朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

幸せになって欲しいのだそうですから。

2015-05-21 00:18:20 | 聖書から
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。詩32:8




 マリアは主の足もとに座って、
(イエスの)その話に聞き入っていた。ルカ10:39




            (ローズンゲン日々の聖句5/21;木)




 天の神、主は、御自分の思いを私たち人間に知らせ、行くべき道を教えようとしておられるのだそうです。
それで、これに聞き入る者を喜ばれるのだそうです。神の言葉に聞くことが大事なのですね。




 イエス一行を迎え入れた姉、マルタは接待のことで忙しくしていて、気が落ち着かず、妹のマリアがイエスの足もとに座り込んでイエスの話しに聞き入っているので、イエスのところに来て言ったのだそうです。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、なんともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹に仰って下さい」と。

 けれども、イエスは、「マルタ、あなたの言うことはもっともだ」とは仰らないで、「マルタ、マルタ、あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」と答えられたのだそうです(ルカ10:38~42)。

 イエスは、素晴らしいもてなしを受けることよりも、話に聞き入っているマリアを喜ばれたのですね。




 イエスが、天の父である神の御もとに帰って行かれた後、弟子たちは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが抜けた後をうめるよううながされ、天の神、主の御思いをお聞きしながら後任を決めて行ったのだそうです(使徒1:15~26)。
 聖である霊と呼ばれる方は、私たちが直面する一つ一つの場所で、天の神、主が、どう思っておられるのかを、私たちの心にささやいて下さるのだそうですね。
今日も。


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遠い海、地の果てにまで宣べ伝えられ、より頼まれているうれしいニュースなのだそうです。

2015-05-20 07:16:03 | 聖書から
遠い海、地の果てに至るまで、
すべてのものがあなたにより頼みます。詩編65:6
 あなたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
この福音は、
世界中至るところの人々に宣べ伝えられています。コロサイ書1:23
            (ローズンゲン日々の聖句5/20;水)
 神の御子であるイエスによって開かれた救いのうれしいニュースは、遠い海の果て、地の果てに至るまで、世界中のすべての人々に伝えられ、信じられ、多くの人がこれにより頼んでいるのですね。
 天の神、主は、御心によって、満ち満ちた神の本質を御子の内に宿らせ、
この方が十字架刑で処刑されて下さって流して下さった血によって平和をつくり、
御子によって万物を、御子のために和解させて下さったのだそうです。
 私たちも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は、神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、私たちをご自分と和解させて下さっているのだそうです。
 それは私たちを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせて下さるためなのだそうですね。
 聖である霊と呼ばれる方は、私たちを、この御子イエスというしっかりとした土台の上に堅く立たせ、すでに聞いた、この御子イエスによるうれしい救いのニュースによる望みから、はずれることなく、信仰に踏みとどまらせて下さり(コロサイ1:19~23)、一つ一つの出来事をとおして、この方との関わりをいよいよ深めて下さるのだそうです。
今日も。
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イエスの生涯によって語っておられるのだそうです。私たちに、あの方。

2015-05-19 07:41:58 | 聖書から
主はモーセに言われた。
「わたしは同朋の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。申命記18:18
 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。ヘブル書1:1~2
        (ローズンゲン日々の聖句5/19;火)
 このモーセに言われた、後に起こされるモーセのような預言者と預言されていた方だったのですね。イエスは。
 この終わりの時代、天の神、主は御子イエスによって語っておられるのだそうです。

 御子は、この世界を造られた側の方であり、万物を相続なさる方。
神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、力あるみことばによって万物を保っておられる方。
 その方が、ご計画の時が満ちて、マリヤの胎をとおして、人として、この人間の世に来て下さり、およそ33歳の頃、十字架刑での処刑を受けて下さって、私たち、すべての人間の罪のきよめを成し遂げて下さったのだそうです。
 そして、三日目に墓より復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、ご自分が生きていることを見せて弟子たちをご自分の復活の証人にしたうえで、天に帰り、すぐれて高い所の大能者の右の座に就いておられるのだそうです(ヘブル1:1~3)。
 この方によって、天の神、主は、ご自分を無視し、あるいはご自分に対立、対抗し、自分を全知、全能、永遠の存在にしようとし、自分の理性の判断のとおりに他の者を、神までも動かそうとして対立し合う私たち人間に、なお、愛し続けているよと、ご自身と和解して帰って来てほしいと、そして、ご自身と心を一つにする者になって欲しいと語っておられるのだそうです(Ⅱコリント5:19~20)
 「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」私たちはそういう存在ですが、イエスによって派遣される「聖である霊と呼ばれる方」が来て下さるとき、私たちも、天の神、主と同じ心、一つ心にしていただけるのだそうです。
私たちがそれを受け入れさえすれば。
ちょうど、テモテがパウロと同じ心になっていたように(フィリピ2:20~21)。
今日も。
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打ち砕かれた悔いた心、それが恵みを受け取ることが出来る心のようですね。

