朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

神に似せられた者に

2018-07-10 06:31:23 | 聖書から
 主は正義を愛される。詩37:28

 あなたがたは神に愛されている子供ですから、
神に倣う者となりなさい。エフェソ書5:1

 出エジプト14:15~22
 ヨハネ4:1~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/9;月)

 施し散らして、
なお富を増す人があり、
与えるべきものを惜しんで、
かえって貧しくなる者がある。箴言11:24(口語訳)

 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。ヘブル書13:2

 使徒2:32~40
 ヨハネ4:15~26(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/10;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
正義を愛される方、
公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない方、なのだそうです。

 私たち、この方から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、
わたしたちと一つである者を」(ヨハネ17:21~23)
と願われて造られていながら、

 「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
天の神、主と、思いと一つにし、心を一つにしていく生き方から、
神にそむき、対立、対抗して、
自分のだけの理性による善悪の判断で生きる、
「的外れ」な生き方をする者になっているのだそうです。

 天の神、主は、そのような私たちを、なお、見捨てず、
最初の創造の目的である、
ご自分と心を一つにする者に回復しようとしてくださっているのだそうです。
神に似せられ、神に倣う者に。

 それで、〔父である神〕は、
〔御子〕を、人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして木に架け、
十字架刑で処刑して、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済み、死んだものとしてくださっているのだそうです。

 そして、死んで葬られたイエスを、
三日目に新しい霊のからだに復活させ、
弟子たちの見守る中、
天の、ご自身の右の座に返らせなさったのだそうです(使徒2:32~40)。

 そして、このイエスを通して、
受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方の働きで、
受け入れる者の心に、
ご自身の思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、
天の神、主に似た者、倣う者ともなって行くのだそうです。
正義を愛し、貧しい人に施し散らし、旅人をもてなす者にも。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
泉から水が湧き出るように、
〔父である神〕が、
私たちひとりひとりを通してしようと思われる思いを
心に湧き出させてくださり(ヨハネ4:14)、
〔父である神〕がしようと思われることが、
大きな幾つもの川々となって
私たちの腹から流れ出る(ヨハネ7:38)ようにしてくださるのだそうですから。

 神に似せられて行く日々に。
今日も。

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砕かれた、悔いた心で

2018-07-08 22:01:38 | 聖書から

 恐れるな、
わたしはあなたを贖(あがな)う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。イザヤ書43:1(7/8の週の聖句)

 主は、
家畜のためには牧草を茂らせ、
地から糧を引き出そうと働く人間のために、
さまざまな草木を生えさせられる。詩104:14

 私たちに必要な糧を
毎日与えてください。ルカ11:3

 マタイ28:16~20
 詩51(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/8;Ⅱ日曜)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たち、人間を造ろうと考えらたのだそうです。

 そして、まず、私たち人間の住みかとして、
この天地、宇宙、この地球の自然環境を創造し、
整えて下さったのだそうです。

 そして、準備が全部出来上がったところで、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰って、
私たち人間を造ってくださったのだそうです。

 「われわれのかたち、われわれに似せて」。
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
愛と尊敬において、
自由意思で自発的に、
思いを一つにし、心を一つにし、
行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、
その一つに、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に加わる者をと願われて(創世記1:26)。

 けれども、私たち人間の始祖、アダムとエバは、
造られた場、
その、天の神、主との一つの場にとどまることを善してせず、
もっと偉い者、すばらしい者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです(創世記3:5、22)。

 天の神、主に背き、
対立、対抗する者、
創造の目的から「的外れ」になった者に。

 そして、私たちは、その背きの性質と受け継いで、
生まれながらにして、
神にそむく者、「的外れ」の者として生まれて来ているようです。

 けれども、天の神、主は、
そのような私たちを、なお、愛し、大切に思い、
私たち人間を、最初の創造の目的のとおりに、
ご自身と一つになるものに取り返す、回復することを計画されたのだそうです。

 それで、この、私たちの人間の歴史を導き、
この人間の歴史の中に、〔御子である神〕が来られたのだそうです。

 アダムの「的外れ」の性質を受け継がない「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫である処女マリヤから生まれたイエスとして。

 そして、この方は、およそ33歳の頃、
私たち人間の身代わりとなり、
私たち人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
神にそむいた者、神に呪われた者として。

 〔父である神〕は、このイエスのいのちを、
私たちの贖(あがな)い(買い戻し)の代金として支払ってくださり、
受け入れる者を、
人となられた〔御子である神〕イエスのいのちで買い戻された者とし、
「わたしのもの」として、
受け入れる者を名をもって呼んで下さるというのですね。

