦闘した末、漸く箱車を背負子に組み立て直すと、お腹の部分に仔馬の頭を嵌めて完成。
菜穂は、早速、その背負子に希美を乗せて、背負い歩きだした。
「お馬さん、パカポコ、お馬さん、パカポコ…」
「お馬ちゃん、パカポコ、お馬ちゃん、パカポコ…」
菜穂は、河原中を歩きまわり、二人で口ずさみながらクスクス笑いだした。
どっちが子供だかわからない、あどけない笑顔…
その笑顔を、この世の全ての宝が集まったように、愛しそうに見つめる和幸の眼差し…
時が、永遠にこのまま止まれば良いと、私は切に思う。
と…
和幸の至福の笑顔は、不意に憂いに沈みだした。
何か、思いつめたような表情に変わる。
またか…
私は思った。
希美を引き取る事に決めた次の日から、和幸は度々、二人を見つめながら、同じ表情をするようになった。
やはり…
あの時の事が忘れられないのだろう…
そう…
二人の間に生まれた娘を取り上げられた時の事を…
私とて、忘れた事はない。
無理やり抱いてる胸から赤子を剥ぎ取られた時、狂ったように泣き喚く菜穂の事も…
一滴の涙も流さず、表情も変えなかったが、血の気が失せて、変色する程拳を握りしめて、いつまでも赤子の後を目で追い続けていた和幸の事も…
『愛ちゃん…』
赤子を愛しそうに抱いた愛の笑顔が脳裏を過ぎる。
決して望んでもうけた子ではないが…
今となっては世界の何者にも増して愛しい…
手放したくはない…
このままずっと、愛と赤子と三人で暮らしたい。
今更ながらに、あの時の和幸と菜穂の胸の痛みがよくわかる。
しかし…
和幸の口から出てくる言葉は、全く予期せぬものだった。
「僕だけ、幸せで良いのでしょうか?」
菜穂は、今度は希美を背負って駆け出した。
背中で、希美がケラケラ笑っている。
「幸せは、みんなで分かち合うもの。みんなが笑顔になれて、初めて、自分も本当の笑顔になれる。此処で暮らし始めて、そう思いました。」
「私もそう思うよ。だから、あの子達を幸せにしてやれ。希美ちゃんがいなくなったら、此処に戻り、ナッちゃんを待て。本気で愛してるなら、五年などあっと言う間だ。」
私が言うと、和幸は一層難しい顔をした。
「待てんのか?だろうな…私とて…」
「他の兎神子(とみこ)達は…」
和幸は、しばし考え込むように黙り込んだ後、重い口を開いて言った。
「あの子達以外の兎神子(とみこ)達にも、僕のような幸せを…」
「なるほど…君は、優しい男だな。安心しろ、アケちゃんやユキちゃん達の事もちゃんと考えてる。大した事をしてやる事は出来んが、皆の事も考えてる。」
私が言うと、和幸は大きく首を振って見せた。
「親社(おやしろ)様の兎神子(とみこ)達は、幸せですよ。」
「私の兎神子(とみこ)達が幸せ?」
「神領(かむのかなめ)には、大勢の兎神子(とみこ)達がいます。親社(おやしろ)様の預かる社(やしろ)以外にも…」
和幸は、しばし目を瞑っておし黙った。
河原の方を見ると、希美を背負って走り回っていた菜穂が、とうとうへばって座り込んでいる。
さすがに疲れたのであろう。
いくら希美の身体(からだ)が小さく痩せこけていて、箱車も軽い素材を集めて拵えてると言っても、子供一人乗せた木製の箱車を背負って走り回っていたのである。
菜穂は、箱車を降ろして座りこむと、更に途方に暮れ出した。
いつの間にか、中の希美がスヤスヤ眠りこけているのである。
これでは、降ろして元の箱車に組み立てなおす事が出来ない。
私が思わず吹き出しそうになると…
「親社(おやしろ)様、確か、黒兎は黒兎を解かれると、下級の神職(みしき)になれるのでしたね。犬神人(いぬじにん)に…」
和幸は、漸く心を決めたように重い口を開いた。
「それが、どうした?」
私は、思いもかけぬ問いに、頬がひきつるのを感じた。
「僕でも、なれるでしょうか?」
「何だと…」
「僕は、貴方と共に戦いたい…」
振り向く和幸の視線が、射抜くように真っ直ぐ私を見据えた。
「希美ちゃんや美香ちゃんのような子を…トモちゃんやサナちゃんのような子を、もう出したくありません。」
「だから、戦いたいと?三年前のように…紅兎として…」
「親社(おやしろ)様が、僕達を率いて下されば、この次こそ…」
その時、菜穂は救いを求めるような眼差しを向けている事に気付いた。
「行ってやれ。」
私が促すと、和幸は菜穂の方を見た。
「君の戦いは、あの子を支えてやる事だよ。」
「親社(おやしろ)様…」
「まずは、目の前にある大切なものをしっかり守り支えぬく事だよ。それができて、初めて隣にあるものにも手を差し伸べる事ができる。」
「ならば…」
暫し菜穂を見つめて押し黙っていた和幸は、また、私に射抜くような眼差しを向けてきた。
「愛ちゃんは…愛ちゃんが産んだ赤子は、どうなさるおつもりですか?」
「何だと?」
「三年前…皮剥の儀式を中止する事なく、おめおめと赤兎にされた愛ちゃんを、今度は指を咥えて聖領(ひじりのかなめ)に送られるおつもりですか?」
今度は、私が押し黙る番であった。
「目の前の大切なものと言われるのでしたら…愛ちゃんは、紛れもなく僕達みんなの目の前にある宝物…
いや、誰よりも親社(おやしろ)様にとって、一番大切な宝物の筈。百合さんと並んでね…」
「私の宝物…」
「惚けないでください。もう、ご存知なのでしょう?愛ちゃんが、親社(おやしろ)様を愛してる事。それに、親社(おやしろ)様も、愛ちゃんを愛しておられる。」
和幸はそう言うと、菜穂の方に向いて歩き出した。
菜穂は、気持ち良さそうに眠る希美を見て、途方に暮れた。
『まさか、こんな所で寝るなんて…』
菜穂は、起こしたくないなと思う。寝顔のあどけなさも可愛いが、何より、最近やっとよく寝るようになったのだ。
初めて出会った頃…
片時も離れず菜穂にかじりつく希美は、いくら寝かしつけようとしても、なかなか寝ようとしなかった。
余程、突然、智子にいなくなられたのが応えたのであろう。
そこに、菜穂がやってきた。
いや、戻ってきたと言うべきかも知れない。最近わかった事なのだが、菜穂に限らず、相手が誰でも、人の名と言うものを、希美はよく理解してないらしい。
二人の事は、お母さんとお父さんと言う理解の仕方をしている。
そして、同じお母さんと言う理解の仕方をしていた智子と菜穂の見分けができていないのだ。
もう、二度と離れたくないと言う思いから、菜穂から片時も離れようとせず、無理に離せば大泣きし、酷い時は、おもらしをした。
そして、眠っている間に何処かに行かれるのではないかと、全く寝ようとしなかったのだ。
それが、ずっと一緒にいられると知って安心しきったのか、よく眠るようになったのだ。
最も…
智子が連れてきた当初からのオネショの癖も、また復活してしまったのだが…
「さあ、希美ちゃんをおんぶして下さいな、お母さん。」
途方にくれてる菜穂の肩に手を乗せると、和幸は悪戯っ子のような顔をして言った。
