ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

リーヌ・ノロ Line Noro

2015-10-02 | 女優


 『望郷』でペペ・ル・モコ(ギャバン)の情婦イネスを演じた演技派女優である。ミレーユ・バランが扮したギャビーが美しく着飾った高級娼婦まがいのパリジェンヌだったのに対し、彼女は野卑で情熱的なカスバの女であり、汚れ役だった。ギャビーの引き立て役でもあった。イネスは、ギャビーに一目惚れしたペペ・ル・モコに愛想をつかされ、嫉妬に燃えて最後は彼を引きとめようと警察に彼の居所を教えてしまう。
 実はギャバンとミレーユ・バランの場面よりギャバンとリーヌ・ノロの場面の方が多く、監督デュヴィヴィエは男に捨てられかかった女の情欲と嫉妬をリアルに描き、リーヌ・ノロは演技力で監督の期待に見事に応えている。『望郷』という映画を傑作にした大きな要因はカスバの情婦に成りきった彼女の迫真の演技にあったと言ってもよい。
 

『望郷』でギャバンと 

 リーヌ・ノロは、本名をアリーヌ・シモンヌ・ノロといい、1900年2月22日、ロレーヌ地方モーズ県ウドランクールで生まれた。少女の頃から女優に憧れ、パリに出てコンセルヴァトワールで学んだ。22歳のとき二等賞の成績で同校を卒業。1920年代は舞台女優としてパリのあちこちの劇場に出演。そのときデュヴィヴィエに見出され、1928年、無声映画『神聖なる巡航』に出たのが映画デビュー。この時すでに28歳であった。
 トーキー時代になり、レイモン・ベルナール監督の『モンマルトルの街』(31)、アベル・ガンス監督の『ドロロサ母さん』(31)などに出演したのち、1933年、再びデュヴィヴィエ監督に起用され、アリー・ボールのメグレ警視が活躍する『モンパルナスの夜』で街娼役を演じた。ロシア出身の異才俳優インキジノフ扮する殺人犯に誘われ、安ホテルの一室で春を売る場面に出演しただけであったが、その演技が注目された。以後映画出演が増え、1936年、アンドレ・ベルトミュー監督の『炎』に出演し、撮影終了後ベルトミュー監督と結婚した。
 そして、リーヌ・ノロという女優をフランスだけでなく世界的に有名にした映画が、1937年の『望郷』であった。デュヴィヴィエ監督作品に三度目に出演して、最も重要な役をもらったのである。
 以後、リーヌ・ノロはコンスタントに映画出演を続けるが、主演女優を引き立てる二番手の脇役が彼女の持ち役となった。ジャック・ベッケル監督の『赤い手のグッピー』(43)、ジャン・ドラノア監督の『しのび泣き』(45)と『田園交響楽』(46)はいずれも名作であるが、リーヌ・ノロの地味だが情感のにじみ出るような演技がいぶし銀のように光っていた。とくに『田園交響楽』の牧師の妻の役は素晴らしかった。
 1950年代はコメディー・フランセーズの舞台に出て活躍し、映画ではアンドレ・カイヤット監督の『われらはみな暗殺者』(52)『洪水の前』(54)に出演し、50歳代半ばで第一線から退いた。1985年11月4日パリにて死去(85歳)。

