1955年製作 黒白 113分
〔監督〕ジュリアン・デュヴィヴィエ
〔撮影〕アルマン・ティラール〔美術〕ロベール・ギス〔音楽〕ジャン・ヴィーネル
〔封切〕1956年4月(フランス)、同年8月(日本)
1934年から1936年に、ジュリアン・デュヴィヴィエはジャン・ギャバンの出演映画を立て続けに5本撮った。最初の2本、『白き処女地』と『ゴルゴダの丘』ではギャバンは準主役ないし脇役だったが、続く『地の果てを行く』『我等の仲間』『望郷』では完全にギャバンが主役で、この3本はまさに30歳を過ぎたギャバンの代表作となった。ギャバンの演じた主人公は、男らしくエネルギッシュで行動的だが、心の中に何か鬱屈したものを持っていて、孤独な影を感じさせるような人物であった。
第二次大戦中にデュヴィヴィエもギャバンも米国に渡り、ハリウッドで二人は再会し、『逃亡者』"The Impostor"(1943年製作)という映画を撮っている。
大戦後、二人ともフランスへ帰ったが、デュヴィヴィエは自分の監督する映画にずっとギャバンを使わなかった。そして、大戦後10年経ってようやく、再びギャバンと組んで、映画を作ることになった。ちなみにデュヴィヴィエは戦後24本の作品を監督しているが、ギャバンの出演作はこの1本だけである。
まず、デュヴィヴィエとギャバンの間で、映画の話が持ち上がったようだが、50歳になったギャバンを主役にして実際どんな映画を作るかに関してはなかなか決まらず、難航したという。
この映画の脚本家の一人モーリス・ベシーはこう語っている(フランス語版ウィキペディアからの孫引きだが、日本語に訳しておく)。
――映画の主題を見つけるのが大変だった。最初のシナリオはお流れになった。ギャバンはカジノの強盗の話はどうかと言った。デュヴィヴィエと私は自動車修理工の話を考えたが、ギャバンがそれを拒んだ。前に自動車修理工はやったことがあったので、違う役をやりたいと言うのだ。ギャバンという俳優は容易ではなく、あれもダメ、これもダメだと言うので困った。デュヴィヴィエと私は、仕事で滞在していたサントロペからの帰り道、ソリューの大きなレストランに立ち寄った。そのとき、急にアイデアが浮かび、物語が出来上がったのだ。デュヴィヴィエが私にこう言った。「ギャバンは美食家だから、レストランの主人をやらせたらオーケーするさ」
『殺意の瞬間』は、陰惨で恐ろしい映画である。スリラーでもホラーでもなく、あえて言えば犯罪ドラマだが、中年男をだます若い娘の魔性を余すところなく描き出している。女という生き物はなんと恐ろしいものか、とつくづく感じさせる。と同時に、男というのはなんと若くて美しい女に甘く、愚かなのだろう、と身につまされる映画でもある。
ジャン・ギャバンの役は、パリの中央市場レ・アールにある有名なレストランのオーナー兼シェフである。アンドレ・シャトランといい、店名もシャトラン。初老にさしかかった五十男で、料理の腕は一流、客の接待もソツがなく、レストランは大いに繁盛している。コック、女給など従業員も多い。客には各界の名士もいる。シャトランは新聞で大きく紹介され、また近々フランス政府から勲章をもらうことになっている。しかし、ギャバン扮するこの男、寂しいかな、長い間ずっと独り者なのだ。彼には以前ガブリエルという名の妻がいたが、だらしのない女で、姑にも嫌われ、20年前に離婚していた。
シャトランは医者の卵である苦学生ジェラール(ジェラール・ブラン)を息子のように可愛がって世話しているが、彼の将来だけが楽しみである。
ある寒い冬の日、このレストランに二十歳そこそこの若い娘が訪ねて来た。貧しい身なりで化粧もしていないが、素顔が可愛らしく不思議な魅力を持っている。気立ても良さそうで、清純な娘に見える。カトリーヌ(ダニエル・ドロルム)という名で、マルセーユからパリへ来たのだった。
ドラマはこの娘の来意を告げる話から始まる。
「私はあなたが昔別れた妻の一人娘です。実は先だって母が死んで、身寄りがなくなってしまいました。あなたのことは母から聞いていたので、死んだことを知らせにパリまでやって来ました」
