SDTMの気まま空間

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【光村ライブラリ】中学生版

2006-03-09 01:51:46 | 書評
★ 図書館にこのTOPの画像にあるような本が5冊新刊でおいてあり、なんとなく触手が伸びて、一気読みしてしまいました。

  光村図書のHPにこのシリーズの紹介も出ており、中学生用国語教科書で掲載した中で選りすぐりを纏めたものだということです。HPにも掲載内容が出ています。

  1~3:文学、4:解説、5:詩というジャング分けがしてありました。

  文学のシリーズで読み応えを感じたのが2,3ありました。その中で
  
  山本周五郎作の「内蔵允留守(くらのすけるす)」「鼓くらべ」が心に残りました。人生訓というか、なかなか箴言が響きます。柔らかい文体の中で表現することのできる小説家って凄いなぁ~と痛感しております。
  食わず嫌いというか今まで山本周五郎の作品は従来読んだことが無く、この機会は非常に有意義でした。今後、山本周五郎の作品を図書館で読むことになりそうです。

  後、詩のジャングでは松任谷由美の「春よ、こい」も掲載され、あたらし目のもあるのだな、、と思ったりもしました。(H18年度の中2国語教科書に掲載されています)

  蛇足ながら、H18年度の中3の目次を見て
最初と最後の掲載内容が「なるほど」と思いました。

>ね。山猫編集長、ちとせさん。

  国語の教科書って、よく出来ていますね。しかし、中学生、高校生時代はまるで記憶に無い、、ちゃんと読んでいないのはバレバレですね。
  娘の教科書を借りて読んでみようっと。。

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なるほど! (山猫編集長)
2006-03-09 22:05:46
長田弘さんの「サラダの日々」が好きです。

新川和江さんの「わたしを束ねないで」は、新川さんを代表する作品ですよね。

ワタシは、中学の教科書で印象深いのは、「走れメロス」です。これで太宰を誤解してしまって・・・というより、この作品で太宰にだまされた一人です。

はは。

--(や)--



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すてきな内容に驚き! (まざあぐうす)
2006-03-10 16:57:51
 SDTMさん、トラック・バックとコメントをありがとうございました。

 中高生の教科書をじっくり見るという機会が最近なかったのですが、ふと、この記事を読み、息子の国語や音楽の教科書を見てみようと思いました。



 光村図書と言えば、私が学生だった頃から教科書の出版会社として記憶していますが、中三の目次のすてきな内容に驚いています。星野道夫さんの文章などいいなあと思いました。著者とは同年代なので、自分が中高生の多感な時期に星野さんの文章に出会っていたらどうだったかな・・・などと想像しています。



 早速、この春中学を卒業する息子の教科書を見てみます。
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Unknown (まざあぐうす)
2006-03-11 19:41:29
 星野道夫さんと同年代と書いてしまいましたが、星野さんは私より9歳年上でいらしたことが分かりました。お亡くなりになられた年齢と今の私の年齢が同じです。

 すっかり勘違いしていました。
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わたしを束ねないで (まるこす)
2006-05-23 17:13:12
こんにちは!!!東京在住の中③です。

「わたしを束ねないで」に」ついて質問があってきました。

わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱のように

束ねないでください わたしは稲穂 続く・・・

とありますが、普通だったら「束ねないでください」と来たら改行した後に「わたしは稲穂」と来るんじゃないでしょうか??なぜ新川さんは改行しないんですか??意見があったら教えて下さい。
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中③って、娘とおない年 (SDTM)
2006-05-23 19:48:05
★ いや、通常、稲穂は束ねられるのでしょう。



  だから倒置の反語用法ではないかと推察してます。

  「白い葱のように」は前の

  「あらせいとうの花のように」との

  等価な並列で、下には繋がっていません。





  それゆえ、改行しないのではないでしょうか。
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Unknown (ゆり)
2006-05-24 20:12:06
ありがとうございました!!!!!助かりました!!!
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「わたしは稲穂」は倒置の反語説、に対する反論 (文ちゃん)
2007-01-11 10:26:55
理由①一連5・6行で、稲穂を肯定的に描いている。「束ねられるもの」としてでなく、「胸を焦がす大地の、見渡す限り広がる、金色の、稲穂」として描かれている。だから、「わたし」は「稲穂」であることをよしとし、稲穂であろうとしている。ただし、従来の稲穂観を覆した上での「稲穂」に。
理由②他の連をみても、同様な形式で書かれている。各連とも、4行目末尾のものは、5、6行目で修飾され、限定され、言い換えらている。一連だけ、倒置の反語とするのは、理由が無く不自然である。

この議論のおおもとである、「わたしは稲穂」が改行されていない理由について。改行しない方が落ち着きが悪い。「ここで止まるかな、と思ったが、次へと転がっていく感じがする。」これは平安以降の七五調に慣れた私たちが万葉の五七調を詠むときに似ている。この「転がり感」が次々とつながっていく感じを生み、無限に広がる「私」の存在の可能性というような、この詩の主題形成の一要素となっている。だから、改行されていない。以上、私見です。  
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文ちゃん様 (SDTM)
2007-01-11 16:10:07
★ コメントを有難う御座います。

  文系ではないので、なかなか理解できない内容もあると思います。
  中学生にも理解しやすい解説を是非お願いします。
  SDTMも迂闊にもコメントしたことが色々と波紋を呼ぶ事に一抹の不安をおぼえます。

  勉強になりました。
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