朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

「神はいない」と心の中で言う私たちを、ご自分の子とし、家族として

2018-07-15 07:53:18 | 聖書から
 あなたがたはもはや、
外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、
神の家族である。エフェソ書2:19(7/15の週の聖句)

 主よ、
あなたは暴虐な者たちの歌声を
低くされます。イザヤ書25:5

 悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、
神の子が現れたのです。Ⅰヨハネ3:8

 ヨハネ6:1~15
 詩53(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/15;Ⅲ日曜)

私たち、
自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、
それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ支配者として
今も不従順の子らの中に働いている霊(サタンとその配下の霊)に従って、歩んでいました。

 不従順の子らの中にあって、
自分の欲の中に生き、
肉と心の望むままを行ない、
ほかの人たちと同じように、
生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 また、肉において異邦人であり、
キリストから離れ、
イスラエルの国から除外され、
約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない者でした。

 しかし、憐れみ豊かな神は、
私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちを
キリストとともに生かし、
ただ恵みによって、
キリスト・イエスにおいて、
ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。

 神からの賜物、プレゼントとして、
恵みのゆえに、信頼によって、
〔聖である霊〕と呼ばれる方により、
父のみもとに近づくことができる、
聖なる民に属する者、
神の家族としていただけるのだそうです。

 私たちを創造された天の神、主は、
イエスによって、
この遠い昔からの不思議なご計画を、
まことに、忠実に成し遂げられ、
そして、心の中で「神はいない」と言っている(詩篇53:1)
暴虐な者、横暴な者たちの歌声を低くされ、
しずめられるのだそうです。

 私たちを神の子とし、
イエスに似た者として、
私たちを滅びへの道連れにしようとする
悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、
〔神の子〕であられる方が、
人間イエスとして人の世に現れてくださったのだそうです。

 ご自分の身に、私たちの〔的はずれ〕の責任のすべてを負って
神に呪われた者となって木にかけられ、
十字架刑での処刑を受けてくださって、
私たちを処刑済みのもの、
死んだものとしてくださり、
サタンの告発を無効にしてくださるのだそうですから。

 イエスが、テベリヤ湖(ガリラヤ湖)の向こう岸に行かれたとき、
大ぜいの人の群れがイエスを求めて集まって来たのだそうです。

 そのとき、イエスは
人々を空腹のまま帰らせたくないと思われ、
ちょうど、少年が持っていた大麦のパン5つと小さい魚2匹で、
人々を満腹にさせて帰らせたのだそうです。
男だけで5千人いたのだそうですが。

 そして、余ったパン切れを集めると、
12のかごがいっぱいになったのだそうですね。

 それで、人々はイエスを、
むりやりに、
王(キリスト、王である救い主)として立てようとしたのだそうです(ヨハネ6:1~15)。
ローマ帝国に対して反乱を起こし、
ダビデの王国を再建しようと。

 しかし、このときのイエスがこの世に来られた目的は、
この世の王国を建てるためではなく、
私たちを告発する者、
悪魔の働きを滅ぼすため、
私たちの身代わりとなって
十字架刑での処刑を受けるためだったのだそうです。

 それで、イエスは人々の手を逃れ、
ひとり、また山に退かれたのだそうです。

 私たちも、
このイエスが受けてくださった十字架刑での処刑によって、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだものとしていただけるのだそうです。
 
 墓に葬られたイエスは、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語り、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
雲に迎えられ、
天の父である神の右の座に帰られたのだそうです(使徒1:3~9)。

 そして、今、〔父である神〕の右の座にあって、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、
この方によって、
受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを同じくし、
一つ心になって、
〔父である神〕がその人を通してしようと思われることを
していくようにしてくださるのだそうですから。

 私たちを滅びに誘う悪魔の働きを滅ぼして、
私たちに神の子の身分を与えてくださり、
神の家族、〔父である神〕に近い者として。
この新しい週も。

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神との正しい在り方に帰らせていただけるのだそうです。私たちも。