「カズ兄ちゃーん…」
菜穂は、甘えるような声を出すと、唇を噛みしめる。
「全く…よくもこんなデタラメに解体してくれたもんだな…これ、箱車から背負子にするより、背負子から箱車に戻す方が難しいんだぞ。しかも、いくつか部品組み間違えてるし…」
和幸は、そこら辺に散らかされた、車輪や手摺などの部品をかき集めながら、ブツブツ言う。
「カズ兄ちゃーん、お願ーい。」
菜穂は、今度は両手を合わせて、何度もペコペコしてみせる。
「えっ?まさか、僕におんぶしろとか…言わないよね。」
和幸がすっ惚けた顔して首を傾げて見せると、菜穂はそのまさかのお強請りの仕草で、また拝み倒した。
「どーしよーっかなー…また、希美ちゃんに背中でお漏らしされて、僕がしたとか言われたら嫌だもんなー…」
「ごめんなさーい、カズ兄ちゃーん…」
菜穂は、今度は嘘泣きにベソをかく。
「しょうがないなー…それじゃあ、これ、戻ったらちゃんと治しておけよ。」
和幸が拾い集めた部品を菜穂に手渡して言うと…
「はーい。」
あのベソかきは何処に行ったと言う風に、菜穂はニコニコ笑って、部品の束を抱きかかえた。
「全く…これ作るのに、どれだけ時間がかかったと思ってるんだか…」
和幸はブツブツ言いながら、希美をおぶって歩き出すと、子守唄を歌いだした。
隣では、菜穂も一緒に歌い出す。
他愛ない子守唄…
誰が作詞作曲したとも知れぬ子守唄…
神領(かむのかなめ)では知らぬ者のない子守唄歌を聴きながら、何故か、早苗の事を思い出した。
人よりも発育が遅く、十五歳で十歳くらいの体躯をしていた少女…
だのに、月のモノだけは八歳そこそこで始まり、十歳で最初の子を宿して以来、毎年一人ずつ仔兎神(ことみ)を産んでいた少女…
穂供(そなえ)も、妊娠も、出産も、全てがただ苦痛であった。
人生の殆どは、痛い苦しいだけで、十六年の命を終えてしまった。
にも拘らず、早苗にとって、生きる事は喜びであった。
季節ごとの景色を見ては喜び、小さな生き物が境内に紛れ込んでは可愛がっていた。
何より、一月で別れが訪れる、自らの産んだ子一人一人を慈しんでいた。
一人産み終えては、三月と経たず次の子を宿していた早苗は、いつも大きく膨らんでいたお腹に向かって、話しかけていた。
今日は晴れた、今日は雨が降った…
今日は花が咲いた、友達と遊んだ…
早く産まれておいで…
優しい人達が待っている…
素敵な景色や美しい花が待っている…
何より、母さんが貴方の事を待っている…
この世は、いつも光り輝いているよ…
和幸が、最初に箱車を作ってやったのは、早苗にであった。
希美には、仔馬の形した箱車だったが、早苗には、兎の形した箱車であった。
外枠の板一面には、楓の模様が彫刻されていた。
早苗は、自分達が兎と呼ばれてる事を気に入っていて、兎が大好きだったのだ。
そして、赤ん坊の手みたいだと言って、楓の葉も大好きであった。
『もう!何で、タカ兄ちゃんばかり押してんのよ!』
早苗の世話役は自分だと勝手に決めつけていた親友の亜美が、怒って追い回す傍、貴之は御構い無しに、早苗を乗せた箱車を押して、走り回っていた。
『さあ、チビ!もう一っ走り行くぞ!それーーっ!』
『わあっ!早い早い!』
貴之が、更に速度を上げて駆け出すと、早苗は手を叩いて燥ぎ出す。
『もう!サナちゃん、まだ、身体(からだ)ちゃんと治ってないのよ!無理しちゃ駄目なのよ!サナちゃん、壊す気なの!この悪魔!ケダモノ!人で無し!』
後ろからは、更に亜美が怒鳴り声を張り上げながら、追い回し続けた。
誰もいなくなった河原に目を戻すと、あの時の情景がそのまま蘇ってくる。
『サナちゃん、常世でタカ君に甘えてるか?
いや…
甘えてるのは、タカ君の方か…
あいつは、本当は一番幼く子供だったからな…
むしろ、サナちゃんは見た目とは反対に、一番大人だったのかも知れない…
いや…
子供でも大人でもなく、母親だったのだろう…
常世で、タカ君の子供を産めると良いな…
仔兎神(ことみ)などと呼ばれぬ子…
自分の手で育てられる子…』
すると…
『私の事なんかより、愛ちゃんを幸せにしてあげて…』
何処からとなく、早苗の声が聞こえて来た。
『サナちゃんは、タカ君の事が本当に好きなんだね。』
愛が、皮剥の儀式を受ける少し前…
私は、境内で、早苗の乗る兎の箱車を推して歩きながら言った。
早苗は、貴之から貰ったと言う、下手くそな手作りの簪を大事そうに胸に抱いて顔を赤くした。
『そろそろ、良い返事を聞かせてくれないかな。』
『良い…返事…』
『拾里に行く話さ…このまま社(やしろ)にいて、神饌共食祭で穂供(そなえ)を続けたら、また無理な妊娠と出産を繰り返したら…命の危険に関わるんだよ。』
私が言うと、早苗は唇をギュッと噛みしめ押し黙った。
『拾里には、タカ君に送らせてやろう。タカ君に、この箱車を押して、連れて行って貰うと良い。それで、向こうで何日かタカ君と二人きりで過ごすんだ。』
私は、早苗の乗る箱車を押しながら、話し続けた。
『年に何度か、タカ君一人に見舞いに行かせても良い。それで、アッちゃんの見張りがない所で、二人水要らずで遊ぶと良いさ。
アッちゃんに内緒で、タカ君に抱いて貰っても良いんだよ。
一年に一度か二度くらいなら…
その分、しっかり療養につとめなければいけないけどね。』
早苗は、尚も何も答えず押し黙り続けた。
『拾里で療養しながら、たまに訪れるタカ君と、これまで産んだ子供達を待つと良い。
それで、元気になったら、また、タカ君との子供を産むと良い。もう、仔兎神(ことみ)などと呼ばれない子供、誰にも取り上げられない子供を産むと良い。』
すると、それまでジッと私の話に耳を傾けていた早苗は、ポロポロと涙を零し始めた。
『サナちゃん?』
『その拾里には、愛ちゃんを行かせてあげる事、できませんか?』
『愛ちゃん?』
『うん。愛ちゃんを病気だと言って、拾里に行かせてあげてください。』
『それは、できないよ。』
『どうして?』
『赤兎に兎幣されると決められた者は、どんな事があっても、兎神子(とみこ)を解かれる事は許されない決まりなんだよ。例え、どんな重い病を罹っても、最初の子供を産むまで、赤兎でいなくてはならないんだ。』
『私が…私が、代わりに赤兎になると言っても?』
『おいおい、何を急に…』
『私…どうせ、身体(からだ)ぼろぼろだし、そんなに長く生きられません。でしたら…』
『馬鹿な…君の身体(からだ)は治療と療養で必ず良くなるんだよ。二十歳までには大人の身体にもなれる。タカ君と結婚して、子供産んで…』
『お願い、親社(おやしろ)様。私は良いの…私の事より、愛ちゃんの事を考えてあげて下さい。
愛ちゃん、まだ九歳の子供だけど、親社(おやしろ)様の事が好きなの…愛してるの…
親社(おやしろ)様も、愛ちゃんの事が好きなんでしょう?
