朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

示されたとおりに、立ち上がってやってみる、その信頼を大切に思って下さるようですね。あの方

2014-12-26 23:38:55 | 聖書から
立ち上がって実行せよ。

  主が共にいてくださるように。歴代誌上22:16





主の天使が夢に現れて言った。
 「起きて、子どもとその母を連れて、エジプトに逃げ、
   わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」マタイ2:13
...

        (ローズンゲン日々の聖句12/27;土)





 示されるとおりに行動を起こしてみると、共にいて下さることが分かるのだそうです。



 出エジプトの時、イスラエルの民が葦の海を渡ったのも、それは夜の出来事で、海が分かれたのを向こう岸まで見通せて、これなら大丈夫と確認できて踏み出したというのではなく、暗闇の中を、踏み出してみると、稲妻の光の中で、足もとの水が分かれていて、足もとは乾いた地のようであったということのようですね。一歩踏み出してみると次の一歩が開かれているのが分かる、一歩、一歩のことだったようです(出エジプト14:19~27、朝の見張りの頃;午前3時~午前6時頃)。





 ヨルダン川を渡る時もそうだったようです。
刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれている水が、契約の箱を担いだ祭司が御言葉のとおりに踏み出し、その祭司の足が水ぎわに浸った瞬間、上流から流れてくる水はせき止められ、つっ立って、民は乾いた地を行くように渡って行ったのだそうです。

 祭司が、岸辺で、水が止まるのを待っていたのでは、主が共にいて下さって為して下さるその御業を見ることはできなかったのでしょうね。





 イエス誕生の時も、ヨセフが、夜が明けるのを待つのではなく、天使の言葉のとおりにすぐ行動を起こしてエジプトに向かって出発したので、赤ん坊のイエスがヘロデ王の手にかかって殺されるのを免れたようですね。



 具体的なことに当たって、私たちはいろいろ思いめぐらしますが、自分の思いはともかく、天の神、主が示されるとおりに一歩踏み出してみると次の一歩分の道が開けて、その一歩踏み出す。そうしているうちに気がついてみると向こう岸にたどり着いていた、というようなことのようです。



 私たちと共にいて下さる方は、示されたとおりに一歩を踏み出す、その信頼を大事に思って下さるようですね。今日も。



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お金なしで飲ませて下さるのだそうですね。命の泉の水

2014-12-25 21:35:48 | 聖書から
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。イザヤ書55:1





玉座に座っておられる方が言われた。
  「渇いている者には、
    命の水の泉から価なしに飲ませよう。」黙示録21:6
...

          (ローズンゲン日々の聖句12/26金)





 天の神、主は、すべての人に命の泉の水を飲んで欲しいと願って下さっているようですね。

欲しい者すべてに飲ませて下さるのだそうです。


 けれども、「嫌がる馬に水を飲ませることはできない」と言われているように、

天の神、主も、私たちの自由意思を尊重しておられるので

(自由意思によって、自分からすすんでするのでなければ、

人間が神のかたちになることはできないわけですから)、

私たちが飲もうとするかどうか、飲む必要を覚えるかどうか、

のどの渇きを感じているかどうかが問題になるということでしょうか。





 イエスは、「健康な人には医者はいらない。医者がいるのは病人である」と言われましたが、

自分は正しい人間だと思っている人は、天の神、主が用意された救いなど

必要がないと思ってしまうわけでしょうかね。





 自分があるべき場所、創造の目的から的外れになっている者であることが分かることで

救いを受け取ろうとする心が起こって来るのでしょうか。



 大胆に、自分自身が的外れになっている者であることを認めて、

大胆に、あの方の御前に進み出、イエスによって用意された救いをもらい、

聖である霊と呼ばれる方をお迎えして、天の神、主と、思いを通い合わせながら進みたいですね。

今日も。



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私たちの間に宿られたのだそうです。人として、あの方が

2014-12-24 23:43:23 | 聖書から
いにしえの神は難を避ける場所である。申命記33:27







言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。
  私たちはその栄光を見た。
   それは父の独り子としての栄光であって、...
     恵みと真理に満ちていた。ヨハネ1:14




