朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

今度は、この五体を、聖である霊と呼ばれる方に使っていただくのだそうです。

2015-05-26 01:10:22 | 聖書から
主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔てている。イザヤ書59:1〜2


 かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、
不法の中で生きていたように、
今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。ロマ6:19


          (ローズンゲン日々の聖句5/26;火)

 天の神、主は、預言者イザヤを通して言われるのですね。

「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、
あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。
正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、
むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。
彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。
その卵を食べる者は死に、
卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。
そのくもの巣は着物にならず、
自分の作ったもので身をおおうこともできない。
そのわざは不義のわざ、
その手のなすことは、ただ暴虐。
その足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。
その思いは不義の思い、破壊と破滅がその大路にある。
彼らは平和の道を知らず、その道筋に公義がない。
彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、
義は私たちに追いつかない。
私たちは光を待ち望んだか、見よ,やみ。
輝きを待ち望んだが、暗闇の中を歩む。
私たちは盲人のように壁を手さぐりし、
目のない者のように手さぐりする。
真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、
闇の中にいる死人のようだ。
私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。
公義を待ち望むが、それはなく、
救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。

それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、
私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。

私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、
私たちは自分の咎を知っている。
私たちは、そむいて、主を否み、
私たちの神に従うことをやめ、
しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。
真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。」と(イザヤ59:3~14)。

 私たちは、このように、この五体を、神にそむき、自らが「善悪を知る者になった」(創世記3:22)「生まれたときからの霊」と呼ばれる「私」に使わせて、不法の奴隷として、不法の中に生きていましたが、
イエスの十字架刑での処刑を、この[生まれたときからの霊]と呼ばれる私の処刑と見なしていただいて、「生まれたときからの霊」という私は、死んでしまったものと認め(ロマ6:11)、
新に、復活し、天の父の右の座に着かれたイエスが派遣して下さる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方に、この五体を使っていただいて、

今度は、この五体を、義の奴隷として献げ、御心にかなった新しい生き方をする者にしていただけるのだそうです。

それで、勧められているのですね。
「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。
「自分の肉を、十字架につけてしまい、御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、すすもうではありませんか」(ガラテヤ5:24~25)と。

今日も。


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2015-05-24 23:42:20 | 聖書から
その日が来れば、
エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられる。イザヤ書11:10




 シメオンの言葉:
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、

異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。ルカ2:30〜32


        (ローズンゲン日々の聖句5/25;月)

 エッサイの根株から出る新芽、若枝、ダビデ王の子孫として生まれる方、イエス。
 この方の上に、主の霊がとどまるのだそうです。

それは知恵と悟り霊、
はかりごとと能力の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊。
この方は主を恐れることを喜び、
その目の見るところによってさばかず、
その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、
公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
口のむちで国を打ち、
くちびるの息で悪者を殺すのだそうです。
正義はその腰の帯となり、
真実はその胴の帯となる。

 主の霊と呼ばれる方によって、
主を知ることが、
海をおおう水のように、地を満たすと、

狼は小羊とともに宿り、
ひょうは子やぎとともに伏し、
子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草をはみ、
その子らは共に伏し、
獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
乳離れした子jはまむしの子に手を伸べる。
聖なる山のどこにおいても、
これらは害を加えず、そこなわない世界が
実現するのだそうです(イザヤ11:1~10)。

 シメオンは、御霊によって、両親に連れられ、エルサレム神殿に来た、生後40日のほどの幼子イエスの中に、万民の救いを見て、神をほめたたえたのだそうです。

 私たちもこのイエスによる救い、啓示の光、聖である霊と呼ばれる方の導きにあずかって、神をほめたたえる者の列に加えていただけるのだそうですね。
今日も。


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真理の霊と呼ばれる方が来て下さるのだそうです。私たち一人ひとりに。

2015-05-24 09:14:17 | 聖書から
「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」
と万軍の主は言われる。ゼカリヤ書4:6(今週の聖句)




 主を待ち望め。
雄々しくあれ。
心を強くせよ。
主を待ち望め。詩編27:14





 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、
あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。ヨハネ16:13




                (ローズンゲン日々の聖句5/24;日)