私には、わかります。いつか、愛ちゃんが大人になったらお嫁さんにされたがってる…違いますか?』
「どうなのかな…」
私は、今はもういない早苗に向かって、ポツリ答えて呟いた。
意識して考えてみた事などなかった。
愛をそんな風に見ているつもりは全くなかった。
あの子は、まだ子供なのだ…
ただ…
離れてみると無性に寂しい…
離れてみると無性に懐かしい…
離れてみて…
初めて掛け替えのない存在だった事に気付かされる。
そして…
もうすぐ失われてしまう時になって…
初めてその痛みを思い知らされている。
会いたい…
会いたい…
失いたくない…
私は、今にも叫び出しそうになった。
その時…
「親社(おやしろ)様、何考えらっしゃるの?」
だいぶ先を歩いていた筈の菜穂が、いつの間に戻ってきたのか、私の顔を見上げていた。
「何って…」
「当ててあげましょうか?」
「うん?」
「愛ちゃんの事でしょう?」
私が無言で見つめ返すと…
「図星ね。」
菜穂はそう言って、クスクス笑い出した。
「ねえ、親社(おやしろ)様は百合さんと愛ちゃん、どっちがお好きなの?」
「おいおい、何を急に…」
「ねえ、どっち?」
「どっちもこっちも…」
「あー、困ってらっしゃる。」
菜穂は言うと、またクスクスと笑い出した。
「社(やしろ)に戻ったら、希美ちゃんと一緒に愛ちゃんの赤ちゃん、箱車に乗せてあげましょう。それで、親社(おやしろ)様と愛ちゃんにも押させてあげる。」
「それは、楽しそうだね。」
「勿論、その前に私とカズ兄ちゃんが押すのよ。」
「良いとも。」
すると…
「ナッちゃん、何してるんだ?早く岩戸屋敷に戻るぞ。お昼に間に合わないじゃないか。」
相変わらず眠りこけてる希美を背負って、和幸も引き返してきた。
「さあ、帰ろう。グズグズするなら、屋敷まで希美ちゃんをおぶって貰うぞ。」
「はーい。」
菜穂は元気良く返事して、和幸の方へ駆け出した。
と…
和幸はまた、私の方を見つめていた。
あの射抜くような眼差しで…
『戦ってみるか…もう一度…』
私は、あの日、兎の箱車に乗っていた早苗に向かって言った。
『サナちゃんより愛ちゃんの事を思ってではない…
サナちゃんと愛ちゃん、二人の事を思って、もう一度戦ってみよう。』
だが…
『カズ君、君と一緒に戦う気はない。
君はもう、紅兎ではない…ナッちゃんの夫であり、希美ちゃんの父親なのだ…』
私は、いつまでも射抜くように見つめてくる和幸に、返す眼差しで答えて言った。
『君の戦いは、希美ちゃんを乗せた箱車を、何処までも押して行く事だよ。ナッちゃんと一緒にね。』
私の思いが通じてか通じずにか、和幸は漸く菜穂の方に向き直ると、クスクス笑いながら話しかけてくるその言葉に耳を傾け始めた。

兎神伝〜紅兎〜(6)

2022-02-01 00:06:00 | 兎神伝〜紅兎〜惜別編
兎神伝

紅兎〜惜別編〜

(6)重荷

「ナッちゃん、親社(おやしろ)様と何かあったの?」
岩戸屋敷を訪れ、数日経った夜。
希美を挟んで、布団に入ると、和幸は尋ねた。
「何もないわ。」
言いながら、菜穂は、希美の頬を撫でたり、軽くくすぐったりする。
希美は、今夜も、菜穂と和幸と川の字に寝られて、ご機嫌に笑っていた。
「そう?何か気まずい感じがしたよ。」
「気まずいんじゃないわ。私、怒ってるの。嘘つきだから。」
「嘘つき?」
「そう、大嘘つきよ。
それより、カズ兄ちゃんこそ何かあったの?時々、親社(おやしろ)様と何か変だわ。」
「何、親社(おやしろ)様が大嫌い…それだけさ。」
「大嫌い?どうして?」
「どうしてって…大嘘つきだからさ。」
和幸が言うと、菜穂はクスクス笑った。
「私も、あんな人、大っ嫌い!大嘘付きで、みんなを悲しませたり、寂しがらせるから。
その点…希美ちゃんは、お利口さんね。素直で優しくて、可愛くて、本当にお利口さん。」
菜穂が言いながら、希美の頬を撫で、顎の下を擽ると、希美はまたクスクス笑いだした。
やがて…
「やっと寝たね。」
菜穂は、隣で気持ち良さそうに寝息を立てる希美のおかっぱ頭を撫でながら、クスクス笑った。
「よっぽど、何処か行かれてしまうのが心配なのね。」
小さな希美の手は、まだ、両隣の菜穂と和幸の寝間着の袖裾を握りしめていた。
「何か、あの子を思い出すわ。
覚えてる?あの小さな手で、私とカズ兄ちゃんの指をギュッと握りしめていた事。あの時のあの手の感触、力強さ、忘れられないわ。」
和幸は、菜穂の言葉に聴き入りながら、希美の手を摩る。
希美の体は着実に弱っている。
にもかかわらず、その小さな手は、必死に離されまいと握りしめていた。
もし、この手を無理にでも引き剥がせば、忽ち、火がついたように、この子は泣き出すだろう。
忘れる筈がない。
菜穂との間に産まれた小さな命の手…
一月しか側にいられなかったけれど…
こうして、自分とその子と菜穂の三人で川の字になって寝た時の安らぎと幸福…
生きているって、こう言う事なのだろう…
この一瞬の為に、自分は生まれてきたのだろう…
しかし…
それは、永遠のものでない事を、赤子は既に知っていた。
もうすぐ引き離される事を知っていた。
だからこそ…
あの小さな手は、必死に離すまいとしていたのだ。
「お母さん…お母さん…」
希美は、寝言を呟きながら、クスクス笑い出した。
「この子ったら…」
ふと、菜穂は、夕暮れ時に、希美と和幸の三人で風呂に入った時を思い出す。
希美を真ん中に、縦一列になって、背中を流しっこした時、二人の背中を交代で流しながら、ケラケラ笑っていた。
菜穂と和幸が、代わる代わる希美の背中を洗いながら、腰や脇の下をくすぐったからだ。
そうして、散々笑いこけた希美は、湯船の中で、菜穂に抱かれると、その胸に顔を埋めて…
『お母さん…お母さん…』
と、呟きながら菜穂の乳房を弄った。
見れば、菜穂の乳首をジッと見つめ、唇をひくひくさせている。
『おっぱい、欲しいの?』
菜穂が頭を撫でながら問いかけると…
『うん。』
希美は菜穂の乳首に目を留めたまま、大きく頷いて見せた。
『良いよ。』
菜穂が額に頬擦りしながら言うと、希美は満面の笑みを浮かべて、菜穂の乳首を口に含んだ。
心地良い…
希美の唇と舌先の感触を乳首に感じながら、菜穂は思った。
十一歳の時、田打で和幸に抱かれて初めて男を知った。
以来、四年の間に二人の赤子を産んだ。
十二歳で初めて産んだ子は紛れもなく和幸との間に産まれた子…
二年後に産んだもう一人の子は、神饌共食祭の穂供(そなえ)でできた子で父が誰かはわからない…
しかし、菜穂は二人とも和幸の子だと信じ、一月で引き離されてしまったが、今でも愛しく思っている。
希美に乳房を弄られて乳首を吸われると、別れた二人の赤子を思い出す。
「私、この子と離れたくない…ねえ、この子、私の子にしちゃ、駄目?」
「何を馬鹿な…ナッちゃんは十五、この子は十…五歳しか違わないじゃないか。」
和幸は、おかしそうに笑いながら言った。
「サナ姉ちゃんも、十五で愛ちゃんにお母さんって呼ばせてたわ。」
菜穂は、少し口を尖らせていうと、また、希美の頭を撫で始めた。
「あの子達、元気でいるかな?大きくなったかな?この子みたいに病気してないかな?」
和幸は、何も答えず、天井を見つめた。手は、やはり袖裾を離そうとしない希美の手を撫でさすっている。
「あの子、取られちゃった…
次に産んだ子も取られちゃった…
愛ちゃんも、もうすぐ取られちゃう…この子まで、別れたくない…もう、手放したくない…」
菜穂はそう言うと、込み上げてくるものを堪え切れないように、シクシクと泣き出した。
和幸は、また、智子と過ごした日々を思い出す。
『カズちゃん、美香ちゃん、私達の子にしようよ…』
智子は、希美を美香と呼び続けていた。
敢えてそう呼んでいたのか、それとも、本当に希美を美香だと思いこんでいたのかはわからない。
ただ…
『美香ちゃん!しっかり!美香ちゃん!美香ちゃん!お母さんが助けてあげるからね!お母さん、ずっと側にいるからね!』
全裸で山中に投げ捨てられ、虫の息だった希美を拾って来た時…
雨に濡れた体を拭ってやると、冷え切った体を何日も自分の肌で暖めてやった。
『美香ちゃん、ごめんね!お母さんのせいで、こんな目に合わせてごめんね!もう、誰にも酷い事させないからね!お母さんが、守ってあげるからね!
