第3章 度の過ぎた新自由主義
新自由主義は、日本の昨今ではニューリベラリズム(Social Liberalism)というよりネオリベラリズム(Neoliberalism)の概念としてこの国に取り込まれている。ネオリベラリズムとニューリベラリズムの説明をそれぞれ挙げておく。
◎ネオリベラリズム・・・1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。1970年以降の日本では主にこの意味で使用される場合が多い。
◎ニューリベラリズム・・・初期の個人主義的で自由放任主義的な古典的自由主義に対して、より社会的公正を重視し、自由な個人や市場の実現のためには政府による介入も必要と考え、社会保障などを提唱する。社会自由主義および社会的市場経済を参照。
ネオリベラリズムの説明にある1970年が日本の新自由主義経済への傾倒の始まりであり、この年の1月14日に第3次佐藤内閣が発足している。むろん自民党政権であるが翌71年7月5日で終焉している。続くは第2次まで保たれる田中角栄首相の下の内閣である。飛んで中曽根首相、更には小泉純一郎、そして安倍晋三や菅義偉、岸田文雄とたづなはつながれる。この間、個人主義の扇動はかえって各個の疲弊をもたらしそのまま各個は各個の充実をはかりたく思う時代に入っているのが今現在である。
1970年から最初の20年は移行期ということもあって弊害が目立たなかった新自由主義であるが、やがてはこんにち(2023年)に至るまでを「失われた30年」と呼ばわす景気低迷に陥らせた。日本の経済的国力の詳細は後ほど記す※5※6。これで福祉国家でもない日本が、どこからどうやって少子化対策への財源を充てられるだろうかと費用対効果で不毛になることが心配である※4。しかも少子化対策と軍事費倍増という二本柱である。軍事費は従来を維持するとしてもだ。各個の子供持ち家庭及び子供持ちたい家庭に子供を育て上げるだけの原資を有していたとしても、実質子供はせいぜい一人でそれ以上は要らないとしているとすればであるなら、なんとなくきこえがいい政策という名のバラマキに過ぎない。※3参照
岸田政権発足時、岸田首相は「新しい資本主義」を掲げて爽やかにも華やかに登場した。であるが実質は、それに内容の伴う考えがあって唱えたわけでなし、最初にタイトルありきで、後程経済政策を審議する会議を立ち上げたに過ぎない。
フランス語に世界でも知れ渡っている有名なフレーズがある。今2つ挙げるとする。それは、”Laisse-faire” と “C’est la vie” である。前者は「放っておけーなるようになる」の意であり、後者は「それも人生だー何も心配することはない」との意でどちらももともとは人生を前向きに捉えようとする人生訓だ。しかしながらこれらが新自由主義を体現している言葉であり、度が過ぎるとその意味合いも変わってくる。Laisse-faireは自己放任であり、自助を強調するあまり、「好き勝手にやれよー誰も責任とらないけれどな」の意に、C’est la vieは他者不干渉であり、自責を強調するあまり、「それもこれもあなたから派生するものー誰も責められないあなた自身のこと」の意にと、非常に後ろ向きなこんにちの社会で包摂しようとの指向とは裏腹な現実を暗示している。