2018-07-14 08:24:34 | 聖書から

 主は正義の神。
なんと幸いなことか、
すべて主を待ち望む人は。イザヤ書30:18

 あなたがたは、
御子が正しい方だと知っているなら、
義を行う者も皆、
神から生まれていることが分かるはずです。Ⅰヨハネ2:29

 黙示録3:1~6
 ヨハネ5:9b~18( 通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/14;土)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は言われます。
「ああ、反逆の子ら。
彼らははかりごとをめぐらすが、
わたしによらず、
同盟を結ぶが、
わたしの霊によらず、
罪に罪を増し加えるばかりで、
わたしの指示を仰ごうとしない(イザヤ30:1~2)。

 彼らは反逆の民、うそつきの子ら、
主のおしえを聞こうとしない子らだから。
彼らは予見者に、『見るな』と言い、
先見者にはこう言う。
『私たちに正しいことを預言するな。
わたしたちの気に入ることを語り、
偽りの預言をせよ。
道から離れ、小道からそれ、
私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ』。

 あなたがたはわたしの言うことをないがしろにし、
しいたげと悪だくみにより頼み、
これに頼った(9~12)。」

 天の神、主から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」
と望まれて造られていながら(創世記1:26)、
それで満足せず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
このようでしかないようです。

 私たちの造り主である天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちがそういう者であること、
私たちに期待できないことをよくご存じであられ、
ご自分の側で、一方的に、
「それゆえ、
主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、
あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」のだそうです(18)。
ご自身の正義をもって。

 だから、幸いなのだそうです。
この方を待ち望むすべての人は。

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を、
アダムのこの背き、「的外れ」の性質を受け継がない
「女の子孫」(創世記3:15)、
人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たち、すべての人間の身代わりとして立て、
神に呪われた者として木に架け、
十字架刑で処刑されたのだそうです。

 そして、この、イエスの処刑を、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑としてくださり、
私たちの、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっていて、
天の神、主に背き、
逆らい、
対立、対抗する
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わったもの、
死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、
この墓に葬られたイエスを、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、
神の国のことを語らせたあと、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、雲に迎えられ、
ご自分の右の座に帰らせなさったのだそうです。

 そして、このイエスを通して、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、
この方によって、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、書きしるし、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって、
ご自身がしようと思われることを、
私たち一人一人がするようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 「わたしはわたし自身からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話している」(ヨハネ8:28)と仰られた、
御子イエスと同じ在り方に。
「われわれのかたちとして、われわれに似せ」られた者に。

 それで、私たちが、
神の御子、イエスが「正しい方」、
その目的、思想、行動において、
〔父である神〕の御心に沿っている方であることを
知っている、認める、確認しているなら、

 「義を行う者」、
イエスと同様に〔父である神〕の御心を行なう者(詳訳聖書による)は皆、
イエスを通して来てくださっている
〔聖である霊〕と呼ばれる方によっている、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
新しく生まれた者である(ヨハネ3:1~8)ことも分かる(Ⅰヨハネ2:29)、というのですね。

 私たち、自分の理性を神とし、
自分の理性の善悪の判断で流されて行きやすい者ですが、
初めから聞いたことにとどまり(Ⅰヨハネ2:24)、

 自分では生きているつもりでいても、
実は死んでいる」状態に陥りやすい者であることを認めて、
どのように受け、また聞いたのかを思い出し、
それにとどまり、
立ち返りながら歩むように、
と勧められているのですね。
勝利を得る者は、白い衣を着せていただき、
イエスとともに歩むのだそうですから(黙示録3:1~6)。

 イエスが、
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。
ですからわたしも働いているのです」
と言われたように(ヨハネ5:17)、
私たちも、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いに沿って動いてみるのですね。
今日も。

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神の御思いの中に生き、動き、存在して

2018-07-13 08:35:27 | 聖書から
 大地を造り、
その上に人間を創造したのは
わたしである。イザヤ書45:12

 神は
私たち一人一人から
遠く離れてはおられません。使徒17:27

 Ⅰコリント12:12~18
 ヨハネ5:1~9a(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/13;金)

 大地も、人も、私が造ったと主張される方がおられるのだそうです。
この方は、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった方。
ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、
地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と
その住まいの境界とをお定めになった方。