だから、死なないで!お願い、死なないで!お願い!お願い!』
智子の不眠不休の看病の甲斐あって、希美は、数日後に目を開け、意識を回復して、粥も啜るようになった。
しかし、百合の下した診断は、胸の病が末期であり、もって数ヶ月であった。
岩戸屋敷に暮らす者の中に、たまたま希美を知る者がいた。かつて、同じ社(やしろ)で白兎であり、不治の病を患い山に捨てられた少女であった。
彼女の話から、希美と言う名の赤兎であった事がわかった。例に漏れず、社(やしろ)の中でも外でも、滅茶苦茶に弄ばれ、地獄のような日々を過ごしていた。
胸の病が発覚し、余命いくばくもない事が知れると、山に捨てられたのであろう。
希美は、和幸と智子に懐き、片時も離れまいと、まとわりつくようになった。
智子も、そんな希美を、とても可愛がっていた。
智子は、当初から、希美を美香と呼んでいた。希美も、ごく自然に、そう呼ばれる事を受け入れていた。
希美は、産まれて程なくして両親を失い、父母とも顔を全く知らない。
引き取られ先が、本当の親戚なのかどうかも定かではなく、希美と言う名も、誰がつけたのか、本当にそう言う名なのかもわからない。
わかっているのは、代々、兎神子(とみこ)を兎幣する兎神家(とがみけ)であった里親が、自分の娘の身代わりに差し出す為だけに、希美を引き取ったと言う事だけであった。
肉親の愛情を全く知らない希美は、産まれて初めて、肉親同然の愛情で呼びかけられる、美香と言う名を当たり前に受け入れたのだ。
『ねえ、良いでしょう?美香ちゃん、私達の子にしても良いでしょう?』
いつの頃からか、希美は、智子に抱かれては、『お母さん…』と呼んで、胸に顔を埋めては、乳房を弄るようになった。
智子が岩戸屋敷から帰ろうとすると…
『お母さん、行く!お母さん、行く!』
そう言って、泣いて智子を追いかけてきては、発作に倒れると言う事も度々になった。
そんな希美を見て、智子は希美を自分の子にしたいと言い出したのである。
和幸は、随分と迷った。親となると言っても、自分達が、まだ、二十歳少し前なのだ。とても、こんな大きな子の親になれるかどうか…
何より、希美はじきに逝く事は分かっていた。希美の最後を目の当たりにした時、智子が果たして耐えられるかどうか…
漸く、希美を美香と思い込む事で、美香の事から立ち直りかけていたのだ。
しかし…
『美香ちゃん、どうせ長くないわ…私達の子になっても、直に逝ってしまうわ。だったら、せめてほんの少しの間だけ、お母さんでいてあげたいの。あの子が常世に逝く時、笑顔で手を握ってあげたいの。』
智子の言葉を聞いた時、和幸は、希美を引き取ろうと決心した。
智子が急変したのは、その矢先であった…
「ナッちゃん、そんなに、その子のお母さんになりたい?」
和幸が、ふと振り向くと…
「希美ちゃん…お母さんとお家帰ろうね…優しいお姉ちゃん達といっぱい遊ぼうね…」
菜穂は、キミの肩を抱き、ブツブツ寝言を言いながら、自分も眠りこけていた。
「どっちが、子供なんだか…」
和幸は、プッと吹き出すと、希美と菜穂のはみ出した肩に布団を掛けてやった。
「やっと、眠ったみたいね。」
屋敷の縁に腰掛け、三人が眠る部屋の方を見つめながら、百合が言った。
障子越しに聞こえる、三人の声は、いつの間にか寝息に変わっていた。
「そうだね…」
私は、夜空を見上げながら頷いた。
空が、かなり白みがかっている。
「お兄ちゃんは、相変わらず殆ど寝てないでしょう。」
私は何も答えない。
「ねえ…
ナッちゃんと何かあったの?この前、一緒に花火をした時から、ずっと怒っているみたい。」
「何もないさ…」
今度は、素っ気なく答えた。
「そお?ずっと、お兄ちゃんの事を睨んでるわよ。
それでいて…時々、涙ぐんだりしてるわ。」
「だから、何でもないさ。」
「ははーん…さては、カズ君より先に、口説いたんでしょう?結婚しようとか…」
言いかけ、百合は慌てて口を噤んだ。
「ごめんなさい…その、お兄ちゃんは…」
「まあ、そんなところだ。僕は、あの子を犯そうとしたからね。」
私は、軽く笑いながら、菜穂が初めて社(やしろ)にやってきた時を思い出す。
白兎は、十一歳から稚兎(ちと)として田打を始める。早い話が、神職(みしき)達や神使(みさき)達、神漏(みもろ)達で、寄ってたかって犯すのだ。
その後、黒兎達を相手に、田打をさせる。
菜穂は、引き取られた時、既に十一を超えていた。
私は、田打部屋に連れて行くと、菜穂に着物を脱がせた。
当時から、色白で顔立ちも良かった菜穂は、まだ、殆ど乳房もない幼作りながら、とても美しい身体(からだ)を露わにした。
あの頃…
菜穂は羞恥心がとても強く、始終涙ぐみながら、恐る恐る一枚ずつ着物を脱ぎ捨てて行った。
『じゃあ、そこに寝て…』
全てを露わにした菜穂を寝台に寝かせると、作法に従い、まず頬を撫で、首筋から肩に掛けて摩り伝わせながら、胸の膨らみに触れて行く。
この時、神職(みしき)は決して兎神子(ことみ)を舐める事はしない。
玉串を払えば、誰にでも身体(からだ)を開く兎神子(とみこ)の身体(からだ)は汚れているとされているからだ。
特に、誰の穂柱でも咥えしゃぶる口は非常に汚れてるとされ、決して唇を重ねる事はしない。
田打の時、兎神子(とみこ)の身体(からだ)を舐めしゃぶるのは、神使(みさき)や神漏(みもろ)と言った神職(みしき)以外の和邇雨上層部であり…
或いは、同じ神職(みしき)でも、神人(じにん)もしくは坂者(さかのもの)と呼ばれる、奴婢に等しい下級神職(みしき)達…
そして、黒兎達の役目であった。
その代わり、神職(みしき)は、初めて社(やしろ)に兎幣された稚兎(おさなうさぎ)の全身を、嬲るように弄り回した後、口と表と裏の三つの参道を貫いて、破瓜を迎えさせるのである。
菜穂は、頬を触れられた瞬間から、硬く目を詰むり、肩を窄め、両掌を握りしめて震え出した。
その全身の強張りと震えは、首から肩、胸へと触れられてゆくごとに強くなり…
『お父さん…お母さん…お兄ちゃん…』
胸の膨らみに触れられるや、ポロポロと涙を零し出し…
『嫌っ…嫌っ…嫌っ…』
豆粒のような突起を摘まれ、膨らみを揉まれると、首を大きく逸らして、啜り泣きだした。
そして…
『足を広げて…』
