サテュロスの祭典

神話から着想を得た創作小説を掲載します。

サテュロスの祭典(7)

2022-01-01 00:07:00 | サテュロスの祭典
サテュロスの祭典

一瞬の煌めき

前回の続きとなりますが…
徹子さんの通われた学校は、高い理念に基づく教育方針から、子供達を前触れなしにいきなり素っ裸にして泳がせた話をしましたが…
それを言うなら、少女ヌードを撮影する写真家にも、美術写真家としての高い理念の元に撮影したのだと話しました。
では、その理念とは何であるか…
一言で言うなら、一瞬の煌めきを永遠に残すと言う理念です。
こう話すと、だったら別に裸でなくても良いではないか…
服を着ている少女を撮れば良いではないか…
裸を撮りたいなら、大人の裸でも良いではないか…
そう思われる方も少なくないでしょう。
別に、そう言う考えを僕は否定しません。
また、僕からすれば、そう思われるのなら、どうぞ、その方はそう言う写真を撮って下さいと返すでしょう。
或いは、そう言う写真を好んでみれば良いだけの話です。
しかし、その理屈で言うなら、徹子さんの学校とて同じです。水着を着せての水泳授業で、教育理念を遂行すれば良いだけの話です。
ただし…
ヌードモデルとなる少女には、嫌がる選択権がありましたが、徹子さんの学校に通われた子供達には、それこそそんな選択権はなかったと思われます。
また、後になって本当は嫌だったとヌードモデルをされた少女には言えましたが、あの学校の生徒達には、それを公で言う事はできなかったと思います。
あの学校は、確か私立であり、別にそこに通わせなければならないと言う決まりはありませんが、あの時代の小学生に、あの学校が良い、この学校が良いと言う選択権はたぶんなかったでしょう。
それこそ、親が決めた学校をに行くしかない。いや、そもそも、あの時代、学校に行かせてもらえるだけ、ありがたく思えの時代でもあった気がします。
学校に行く事さえできない子供が少なくありませんでしたから…
しかし、先に述べたように、少なくとも少女ヌード写真のモデルをするしないは、多くの場合、モデルとなる子供達と長く交渉をして決めたと聞きます。交渉に何ヶ月もかかる事もあれば、納得したはずの当人が、土壇場で泣いて嫌がり、中止となったケースも聞きます。
『少女アリス』のモデルで有名なサマンサさんは、十四歳の時、同じ写真家のモデルを務める際、ヌードには絶対ならないと言う約束で承諾したと言う話も聞きます。
選択権の有無の話はこのくらいにして…
では、何故、敢えて少女のヌードなのか…
それが、その子の一番美しい時の、一番美しい姿だからです。
少女は、幼ければ幼い程、何も身につけてない姿、生まれたままの姿が最も美しい。
しかも、それは、容姿風貌に左右されない。
どんな顔をしていても、どんな体型をしていても、幼なければ幼い程、ただ、裸になるだけで美しい。
極端に言えば、最も美しく、愛らしく、愛しいのは、生まれたての赤ん坊ではないでしょうか?
赤ん坊は、どんな服を着せられるより、裸で手足を元気よく動かし、ケラケラ笑ってるのが一番美しく、可愛く、愛しい。
理由としては、少女の裸体には、混じり気の無い清らかさ、無垢さ、純粋な輝きがあるからだと思います。
その子が、実際そう言う子であるかどうかは余り関係ありません。
少女と言うと、恥ずかしがり屋で、素直で、純真可憐な存在を想像しがちだが、実際は違う。
少女ほど、ずる賢くわがままで、自分の可愛らしさを熟知して大人を翻弄し、泣いたりぐずったり拗ねたりして、何でも自分の言う事に従わせたがる、世にも邪悪な一面もあります。
だから、少女は女神や天使ではなく、妖精や小悪魔に擬えられたりもします。
しかし、そんな内面など関係なく、裸になれば、皆、無垢な天使に変化する。
まるで、近世ヨーロッパの神話や聖書を描いた絵画に登場するような、女神や天使や妖精に変身します。
実に神秘で神聖な輝きを、裸になった少女だけが持っているのです。
しかし、その美は期間限定に過ぎません。
少女が、容姿風貌体型にかかわらず、裸になれば無条件で美しくあれるのは、僕の中では十二歳か十三歳まで…
よくて、十五歳までかと思います。
十五歳を限りに、歳を重ねる毎に、生まれたままの姿で美しくいられる者は、それこそ、容姿風貌体型に左右されてしまい、限られた者となってしまう。
更にある年齢を過ぎれば、特定の人を除いて、裸でいる事が羞悪でしかなくなり、老婆に至っては、どんなに容姿に優れていても、服を脱げば一発で醜くなってしまう。
裸になるだけで、裸でいる事が、限りなく美しくいられるのは、人生八十年と仮定して、その中の十二年~十五年だけだと僕は思います。
これは、価値観の相違としか言えませんが、少女を裸にするのは可哀想どころが、容姿風貌に関係なく、裸を誇って見せられるのは、十二年~十五年と言う短い期間を生きる少女だけの持ちうる特権だと、僕は思います。
この限られた時間しか与えられていない、少女の最も美しい姿を、たかだか十二年~十五年と言う短い期間で終わらせず、永遠に残しておこう…
一瞬の煌めきを、一瞬で終わりにせず、永遠に残そう…
これが、十二歳以下、十五歳以下の少女に絞って、ヌード写真を撮影したい、して欲しいと言う僕の理念でく。
ヌードを撮られた少女達が可哀想?
とんでもない。
無理やりモデルにされた方は、なるほど、無理やり徹子さんの通われた学校で、いきなり裸で泳がされた子供達と同じくらい可哀想だと思います。
しかし、自分の意思も尊重され、納得理解して撮影された少女達は、むしろ羨ましいとさえ思います。
僕にも妹や娘がいたなら、本人が嫌がらなければ、あの素晴らしい写真家達に、ヌード写真を美しく撮って欲しかったと思います。
或いは、僕自身に撮影技術があれば、僕自身の手で、妹や娘達の、最も美しい時代の、最も美しい姿を撮影したいと思います。
むしろ、裸にする事される事事態が、加害者被害者と言う見做され方をし、短い間にしか残せないヌード写真を残すチャンスを全く失ってしまった、今の少女達の方が、僕に合わせれば、表現の自由を奪われた可哀想な子達に思われます。
同時に…
僕が、ここはもう、はっきり言う。時代と周囲に追い詰められるようにして、捨ててしまった少女のヌード写真を、全て集め直したい。更には、あの時手に入れる事ができなかった少女のヌード写真も一つ残らず手に入れたい。
その理由は、こんな時代だからこそ、あの時あの瞬間、最も美しい姿を残された、少女達の写真を大切に保管し、後世に残したいのです。
とは言え…
少女のヌードは、全て性的虐待、ポルノ被害だとゴリ押しされ、そうでないと言う方を、変質者、犯罪者、病人扱いされる方々と僕は違います。
そう言う方々に対して、いや、あれは少女の最も美しい姿を永遠に残したいと言う、少女愛に基づく撮影なのだと言う理念を、そう思わない事が遅れてると野次る気もなければ、僕の考えをゴリ押しし、此処で大いに遣り合う気もさらさらありません。
あくまでも、これは僕一個人の主観として、こう思う。こう言う理念のもとに、かつて世に出た全ての少女ヌード写真を手に入れ残したい、また、新たに時代が変わり、世の価値観が変わった時、新たな少女ヌード写真を世に出して欲しい、僕自身の手でも世に出したいと望んでいると話しておこうかと思います。