 武力によらず、権力によらず、私たち、人間の側のどんな力にもよらないで、天の神、主が私たちを導いてなされることがある、のだそうですね。
 
 私たち、天の神、主と心を一つにしていく者として望まれ、心を一つにしていく者として造られたのだそうです(創世記1:26、31)。

 けれども、私たちは、この方に対抗して、天の神、主と心を一つにしていくよりも、自分の理性の判断を実現していく、自分を自分の主人としていく生き方をしていく者になってしまっているのですね(創世記3:22)。

 それでも、天の神、主は、私たち人間を見捨ててしまわないで、
なお、御自分と心を一つにする者になって欲しいと願い続けていて下さるのだそうですね。




 それで、私たち人間が、背きをやめて、和解して帰って来るようにと、帰る道を用意して下さったのだそうです。

 天の神、主は、神の御子である方を、人間イエスとして人間の世に派遣され、人として人の世に生れさせ、この方が、およそ、33歳の頃、この方を私たち人間の身代わりとして、私たち人間のすべての罪をこの方に背負わせて、十字架刑で処刑して、私たちを処刑が済んだものとして手続きして下さっているのだそうです。




 そして、私たち人間の背きの罪の処分を全部終えたうえで、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を私たち一人ひとりに派遣して下さって、この方によって、私たちの心に、一人ひとりに対して思っておられる部分において、御思いを置いて下さって、私たちが受け取るなら、私たちが天の神、主と思いを一つにしていくようにしていて下さるのだそうです。

 でも、私たち、なかなか、その事実の中に入って行けませんけれど、だからといってこの約束がウソだということではないのですね。




 天の神、主は言われます。
「主を待ち望め。
雄々しくあれ。
心を強くせよ。
主を待ち望め。」と。

今日も。


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すばらしい喜びに満ちあふれるのだそうです。私たちも。

2015-05-23 00:24:12 | 聖書から
あなたに望みをおく者はだれも、

決して恥を受けることはありません。
いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。詩編25:3

 あなたがたは、言葉では言い尽くせない
すばらしい喜びに満ちあふれています。
それは、あなたがたが信仰の実りとして
魂の救いを受けているからです。Ⅰペテロ1:8〜9





              (ローズンゲン日々の聖句5/23;土)




 天の神、主、そして、私たち、全人類のためにご自分の命を差し出し、

その命を、贖い代、買い戻しの代金として支払って下さった方に望みをおく者は、

その望みが裏切られ、恥を受けるというようなことは決してないのだそうです。





 預言が預言のとおりに実現して、

天の神、主と呼ばれる方の御子である方が、私たちすべての人間の罪を御自身に背負って

十字架刑で処刑されて下さるということが実現し、

もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方が私たちに来て下さって、

私たちが、生まれたときからの私という霊から来る思いで生きる生き方から、

聖である霊と呼ばれる方が私たち、人間の心に置いて下さる、天の神、主の御思いで生きる生き方に

切り替えて下さるという預言も(エゼキエル36:26~27、ヨハネ17:21)、必ず実現するということのようですね。





 そして、そのような新しい生き方を目指す者は、

言葉に言い尽くせない、素晴らしい喜びに満ちあふれさせていただけるのだそうです。
 それで、自分を見れば打ちしおれるしかない私たちも、

主によって喜び躍り、喜びなさい、もう一度言うが、喜びなさい、ということになるのだそうです。
今日も。


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喜び躍り、誇らせて下さるのだそうですね。私たちも。

2015-05-22 00:02:02 | 聖書から
あなたは主によって喜び躍り、
イスラエルの聖なる神によって誇る。イザヤ書41:16




 主において喜びなさい。
同じことをもう一度書きますが、...
これは私にはわずらわしいことではなく、
あなたがたにとって安全なことなのです。フィリピ3:1




            (ローズンゲン日々の聖句5/22;金)




 喜ばせようとしていて下さるのですね。私たちを。
本来、存在価値を持たない者、
自分の罪で滅びるはずの者、虫けらと呼ばれるはずの者。




 けれども、天の神、主は、そのような私たちに仰るのですね。
「わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。

恐れるな。わたしはあなたと共にいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』」(イザヤ41:8~10)と。




 またおっしゃるのですね。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、全ての人に知らせなさい。主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる、祈りと願いによって、

あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(フィリピ4:4~7)と。




平穏無事というよりも、事多き中にあって。
今日も。


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