爪先を逸らせ、硬く閉ざされた両脚を思い切り拡げ、まだ萌芽の兆しも見られぬ、薄紅色をした小さな神門(みと)のワレメに触れようとした刹那…
『やめて…やめて…お願い…もう…もう…やめて…』
遂に、声を上げて泣き出したのである。
「でも…お兄ちゃん、あの子に田打するの、やめてしまったのでしょう。」
「代わりに、カズ君に抱かせた。カズ君の手で、破瓜を迎えさせた。」
「二人に恋愛感情を抱かせ、恋人同士がそうするようにね…」
「同じ事だよ。それに…」
私は、菜穂が産んだ、和幸との子を取り上げようとした時の事を思い出す。
『お願い!この子、私に育てさせて!他所にやらないで!この子、私の子よ!私とカズ兄ちゃんの子よ!誰の子でもない!私達の子よ!お願い!お願い!』
兎神子(とみこ)が産んだ仔兎神(ことみ)は、天領(あめのかなめ)名家の里子に出される。それは、神領(かむのかなめ)の基本中の基本の掟である。そんな事、わかりきった上で、菜穂は和幸との子を産んだ筈である。
にも拘らず、菜穂は、産後の傷が癒えきらぬ身体(からだ)で、来る日も来る日も、私の足元に泣いて縋って、哀願し続けたのだ。
『私、何でもします!どんな事も我慢します!この子を取らないで…この子を何処にもやらないで…私とカズ兄ちゃんが、愛し合ってできたの!産まれてきてくれたの!この子、いなくなったら、生きて行けない!お願いします!お願いします!』
菜穂は、床に膝と額を擦り、哀願し続けたのだ。
それを…
「私は、カズ君との子を取り上げた…
愛し合うように仕向けて、子供を産ませた挙句、その子を他所にやった…
あの子を、犯したのと同じだよ。」
「なーるほど…ナッちゃんが怒っていた意味がわかったわ。」
百合は、戯けたように、それでいて寂しそうに笑いながら言った。
「そんな言われ方したら、私も怒っちゃうかも…」
私は、無言で百合に振り向き、首を傾げる。
「お兄ちゃん、そんな風に言いながら、本当は自分だけ傷ついて、苦しんでいるみたいに思ってるでしょう。自分の手だけ汚して、みんなには手を汚させてない気でいるでしょう。」
「そうだね…その通りかも知れない。私は、卑怯者だから…」
私が答えると…
「それよ…それが、みんなを苛々させて、怒らせるのよ。」
百合は、首を振りながら、ため息をついた。
「どうして、それは違う!とか…そんなつもりじゃない!とか…誤解だ!とか、言い訳してくれないのよ。自分を庇おうとしないのよ。誰かに慰めてもらおうとしないのよ。」
「私に、どんな言い逃れの道がある?どんな救いと許しの道がある?私の行先は、地獄しかない。」
私が言うと、百合は、固く目を瞑り、眉を顰めて見せた。
「なら、私も地獄行きね…」
「ばかな!」
私は、思わず声を上げた。
「君が、どんな悪い事をした!どんな罪を犯した!君は、こんな境遇にありながら、天女のような心を持って生きてきたじゃないか!今だって、自分も明日をも知れぬ病気をかかえながら、みんなを…」
「買い被りよ、お兄ちゃん…」
百合は、大きく被りを振って言った。
「覚えてる?トシさん、ハチさん、トミさん、三郎さん…」
忘れるものか…
顔が見る影もなく崩れ落ち、指や、手首、足首、腕や膝が溶け落ちてる彼らが、野垂れ死ぬ筈だった百合を必死に看病してくれていたのだ。
彼らがいなかったら、私は百合の死体にすら会えなかったかも知れない…
「私は、あの人達を実験に掛けて、命をつないだのよ!」
百合は、絞り出すような声を出して、言った。
目からは、とめどなく涙が溢れている。
「本当は、私が最初の実験台になる筈だった…
それを、こんなめんこい子を死なせないで欲しい…どうせ、こんな身体(からだ)で生きていても何も良い事はない…自分の代わりに、一日でも二日でも、この子を生かして欲しいと言って、トシさんは笑って最初の実験台になった。
ハチさんは、恩人のお兄ちゃんの恋人を死なせるわけにいかない。お兄ちゃんと幸せに暮らしてくれと言って、次の実験台になった。
トミさんは、どうせ自分は長く生きられない。だったら、この命を、新しい命に役立てて欲しいと言って、嬉しそうな顔をして実験台になった。
そして、三郎さんは…
私は、母様と一緒に薬草と医術の研究に没頭した。
たまたま、大勢居合わせた、元医師や元薬師の里人達を集めて、みんなで薬草と医術の研究に没頭した。
ここにいる人達の生きる意味を示したくて…生産性のない厄介ものだなんて思わせたくなくて…みんな、生きる価値、幸せになる価値がある人達だって示したくて、薬草と、ここに居る人達の病気を治す研究に没頭した。私と母様は、ここの人達の中で、最初の医師(くすし)と薬師(くすりし)になった。
そんな時…
鱶追社領(ふかおいのやしろのかなめ)で発生した疫病の特効薬の研究を、総宮社(ふさつみやしろ)に命じられた。
私は、必死になって、研究した。もし、その特効薬が完成すれば、岩屋谷を…拾里を、実験場ではなく、本当の意味での療養所にすると言われたから…
この研究が成功すれば、もう、誰も実験台にならずに済む。病気や障害があっても、その人の天寿を全うできると思ったから、必死に研究したわ。
でも、その特攻薬を完成させる為には、どうしても人の体で試す必要があると判断された。
私は、私の命を救ってくれた三郎さんを…私を救ってくれた人達最期の一人だった三郎さんを、実験で殺したのよ!」
「違う!それは違うよ、百合ちゃん!」
三郎は、百合が殺したんじゃない…
自分から、実験台にしろと迫ったのだ。
百合は、最後まで自分の身体(からだ)を実験に使おうとした。私が実験台になると言うのも拒絶して、自分の身体(からだ)で実験しようとしたのだ。
しかし…
『なら、オイラ、もう薬はなーんにも飲まないよ。恩人の百合先生が死ぬのを見過ごしにして、ほんの少しばかり、こんな醜い身体(からだ)で生きていて、一つも嬉しくねえもの。オイラ、先生が苦しんで死ぬの見たかねえ。親社(おやしろ)様が、愛する先生を死なせて悲しむ顔なんか見たかねえ。オイラ、もう病気の治療しねえ。御師(おし)様より先に死んだ方がマシだよ。』
三郎は、薬はおろか、水も食事も一切拒絶するようになった。
だから…
だから…
「お兄ちゃん、私だって、大勢の人を傷つけ、殺して、今日まで生きてきたのよ!みんなが、苦しみ、のたうち回って死ぬのを横目に生きてきて、今日、こんな安らかな毎日を生きているのよ!
