朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

「わたしたちのように、彼らも一つになるために」

2016-03-26 07:15:43 | 聖書から
耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。

 あなたの僕であるイスラエルの人々のために、

  今私は昼も夜も祈ります。ネヘミヤ記1:6




 イエスの祈り:

聖なる父よ、

わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。

わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。ヨハネ17:11 




        (ローズンゲン日々の聖句3/26;土)




 ネヘミヤは、捕囚の地、バビロンで、エルサレムから来た者たちから、捕囚をまぬがれエルサレムに残っていて、困難とそしりの中にいるイスラエルの人たちのようすと城壁は崩され、門は火で焼かれたままのエルサレムの状態の報告を受け、イスラエルの人たちとエルサレムのために執り成し、祈ったのだそうです(ネヘミヤ1:1~11)。




 2000年ほど前の、この週の木曜日の夜、イエスは、「最後の晩餐」と呼ばれている「過越しの食事」の席で、翌日の、自分の十字架刑での処刑を見据えながら、父である神と呼ばれる方に、残していく弟子たちのことをこのように執り成し祈ったのですね。

「あなたの御名の中に、彼らを保ってください」と。




 「御名の中に保たれる」、それは、イエスが神の御子として父である神の中におり、父である神が御子イエスの中にいる、一つになっていらっしゃる、そのように、父である神と御子である神イエスが弟子たち一人一人の中におり、弟子たち一人一人が父である神、御子である神イエスの中にいる、霊において存在を一つにしているということのようです。




 それは、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方が、弟子たち、一人一人の中に来て下さり、一人一人が「聖である霊」と呼ばれる方の中におるようになって実現することのようです。




 イエスは、このことが成るために、弟子たちに実現するために、これから十字架刑での処刑を受ける、ということであり、またそれは、人間のそむきによって的はずれになってしまっている、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と計画された(創世記1:26)、その人間創造のj目的を回復させることでもあったようです。




 それで、復活したイエスが弟子たちにまず言われたことは、

「聖霊を受けなさい」であり(ヨハネ20:22)、

天に帰られる時、弟子たちに言い残されたことも、

「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」(使徒1:4~5)だったわけですね。




 天の神、主は、人間のすべてのそむきの罪を、御子イエスの上に置いて、イエスを処刑することで、すべての人間の処罰が完了したものと手続きしてくださって、受け入れる者に、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、この方によって、その心に、受け入れる一人一人に関わるご自身の御思いを思わせてくださって、受け入れる者が御自身と同じ思いを思う者にしてくださり、一つ行動をとる者にしてくださるのだそうですね。




 天の神、主には、私たち一人一人をとおしてしようと思っていらっしゃることがあり、私たち一人一人が、天の神主への愛と尊敬をもって、そのことをしていく者にしてくださるのだそうです。

今日も。


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帰って来て、和解して欲しいのだそうですね。あの方。

2016-03-25 08:02:14 | 聖書から
主の慈しみをとこしえに私は歌います。

  私の口は代々に、あなたのまことを告げ知らせます。詩編89:2




 神はキリストによって世を御自分と和解させ、

  人々の罪の責任を問うことなく、

    和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。Ⅱコリント5:19




          (ローズンゲン日々の聖句3/25;金)




 天の神、主は、私たちすべての人間と和解しようと願われ、ご自身の側で、この人間の歴史の中で、御子である方を人間イエスとして世に来させる道を整え、ご計画の時が満ちて、それを約束のとおりに実行なさったのだそうです。




 ダビデの子孫である一人の貧しい処女マリア。

御子である神は、この女性をとおして、「善悪を知る者」となっている、男の、そむきの罪を引き継いでいない、「女の子孫」としてこの人の世に来られ、およそ、33歳の頃、すべての人間の背きを一身に背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。




 天の神、主は、この、一人の人、イエスが処刑されたことを、すべての人が処刑されたこととしてくださり、生きている人々が、自分の理性の善悪の判断で生きるのではなく、自分のために死んでよみがえった方の御思いを受けて生きることができるように、「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者一人一人に来られる道を開かれたのだそうです。




 それで、だれでも、これを受け入れるなら、その人は新しく造られた者、御霊によって新しく生まれた者となり、古いものは過ぎ去り、すべてを新しくしていただけるのだそうです(Ⅱコリント5:14~17より)。




 イエスが、十字架に架かって処刑され、三日目に墓よりよみがえられた今、このイエスによって完成した神との和解の招きは、全世界の、すべての人に届けられようとしているのですね。




 天の神、主は、ご自身の愛と真実によるこの招きをすべての人が受け取り、帰って来て、ご自身と心と思いを一つにし、行動を共にし、栄光を共にする者になって欲しいのでそうです。

今日も。


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悩み、悲しみをとおして多くの子孫を

2016-03-23 22:56:29 | 聖書から
神は、悩みの地で、

  私に子孫を増やしてくださった。創世記41:52




 イエスは弟子たちに言われた。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。

   ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14:34




        (ローズンゲン日々の聖句3/24;木)




