ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』で捕虜収容所から脱走したギャバンがドイツの片田舎の農家にかくまわれ、幼い娘とさびしく暮らす戦争寡婦と愛し合う。この慎ましい聖女のようなドイツ女を演じたのがディタ・パルロである。
ギャバンが可愛い娘を見て、片言のドイツ語で「ロッテ・ハット・ブルー・アウゲン」(ロッテは青い目をしている)と言うと、パルロがすかさず「ブラウエ・アウゲン」と訂正するのだが、互いに言葉が通じたのはこの時だけだった。二人は、表情や身振りや行動だけで、互いに意思を通じあい、好きになっていく。クリスマス・イヴの夜が二人が深い仲になる時だった。
そして、ついに別れの日がやってきた。ギャバンは、それを悟って涙ぐむパウロの後ろに佇み、フランス語で誠意を込め、「きっと戻って来るから」と言ってパルロの肩を抱きかかえるのだった。
ディタ・パルロという女優は、幸運にも名作『大いなる幻影』に出演したことによって、後世まで決して忘れられない存在になった。
ほかに彼女が出演した映画で私が見たものはアンドレ・カイヤットの問題作『裁きは終りぬ』であるが、陪審員の一人を追いかけてきた愛人で、絶望して自殺してしまう冴えない役だった。
ディタ・パルロは、1906年9月4日、ドイツのシュッテティンに生まれた。本名グレーテ・ゲルダ・コルンシュタット。ベルリンのラーバン・ボーデ学校でバレーを学んで踊り子となり、さらに映画会社ウーファ社の演劇学校の生徒となった。1928年同社の大プロデューサーであるエリッヒ・ポマーの目にとまり、ヴィルヘルム・ティーレ監督の『伯林の処女』に抜擢される。引き続いて数本の映画に出て、魅力を発揮、たちまちスターの座につく。1930年ハリウッドの招きで渡米、初めはドイツ語版に出ていた。のちにアメリカ映画にも出演したが意外に人気が伸びず、失意のうちにアメリカを去る。折しも故国はナチ政権下にあり、やむなくフランスに居を構え、1939年までフランス映画に出演。第二次大戦下にはフランスの強制収容所に入れられ、ついに祖国の土を踏むことなく、1971年12月12日パリで客死。
主な出演作:『伯林の処女』『帰郷』『ハンガリア狂想曲』(28)『悲歌』(29)以上ドイツ映画、『キスメット』(米30)『一家の名誉』(米32)、以下フランス映画『霧笛』(33)『アタラント号』(34)『大いなる幻影』(37)『クリストバルの黄金』(40)『裁きは終りぬ』(50)『スペードの女王』(65)