サテュロスの祭典(6)

2022-01-01 00:06:00 | サテュロスの祭典
サテュロスの祭典

ヌードは表現、モデルはプロ

率直に言います。
僕が今、最も望む事…
いや、必ず実現させる事を目指しているのは、児童買春と児童ポルノの規制緩和され、かつて発売された少女ヌード写真集が再び店頭に並ぶ事、新作の発表です。
特に、力武靖さんの撮影による、十二歳以下の少女の完全ノーカット無修正ヌード写真の新作発表を望んでいます。
そして、少女ヌード写真家として復活を果たした力武靖さんと共に、僕自身も十二歳以下の少女ヌード写真の撮影する日を夢見ています。
理由は、率直に言って、僕が見たいの一言につきますが…
それは、料理人が料理をつくる究極の理由は、うまいものを食いたいのと同じかと思います。
僕もまた、この世で最も美しい、十二歳以下の少女ヌードを見たいから、新たな写真集を発表して欲しい。単に写真だけでなく、実物をこの目で見て、触れて、間近にした感動を残したいから、自分でも写真撮影と作成に携わりたい。それも、少女ヌード写真家として、最も憧れ、尊敬している力武靖さんと共に、そうしたいと切望しています。
その上で、僕は一つはっきりさせておきたいのは、ヌードは強制でない限り、虐待ではなく、表現だと言う点です。
この表現を、猥褻と見るか、芸術と見るかは人それぞれであると思います。
僕は、真に表現の自由を愛する者であります。
ヌードは虐待、AVは女性の権利侵害、断固、撲滅を叫ばれてる方々のように、自論を世論としてゴリ押しする気は毛頭ありません。
まして、AV女優に誇りを持ってると言う女性に、社会正義と女性権利を振りかざして、よってたかってそんな筈はない、こんな事して嬉しい筈はない、正直に言って良い、本当は嫌なのだろうと、よってたかって責め立てるような高慢な物言いをする気もさらさらありません。
少女ヌードモデル、本当は嫌だった、親に半ば強制されて仕方なくやった、恥ずかしくて辛かった…そう、おっしゃられる方がおられたら、普通に同情し、胸を痛めます。
黒柳さんの小説の影響で、彼女の通われた学校が素晴らしい教育だったと言われても、彼女の学校で、いきなり素っ裸で泳がされ、嫌だったと言う方がいらっしゃれば、その方に同情するのと同じに…です。
その上で…
しかし、黒柳さんのように、あの学校で素っ裸で泳いで楽しかったと言われる限りに置いて、あれは立派な教育であったように、自分は仕事としてヌードモデルを務めたのだと言えば、これは立派な表現だと、僕は思います。
ここで…
窓際のトットちゃんの小説を読み、いきなり子供を裸で泳がせると言う箇所に、なんら疑問を感じない方々が、ヌードモデルと言った途端に、速攻、大人の強制、虐待になってしまうのかが、僕には理解に苦しみます。
失礼…
ここで、黒柳さんの学校は素晴らしい教育だが、少女ヌード写真は虐待・犯罪だと思われる皆さんには、その理由について、くどくど、コメントに寄せて頂かなくても結構です。
別に、僕は説明も求めてなければ理解する気もなく、まして、反対意見の方々とネットで議論を費やす労力は極力惜しみたい。なので、僕と真っ向から相反するご意見の方は、どうぞ、僕のブログをいくらでも引用され、ご自身のブログなり、SNSで盛大にお書き頂きたい。出来れば、その際には、僕の記事のURLを提示される事もお願いします。
どのような形であれ、僕の記事の宣伝につながるなら、ありがたい話でもあるからです。
前置きが長くなってしまいましたが…
僕は、少女ヌードモデルは、全て強制、虐待とみなすのは乱暴だと考える根拠。更に言えば、望んでヌードモデルをやりたがる少女がいるわけがないと考えるのは違うだろうと考える根拠。
それは、SNSで、規約を破ってまで、自画撮りのヌード写真を掲載する中学生少女が相次ぎ、問題になった事を挙げられるかと思います。
かく言う僕も、中学生には遭遇した事ありませんが、女子高生で、自分のヌード写真を美術写真として掲載された方と交流を持った時期があります。
これ、児童ポルノ被害の多発化を問題視された方々が、被害者と加害者が同一人物である事に苦しまれてるのを見て、僕は爆笑してしまったと言う話でも書いたかと思いますが…
被害者と加害者が同一人物で苦しむなんて、馬鹿でないだろうかの一言に尽きます。
児童ポルノを虐待などと言う思考停止な見方で捉えるから苦しむのであって、猥褻な有害写真とみなすなら、猥褻な有害写真を、公共の場で公表したと言う理由で、自画撮りだろうと他者撮りだろうと、取り締まれば良いだけの話だからです。
ヌードを虐待と見るか見ないか…
これは、あくまでも強制されたかされなかったかの一言につきると僕は思います。
強制されて辛かった、嫌だったと言って仕舞えば、ヌード撮影も、黒柳さんの学校で素っ裸で泳がせる事も、立派な虐待だと思います。
対して、自分も納得をしてモデルを務めたと言うなら、ヌードモデルは被害者でも何でもなく、立派な表現であり、楽しかったと言うなら、黒柳さんの学校で素っ裸で泳がせるのは教育です。
この点だけは、はっきり抑えておきたいと、僕は思うのです。
その上で、SNSで自画撮りのヌード写真をアップし、事件に巻き込まれる中学生少女達に対して、
それこそ僕は率直に思います。
そんなに脱ぎたいなら、もっと言えば、自分の裸に自信があるのなら、少女ヌード写真のモデルになれば良いと…
僕は、ヌードは表現と言いましたが、一度その表現を公に発表するからには、遊びではない事を、少女達には是非、学んで頂きたい。
ヌードに限らず、僕の記事からして、一度世に公表してしまえば、本人の意図とは関係なしに、様々な受け取られ方をします。
僕の記事について言えば、僕の想像を遥かに超えて、多くの読者に強い影響を与え、うまくゆけば社会変革を促し、悪くすれば社会問題となる可能性もあります。
どちらの結果を招いたにせよ、そのような影響を与えてしまった以上、僕の責任は決して小さなものではないでしょう。
ヌード表現もまた、然りです。しかも、美術として表現してすら、よくも悪くも猥褻に受け止める方々がおられるのが、ヌード表現です。
SNSで遊び半分に発表すれば、事件に巻き込まれるのは、当然覚悟しなければならない事でしょう。
極端に言えば、実は、中学生であろうと、小学生であろうと、したいなら、男女の行為オッケーだと言う考えでもあります。
