まさか、こんなにも恥ずかしいとは思わなかった。
その朝、目が覚めて朝ご飯を食べようと台所に行くと先に起きて準備をしていたマルコーさんは声をかけてきたのだ、えっ、となってしまった。
ちゃんをつけて呼ぶのは父、父さん、お父ちゃんだけだと思っていたのに。
自分が小学生、子供ならいいのだが、この歳では、どうかと思ってしまう。
「よ、呼び捨てでいいです、みやで」
一瞬、奇妙な間の後、マルコーさんも慌てたように。
「そ、そうだな、ははっ、いや、確かに、そっ、そうか」
なんだか、場の空気を誤魔化すような笑いに多分、本人も名前を呼ぶのは悩んだのではないかと思うのだ。
見ず知らずの他人との関係の難しさを改めて知った、朝の目覚めだ。
「実は頼みがあるんだが」
その日の夕方、マルコーさんに言われたのは村の老婆が畑仕事で腰を痛めているのでマッサージをしてくれないかというのだ、正直、いいのかと思ってしまった。
素人、免許を持っていない、でも、ここは日本じゃない、臨機応変、郷に入れば郷に従えというし、先生から頼むと言われて即決で断るのは人としてどうよと思ってしまう。
こういうところ、自分は日本人だなあと思ったが、翌日、後悔した。
診療所から村まで歩いて行くのだが、距離があった、平坦なアスファルトの舗装された道路ではない、でこぼこ、石ころむき出しの道なので途中で何度か躓き、転んでしまった。
マルコー先生に驚いた顔で大丈夫かいと声をかけられたときは情けない気持ちになってしまった、年上の先生の方が体力あるじゃないか。
「凄いねえっ、随分と楽になった、ミヤさん」
老婆に礼を言われて嬉しいなあと思ってしまう、ところが料金はと言われてはっとした。
お金、ここは円、ドル、フランじゃないだろう、どうすればいいと思ったが。
「修行中の身ですので金銭の授与は駄目なのです、師匠に怒られます」
「えっ、でもねえ」
ただより高い物はないというのはわかる、だが、この時、思った。
「乗り物、ありませんか」
老婆は少し考え込んでいたが、何かを思い出したようについておいでと言われて案内されたのは、物置というか、ゴミ捨て場のような場所だ。
患者の家から出てきたマルコは先生ーと呼ばれて振り返った、凄い勢いで近づいてくるのは自転車に乗った彼女だ。
「どうしたんだ、これ」
「ちょっと、お借りしたんです」
女は嬉しそうな声だが、反対にマルコは力なく言った、自転車に乗った事がないんだと。
「大丈夫です、運手は私が、さあ、鞄を」
後ろに乗ってくださいと言われてマルコは、きょとんとした顔になった、荷台にはクッションが縛り付けてある。
普通なら男が運転するのではと思うが、この場合は仕方がない、しかし道の悪さと不安定さから途中で体が何度か跳ね上がりかけた、思わず降りると言いそうになったが、必死にペダルをこいている女に止めてくれというのも気が引けて、ようやく家に着いたときには、ほっとしたと同時に、ぐったりとしてしまった。
自転車で帰ったまではよかったのだ、だが、翌朝、脹ら脛がパンパンで腕がだるだる、ベッドから起き上がるのも億劫になってしまい台所に行くと不思議そうな顔で見られてしまった。
筋肉痛ですなんて恥ずかしくて言えない、一応、見栄というか、強がって何でもないですと言ってみたけど、もしかしたらばれているかもしれないと思ったら先生もだ。
その日は往診がないという事で診療所で患者さんが来るのを待つだけらしい、ほっとした。
移動の為の足が必要だと思った、自転車ではむっこう大変だ、それにここは雪が降るらしい、それもかなり積もるらしいと聞いて驚いた。
正直、いつまでここにいることになるのか、先生の知り合いが来て、もしここから出て行く事になったらどうなるかわからないし、そんな事を悶々としながら考えていると気が滅入ってしまった。
「先生、本当に助かりました」
その日、往診に行った先、女性から渡されたのは女物の服と下着だ、彼女が金銭は受け取らないので物資でということらしい。
「真面目な人だね、これ、少しだけど」
自分が受け取る診療代金が、わずかばかりだが多い。
「うちの旦那、足が楽になったって、あの人は街へ出て開業とかしないのかい、免許を持ってないからできないと言ってたけど、そんな人間、街にはたくさんいるでしょう」
「色々と事情があってね」
マルコは、ははと笑って誤魔化した。
「うちの子供達の似顔絵とか、色々な話をしてくれてね、いいところの出なんじゃないのかい、まあ、金があっても幸せとは限らないんだね」
マルコが尋ねると、女は不思議そうに言った。
「今が一番楽しいって笑うもんだからさ」
ジープには三人の男が乗っていた、運転しているのはロイ・マスタング、助手席にはゾルフ・J・キンブリー、後部席には傷の男、スカーというメンバーだ、半日近く走り続けているのに三人は無言で殆ど口を聞く事もない。
互いに仲が良いという訳ではないから当然だ、ただ、今回は仕事、知り合いに会いに行くなどと諸事情が重なり合ってしまい、いくら役職持ちの偉い人間でも一人一台という割り当ては認められないと言われてしまった結果が今の状況を生み出していた。
何故、自分の隣の助手席が男なんだとロイ・マスタングは不満に思っていたが、それを口に出さなかった、やはり一人女の部下を連れてくれば、このドライブも少しは楽しいものになっただろう。
キンブリーはといえば、この女好きの男は自分が隣に座っていることに不満を持っているんだろう、感情がダダ漏れだと思いながらいい気味だと内心腹の中でにやにやとしていた。
スカーに至っては考え事だ、二週間前にマルコーから会いたいと連絡を受けて、ようやく時間が取れたことにほっとしていた。
直接会って話したいというので、もしかして何か厄介ごとでもと思ったが、時間ができたら会いに来てくれと照ったマルコーの口調から、そんな様子は感じられなかった。
突然、車の速度が上がった、キンブリーとスガーは驚いた。
「な、なんです」
「おい」
二人の男などマスタングは完全に無視、スルーだ、石ころだらけの道なき道をジープは猪突猛進して、突然、止まった。
ジープは女の隣でピタリと止まった。
どちらへ行かれるのですかと、マスタングの言葉に両手に買い物袋を提げた女は足議そうな顔をしたが、無理もない。
「だ、大丈夫です、診療所まで少しですから」
「大変な荷物だ、実は我々も診療所に用があって向かうところです、よければ乗ってください」
マスタングの言葉に女は首を振った。
「いきなり、ナンパですか、制服姿の軍人が、相手が驚くのも無理はありませんよ」
女の表情がわずかに固まった。
「実は車に酔いやすくて、ここは道も悪いですし」
女の言葉に助手席から男が降り立った。
「実は私もです、嗚呼、私、探偵をしています、キンブリーと言います、マルコー先生にご相談したいことがあって参りました、ジープの乗り心地は確かによくありませんね、私も少し疲れていたところです、さあ、荷物を」
女の手から荷物を受け取ると後部席に視線を向けた。
「あなたの気持ち分かりますよ、彼は犯罪者ではありません、顔つきは怖いですが、同乗するの不安でしょう」
「あっ、いえ」
この時点でできあがっていた図式は、軍人と強面の男=犯罪者だ。
走り去るジープを見送りながらキンブリーは、にっこりと笑みを浮かべた、退屈なドライブよりも道の悪さを割合しても、こちらの方が百倍もマシだと思いながら女に声をかけた。
「さあ、行きましょう」