そんなに、自分を虐めるんなら、私の事も罵ってよ!この人殺しって、責め立ててよ!」
「百合ちゃん…」
「みんな、どんな気持ちで生きてきたと思ってるのよ…トモちゃんも、カズ君も、ナッちゃんも…
お兄ちゃんは、卑怯よ!狡いよ!自分だけ、可哀想な人、苦しんできたような物言いして!ナッちゃんが怒って当たり前よ!」
百合は、そう言うと、両手で顔を覆って声を張り上げて泣き出した。
「すまない!百合ちゃん、すまなかった!」
私は、知らなかった…百合が、そんな思いで生きてきたなんて、一つも…
私は、百合を強く抱きしめた。
残酷な人体実験の場所であった拾里を、十年経つか経たないうちに、安らかな療養所に生まれ変わらせた。
幼い頃から、植物に詳しく、薬草の知識が豊富であった百合が、それを生かしてここまでやる。
正直、なんて子だろうと思った。ただ、可愛い子だとしか思ってなかった百合が、ここまでやってのけるとは、なんと凄い子だろうと思っていた。
しかし、その影で、どれだけ地獄を見てきたのか…
私は、一つも思いやってこなかった事に、今頃気付いたのだ。
次第に夜が明けて行く。
私と百合は、互いの肩を抱き合って、空を見つめた。
空は灰色をしている。
まだ、日が差し染める事はなさそうだ。
「ねえ、お兄ちゃん…」
百合は、不意に思い出したように口を開いた。
「希美ちゃんを引き取るって、本当?」
「本当だよ。
あの子に、トモちゃんは救われたんだろう?」
「ええ。希美ちゃんと出会って、美香ちゃんの事から、少しずつ立ち直りかけていたわ。あと少し元気に生きていられたら、トモちゃんの心の傷、完全に癒えたかも知れない。」
しかし…
その矢先に、智子の病状は悪化し、そのまま帰らぬ人となった。
希美は、智子が急に居なくなり、ずっと泣き暮らしていたと言う。その内、涙も枯れ果てたのか、泣かなくなると、今度は誰とも話さず、笑わなくなったと言う。
そこに、菜穂がやってきた。
希美は、菜穂の顔を見た途端、その胸に抱きついて大泣きした。
菜穂は、最初意味が分からず驚いたが、智子との経緯を知ると、ひたすら抱きしめてやった。
そのうち泣き止むと、菜穂が目の前で折り紙を折ったり、人形をこしらえるのを見て、ニコニコと笑い出した。
菜穂は、片時も離れまいとする希美と、毎日、遊んでやった。
希美は、見る間に元気になり、一日中、ケラケラ笑ってはしゃぎ続けるようになった。
これが本当に終末を迎えた病気の子なのかと思われるほど、よく笑い、喋り、たくさん食べて、皆を驚かせた。
恐らく、これが最後なのであろう。私達が帰れば、一気に容体は悪化して…
二度と会う事は出来ないだろう。
希美は、一人寂しく逝くのだろう。
「トモちゃんの恩を返してやりたい。
トモちゃんの代わりに、菜穂ちゃんに看取られて送ってやりたい。
母の温もりの中で逝かせてやりたい。」
「わかったわ。」
百合は、大きく頷いて言った。
「診断書は任せて。あの子は、完治したと書いておく。でも、他の社(やしろ)の兎神子(とみこ)を別の社(やしろ)に移すのは、また面倒なんじゃない?」
「いや…あの子がいた社(やしろ)は、既に別の赤兎を置いている。一社(ひとしろ)に赤兎は一人の決まりだ。あの社(やしろ)に、希美ちゃんの所有権は消失している。まあ…仮に消失していなくても、病気で弱った兎神子(とみこ)を、取り戻したがりもしないだろう。他に、生きの良い兎神子(とみこ)候補は幾らでもいる。
逆に、うちは、トモちゃんとサナちゃんの欠員分を補充しなくてはいけない。
もののついでに言えば…
希美ちゃんは、まだ十歳。十一になるまで、稚兎(おさなうさぎ)として田打する必要もない。
あとは、社領医師(やしろのかなめのくすし)の義隆と、奉行職の忠相、新次郎が何とかしてくれるだろう。」
何処からとなく、肌を刺す風が吹く。
掌に、白いものが落ちてくる。
一度やんだものが、また降り始めるのだろう。
「お兄ちゃん。」
立ち上がり、大きく息を吐く私の背中に、百合の声がかかる。
「重荷を背負ってるのは、お兄ちゃんだけじゃないよ。私も背負ってるよ。」
「百合ちゃん。」
「トモちゃん、カズ君、ナッちゃん、みんなもよ…
重荷は、一人で担ごうとするとすぐに潰れる。潰れれば、側で見てる人をただ傷つける。
でも、みんなで背負えば、ほんの少しだけ軽くなるわ。」
気づけば、あっと言う間に夜明けを迎えていた。
「おはようございます、百合さん。」
障子を開けるなり、菜穂は百合の顔を見て満面の笑みを浮かべた。
「おはよう、昨夜はよく眠れた?」
「はい、おかげさまで。」
見れば、相変わらず希美が菜穂の腕にへばりついている。
「やあ、ナッちゃん。」
私が声をかけると、菜穂は眉を顰めて目を反らせた。
「ナッちゃん。」
「私、怒ってるの。約束破って、百合さんが悲しむ事ばかり言うから…」
菜穂は、目線を反らせたまま言った。
「済まなかった。」
私が菜穂を真っ直ぐ見据えて言うと、菜穂は眉をしかめたまま顔を上げた。
「私が、何を怒っているか…わかっている?」
菜穂は声を震わせながら言うと、その目は次第に涙ぐんできた。
「わかっている…少なくても、自分ではそう思う。」
「私なら良いわ…私なら、幾らでも、傷つける事を言われても許してあげるわ。また、聞いてあげる。でも、他の人を傷つける事を言ったら…私、もう二度と許さないわよ。」
言いながら、菜穂の頬に涙が一雫流れ落ちる。
私は、小刻みに頷きながら、希美の側による。
「希美ちゃん、カズ君とナッちゃんが好きか?」
希美は、小首を傾げながら頷いた。
「ずっと、一緒に暮らしたい?」
今度は、満面の笑みで、大きく頷いた。
「よし、じゃあ、一緒に暮らそう!」
私が、希美の両肩に手を乗せて言うと、驚いたように、菜穂が振り向いた。
「親社(おやしろ)様…!」
「ナッちゃんはね、希美ちゃんと同じ兎神子(とみこ)何だよ。だから、ここで暮らせるようになるには、一度、社(やしろ)に戻らなくてはいけない。だから、暫くの間、うちの社(やしろ)に一緒に来て欲しいんだけど…来る?」
キミは、社と聞いて、一瞬顔色を曇らせる。赤兎として過ごした、別の社(やしろ)での日々を思い出したのだ。
「わかっている。でも、どうしても、ここで暮らせるようになるまでは、一度は社(やしろ)に戻らなくてはいけない。その間、側にいてやって欲しい。
三月…三月過ぎたら、ナッちゃんもカズ君も、ここに戻れるようにできる。そうしたら、三人仲良く、ここに帰れば良いさ。」
今度は、希美が満面の笑みで頷く傍で、菜穂と、後から顔を出した和幸が呆気にとらて私を見つめていた。
「もって…あと三月…」
私は、菜穂の肩に手を載せながら、耳元近く囁いた。
「この子がいる間、母親になった夢を見ろ。いつか、本当に自分で産んだ子を自分で育てる事が許される日に備えてな。」
菜穂は、もう一度私の顔を見つめ、ハラハラと涙を流すと、希美の小さな体を強く強く抱きしめた。
私が一息つき、百合を振り返ると、百合は大きく何度も何度も頷いて見せた。

兎神伝〜紅兎〜(5)

2022-02-01 00:05:00 | 兎神伝〜紅兎〜惜別編
兎神伝

紅兎〜惜別編〜

(5)拾里

岩屋谷奥深く入ると、冥府ヶ岳を背にして、一件の屋敷が建っていた。
岩戸屋敷…
岩屋谷に暮らす者達の中でも、完全療養を必要とする者達が暮らす所である。
庭先には、様々な花の木が植えられているが、今は皆枯れている。
新たな葉や蕾をつけるには、年越しの雪解けを待たねばならないだろう。