相手が親子程離れた大人でも、同じ年頃の子供でも、やりたいならやれば良い。動機も、恋愛感情からであろうと、遊びからであろうと、金欲しさからであろうと、僕は別に構わない。むしろ、フリーダムにしてやった方が、そのフリーダムの仕方にもよるが、かえって、犯罪事件を自然体で少なくできると、僕は思っています。
この話をしてしまうと、長くなるので別の機会にしますが…
ここでは、中学生であろうと、小学生であろうと、裸を公表するのも、男女の行為をするのも、基本、自由だと僕は考えていると言う点だけ、押さえておきたい。
ただ、それが良いことか悪いことか…
ではなく、良くも悪くも、した結果に対しては、大人であろうと子供であろうと、必ず責任が伴うのだと言う事は、しっかり理解してやって欲しい。
また、大人達も、自分達の価値観ゴリ押しで、あれをするのは良い事で、これをするのは悪い事と言う決めつけを教えるのではなく、やった事には必ず責任が伴い、その責任から免れる事は誰もできないのだと言う事をこそ教えるべきであろうと思います。
今の社会、やたらと子供と老人を真綿で包むように過保護な扱いをして、した事の責任と言うものを教え認識させる事をかなり怠ってる気がします。
そもそも、僕は、した事の結果に責任を負えるのなら、この世にやってはいけない事など何もない。殺せば、殺した相手の近しい者から、盗めば盗んだ者から、遺恨を抱かれて、必ずその報いを受けさせられる。その報いを逃れる事なく甘んじて受ける覚悟があってするなら、極端に言えば、殺しても盗んでも、その行為に嫌悪感を感じるが、善悪の評価を下せるものではないと思っています。
話は飛んでしまいましたが…
芸術か猥褻の評価は永遠の議論、テーマとなりますが、どちらにしても、ヌードは立派な表現…
まして、僕は十二歳以下の少女のヌードを愛好する者であります。
SNSで裸を公表したいならすれば良いし、ただで見せてくれると言う奇特な方な少女がおられるなら、是非、僕に見せて頂きたい。更に言えば、僕に言って頂ければ、カメラだけはそれなりに良いカメラを持ってるので、もう少し綺麗に撮れるかと思うので撮らせて欲しいし、男の生理現象を満足させてくれるなら、更にありがたい話であります。
ただ…
少女のヌードを愛好する者であるからこそ、ヌードと言う表現を、いい加減な気持ちでやって欲しくはなく、その表現を大切に扱ってほしい。また、その表現を公表した結果に対する責任の重さを自覚して欲しい。
そこでまた、僕は思います。
やはり、少女ヌード写真と言う表現は、解禁するべきではないか。
勿論、僕は愛好者だからこそ、規制は必要だと思います。
ただし、僕の言う規制とは、表現そのものに対する規制ではなく、モデルとなる少女の権利を守る為の規制です。
絶対強制はしない事、親をはじめ、周囲の者にも強制させない事。必ず撮影内容を事細かく説明し、親ではなく、本人の同意を必ず得る事。途中、本人が嫌がる事はさせない事。報酬は、親や保護者にではなく、必ず本人に支払う事。こうした、モデルとなる少女の権利を徹底して守る為の規制が、僕の考える規制です。
そうした規制を守らせた上で、僕は少女ヌード写真を解禁し、SNSで裸を公表したがる少女達に、金にも何もならず、悪質事件に巻き込まれるリスクだけのSNSではなく、堂々と少女ヌード写真モデルを務め、きちんとした契約の元に報酬を手にして欲しいと思います。
僕がそうして欲しい理由は、何度も言うように、僕が見たい…その一言につきます。
しかし、同時に、少女ヌードを愛好する者だからこそ、まず、美しく少女ヌードを表現して欲しい。そして、少女ヌード表現を通して、多くのものを手にして欲しい。
正当な報酬を受け取って欲しい。正当な評価を受け、望むならモデルの道、芸能の道へ進む為のステータスにして欲しい。モデルや芸能でなくても、モデルと言う一つの仕事を達成して、報酬を得る事で、将来、どんな道を歩むにしても、この経験を大いに活かして欲しい。
しかし、何より、ヌードは遊びでも悪戯でもない事をきっちり学んで欲しい。
僕は、猥褻と評価するも、芸術と評価するも自由ですが、ヌードは表現であって、それ自体は虐待ではない事を口説いほど言い、これからも言い続けるつもりです。
同時に、SNSで自分のヌードを公表される少女達には、ヌードは決して遊びや悪戯ではなく、表現である事を学んで欲しい。公表したからには、猥褻・芸術の評価を含め、その結果に大きな責任が伴う表現である事を理解して欲しい。
そして、金を貰うからには、プロなのだと言う事も忘れないで欲しい。
SNSでヌードを公表される少女達の動機は、とどのつまりは、猥褻な下心を抱く大人を釣って金にする事。僕は、良いと思います。身体を売って金をせしめるもよし。鼻の下長くした大人に写真を売りつけて金にするも良し。結果に責任負う覚悟があるなら、何でもすれば良いでしょう。しかし、裸であれ、身体であれ、売って金をせしめたからには、プロである事だけは忘れないで欲しい。
プロとしてそうするなら、半端な気持ちでやって欲しくない。
もし、少女ヌード写真のモデルとして表現したいなら、報酬を得たいなら、自分ではイケてると思ってるヌード姿も、まず書類選考で、オーディションで、更にモデルとして突き付けられる様々なポーズで、厳しい評価が下されるでしょう。
ヌードモデル世界の道も、決して半端な厳しさでない事を、身をもって学んで欲しい。
その為にも、僕が見たいから…と、言う理由だけでなく、どんな意図であれ、裸の表現をしたがる少女達に、堂々と表現して良い場を与えて欲しいと切に望みます。
そうする事で、SNSと言う一つ間違えれば、犯罪の温床となる危険な世界で、規約を破ってまで自分のヌードを公表し、厄介な事件に巻き込まれる少女を減らす結果になる…
僕は、そう考えています。
最後に、安易にSNSで自画撮りヌードを公表される少女達に言いたいと思います。
もっと、自分に誇りを持ち、自分を大切にした上で、公表して欲しい。
決して、そう言う真似をするな…などと言う気はありませんが、公表するからには、公表する自分と自分の作品に誇りを持ち、大切に扱って公表して欲しいと願います。
公表したからには、必ず責任が伴うと共に、それは立派な作品だと言う事を忘れないで欲しい。
安易な気持ちでやって欲しくはない。
いい加減な気持ちで、小遣い稼ぎや検索数稼ぎ、炎上目的にやれば、必ず手痛いしっぺ返しをくらう。
それは、YouTubeの動画やSNSの発言記事と全く同じだと言う事を忘れないで欲しいと思います。