マドレーヌ・ルノー Madeleine Renaud

2015-10-02 | 女優


 戦前にギャバンはマドレーヌ・ルノーと4度共演している。相手役として最も回数が多く、ギャバン自身、個人的に共演を好んだ女優の一人であった。初共演は1932年の『ラ・ベル・マリニエール号』で、ルノーは船長ギャバンの若妻役、続いて33年の『トンネル』でもトンネル建設技師ギャバンの若妻役、そして34年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『白き処女地』ではカナダのフランス人移民の美しい娘をルノーが主役で演じ、猟師のギャバンが恋人役を務めた。実はルノーはギャバンより4歳年上だった。しかし彼女は1930年代には実年齢よりずっと若く見えた。『白き処女地』でルノーは34歳だったのに20歳そこそこの乙女の役を演じたのである。
 その後ギャバンが大スターとなって4年ほど二人の共演はなかったが、第二次大戦の直前から戦中にかけて製作されたジャン・グレミヨン監督の『曳き船』(41年)でルノーはギャバンを愛する心優しき病身の妻を演じた(ギャバンの愛人役はミシェール・モルガン)。
 戦後は、ルノーが夫のジャン=ルイ・バローとルノー=バロー劇団を結成し演劇活動に専念したため、ほとんど映画に出演しなかった。が、それでもマックス・オフュルス監督の『快楽』(1952年)で12年ぶりにギャバンと共演した。『快楽』はモーパッサンの短編小説を映画化したオムニバス映画で、オフュルス監督作品では『輪舞』と並ぶ秀作であった。とくに第二話「テリエ館」は、モーパッサンの初期の名作だが、映画も素晴らしく、出演者はマドレーヌ・ルノー、ダニエル・ダリュー、ピエール・ブラッスール、ジャン・ギャバンといった面々。地方都市の売春サロンの女将がルノー、ギャバンはノルマンディーの田舎の村に住む建具職人で、ルノーの弟の役だった。ルノー扮する女将が二日ほど店を休み、娼婦たち五人を連れて、社員旅行がてら、弟夫婦の家を訪ねて一泊し、翌朝教会で弟の娘の聖体拝受の式に出席するという話である。この映画に出演した頃、ルノーは52歳で、ずいぶん老けてしまったように見えたが、なかなかしっかりした女将ぶりで、女学校のベテラン教師のようであった。
 若い頃のマドレーヌ・ルノーは、夢見る文学少女といった雰囲気を持ち、清純で繊細なタイプの女優であった。小柄で160センチに満たない背丈であろう。
 私がリアルタイムで知っているマドレーヌ・ルノーは、70年代後半に夫のジャン=ルイ・バローとルノー・バロー劇団を率いて来日した時の彼女である。テレビでインタヴューを見た記憶があるが、品の良いおばあちゃんであった。


 『曳き船』でギャバンと

 マドレーヌ・ルノーは、1900年2月21日、パリで生まれた。10代の頃から小説や戯曲を執筆していたが、中等教育を終えてコンセルヴァトワールに入学するとラファエル・デュフロの生徒となり、同期のシャルル・ボワイエ、マリー・ベルらと共に学んだ。20年の進級公演『女の学校』のアニェス役で2等賞をとる優秀な成績で、翌年卒業時にはマリー・ベルと並んで1等賞となり、揃ってコメディー・フランセーズに入団。同時期22年の『逆風』で初めて映画出演した。彼女が数多くの映画に出演したのは1930年代で、ギャバンとの共演作画3本あることはすでに述べたが、ジャン=ルイ・バローと共演するのは1936年の『美しき青春』で、二人は40年頃結婚する。ジャン=ルイ・バローは10歳年下だった。
 マドレーヌ・ルノーは、舞台では古典劇の模範的女優といわれたが、新しい演劇を求めて1946年にコメディー・フランセーズを夫とともに退団。ルノー=バロー劇団を結成して『ハムレット』を旗上げ公演した。59年9月、夫とともにテアトル・ド・フランスの座長となり、以来オデオン座を主な活動の場として演劇全般の向上に力を注いだ。
 1968年、五月革命の学生たちに劇場の占拠を許したことで、オデオン座を追われ、エリゼ・モンマルトル劇場、オルセー駅構内の仮小屋など転々としたのち、1981年、ロン・ポワン劇場に落着いた。
 ルノー=バロー劇団は1960年、1977年、1979年の3度、来日公演をしている。
 1994年、夫ジャン=ルイ・バローを亡くした8ヶ月後の9月23日に、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで死去。享年94歳。

 上記以外の主な出演映画:『母の手』(33)、『不思議なヴィクトル氏』(38)『高原の情熱』(42)『この空は君のもの』(44)(以上3作はジャン・グレミヨン監督作品)、『史上最大の作戦』(米 62)。