 このイエスは、十字架に架けられ、死んで葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
雲に迎えられ、天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

 〔父である神〕は、このイエスを通して、
受け入れる者に、
もうひとりの方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 そして、この方によって、
私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
書きつけてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、
この部分において、〔父である神〕と同じ思いを思う者、
心を一つにする者としていただけるのだそうです(ヨハネ17:21~23)。
〔父である神〕がその人を通してしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。

 そして、この、新しい生き方を願い、受け取っていく者に、
着る物、食べる物、飲む物など、
生活に必要なすべてのものを添えて与えてくださるのだそうです。

 十字架に架かられ、
三日目に死人のうちより復活したイエスは、
天に帰られる前に、弟子たちに言い残していかれたのだそうです。

 「わたしには天においても、地においても、
いっさいの権威が与えられています。
彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わるまで、
いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:18~20)、と。

 天の神、主は、この、新しい生き方を、
恵みのプレゼントとして
受け取ってほしいと願っておられるのだそうですね。

 砕かれた、悔いた心。
「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、
あなたの豊かな憐れみによって、私の背きの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、
私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
ああ、私は咎ある者として生まれ、
罪ある(的外れの)者として母は私を身ごもりました。

 神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に返し、
喜んで仕える霊が、私を支えますように(詩篇51)、
と願う心が、この、プレゼントを受け取ることができる心なのだそうですから。

 神の愛、
イエスによる恵みの中へ。
この新しい週も。

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神の慈しみを頼りに

2018-07-07 07:47:47 | 聖書から
 主よ、
あなたの僕を裁きにかけないでください。
御前に正しいと認められる者は、
命あるものの中にはいません。詩143:2

 神の慈しみと厳しさを考えなさい。ロマ書11:22

 フィリピ書3:12~16
 ホセア書14:2~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/7 )

 自分の力で神の律法を守って
合格の基準に達する者はいないのだそうです。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。
ひとりもいない」(詩篇14:1~3、ロマ3:10~12)と書かれているように。

 そのような、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになって」いて、
造り主、
自分の存在の元である方である
天の神、主に背き、対立、対抗している私たちを、
 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
なお、あわれんでくださって、
創造の目的である、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、彼らもまた一つである」(ヨハネ17:22)ように
回復しようとしていてくださるのだそうです。

 これは、私たちの側のどんな働きにもよらず、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方からの、
一方的な恵みとしてプレゼントされているものなのだそうです。

 私たちは、伝えられて、このことを知る者とされましたが、
知っているということと
そのことが自分の身になっているということとは違うのですね。

 だから、パウロが言っているように、
「私は、すでに得たのでもなく、
すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追及しているのです。
そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったからです。

 私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えていません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる
神の栄冠を得るために、
目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12~14新改訳)と認めて、
何度でも聞き、思い出し、目当てを確認しながら、
立ち返り、立ち返り(ホセア14:1、新共同訳では、2)
そのことが自分の身に成るよう、
求めていくといいのだそうです。

 「求めなさい。そうすれが与えられます」(マタイ7:7)、
のだそうですから。

 神の慈しみの中で。
今日も。

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耳を植えた方、目を造った方なのですから

2018-07-06 09:07:30 | 聖書から
 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
目を造った方に見えないとでもいうのか。詩94:9

 主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。Ⅰペテロ3:12

 Ⅱコリント12:1~10
 ホセア書13:1~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/6;金)

 私たちは思うのですね。
「神は見ることがない。
神は気づかない。
私たちが善を行っても悪を行っても
何も変わることはない」と。

 けれども、私たちの耳を植えた方に聞こえないということが、
目を造った方に見えないということがあろうかと言われるのですね。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの思い計ることがいかに空しいかを知っておられるのだそうです。

 私たちの心の中は、
神に見られると困るような思いがいっぱいあり、
私たちは祈りを聞いていただけるようなものではありません。

 それで、〔父である神〕は、
その、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を処罰済み、
処刑済み、死んだものとし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、
この方によって、受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
受け入れる者がご自身と一つ思い、
一つ心になるようにしようと計画してくださったのだそうです。

 そして、その計画のとおりに、
〔御子である神〕が、
人間イエスとして、人の世に来られ、
およそ33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
このイエスが受けてくださった処刑を、
私たちの処刑としてくださり、
私たちを処刑が済んでいる者、死んだものとしてくださり、
このイエスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来た、
ご自身の御思いによって生きる私たちを見ていてくださり、
そのを祈りを聞いていてくださるのだそうです。