サテュロスの祭典(5)

2022-01-01 00:05:00 | サテュロスの祭典
サテュロスの祭典

窓際のトットちゃんは児童ポルノ

まず、誤解を招かぬよう、お話をしておくのですが、僕は、介護従事者でもあり、二つの難民支援団体のサポーターでもあります。
黒柳徹子さんの事は大変尊敬をしておりますし、彼女の名作『窓際のトットちゃん』と言う作品は、実に素晴らしいと思っております。
また、彼女の人生に大きな影響を与えた、彼女の母校の教育には深く感銘も受けております。
その上で、これからお話する事を、お聞き頂きたいと思います。
僕は、少女ヌードは、ヌードにされた少女が可哀想だから、ポルノ被害者だから、絶対悪であり、虐待だと言うのなら…
いや、大人の思惑で少女を裸にする事が虐待であり、それを描く事、表現する事が児童ポルノだと言うのなら…
窓際のトットちゃんに登場する、黒柳徹子さんが通われた学校の水泳授業は、明らかに児童に対する性的虐待であり、あの学校を描いた窓際のトットちゃんなる小説は、児童ポルノ以外の何者でもないと思います。
少女を裸にして描いた物は、漫画であろうと小説であろうと、所持しただけで処罰せよ…
と、一部過激な児童ポルノ撲滅主張者は仰れているそうですが…
ならば、窓際のトットちゃんなる小説を所持するものも厳罰に処することを僕は勧めます。
少女のヌード写真は、裸にされた少女が可哀想だから絶対許せんと息を巻き、かつてモデルにされた少女が、泣きながら嫌だったと言う証言を、泣きながら話していた方が、同じ口で『窓際のトットちゃん』と言う小説の話を素晴らしいと熱く語ってくれた事があります。
語っただけでなく、その小説の中で感動した箇所を、熱心に読み聞かせてくれた時もあります。
その感動した箇所の一つが、この子供達を素っ裸にして水泳授業をさせる箇所でした。
しかし、僕から言わせれば、その方は非常に矛盾していると思います。
何故なら…
この水泳授業の箇所は、ある日、いきなり予告もなしにプールに入ると子供達に告げる場面から始まりました。
その時、子供達が、水着を用意してない事を告げると、必要ないと先生は言い、その場で素っ裸になって泳ぐよう子供達に告げます。
子供達は驚き戸惑いますが、先生にそう言われたので、そのまま素っ裸になって泳いで、徹子さんはとても楽しかったと書かれていましたが、子供達の中には、最初は恥ずかしがって、泣いて嫌がった子がいる事も描写されていました。
しかし、周りのみんなが言われるままに裸で楽しそうに泳ぐのを見て、勇気を振り絞って一枚ずう服を脱いで裸になるうちに、恥ずかしさが消えてゆき、気づけば、皆と素っ裸で楽しく泳いでいた事が、実に叙情的、感動的に描かれているのです。
あれは、あくまでも、あの学校で開花され、楽しい思い出に満ち溢れた徹子さんの視点で書かれた小説だから、そう言う描き方になるのでしょう。
しかし、それこそ、少女ヌードは絶対悪だと決めつけて取材された方が、同じ論調で、嫌だっただろう、嫌だっただろうと、卒業生一人一人をしつこく取材したならば、嫌だった、あの学校で、裸で泳がされたのが未だに苦い思い出になっていると言う子だっていたかも知れません。
また、あの本の中には、子供を裸で泳がせることに反対して、水着を持たせたが、その水着を着る事をさせずに裸で泳がせる、その事を隠す為に、水着をずぶ濡れにして持ち帰った子供達の描写もあります。
その子達も、親は嫌がっていたが、当人はとても裸で泳ぐのを楽しがり、その事が親にバレたら学校に行かせてくれなくなると言う思いから、そうしたと書かれているが、これも徹子さんの視点でです。
本当は、最後まで、裸で泳ぐのが嫌で嫌でたまらなかった子達もいたかも知れません。
こう話すと…
いや、あの時の卒業生の中に、そんな子はいなかった。実際、徹子さんの同級生は、みんな楽しかったと証言していると言うかも知れません。
しかし、それも、徹子さんの小説が有名になり、素晴らしい教育方針の学校として取り上げられたから、そう証言してるだけと言う事はありえないでしょうか?
これは、あくまでも僕の憶測に過ぎません。
実際、この時、水泳の授業を受けた当時の生徒一人一人に取材確認をしたわけでもなく、また、今後も、少女ヌード絶対悪を主張される方々のように、嫌だった子探しを見つけ出して、鋭く迫って証言などは求める気もありません。
ただ、たまさか、徹子さんの本はベストセラーとなり、本に登場した学校教育が、素晴らしいと評判を呼んだから、あの時の水泳授業を、楽しかったと証言される方はいらしても、辛かったと証言される方はいない…
そう考えた時…
逆に、僕は思います。