          (ローズンゲン日々の聖句12/25;木)





 この天地宇宙、地球の自然環境を造られた方が避け所となっていて下さるのだそうです。



 その手続きのために、独り子である神とか言葉である神とか呼ばれる方が、

その栄光の座を後にして、人間の世に、人として来られたのだそうです。

それは恵みであり、「本当」だったのだそうです。まやかしではなく。


 この方は、旧約聖書に預言されているとおりに、私たち人間の罪を背負って処刑されるために、

人間として生まれて下さったのだそうです。十字架刑で処刑されるために。


 この方が、十字架の苦しみの中で「すべてが終わった、完了した」と言われたとき、
私たちが天の神、主を避けどころとし、

この方の前にはばかることなく出て行けるための手続きが完了したのだそうです。


 それで、今は、恐れることなく、怖がることなく、罪のそのままを御前に差し出し、

全部見ていただき、知っていただいている出来事、光りの出来事ににしていただいて、

大安心の中を進んで行けるのだそうです。今日も。



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知恵を与えて下さるのだそうです。求めさえすれば

2014-12-23 21:39:22 | 聖書から
主の定めは真実で、
  無知な人に知恵を与える。詩編19:8


羊飼いたちは非常に恐れた。
すると天使は言った。
「恐れるな。
  私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
あなたがたのために救い主がお生まれになった。」ルカ2:9~11
      (ローズンゲン日々の聖句12/24;水)


 救い主がお生まれになった、あの夜、その知らせは羊飼いたちに告げられたのだそうですね。祭司や律法学者、宗教家たちにではなく。
 天の神、主は、この世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者をあえて選ばれただそうです。
それは、私たちを、自分の知恵によって歩むのではなく、イエスの知恵、イエスの義、清め、贖(あがな)いをいただいて生きるようにして下さるためなのだそうです(Ⅰコリント1:26~30)。
 永遠の昔から「御父」と共にあられ、「ことばである神」としてこの天地万物の創造に直接関わった方が、全人類の罪を負って処刑されるために人の世に来られた時、その方ご自身、王宮にではなく、権力者や金持ちの家にでもなく、貧しい若い夫婦の子として、そして、旅の途中とはいえ、宿屋には、いる場所がなく、家畜小屋の石の飼い葉おけに寝かされ、この世の取るに足りない者として、十字架の処刑を目指して歩まれたのだそうです。
 その処刑が完了したことにより、今、私たちは、すべての罪が処刑済みになった者とみなしていただき、「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さって、天の神、主の御思い、その知恵に導かれて進む者にして下さるのだそうです。今日も。

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訪れて下さったのですね。解放し、新しい生き方を下さるために

2014-12-22 23:24:57 | 聖書から
心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。サムエル記上7:3


ザカリアの言葉:
主はその民を訪れて解放された。
こうして我らは生涯、主の御前に正しく仕える。ルカ1:68、75

    (ローズンゲン日々の聖句12/23:火)


 民を訪れて下さったのですね、主である方が。
人の世に、人として生まれて下さった。人の罪を贖(あがな)う小羊として、ただ、十字架刑で処刑されるために。
 善し悪しの判断を自分の理性だけで決めていく生き方から私たち人間を解放し、正しい関係に取り戻すために。
 父である方、御子である方、聖である霊と呼ばれる方が、自由意思で、お互いを大切に思い、尊敬しあい、自分の思いを残らず相手に明かし合い、相手の思いが成ることを喜びとし、生きがいとしておられる、思いを一つにし、行動を一つにし、一緒にいることを喜びとしておられる、その一つの中に加わる者として取り戻すために。
 それで、私たち、この方だけを主とし、聖である霊と呼ばれる方が私たちの心に置いて下さる、私に関わる御父の御思いがなることを、私の生涯の喜びとし、生きがいとしていくようにして下さるのだそうですから。
受け取っていきたいですね。この新しい契約を。今日も。

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