ブリギッテ・ヘルム Brigitte Helm

2015-10-02 | 女優


 ジャン・ギャバンが映画で初めて共演した大スター女優はドイツ人のブリギッテ・ヘルムであった。フランス語読みはブリジット・エルム。『グロリア』(1930)のフランス語版(主役のブリギッテ・ヘルムは代役を使わずに出演)で初共演し、『ヴァレンシアの星』『さらば美しき日々』(1933)でも共演している。ギャバンと3度も共演したほどであるから、二人は恋愛関係にあったのではないかと思われるが、確証はない。「ジャン・ギャバン」の著者アンドレ・ブリュヌランも彼女との間に「恋愛感情の交流がなかったはずはない」と書いている。
 ブリギッテ・ヘルムは、1906年3月17日、ベルリンで生まれた。本名ブリギッテ・エーファ・ギゼラ・シッテンヘルム。中学卒業後、学生劇に参加している時、フリッツ・ラング監督の目にとまり、27年サイレント映画の大作『メトロポリス』のマリア役(アンドロイドとの二役)で鮮烈に映画デビュー。石膏像のような端正な美貌と妖艶な肢体が注目され、21歳の若さでたちまちドイツのナンバーワン女優になった。トーキーになっても活躍を続け、デビュー後8年間で約30本の映画に出演。35年実業家フーゴ・タンハイムとの再婚を機に引退。以後スイスに住み、映画界からの誘いや取材を一切拒み続けた。1996年6月11日、スイスで死去(90歳)。
 主な出演作:『世界の果て』『ジャーネ・ネイの愛』(27)『邪道』『バーデン・バーデンのスキャンダル』(28)『悪魔の寵児』(29)『南の哀愁』『グロリア』(30)『愛国者』(31) 『アトランティッド』(32)『マラソンの走者』『アランフェスの美しき日々』(33)『ゴールド』『島』『コスモポリス』(34)『理想の良人』(35)


ギャビー・バッセ Gaby Basset

2015-09-20 | 女優


 ジャン・ギャバンが《フォリー=ベルジェール》のオペレッタ『夜会服の女』に端役で出演し始めた頃、ギャバンに一目惚れして熱烈なファンになり、通いつめてこの若き芸人のハートを射止め、恋愛、同棲の末、結婚するに至った最初の女性がギャビー・バッセである。
 二人が知り合ったのは1924年春、ギャバン19歳、バッセ21歳の頃。ギャバンもパリの芸能界にデビューしたばかりの駆け出しの芸人だったが、2歳年上の彼女も《ラ・シガール》の新人の踊り子で、場末のカフェにも出演する無名に近い歌手だった。おかっぱ髪に夢見がちな大きな目、小柄で庶民的な愛嬌のある可愛い娘を、ギャバンは愛した。
 ギャバンは彼女を初めは「トゥトゥ」(犬の幼児語)という愛称で呼び、やがて「ペペット」(お金の俗語)と呼ぶようになる。財布のひもをしっかり握っていたからであろう。二人は恋に落ちるとすぐモンマルトルのクリニャンクール街の安ホテルで同棲生活を始めた。貧しいながらも幸福なカップルであった。パンを分かち合い、コーヒーは同じカップで、まずギャバンがブラックで飲み、それからバッセがミルクを入れてカフェオレにして飲むのが朝食の習慣だった。