もし、少女ヌード写真が、美術として社会的高い評価を得て国際的な写真賞をそうなめしたとします。モデルとなった少女も、そのモデルとして高い評価と人気を得て、輝かしいモデルスターとなれたなら、あらゆるテレビ番組に引っ張りだことなり、ヌード以外にも数々のモデルや、女優、歌手デビューまではたしたなら…
そして、日本を代表するモデルや女優となり、世界的に高評価を得た少女ヌード写真のモデルを務めた事が話題となる度に、その輝かしい経歴の一つとして、常に称賛の声とともに、とりあげられたなら…
その写真家が、単に少女ヌード撮影家としてでなく、多くのモデル達を育てる育て方だの、後押しだの、モデル達との交わりだのが高評価を呼び、人間的な素晴らしさが讃えられてしまったなら…
本当は、その写真家のヌードモデル、最後まで嫌だった子も、嫌だったなどと名乗り出てはこなかったかも知れません。
いや、その写真家のモデルに一度でもなった事が、将来モデルとして、芸能界として生きてゆく上でステータスになると知ったら、本当は嫌でたまらなかった子も、あの写真家先生は素晴らしい、あの先生のモデルになれて幸せだったと言ったのではなかったかと思います。
それを考える時…
僕は、窓際のトットちゃんの小説を、しかも、裸で子供を泳がせた箇所を、実に素晴らしい事のように読み聞かせた方に、強い矛盾と違和感を感じざるを得ません。
こう話すと、あの学校は、子供達への熱い教育方針、理念からそうしたと言う答えが返ってくるかも知れません。
しかし、熱い理念があるなら、理想があるなら、大人の考えを押し付けるかのように、裸になるのを泣いて嫌がった子供に、裸で泳ぐ事を強要して良いと言う理屈につながります。
それを言うなら、少女ヌード写真の撮影にも、写真家の熱い理念と理想があります。
それは、また、別の機会に話しますが…
一言で言って、ほんの束の間しかない、少女の最も美しい姿、歳を重ねれば、瞬く間に消えてなくなる、少女のその時その一瞬だけの本当に美しい姿を、永遠に残しておきたいと言う芸術家ならではの高い理想と理念があって撮影しています。
しかも、窓際のトットちゃんの学校のように、いきなり前触れもなしに、裸で泳げなどとは言いません。
最初から、親にも当人にも、裸で撮影する事をはっきり告げ、一人のモデルの承認を得る為に、長ければ数ヶ月も話し合った末に、撮影に入ったとも聞きます。
しかも、数ヶ月も話し合い、しっかり本人の了承を得たはずなのに、撮影する段になって、やっぱり裸になるのは嫌だと泣いて嫌がり、撮影中止になった話も、僕は聞いています。
対し、突然、今日の今日、予告なしにプールで泳ぐと告げ、水着を用意してないと驚いて言う子供達に、必要ない、素っ裸になって泳げと言って、素っ裸にして泳がせ、本人も親も驚かせる徹子さんの学校のやり口の方が、はるかに卑劣な性的虐待だと、今の価値観だけで言えばそうなるのではないでしょうか?
少女ヌード写真は、猥褻だと言う評価で嫌うならそれはそれで良いと思います。
しかし、全部の少女達が本当に嫌がっていたか、無理やりであったか、ちゃんと調べもせず、全て裸になる事を強要した虐待だと言うのなら…
僕はこう断言できるかと思います。
徹子さんが通われた学校は、児童虐待の学校であり、その学校を美化して描く窓際のトットちゃんは、児童ポルノ以外の何者でもないと。
これは、あくまでも、少女をヌードにする事、それを描く事が、今の価値観だけに照らし合わせて須く性的虐待とみなしたなら…
と、言う但し書きに基づく、僕の個人的主観であり、感想です。
別に、今の価値観に照らし合わせて、徹子さんの通われた学校と教育方針を捉えて否定する気は全くありません。
この本を、本気で児童ポルノだ…などと思っているわけでもありません。
もし、少女ヌード写真を十把一絡げに虐待扱いせず、美術表現として正当な評価を下す社会にあるなら…
かつて同様、明らかに子供を虐待している写真でない限り、今も美術写真として、書店で普通に手に入れられる状況にあるなら…
徹子さんの通われた学校教育…特に、子供達に素っ裸で泳がせると言う水泳授業は、誰よりも僕が素晴らしいと思っています。
むしろ、幼稚園から中学校までは、体育と保健体育授業は男女合同で、素っ裸になって行わせるべきである。少なくとも、水泳の授業は、校外からも良く見える外に設置されたプールにて、男女混合、全裸で行うべきだと考えてます。
この点については、また別の機会に話を譲りますが…
しかし、前もって全裸で撮影する事をきちんと説明し、当人とも親とも何度も打ち合わせし、了承を得た上で撮影した少女ヌード写真を、あくまでも性的虐待だと言うなら…
前触れなしに、少女をいきなり裸で泳がせた徹子さんの学校の水泳授業、性的虐待以外の何者でもない…と、僕は思わざるを得ないのです。

サテュロスの祭典(4)