 けれども、また、パウロのときのように、
すばらしい体験をしたことで、私たちが高ぶり、
古い自分を生かす生き方に戻ってしまって、
滅びに至ることがないようにと、
私たちが自分の弱さを感じるようにも、されるようですね。

 パウロは、
肉体に与えられたとげを去らせてくださるようにと、
三度も主に願ったのだそうです。

 しかし、主は、
「わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」
と答えられたのだそうです。

 それで、パウロは、
「ですから、キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
私が弱いときにこを、私は強いからです」(Ⅱコリント12:1~10)と言うのですね。

 「エフライムが震えながら語ったとき、
主はイスラエルの中であがめられた」(ホセア13:1新改訳)のだそうですから。

 私たちも、自分の弱さを感じることで、
神に、新しい自分に立ち返り、
神を呼び、全部見ていただきながら、
聞いていただきながら、
御思いの中を、
御力におおわれながら進ませていただけるのだそうですから。
今日も。

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主は生きておられ、語られるのだそうですから。今日も。

2018-07-05 12:14:38 | 聖書から
 主は生きておられる。
私の神が言われる事を私は告げる。歴代誌下18:13

 御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい。Ⅱテモテ4:2

 使徒15:4~12
 ホセア書12:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/5;木)

 イスラエルが、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれていた
BC850年ころのこと、
北イスラエルの王アハブは、
南ユダの王ヨシャパテを誘って、
ラモテ・ギルアデのアラム人を攻めようとしたのだそうです。

 そのとき、ヨシャパテは、
「まず、主の言葉を伺ってみてください」と提案したのだそうです。
そこで召し集めらた預言者たち、400人は、
「上って行きなさい。
そうすれば、神は王の手にこれを渡されます」と預言していたのだそうです。

 預言者ミカヤを呼びに来た王の使者は、
「いいですか。
預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。
お願いですから、あなたも皆と同じように語り、
良いことを述べてください」と言ったのですが、

 ミカヤは
「主は生きておられる。
私の神が告げられることをそのまま述べよう」(新改訳)と答えたのだそうです。

 そのように、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、
自分につごうの良いことを言ってもらうために、
気ままな願いをもって、
次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、
空想話にそれて行くようになるのですね。

 それで、パウロは、弟子のテモテに
「みことばを宣べ伝えなさい。
時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、
絶えず教えながら、
責め、戒め、また勧めなさい」(Ⅱテモテ4:2~4 新改訳)と命じているようです。

 初代教会の頃、
パウロの宣教によって生まれたアジア州(今のトルコ)の異邦人教会に、
ユダヤから下ってきた人たちが、
「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、
あなたがたは救われない」と教えて、

 「イエスを信じるだけで救われる」と伝えていた
パウロたちと対立していたのだそうです。

 そこで、この問題を話し合うため、
パウロたち数人がエルサレムに上ったのだそうです。

 パリサイ派(律法を自分で守ることに熱心なグループ)の者で、
イエスを信じるようになった人々は、
「異邦人にも割礼を受けさせ、
また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張したのだそうです。

 激しい論争があって後、
ペテロが立ち上がって、
「兄弟たち。
ご存知のとおり、
神は初めのころ、
あなたがたの間で事をお決めになり、
異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
そして、人の心の中を知っておられる神は、
私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、
彼らのためにあかしをし、
私たちと彼らとに何の差別もつけず、
彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

 それなのに、なぜ、今あなたがたは、
私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、
あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
私たちが主イエスの恵みによって救われることを私たちは信じますが、
あの人たちもそうなのです」と言って、
「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけない。
どんな重荷も負わせない」(使徒15:1~29)という結論に導かれたのだそうです。

 この問題は、
今、異邦人の私たちが主体の信じる者の集まりでは、
あからさまなかたちでは、ほとんど問題になりませんが、
ユダヤ教の人たちが、どんどん、イエスをキリストとして受け入れ、
加わって来ると再燃することになるのかもしれません。

 現に、メシアニックジュウ(イエスをキリストと信じたユダヤ人)の間では、
この問題が起こっているようですから。

 私たち、天の神、主の、憐れみと恵みによる、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑で、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている」
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済みのもの、死んだものとしていただいていることを認め
(これを生かし、立派にし、きよめ、信仰深くしていくのではなく)、

 このイエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕の御思いによって生きる(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28)
この新しい生き方をもらって行くようにと勧められているのですね。

 〔父である神〕は、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に語り、
幻(神がこれからしようとされていること)を
示してくださる(ホセア12:10)のだそうですから。
今日も。

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