 今から4000年近く前のこと、

ヨセフは10人の兄たちに妬まれ、殺されることはかろうじて避けられたのですが、

奴隷として、エジプト王の侍従長おポテファルに売り飛ばされたのだそうです。




 さらに、主人の妻に言い寄られ、拒否したため、

乱暴をしようとしたとの虚偽の罪をきせられ、地下牢に入れられたのだそうですね。




 そして、その地下牢での数年を過ごしたのですが、

誰も解くことができなかった王の夢を解き明かしたことによって、

王に次ぐ者とされ、エジプト全土を王に代わって治める者とされたのだそうです。

 そして、王によって妻を与えられ、二人の息子が生まれたとき、

2番目の子をエフライム(増やす)と名づけ、

「神は、悩みの地で、私に子孫を増やしてくださった」と、感謝をささげたのだそうです。




 2番目の言葉は、イエスが十字架に架かられる前夜、ゲツセマネの園で御父に祈られる時の言葉ですが、

イエスにとって、反逆者として御父から切り離されることは死ぬばかりに悲しいことだったようですね。




 けれども、イエスが、その悩み、悲しみの出来事、私たち人間に代わって、反逆者の場を受け取り、十字架刑での処刑を受けられたことで、私たちすべての人間が、なんの功績もないままの、このままで、神との正しい関係に帰る道が開かれ、「聖である霊」と呼ばれる方が、受け入れる者に来て下さることができるようになったのだそうです。




 イエスの悩み、苦しみによって、多くの者が神とのあるべき関係に立ち返り、

「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、神の子としていただくことになったのですね。




 そして、父である神と呼ばれる方が、私たち一人一人をとおしてしようと思っていらっしゃる、その思いがそれぞれの心にも来るようになり、父である神とひとつ思いを持ち、一つ行動をとるようにしていただけるのだそうです。

御父が、私を通してしようと思われることをしていく者に。

今日も。


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行動を起こし、一歩踏みだして欲しいのだそうですね。あの方。

2016-03-22 22:05:41 | 聖書から
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。

  心をかたくなにしてはならない。詩編95:7~8




御言葉を行う人になりなさい。

 自分をあざむいて、

  聞くだけで終わる者になってはいけません。ヤコブ書1:22




        (ローズンゲン日々の聖句3/23;水)




 天の神、主は、ご自分の思いを私たち人間に知ってもらおうとして、いろいろな方法で語りかけられるのだそうです。

御自身が直接語りかけられることもあるのだそうですが、それは特別な時で、たいていは、自然界を通してとか、夢や幻で、あるいは預言者をとおして、また、その預言が集められたものである聖書を通して、さらには、具体的な導き、道を開いたり閉じたりすることによってなどなど。




 しかし、御子イエスが、私たち人間の身代わりになって、十字架刑での処刑を受けて下さった今は、復活されたイエスが派遣されるもう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方によって、一人一人に対する御思いと同じ思いを、それぞれの心に書き付け、受け入れる者が御自身と同じ思い、一つ思いを持つようにされるのだそうです。




 いずれの方法であったとしても、天の神、主の語りかけを感じたとき、これをすなおに受け入れ、行動に移していってほしいのだそうです。




 そうすれば、その人は、天の神、主と心と思いを一つにし、天の神、主がその人を通してしようと思っていらっしゃることをする者となり(ヨハネ14:12)、天で成っている御心を地にもたらす者、地に持って来る者となり、天の神、主と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにし、栄光を一つにする者としていただけるのだそうです。




 だから、自分の理性の判断を差し挟んで、行動を起こさないで、聞くだけで終わらないようにと天の神、主は願っておられるのだそうですね。

今日も。


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死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を

2016-03-22 07:23:06 | 聖書から
主よ、国もあなたのもの。

  あなたはすべてのものの上に

    頭として高く立っておられる。歴代誌上29:11




私たちは、

 イエスが死の苦しみのゆえに、

  栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています。ヘブル書2:9 




      (ローズンゲン日々の聖句3/22;火)




とこしえからとこしえまでほめたたえられるべき方。
偉大さ、力、栄え、栄光、尊厳はこの方のもの。




その方が、栄光の御座をあとにして、御使いよりも低い者とされ、人間イエスとして人の世に下り、すべての人間のそむきの罰を引き受けて反逆者として、十字架刑での処刑を受けられ、その死の苦しみのゆえに、再び、栄光と誉れの冠をお受けになられたのだそうです。

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者、イエスを多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方にとして、ふさわしいことだったのだそうです。




イエスは、およそ30歳のころ、十字架刑で処刑されたのですが、過ぎ越しの祭りの安息日が始まろうとする(金曜日の日没)直前だったので、急遽、近くにあった、弟子であるアリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのですが、日曜日の早朝、新しいからだに復活されたのだそうです。

そして、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、ご自分が生きていることを証明したうえで、弟子たちが見ている前で、オリーブ山から天に帰られたのだそうです。

「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」と弟子たちに言い残して。




 それから10日後、ペンテコステの祭り(50日祭)、旧い契約締結(モーセの律法の授与)の記念の日に、がぜん、約束の、もう一人の助け主「聖である霊」と呼ばれる方が待っていた弟子たちに来られて、「見よ。その日が来る。その日、わたしは、新しい契約を結ぶ。――主のみ告げ―― わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:31~33)、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:25~27)と預言されていた新しい契約が、私たち人間の歴史の中に実現したのだそうです。




 天の神、主は、この新しい契約にすべての人が入って欲しいと願っておられ、受け入れる者に、約束のとおりに「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、一人一人に思って下さっている御思いをそれぞれの心の思いに置いてくださって、御自身と思いを一つにし、行動を共にする者にしてくださるのだそうです。




それで、受け入れる者は、天の神、主が、その人を通してしようと思っておられることをするようになり、栄光の御業を共にし、「わたしと一つになっている者」と呼ばれ、天の栄光、栄誉を共にする者ともしていただけるのだそうです。




「聖である霊」と呼ばれる方は、来てくださり、働いてくださるのですね。

今日も。


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