2022-01-01 00:04:00 | サテュロスの祭典
サテュロスの祭典

被害者

ヌード写真を芸術か猥褻かと言う議論であるなら、僕はいくらでもされて良いと思います。
いや、その議論無くして、芸術・美術の進歩発展はないでしょう。
しかし、少女ヌードの事が話題となる時、モデルとなった少女をさして、ポルノ被害者と呼び、可哀想だと言う言い方には、僕は強い抵抗を感じます。
これは、僕のコレクション趣味をめぐって、ある方とぶつかった時にもよく言われた事なのですが…
年端もゆかない子を裸にするなんて可哀想…
と、言われる度にに、強い抵抗を覚えたものです。
年端もいかない子を、性的嗜好の対象として描くなど、猥褻極まりない。
これなら、そう言う意見もあってよいと思います。
その人は、そう思う。だから、少女ヌードは嫌いだ、けしからん。意見として十分成り立つし、いや、僕は美しいと思うよと返す事もできるかと思います。
しかし、被害者だから可哀想とは何事であろう…
被害者、可哀想と言うのは、あくまでも、そのモデルとなられた方が、本人の意思とは別に、無理やりやらされた場合をさすと僕は思います。
例えば、あるモデルの少女は、親が金欲しさに娘を引きずって写真家のところへ連れてゆき、泣いて嫌がる娘を無理やり服を剥ぎ取ってモデルに売り込んだ…
だから、『その子』が可哀想だと言うのなら、僕もその通りだと思います。
実際、僕の好きな写真家のモデルとなった少女の中にも、そう言う子がいたと言う話を、当の写真家のインタビューで読んだ事があります。
写真家も、正直その親に強い嫌悪感を抱き、その子をモデルにするのを断ろうと思ったと言います。
しかし、ここで断れば、その母親が、その子を何処に売り込もうとするか、連れて行こうとするか容易に察しがついたので、敢えてモデルにした。
結果、最初は泣いて嫌がっていた少女も、何度も写真家のモデルを務めるうちに、次第に信頼関係が結ばれ、最後は実の母親より、写真家を信頼するようになって、大人になった後も、就職を始め、諸々の世話をしたと話していました。
そう言う話、同時販売されていたロリコン雑誌で、幾つも聞いていました。
力武靖さんのインタビューにも、そう言う話があった気がします。
モデルを求めて東南アジアの国々に出向いたのはよいが、自分の娘を使ってくれと、金目当てな親が、五万と押し寄せた。
それで連れてこられる娘達の殆どは、凡そモデルにふさわしいと思えるような子達ではなかったが、もし断れば、その子の行き先は売春宿。だから、敢えてモデルにしたが、案の定、写真集の売れ行きは悪く、赤字が重なったと…
それで、何とか写真集を売らないと、モデルになった子達にモデル料を払えず、悲惨な運命から守れないので、なりふり構わず写真集を売り込んだとも…
そう言う子達に対して、可哀想…
これは、わかります。
僕もその通りだと思います。
ただ、この場合、それはポルノ被害者ではなく、子供を金儲けの道具にしか考えない、親の被害者と言うべきではないでしょうか。
しかし、これも先に挙げた、僕のコレクション趣味でぶつかった方の話ですが…
何の番組でか、ある写真家の美術ヌードモデルを務めた少女のインタビューの話をしました。
まあ…
その方の話から、だいたいその写真家は誰で、どのモデルかも想像はついたのですが…
本当は嫌だった。無理やりモデルをやらされて辛かったと泣きながら話していた話を、その方も泣きながら、だから少女をヌードにするなって絶対ダメだと、とつとつと話すの聞いて、正直、ゲンナリしました。
ちなみに…
従軍慰安婦などでっちあげだの、嘘つきだのと、これまた全部そうだと言うのも乱暴な気がしますが…
その報道の影響を受けてか、今でこそ、その方は、慰安婦の話を出しただけで露骨に嫌な顔をし、あんなデタラメな話で、いつまでもゆすりたかりをする某国はけしからんと言いますが…
慰安婦問題が始まった当初、本当か嘘かはわかりませんが、十二歳で慰安婦にされたと言う証言を聞いたとき、その方は涙をボロボロ溢して、その少女の話をし、だから、慰安婦を集めた日本軍はけしからん、日本軍は悪いやつだったと、散々、旧日本軍をボロカスに言っていたものです。
話がそれましたが…
確かに、そう言う可哀想…
いや、それ以前に、少女達への強い愛着から、僕などロリコン雑誌で、金儲けに娘を無理やりヌードモデルに売り込む親達の記事を読んだ時は激怒したものであるし、それを記す雑誌の口調も、読者の反応も、あらかた、僕と同じだったのではないか?と、僕は思います。
ただ、これをもって、モデル少女は、全て被害者で可哀想…と、言うのも乱暴ではないでしょうか。
あの時、一体どれだけの少女ヌード写真集が出された事でしょう。
また、『ロマンス』と言う少女ヌード写真集だったでしょうか…
写真集を撮影する前に、モデルを公募したところ、三人のモデル公募に、一万人越しの少女達が応募してきたと言います。
その時、まず厳選な書類選考で落としに落とした末、それでもまだ膨大な候補者が残り、何度もオーディションをして、漸く三人のモデルを決めたと聞きます。
この数千人の応募者の少女達、全てが親に無理やり応募させられたと言うのは、かなり無理があるかと思います。
また、これは、少女ヌードではなく、大人のAV女優でが…
ある番組で彼女を取り上げた時、彼女にAV女優をしてる事について質問した時、自分はこの仕事を気に入っている、スタッフ達も良い人達で、みんなに支えられて頑張っていると言う答えが返ってきました。すると、番組レギュラー達は、よってたかった、そんな筈はない、こんな仕事をさせられて、嬉しい筈はない、本当は辛いんだろう、本当の事を話せと迫るのを見て、僕は非常に不愉快な思いをしました。
そう言う、こちらのこうである筈だ、こうであるに違いない、と、一方的な決めつけではなく、ただ、率直にその方達がどう思っているのか、当時モデルを務めていた少女達全員に確かめて、全員が無理やりやらされたと答えて、初めて、あの子達は被害者で可哀想でしたと言う事になるのではないでしょうか。
しかし、僕のコレクション趣味でぶつかった方ににしても、その方がみたワイドショーにしても、たまさか名乗りでて、涙ながらに嫌でしたと答えたのを見て、全部そうだと言うのは、むしろ、子供達はみんなこうだと言う、大人達の決めつけではないでしょうか?いや、子供達はこうでなければならないと言う押し付けにも聞こえます。
そこで、僕はその方に、先に話した写真集の撮影前、三人のモデルを公募したさい、一万人超えの応募があり、選抜に何ヶ月もかかった話をし、この応募してきた少女達全てを可哀想は違くないか?と、話しました。
その際、その方は露骨な嫌悪感を示したので、僕は逆に、その方に対して嫌悪感を覚えました。
僕が、その方に対して抱いた嫌悪感は、二つ。まず、自分から応募したと言う少女に対する露骨な嫌悪感の態度。ちょっと待って欲しい。少女達は無理やりやらされて、可哀想だから、少女ヌードはけしからんのではないのでしょうか?だったら、本人の希望で応募するのはOKであり、本人もヌードモデルと言う仕事に思い入れを込めて望むなら、OKではないのでしょうか?だのに、自分から応募する少女達に、そんな顔をするのなら、可哀想だから…ではなく、猥褻だからけしからんと言う論調に即刻変えて貰いたいと言うのが一つ。もう一つは、その話、何処で聞いたかと言うのに対し、イレブンPMと言う番組で、写真集撮影を取材した人の話だと答えたところ、『ふん!何だ、そんな番組の言う事か…』ならば、あてにならんと言う態度を示した事です。
これも、ちょっと待てと言う話かと思います。
ある番組、ある新聞社、あるテレビ局の言う事だから、全部あてにならんと言ってしまうなら、僕からすれば、ならばテレビも新聞も見るなという話になります。