 私たちの近くにおられ、
もし、私たちが探り求めることでもあれば、
見いだすこともできる方なのだそうです。

 私たちは、神の御思いによって造られ、
御思いの中に生き、動き、存在しているのだそうですから(使徒17:24、26~28)。

 ちょうど、からだが、その人の思うとおりに動いているように、
そして、からだには、多くの部分があり、
それぞれちがった働きをしているように、
私たち一人一人も、それぞれ、違っていて、
それぞれ、〔父である神〕が思われるとおりの、
違う働きをしていくのだそうです。
一つ意思のもとで(Ⅰコリント12:12~18)。


 イエスは、エルサレムのベテスダの池の回廊で、
38年もの間、病気にかかっていて、
水の動くのを待っている人を見て、
「よくなりたいのか」と問い、
言われたのだそうです。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい」、と。
すると、その人はすぐに直って、
床を取り上げて歩き出したのだそうです(ヨハネ5:1~9a)。

 しかし、これも、
イエスひとりの考えでしたことではなく、
〔父である神〕の御思いを受けてなさったこと、なのですね。

 イエスご自身が、
「子は、父がしておられることを見て行う以外には、
自分からは、何事も行うことができません。」(ヨハネ5:19)、
「あなたがたは、
わたしがわたし自身からは何事もせず、
父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを
知るようになります」(ヨハネ8:28)
と言っておられる方ですから。

 〔父である神〕は、
このイエスのように、
私たち一人一人を通しても、しようと思っておられることがあるのだそうです。

 私たちは、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」
と望まれて造られたのだそうですね(創世記1:26)。

 〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神は、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に一つになっておられる方。

 私たちは、神の、その一つに加わる者をと願われて造られたのだそうです。

 けれども、私たちの始祖、アダムは、
その神との一つの場にとどまることを善しとせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
自分一人の理性による善し悪しの判断で事を決め、生きる者、
天の神、主に背き、対立、対抗して生きる、
「的外れ」の存在になったのだそうです(創世記3:5、22)。

 そして、私たちは、
このアダムの性質を受け継ぎ、
「的外れ」の者として生まれて来ているのだそうですね。

 〔父である神〕は、
このわたし自身である、〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑で
処刑された者、死んだものとしてくださるのだそうです。

 それで、私たちは、
この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
死んだものから出て来たものと認めて、
イエスの前に差し出し、見ていただき、受け取っていただきながら生きるのだそうです。

 そして、イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~38)。

 それで、この私たちも、
この部分においては、
〔父である神〕と同じ思いを思い、
心を一つにするようにしていただけるのですね。
イエスのように、
〔父である神〕がしようとすることをしていく者に。
今日も。

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知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知り、畏れ敬う霊が、私にも来られて

2018-07-12 08:51:30 | 聖書から
 エッサイの若枝の上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、
思慮と勇気の霊、
主を知り、畏れ敬う霊。イザヤ書11:2

 群衆は皆、
何とかしてイエスに触れようとした。
イエスから力が出ていたたからである。ルカ6:19

 マタイ18:1~6
 ヨハネ4:43~54(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/12;木)

 エッサイは、ダビデ王の父親です。
「エッサイの若枝」とは、ダビデ王の子孫として生まれる方のことなのですね。

 ダビデの子孫として生まれ、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方の霊がとどまる方。

 その霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、
主、「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られ方を知る知識と
主を恐れる霊」(新改訳)なのだそうです。

 イエスが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、
水から上がられたとき、
天が開け、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方が鳩のように下って、
イエスの上にとどまられたのだそうです。

 そして、天から声が聞こえたのだそうです。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:16~17)、と。

 イエスに対するバプテスマのヨハネの証言は次のようです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
私が、『私のあとから来る人がある。
その方は私にまさる方である。
私よりも先におられたからだ』と言ったのは、
この方のことです(ヨハネはイエスよりも6か月先に生まれている)。

 私もこの方を知りませんでした。
しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、
私は来て、水でバプテスマを授けているのです。
御霊が鳩のように天から下って、
この方の上にとどまられるのを私は見ました。

 私もこの方を知りませんでした。
しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、
私に言われました。
『御霊がある方の上に下って、
その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、
その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
私はそれを見たのです。
それで、この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハネ1:29~34新改訳)。