見れば、一人の老婆が愛しそうに木々の手入れをしていた。
「おやおや。カズ君、お帰りかい。」
「どうも。トヨさん、今日も精が出ますね。」
「いやー、ワシはこの子達だけが生きがいじゃからねー。早く、次の花、咲かないかねー。」
果たして、彼女がこれらの木々に花が咲くのを見る事ができるかどうかはわからない。
もう、内臓を侵す悪性腫瘍は末期状態なのだ。
それでも、彼女は次の花を楽しみにしている。
「トヨさん、お久しぶり。」
私が声をかけると…
「これはこれは、親社(おやしろ)様!お懐かしゅう!」
老婆は畏まって、平伏した。
「ほらほら、トヨさん、頭を上げて、ほら。」
私が、老婆の肩に手をやり、立たせようとすると…
「滅相もありません…ワシら、親社(おやしろ)様には、どれ程良くして頂いたか…」
老婆は、一層、深々と平伏した。
「何を仰られる、貴方達こそ、百合ちゃんにどれだけ良くして下さったか。さあ、さあ、頭を上げて、頭を…」
私が、なかなか頭をあげようとしてくれない老婆に困り果てていると…
「おばあちゃん、これ。」
菜穂が、隣でしゃがみこみ、可愛いおばあちゃんの手作り人形を差し出した。
「おやまあ、何て可愛いんだろう!」
老婆は、人形に向かってとも、菜穂に向かってとも知れず、感嘆の声を上げた。
「菜穂です。カズ兄ちゃんがお世話になりました。」
菜穂がぺこりと頭を下げると…
「いやいや、ワシの方こそ、カズ坊には…ふーん、あんたが、ナッちゃんかい。そーかい、そーかい。」
老婆は、貰った人形を嬉しそうに抱いたり撫でたりしながら、漸く立ち上がって何度も頷いた。
その時…
「お兄ちゃん。」
智子を預けて以来、一年ぶりになるだろうか…
懐かしい声が、私を呼んだ。
「百合ちゃん、久しぶり。また、大きくなった?」
「もう!ならないわよ。私を幾つだと思っているの!」
声の主は、そう言うと、鼻に皺を寄せて笑った。
何とも懐っこい笑顔…
あと数年で四十になると言うのに…
幾つになっても、変わらないなと私は思った。
幼き日、妹のように思っていた人。
そして、この手で無残に汚し、傷つけた人…
私が、人生で最初に出会った赤兎だ。
「カズ君、帰って来てくれたのね、良かった。」
百合は、女としては背は低くない。
それでも、一首は自分より身長のある和幸の頬を撫でて言った。
「本当に心配したわ。トモちゃんの後を追ってしまうんじゃないかと思ってね。」
和幸は、答える代わりに、眼差しを憂いに潤ませた。
「ナッちゃん、お久しぶり。」
「お久しぶりです。」
「カズ君、連れ戻してくれて、ありがとう。」
「そんな…私、何も…」
「ううん、貴方のお陰よ。貴方が来てくれたから…これも、愛の力ってやつかしら。」
百合が言うと、菜穂は少し照れたように頬を染めて首を傾げた。
「さあ、中に入って、みんな待ってるわ。」
智子が逝って以来、火が消えたように明るさの消えたと言う岩戸屋敷の食卓は、久しぶりの賑わいを見せていた。
十日近く行方を晦まし、智子の後を追ってしまったのではないかと思われていた和幸の帰還もさる事ながら…
思いもかけず、和幸が伴った客人達にも湧き上がっていたのだ。
「よくぞ、お越し下された…」
「ワシら…もう、生きて親社(おややしろ)様に合間見える事は出来ぬものと思うておりましたぞ…」
「この上は、いついつまでも…」
最初のうちこそ、屋敷の住人達は、爺祖大神(やそのおおかみ)その人が来たとでも言うように、恭しく私の周りを囲んでいた。
しかし、宴もたけなわになると、その関心は菜穂に移って行った。
「いやー、べっぴんさんだねー。」
「カズ坊と並ぶと、お内裏様とお雛様だー。」
「トモちゃんもめんこかったけど、ナッちゃんは、本当、べっぴんさんだー。」
菜穂は、周囲を取り囲んで口々に言う、おじちゃんやおばちゃん達の感嘆の声に、照れ笑いしながら、寝たきりの人達に食事を食べさせていた。
別に、誰に教わるわけでも言われるわけでもなく、菜穂はごく自然に、自分で食べられない住人の世話をしていたのである。
「ナッちゃんは、幾つなんだい?」
住人の一人が、菜穂に聞く。
「十五歳です。」
菜穂が答えると…
「へえ…トモちゃんより、五歳も年下なんだー…へえ…」
「何か、見た感じは、ナッちゃんの方が年上に見えるねー…」
「まあ、トモちゃんは背が小さかったし…
顔も少し丸っこくて、体付きなんか…胸はぺったんこで、十歳と言われてもおかしくなかったからねー…」
「でも、トモちゃんの鼻のホクロはちょっと色っぽかったぞ。」
住人達が、口々に言うのを菜穂はニコニコ笑って聞いていた。
「さあさあ、シゲ婆特性の芋汁だよー。煮込み大根もあるよー、たんと召し上がれー。」
皮膚が溶け崩れ落ちる重病を患った老爺・老婆達が、鍋いっぱいの汁物や煮物を持って来ると、声を張り上げた。
「こりゃー、豪勢だこと。」
まだ、四十そこそこだが、悪性腫瘍におかされ、余命数カ月の女が、感嘆の声を上げる。
「これで、魚の一品もあればなー。」
足を引き摺る若者が言うと…
「そうくると思ってな、見てくれ!」
顔半分崩れ落ち、左腕が丸々溶け落ちた五十絡みの男が、魚籠いっぱいの戦利品を自慢げに見せつけた。
「おー!」と、一斉に感嘆の声が上がる中…
「さばくのは、あたいに任せとくれ!」
子を産めず、しかし、難病に侵された為に異国に売られる事もなかった、元白兎の女が、調理場から顔を出して魚籠を受け取った。
「お母さん、美味ちい、食べる…」
屋敷に入るなり、菜穂にピッタリひっつき離れようとしない少女が、鼻をクンクン鳴らして言った。
胸を患い、あと三月と言われている、まだ十歳の少女、希美である。
「そうね、お腹すいたね、早く食べたいね。」
菜穂が言うと、希美はニコニコ笑って、大きく頷いた。
そして…
「タク爺特製茄子の糠漬けと、僕が漬けた蕪を持ってきましたよ。」
和幸が大きな盆を抱えてやって来ると、皆一斉に歓声をあげる。
「カズ坊、そんなのワシらに任せて、こっちこっち…」
殆ど原型をとどめぬ程、顔が崩れ落ちてる老婆が盆を受け取り促すと、そこらにいた連中は和幸を引きずるように、菜穂の隣に座らせた。
「おやまあ…これはなんと…」
「まるで…暮れと正月まで飛び越して、一足早い節句じゃないか…」
雛飾りのように並んで座る和幸と菜穂を染み染みと見て、皆、一斉に嘆息した。
ここでは、諸々の病に侵された者も、障害を負う者も、関係ない。
皮膚が溶け崩れてしまってる者でも、それを隠す者もなければ、それを見て気味悪く思う者もいない。
皆、等しく仲間であり、家族なのだ。
久し振りにやってきた私達を歓待し、雛人形のような菜穂に大はしゃぎしながら、食卓は更に更に盛り上がりを見せたのだ。
いつの間にか、雪は止んでいた。
薬草園のある庭先で、和幸と菜穂が線香花火に火をつけている。
うっすら積もる雪の中の花火も良いものだと、私は思った。
皆が次々に寝に入る中、胸の病で余命短い希美が一人、頑張って花火を眺めてる。
「はい、希美ちゃん。」
希美は、菜穂に線香花火を手渡されると、今にも頬が落ちてしまいそうな程笑った。
どうしても、和幸と菜穂と川の字で寝たいのだと言う。
「冥府ヶ岳の向こう側に、また一つ拾里を作ったんですって?」
縁に並んで、和幸と菜穂と希美を眺めながら、百合は私に言った。
私は、軽く頷いた。
「お兄ちゃんは、生き神様…皆、そう言ってるわよ。私もそう思うわ。
覚えてる?初めて私が此処にきた当初…此処は、生き地獄そのものだった。食べるものもなく、動けぬ者を世話する者もなく、病気を看る者もない…