どの新聞社にも、テレビ局にも、独自の色があり、反対側から見れば、どれも如何わしいものになるのは、政治論争で、片や朝日新聞は左翼だ、片や産経新聞は右翼だと、盛大にやりあわれてる皆様であれば、よくわかるかと思います。
また、その時、その方には忘れていて話さなかったが、ブーム前世の頃、ある写真家のところには、親に隠れてモデルを希望した少女がいて、その事を知らずに撮影したところ、後で親が知ってトラブルになった事がある話もきいています。
また…
規制法ができた最近の話になりますが…
児童ポルノの取り締まりで、非常に困難な問題に直面したケースに、こんながあります。
中学生や高校生の少女達が、自分で自分のヌード撮影をして、SNS投稿するケースが続出した事です。
この問題をとりあげる時、取締る側も、また、この問題をFacebookなどで取り上げて話題にされてる方々も、非常に頭を抱えてるのを見て、僕は爆笑しました。
彼ら、ヌードモデルを務める少女達を、十把一絡げに被害者、可哀想などと決めつけで話すから、悩むのです。僕からすれば、悩む事など何もない、簡単な話かと思います。未成年のヌードは、いかがわしく、猥褻だからけしからんと言って取り締まれば良いのです。その理屈で言えば、自分のヌードを撮影した少女であろうと、自分の娘なり他人の娘なりを裸にして撮影したものであろうと、如何わしいものを世に出してけしからんと言って、取り締まれば済む話だと思います。
ヌードモデルをさせられて可哀想。裸を撮影させられたなんて可哀想…
僕からすれば、みんなそうだと決めてかかられる、当時モデルを務めた少女達こそ可哀想だと思います。
何故なら…
まず、子供の意思と言うものを全く軽く見られている点。
子供は、大人が思う以上に、良くも悪くも自分の意思と言うものを持っている。自分はこうしたい、ああしたいと言う思いを強く抱いている。それを、子供達にこんな事を決められるわけがない。こんな事を自分から望むわけがない。これは、全部、大人の決めた事だ。そう決めてかかると言うのは、何と子供達の自己決定、自己意思の否定した考えでしょうか?
僕からすれば、『ロマンス』のモデルに応募した一万人もの少女達を含め、本人の強い意思なのかも知れないのに、それを全面否定して、全て強制されたと断定してしまう事は、泣いて嫌がる少女の意思を全面否定して引きずって写真家の元に連れてゆき、無理やり裸にしてモデルにさせようとした親と、余り変わらないと思います。
こう話すと、いや、子供達が全員強制されたと決めつけて同情するのは子供の将来と人権を思っての事であり、子供を無理やり裸にした親は金目当なのだから、大きな違いがある。と、反論されそうな気がすします。
しかし、僕は思う。
将来を思って?いや、ヌードモデルをした事が、将来暗い影を落とさせてるのは、そう言って騒がれる方々ではないでしょうか?もし、今はやりのjpopアイドルやkpopアイドルのように、子供の頃、ヌードモデルでヒットを飛ばした事が、大きなステータスとなる社会であるなら、暗い影を落とすどころか、輝かしい未来を約束する事になるでしょう。モデルとなった子達の未来を暗くするのは、ヌードは可哀想、被害者だ決めてかかられている方々のような気がします。
むしろ、本音では、僕とぶつかった方と同じく、無理やりやらされて可哀想…ではなく、猥褻だからけしからんと思われてる方々が、子供達はこうでなければならんと言う思いを押し付け殊更同情するのも、金が欲しいと言う思いを押し付け子供を無理やり裸にするのも、全く同じに僕には見えてなりません。
次に、ヌードにさせられて、可哀想だと言われる事こそ、子供達が可哀想と思う理由。
それは、どう言う背景で、ヌードモデルになったのか…
一人一人の事を全て把握などしていません。
成る程、親に無理やりさせられて、可哀想な子供達も大勢いたのかも知れません。
しかし、僕が知る、モデルを務めたお嬢さん達の二人は、大変な金持ちのご令嬢で、年間、どれだけ海外で過ごしていたか、自国で過ごすのと他国で過ごすのとどちらが多かったかわからない、いわばエリートのお嬢さんでした。
そして、撮影された写真家とは、個人的な友人であり、写真美術への造詣が深く、あくまでも美術写真のモデルとして、娘の撮影を許可してるし、娘の方も親と同じ気持ちで、実に楽しい雰囲気の中で撮影したと聞いています。
だから、全員そうだと、ヌードモデルは全員無理やりやらされて可哀想などと言われる方々のような事は、口が裂けても言いません。わからないのですから…
ただ、一つ言える事は、どう言う背景でモデルを務めたかはわかりかねますが…
当人達は、ポルノ被害を受けたのではなく、ヌード写真のモデルと言う立派な仕事を務めたのです。当時は、それが美術芸術ともてはやされ、写真年鑑に掲載されたり、毎日新聞社から毎日グラフィック特集号として、丸々写真集として発売されたものもあります。
当人達は、素晴らしい写真のモデルを務めていたはずなのです。
それを、別の時代になり、あれはポルノ被害でした、可哀想ですと言われるくらい、残酷な事はないのではないでしょうか?
これ、自分がヌードモデルではなく、子役だったらと想像してみましょう。
例えば、『おしん』なるドラマの主演子役を務めたとします。
しかし、時代がかつてのような軍国主義社会となり、あのドラマは政府批判をする極悪極まりないドラマだと断定されたとします。
その際、そんな醜悪なドラマに出演させられて、可哀想だなどと言われたらどんな気がするでしょう。おしん役をさせられたのは、国家反逆ドラマ被害だと言われたら、どんな気がするでしょう。
そう話すと、子役達は皆、自分の意思で勤めてると、そう言い返されるでしょうか?
ならば、ちょっと待て…です。
自分の事を自分で決められる能力は、子供にはない…だから、ヌードモデルは被害者なのではないのでしょうか?
子供は、なんでも親の意思に従わざるを得ない存在なのではないでしょうか?
だったら、日本が軍国主義社会となり、『おしん』が国家反逆ドラマと断定された時、おしん役を務めるか務めないか、それが良いか悪いか決める能力などなく、親や大人達の意向で無理やりやらされたと言われても、成り立ってしまうのではないでしょうか?
これは、あくまでも僕の主観です。
これを読まれた方々には、それぞれの思いがあり、それを否定しようとも思わず、別にその方々と盛大に議論し合う気もありません。
ただ、あくまでも、僕はこう考えている。
今や、少女ヌードは虐待以外の何者でもない、これを持つ事も、素晴らしいと言う事も、そもそも、それを見て感動する事自体が犯罪であり病気とみなされる社会です。
そんな社会にあって、こう言う考え方をする者もいるとだけ捉えて、僕の話を聞いてもらえれば幸いに思います。
そして、最後に…
ヌードモデルを務められたお嬢さん達は、今の世にあって、ある意味、被害者だとは、僕も思います。
日本では規制が施行された後…
ウクライナで、LSと言う少女ヌードの掲載サイトが登場しました。
モデルを務めた少女は、合計千人に登ると言われますが、その少女達の中には、後にプロのモデルとなられ、今でも活躍されている方がいると聞きます。
また、ブルック・シールズさんは、子役当初、全く売れなかったのが、プリティベビーと言う十三歳の少女娼婦を、オールヌードで演じられたのがきっかけで、後に大女優となりました。
日本でも、ヌードモデルからアイドルになった少女がいます。
しかし、少女ヌードは犯罪とされ、モデル少女は性的虐待の被害者だと言うレッテルを貼られる事で、そう言うチャンスは全て摘み取られてしまった。
もしかしたら、ヌードモデルをきっかけに数多のチャンスがあったかも知れない。
特に、力武さんのモデルを務められた少女達は、貧困生活を一転させて、華々しい道を切り開けたかも知れない。
そう言うチャンスを奪われてしまったと言う意味で、ある意味、僕は被害者だと思います。