若くて可愛い女がそんな告白をするのだから、中年男はたまらない。年齢から考えてわが子ではないことは解ったものの、自分を頼って訪ね来た娘を追い返すことなど出来るはずがない。ギャバンはカトリーヌに店の料理を食べさせ、自分の家に住まわせてやる。そして、あろうことか三十も年齢の離れたこの若い娘に惹きつけられ、愛し始めていく……。
しかし、この娘の言ったことはみんな嘘だった。
死んだはずの母ガブリエル(リュシエンヌ・ボゲエル)は生きていて、カトリーヌを追ってパリへ来て、近くの安ホテルに宿泊し、カトリーヌと連絡を取り合っていたのだ。実は、娘を元の夫シャトランのもとへ送り込んだのも彼女の策謀で、陰で糸を引いていたのだ。このガブリエルという女は麻薬中毒で、見るも無残な姿で登場するのだが、醜悪で強烈な印象を与える。
デュヴィヴィエは時々こういう悲惨な中年女や老女を映画の中に登場させ、その役を演技力のあるベテラン女優に本気でやらせるので、見ている方は慄然として、そのイメージが悪夢のように頭から離れなくなる。ガブリエル(命名もぴったりだ)という女もその一人である。この女はマルセーユで売春宿の女将をやっていたという設定なのだが、メイクも髪型も衣装もリアルで、デュヴィヴィエの演出も露悪趣味が過ぎるのではないかと思えるほどである。娘からもらった金をストッキングの腿のあたりに隠したり、ホテルの部屋で缶詰を開けて鍋で煮ていたり、麻薬が切れたときの錯乱ぶりもすごいが、そのあとの虚脱状態もリアルなのだ。
実は娘のカトリーヌは売れっ子娼婦だったことが分かるのだが、ガブリエルはなんと娘をシャトランと結婚させ、財産を乗っ取ろうとたくらんでいた。カトリーヌも男をだますことなど何とも思わない女で、泥沼のような生活から脱出するために、どんな悪いことでもする覚悟だった。
カトリーヌは、まんまとシャトランをたぶらかし、結婚にこきつける。が、養子同然のジェラールに疑われると、シャトランとジェラールの仲を引き裂き、さらに若いジェラールを利用して、シャトランを殺そうとさえするのだ。
経験を積んだ女の直感というのだろうか。シャトラン家の老家政婦(ガブリエル・フォンタン)や郊外に住んでいるシャトランの母親(ジェルメーヌ・ケルジャン)は、カトリーヌという娘が悪い女だということを見抜いていた。この二人の老女優の演技も見どころである。シャトランの母親が息子から頼まれ、彼女が経営している郊外のレストラン兼ホテルの一室にカトリーヌを監禁するところからドラマは急展開を見せるが、嘲笑うカトリーヌをこの姑が長い革のムチで打ち付ける場面はすさまじい。嫁と姑の修羅場である。この郊外のレストランの女給の役で、ギャバンの最初の妻ギャビー・バッセが出ていることも付け加えておきたい。
また、ジェラールの愛犬(大きなテリア種でセザールという名)が重要な役をやっている。
シャトランのレストランの客にいろいろな人が出てくるが、その人間模様も見ていて面白い。ギャバンが彼らに応対するときの態度、話しぶりも見どころである。ギャバンがシェフをやりながら、チョイ役ながら客演した俳優たちとの芝居を楽しんでいる様子がうかがわれる。
それと、レストランで注文される料理の名前も十数種あり、そのメニューをチェックするのもこの映画を見る楽しみになるだろう。
<トリヴィア>*ウィキペディア(フランス語版)より
○ファースト・シーンはパリの中央市場レ・アールの実写。また、パリのリオン駅の実写もある。郊外のロケ地はラグニ=シュール=マルン(セーヌ=エ=マルン)。室内撮影はブローニュ・ビランクールのスタジオ、オー・ドゥ・セーヌのスタジオ。野外のオープン・セットも使われている。
○原題Voici le temps des assassins(今や人殺しのとき)は、アルチュール・ランボーの詩集「イリュミナシオン」(1874年)に収められた詩「酩酊の朝」の最後の言葉から借りたものである。
○クレジットタイトルに流れる主題歌のシャンソンは、「殺人の哀歌」La Complainte des assassinsといい、ジェルメーヌ・モンテロが歌っている。作詞デュヴィヴィエ、作曲ジャン・ヴィーネルである。