皆、病死か餓死か…苦しみを免れる為に自殺するしかなかった。」
百合の言葉を聞きながら、私はこの地に辿りついた時を思い出した。
赤兎は、十二歳までに仔兎神(ことみ)を一人産まねばならぬと定められている。
しかし、赤兎が赤子を宿す事は滅多にない。
月のモノが始まるより先に御祭神を破かれ、子を産めない身体になる者が殆どだからだ。
十二歳を待たず、命を失う者も少なくない。
幽国神領(かくりのくにかむのかなめ)四千年の歴史の中で、度々、赤兎が子を成した事が、社(やしろ)の伝承を伝える古文書には記されている。
しかし、その殆どは、実際に赤兎が産んだ仔兎神(ことみ)ではない。
神領諸社(かむのかなめのもろやしろ)は、十二までに仔兎神(ことみ)を産ませた赤兎を、聖領(ひじりのかなめ)に献上しなればならない習わしになっている。
できなければ、面目が立たないばかりが、社(やしろ)の宮司(みやつかさ)は責任を問われて、罷免される。
その為、多くの場合、他の白兎が産んだか、兎神家(とがみのいえ)で生まれた子を、赤兎が産んだと称してる。
そうした中、百合は珍しく十二を前にして仔兎神(ことみ)を産み、青兎となった。
しかし、それは新たな地獄の始まりを意味していた。
聖領(ひじりのかなめ)でも筆頭格の根之神妣島(ねのかぶろみしま)、それも、聖宮社(ひじりのみやしろ)に献上された百合は、総宮社(ふさつみやしろ)にいた頃にもまして、絶え間ない穂供(そなえ)を強いられ、立て続けに何人も仔兔神(ことみ)を産んだ。
そして、最後に孕んだ仔兎神が死産した時、仔兎神(ことみ)を産めなくなった。
本来なら、異国(ことつくに)に売られるはずであった。
しかし…
売られる直前、百合は感染性のある病に侵されている事が発覚した。
最早、仔兎神(ことみ)を産む事もできなければ、異国(ことつくに)に売る事も出来なくなった百合は、密かに神領(かむのかなめ)に戻され、東洋水山脈の山林に捨てられる事となった。
私は、百合を探して、山々を彷徨い歩いた。捨てられた者達が集まると言う谷間谷間を目指して彷徨い続けた。
どの谷間も、悪臭漂う地獄そのものであった。
和邇雨一族に不要の長物と見なされ、捨て去られた者には、何一つ生きる術は与えられない。人里におりぬよう、童衆の忍達に厳しく見張られながら、餓死するか、病死するかを待つのみであった。
身動き取れぬ者は、誰にも世話されず、汚物を垂れ流し、皮膚病を患う者は、膿に塗れて野垂れ死であった。
そうして死んでいった者達も野晒しにされ、腐食と白骨化をひたすら待ち続ける状態であった。
漸く、百合を見出した岩屋谷も、そう言う状況にあったのである。
しかし、私は、そんな地獄の中で、一つの光明を見出した。
顔が崩れ、手足が溶け落ちる病を患う人々が、自分達の苦しみも顧みず、骨と皮ばかりであった百合を、必死に看病していたのである。
私は、もう一度抱きしめる事を夢見ていた百合を抱くより前に、彼らを抱きしめた。
「捨里(すてさと)…山地に捨てられた人々の集まる谷間は、そう呼ばれていたわね。
それを、拾里(ひろいさと)と呼び変えて、私達の楽園にしようとしてくれた。
お兄ちゃんは、神様よ。私達にとって、かけがえのない、神様なのよ。」
「神様なものか…」
私は、堪えきれず、吐き捨てるように言った。
山地を出て、総宮社(ふさつみやしろ)に戻った私は、母と共に拾里建設の構想を立てた。
捨里…
そう呼ばれてる、山地に棄てられた者達の集まる谷間を、療養所に変えようと企画したのだ。
元々、病人や障害を負った人々を捨てる捨里に療養所を建設したいと望んだのは母だった。
母は、昔から、子を産む道具として扱われ続ける兎神子(とみこ)達に胸を痛めていた。
兎と呼ばれ、人として見なされない子供達を救いたいと願っていた。
それができないなら、せめて、病に倒れ見捨てられた者達に最後の救いの手を差し伸べたいと望んでいた。
私は、その母の夢と願いに乗る形で、百合と百合を救ってくれた人々に救いの手を差し伸べたいと望んだ。
そして、兼ねてより、同じ思いを抱いていた、母の仲間達と共に実行に移そうとした。
当初、この構想に関心を示す者は殆どいなかった。
無論、金も労力も、全く支援は得られなかった。
山林に捨てられた者達は、何ら生産性のない者達であり、生かす価値も殺す価値もない者達であったのだ。
死のうと生きようと、誰もどうでもよかった。
そんな中、何故か、冷酷で知られる父が、私の話に乗った。
資金も提供すれば、惜しみない労働力の支援もしてれたのである。
しかし、父の目論見は、私とは大きく違っていた。
捨里の人々を、実験動物とみなしたのである。
父は、新しい医術や薬剤の人体実験として捨里の人々使う為に、私の企画にのったのだ。
捨里では、数々の残酷な実験が行われた。
人の命を救う為の実験ならまだしも、童衆が暗殺に使う猛毒や、密かに占領軍に依頼された、細菌実験や核実験としても、捨里の人々を使ったのである。
私は、捨里で行われる残酷極まりない実験を横目に見ながら、せめて、生きている間、安らかに暮らせる事を考える事にした。
彼らを実験ではなく、治療と看護をする為の医師(くすし)と看護師(みもりし)を派遣した。
仲間の技師達を送り込み、彼らが自活できるよう、田畑を切り開き、様々な作業所の建設も行なった。
彼らが自分の暮らしを築ける為の小屋を建て、一人で生きれぬ者達の為に、岩戸屋敷も建てた。
多くの人々が、残酷な実験で死んでゆく中…
皆、私を神の如く崇めるようになった。
「みんな、まだ知らないのか?ここで行われたのは、残酷な実験だよ。治療と称して、ここの人々を実験動物に使ったんだよ。」
私が、掠れる喉から、声を絞り出すように言った。
「そんなの、みんな知ってるわよ。」
百合は、穏やかな笑みを湛えて言った。
「最初から、みんな知っていたわ。それでも、あの地獄の中で野垂れ死ぬ筈だった私達に、生きる術、生きる意味を、お兄ちゃんは与えてくれたわ。みんな、生きていてよかったって思ったの。」
「やめろ…もう、やめてくれ…」
私は、拳を握り震わせた。
何故、憎まないのだ…
何故、罵声の一つも浴びせないのだ…
私は、そうされる事こそ相応しい人間なのだ…
「覚えてる?
私が漸く持ち越し、元気になった時の事…
私の病気が感染るのを気にして、お兄ちゃんに触られまいとしたら、こう言ってくれたわ。
『私は、君を抱く為にここに来たんだ。結婚してほしい。結婚して、心から愛する気持ちで、君を抱きたい…』とね。それと、こうも言ってくれた。『私と一緒に生きよう、一緒に死んで行こう。これからは、ずっと一緒にいよう。』ともね。あの時、私思ったの。もういつ死んでも構わないって…この言葉を聞く為に、産まれ、生きてきたのだと。」
「そう言って、私は、君達を踏みにじってきたんだ。弄んで来たんだ。赤兎だった君をおもちゃにしただけでは飽き足らず、こんな所に来てまで…
神様なもんか、悪魔だよ…」
すると、いつから聞いていたのであろう。
菜穂は、希美を和幸に引き渡すと、こちらの方にやってきて、百合にも線香花火を差し出した。
「百合さんもやろう。」
「良いわね。私も、線香花火大好きだわ。」
菜穂は、百合が花火を受け取って立ち上がると、ニコッと笑った。
そして、私の方を向くと…
「親社(おやしろ)様、約束忘れたの!嘘つき!」
眉を寄せ、思い切り睨みつけたかと思うと、叩きつけるように、私の手にも花火を握らせて、また、和幸と希美の所に戻って行った。