サテュロスの祭典(3)

2022-01-01 00:03:00 | サテュロスの祭典
サテュロスの祭典

力武靖(3)

報道
素直に話せば、当時、僕は力武さんの作品は大好きで集めていましたが、彼個人の事は大嫌いでした。
進んで児童ポルノとしか言い難い雑誌に自分の作品を掲載させていたし、写真集の売り方も、ビニ本風に販売していたからです。
写真作品こそ、天真爛漫…ヌード写真の撮影と言うよりは、裸で遊んでいる女の子を、身内の誰かが一緒に遊びながら撮っている…
そんな、可愛い作品であるにも関わらず、明らかに写真モデルの少女達を、性的関心の的にしているようにしか思えない雑誌に、自身の作品を提供しているのも気に入らなければ…
また、せっかく、無邪気で可愛い作品を、ビニ本スタイルで販売しているのも気に入りませんでした。
清岡純子さんは、自身の作品は写真美術だと言う一貫したポリシーから、生前は、決して自身の作品をポルノ雑誌に提供をしなかったし、プチトマトと言う写真集に寄せたコラムの中でも、当時、欧米から渡り始めた児童ポルノを決して買わぬよう呼びかけてもいました。
対し…
清岡純子さんには、イマイチ及ばないまでも、やはり、少女をメルヘンチックに撮影される彼が、どうして…
と、言う思いはいつもあったのです。
それに重ね、当時、メディアも、売春宿が貧しい家庭の親達にそうするように、金で頬を叩いて貧困家庭の少女達を裸にしていると叩いていたこともありました。
無論…
報道では、力武さんの名は出さなかったものの、愛好家が見れば、明らかに力武さんの事を報道してるのは一目瞭然な取り上げ方で、叩いていたのです。
当時は、そんな報道をもろに間に受けていた僕は、美術として少女を愛好する者として、実に許し難い行為に思われ、破棄する時、真っ先に破棄したのは、力武さんの写真集でした。
しかし…
理香さんに、暗い家庭環境があった事を、二十年近くも経って、初めて知り、僕はコレクションの破棄を深く後悔しました。
特に、力武さんの写真集だけは、何が何でも守らなければならなかったかと思いました。
同時に、改めてメディアなるものに対して、非常に腹を立てもしました。
何故、あの時、そう言う事があった事もきちんと取材して調べ上げ、放送してくれなかったのかと…
勿論、そうした事情が背景にあったにせよ…
力武さんは間違っている。子供の裸を撮る事そのものが犯罪であり、虐待だと言う考え方を、僕は否定しません。
だったら、あなた、力武さんがモデルに使っているような少女達の為に何をしているのだ…
力武さんのモデルをやめさせた後、彼女達に何をしてやれるのだ…
と、言う疑問は抱きつつでは、ありますが…
しかし…
兎にも角にも、その是非を問う前に、まずは、取材は常に公平であるべきかと思います。
力武さんが、東南アジアにモデルを求めたのは、何故か…
簡単です。
同時、既に少女ヌードに対する風当たりはつよく、国内でモデルを求めるのは困難になった事…
対し、東南アジアに行けば、実に安価な金で、モデル候補の少女達がゴロゴロ集まって来ると言う事。
これをもって、先進国の儲け主義な写真家が、発展途上国の貧困少女を、札束で頬を叩いて脱がせた…
そう言う見方も、あながち間違ってはいません。
とは言え…
報道するからには、力武さんが、モデル起用する事で、一人の少女が救われた一面…
いや、彼女に限らず、やはり貧困家庭の環境から少なからず救われた少女達が決して少なくはなかった事…
彼自身、後付けかも知れませんが、貧困の中にいる少女達を、ヌード写真家として救いたい気持ちもあった一面…
そう言う一面をしっかり押さえた上で、報道はなされるべきだと思います。
ただ、一方的に金づくで少女達を裸にした、猥褻なヌード写真を撮影して金儲けをした、その事だけを取り上げて叩くのは、非常にアンフェアだと思います。
その人をどう評価するか…
その人の作品をどう評価するか…
それは、様々であって良い。
それでも、ヌード撮影そのものが犯罪、虐待だと言うのなら、幾らでもそう言って批判しても良い。
しかし、そうするならそうするで、その人の様々な部分をしっかり押さえた上でそうして欲しい。
少なくとも…
批判する側には批判する側の言い分があるように、力武さんには力武さんの言い分がある。
その時代、その時の社会背景にあって、許し難い言動を繰り返す方々にも、言い分と言うものがある。
それを最終的にどう評価するかは別にして、誰の言い分も尊重して耳を傾け、押さえた上で、最終的な皆の判断を下すのが、民主主義ではないだろうか…と、僕は思います。
社会的風潮、社会的価値観に同調する形で、一方的な見方、言い分だけを通し、それに反している方々の言い分を無視して…或いは、一応聞くそぶりは見せて、頭からそれをねじ伏せ、押しつぶしてしまうようかメディア報道のあり方は、果たしてフェアと言えるのかどうか?
僕は、美術作品まで、少女のヌードを実際否定する法解釈が定着して二十年経とうとする今、強く感じないではいられないのです。