 このときから、イエスは、
キリスト(神の子、救い主)としての働きを始められたのだそうです。
イエスの回りには、
多くの弟子たちの群れや、
ユダヤ全土、エルサレム、
ツロやシドンの海辺から来た大ぜいの民衆がいたのですが、
病気の人や汚れた霊に悩まされていた人は、
何とかしてイエスにさわろうとしていたのだそうです。
大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたのだそうですから。

 天の御国、
このイエスが王として統治される国は、
この世の国とはちょっと違うようですね。
この世の国では、優秀な者、強い者が偉いとされます。

 あるとき、弟子たちがイエスのところに来て言ったのだそうです。
「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか。」
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、
彼らの真ん中に立たせて、と言われたのだそうです。
「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて子供たちのようにならない限り、
決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、
自分を低くする者が、天の御国では一番偉い人です。

 また、だれでも、
このような子どものひとりを、
わたしの名のゆえに受け入れる者は、
わたしを受け入れるのです。

 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでも
つまずきを与えるような者は、
大きい石臼を首にかけられて、
湖の深みでおぼれ死んだ方がましです」(マタイ18:1~6)。


 イエスが、ガリラヤのカナに行かれたとき、
カペナウムに病気で死にかかっている息子がいる
王室の役人がイエスのところに行き、
下って来て息子をいやしてくださるよう願ったのだそうです。

 そこで、イエスは彼に言われた。
「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
その王室の役人はイエスに言った。
「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来て下さい。」
イエスは彼に言われた。
「帰って行きなさい。
あなたの息子は直っています。」

 その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、
彼の息子が直ったことを告げた。
そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、
「きのう、第7時(午後1時)に熱が引きました」と言った。
それで父親は、
イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。
そして彼自身と彼の家の者がみな信じた(ヨハネ4:46~53)、のだそうです。

 私たちの身代わりになって、
十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、雲に迎えられ、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスは、
そして、そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
今も、このように、働いておられるのですね。

 私たちが、イエスが示された小さな子どものように、
天の神、主に向き直って、
御名を呼びながら出て行くところで、、
〔父である神〕がしようと思われるとおりの御業を
実現してくださるのだそうですから。
今日も。

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汚れた唇の者をも

2018-07-10 22:45:48 | 聖書から
 イザヤの言葉:
災いだ。
私は滅ぼされる。
私は汚れた唇の者。
汚れた唇の民の中に住む者。イザヤ書6:5

 偽りを捨て、
それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。エフェソ書4:25

 使徒16:23~34
 ヨハネ4:27~42(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/11;水)

 神殿に神の臨在が満ちたとき、
それに接したイザヤは思わずこう叫んだのだそうです。

 「汚れた唇」。
〔汚れた霊〕から汚れた思いが心に来て、
それが唇から、言葉となって出て来る、ということなのでしょうか。

 ペテロも、イエスの神聖に接したとき、
イエスの前にひれ伏し、
「主よ。
私のような者から離れてください。
私は罪深い人間ですから」と言ったのだそうです(ルカ5:8)。

 私たち、神の聖さに触れるとき、
「私は滅んでしまう」との畏敬の念に包まれるようです。

 けれども、〔父である神〕は、
私たちと、心が通じる者、一緒にいる者になろうとして、
〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちの身代わりにして、
神に呪われた者として木に架け、
十字架刑で処刑されたのだそうです。

 そして、このイエスの処刑によって、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済み、死んだものとしてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者は、
このままで、
はばかることなく、
神の御前に出ることができるようにしてくださるのだそうです。

 「主イエスを信じなさい。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」(使徒16:31)
のだそうですから。
だから、私も、自分でよく聞いて、
このイエスがほんとうに世の救い主だと
分かり、知る(ヨハネ4:42)ことが大切なのでしょうね。

 十字架刑での処刑を受けられたイエスは、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
雲に迎えられて、
天の父である神の右の座に帰られたのだそうです。

 〔父である神〕は、
このイエスと通して、
受け入れる者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、

 この方によって、
私たちの心に、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者は、
この方によって、
〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心にしていただけるのだそうです。

 偽りを捨て、
隣人に対して真実を語る心にも。
今日も。

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