2015-05-18 05:58:05 | 聖書から
わたしは地上から上げられるとき、
全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。ヨハネ12:32(今週の聖句)

打ち砕かれ悔いる心を、
神よ、あなたは侮られません。詩編51:19





 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。マタイ9:11

              (ローズンゲン日々の聖句5/18;月)




 木にかけられる者はすべて呪われた者(申命記21:22~23、)なのだそうです。
 イエスは、私たち人間に代わって十字架に架けられ、天と地との間に高く掲げられ、神に呪われた者となって死んで下さったのだそうです(ガラテヤ3:13)。そして、そのことが成ったなら、全ての人をご自分のもとに引き寄せると仰られるのですね。

 イエスは私たちすべての人間を自分のもとに引き寄せようとしていて下さるのだそうです。けれども、自分の良さに期待している者、自分をなんとかできると思っている者はイエスの十字架のもとには来ようとしないのですね。「私には十字架に架かったイエスなど、必要ない」、「私は自分の責任は自分で取る」と。



 打ち砕かれた悔いた心、自分の実体を実体のとおりに認めて、自分は地獄必定の者と認める者にとっては、天の神、主が、イエスの処刑を私の処刑と見なして下さり、私を処刑済みの者、イエスによって処罰はすべて執行され、私に対する罪の罰はひとかけらも残っていないと帳簿付けして下さっていることは、この上もなく、ありがたいことなのですね。




 あの当時も、自分を神に熱心な者、律法を守ることに熱心な者、信仰深い者と自他ともに認めているファリサイ派の人たちはイエスの行動に批判的でしたが、徴税人、罪人のやからと世間からのけ者にされていた人たちは、イエスを歓迎したのだそうです。



 今、イエスに代わって来て下さっている聖である霊と呼ばれる方は、私たちを、自分の実体のままに、「私はこのような者なのだ」とありのままに認めさせて下さり、その罪の場で、何の資格も働きもないその場所で、「私はイエスの十字架で処刑された者」と受け取らせて下さって、天の神、主を「わが父」と仰がせ、呼ばせて下さり、導き、私たちを通しても働いて、御業を行って下さるのだそうです。
今日も。










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羊は、羊飼いの声を知っているので、羊飼いについて行くのだそうです。

2015-05-17 16:38:56 | 聖書から
モーセは主に言った。

「お願いです。

もしあなたが私に御好意を示してくださるのでしたら、

どうか今、あなたの道をお示しください。」出エジプト33:13




 羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。

羊はその声を知っているので、ついて行く。ヨハネ10:3~4




                (ローズンゲン日々の聖句5/17;日)




 モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山のふもとで律法を示され、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答え、神の民となる契約が成立したのだそうです(出エジプト24:7~8)。




 けれども、モーセが神に呼ばれてシナイ山に登り、数日が経ち、山から下りて来るのに手間取っていると、「さあ、私たちに先立って行く神を造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったか、私たちには分からないから」とアロンに迫り、自分たちの神として金の子牛を造らせ、これを拝み、すわっては飲み食いし、立っては、戯れたのだそうです(出エジプト32:1~6)。




 民はそのように自分の理性の判断で行動していく者でしたが、モーセは、違ったようですね。

自分の理性の判断に頼らず、天の神、主と呼ばれる方がどう思っておられるのか、その方の考えをお聞きして行動しようとしていたようです。




 羊は、生まれたときから食べ物をくれ、自分の世話をしてくれる自分の羊飼いの声を聞き分けるのだそうです。それで、水飲み場で、いくつもの羊の群れが入り混じっているときにも、羊飼いが自分の名を呼ぶと、その声を聞き分け、混雑の中から出て来て、羊飼いのところに集まるのだそうです。そうして、羊飼いが羊の群れの先頭に立っていくと羊たちはその後について行くのだそうですね。後ろからむちをもって追い立てるのではないようです。




 私たちも、同じように、自分の理性による判断によって行動し、天の神、主に聞こうとしない者、うなじ(首筋)のこわい(固い)者です。けれども、イエスの十字架刑での処刑を私自身の処刑と見なしていただき、処刑済みの者、罪の罰の残っていない者と手続きしていただいて、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方をお迎えするなら、この方によって、心に、天の神、主の御思いを置いていただくことができるようになるのだそうですね。旧約聖書でずっと語られていた「父の約束」(使徒1:4~5)なのだそうですから。




 この方によって、私たちも天の神、主の思っておられること、考えておられることの私自身に関することを知るようになり、羊が羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いについて行くように、この方の御思いについて行くことができるようにしていただけるのだそうです。




 私たち、自分の理性が働き、いろいろ判断していますけれど、その判断ですぐ行動するのではなく、その判断も御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、モーセのように、天の神、主の御思い、お考えもお聞きしていくようにしていただけるのだそうです。

「聖である霊」と呼ばれる方によって。

この新しい週も。


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