 ギャビー・バッセは、本名をマリー・ルイーズ・カミユ・バッセといい、1902年3月29日、ソーヌ=エ=ロワール県ヴァレーヌ=サン=ソヴールで生まれた。父親を早くに失くし、母親の女手一つで育てられた。母親は自宅で裁縫の仕事をしていた。彼女も初等教育を終えるとお針子になって服飾店に勤め家計を支えた。仕事の合間、得意の歌を唄い、おどけた真似をして、お針子仲間を喜ばせていたという。一時期速記タイピストを目指すが、やはり憧れの歌手になろうと志し、パリのカフェやキャバレーに出て歌を唄いだした。ある時有名なキャバレー《ラ・シガール》で踊り子の欠員があり、アルバイトのつもりで踊り子もやってみたところ、本番でずっこけ、それがかえって客に受けてしまった。そこで毎回ずっこけ役になり、人目を集めるようになった。ギャバンと知り合ったのはそんな頃であった。
 モンマルトルで同棲中、ギャバンが20歳になり、兵役義務のためブルターニュのロリアンの海軍基地へ行くことになった。二人は1年ほど離れ離れに暮らさなければならなくなり、二人とも寂しさは募るばかりだった。兵役では独身者より妻帯者の方が優遇され、外出許可も下りやすいのを知り、ギャバンはギャビーとの結婚を決意したのだという。
 兵役中に休暇を願い出て、1925年2月26日、二人はパリで結婚した。
 そのおかげで、ギャバンはパリの海軍省へ転属となり、二人が会う機会も増えた。ギャバンの兵役が終わると、新婚生活が始まった。ギャビー・バッセは《ブッフ=パリジャン》のオペレッタ『三人の若い裸婦』に出演し、人気が出始めていた。ギャバンはしばらく彼女の稼ぎに頼っていたが、公演中の『三人の若い裸婦』で海軍士官の代役がギャバンに回ってきて、二人は同じ舞台に立った。
 その後、二人は共稼ぎで貧しいながらも仲睦まじく暮らした。

 1928年春、オペレッタのブラジル巡業があり二人揃って、リオデジャネイロへ行った。ギャバンもバッセも生まれて初めての海外旅行であった。
 ギャバンがボードビリアンとして活躍を始めるのは、巡業から帰って、パリの《ムーラン・ルージュ》に出演するようになってからだった。オーディションで大スターのミスタンゲットに気に入られ、4月に開演した《ムーラン・ルージュ》のショー『回るパリ』でミスタンゲットの相手役に抜擢されたのだ。ギャバン24歳、人気スターへの道を進む第一歩を踏み出す。ギャビー・バッセも歌える女優としてスターへの道を歩み始めていた。
 二人とも人気が出て仕事が増えるにしたがい、すれ違いが多くなった。売れっ子芸能人夫婦の間に生じる溝である。
 1929年、ギャバンがオペレッタの共演女優(ジャクリーヌ・フランセル)と恋愛関係になり、同年末、バッセはギャバンと離婚した。バッセの方が離婚を申し出たというが、所詮夫婦の仲は他人には分からない。
 二人が離婚したほぼ1年後、ギャバンはオペレッタ映画『誰にもチャンスが』(1930年12月フランス公開)で映画デビューするが、なんとその恋人役がギャビー・バッセであった。バッセの方はすでに映画デビューしていて、彼女の名前の方がポスターでは上にあったという。
 『誰にもチャンスが』を先日私はYou Tubeで見たが、無邪気で楽しい恋愛喜劇であった。ギャバンは服飾店のしがいない店員、バッセは劇場のロビーのチョコレート売りで、実際にはこの二人が主役。これに男爵夫婦、その愛人たちが加わって、すったもんだの挙句、ギャバンとバッセが結ばれるというストーリー。ギャバンがショーウィンドーの高級服を着込み、劇場に行くと、そこで初対面の男爵に頼まれ、服を交換して替え玉にされる。男爵に成りすましたギャバンが、可愛いバッセをレストランに誘い、酒の勢いでくどくと、バッセが名刺を見て男爵邸にまで付いて来る。仕方なく、ポケットにあった鍵を出して中に入り、豪華な居間で二人が楽しげに歌を唄う。ここが見せ場で、ギャバンとバッセは恋人時代に帰ったようなむつまじさで、映画とはいえ二人の関係がうかがえて、微笑ましかった。


『誰にもチャンスが』 バッセとギャバンのデート場面

 以後ジャン・ギャバンは大スターになり、ギャビー・バッセも映画女優の道を歩んでいくが、娯楽映画の脇役が多かったようだ。添え物の短篇映画にも数多く出ている。フランスのデータ・ベースを調べると、1931年から39年までの9年間で、長篇23本、短篇10本というのが彼女の出演作である。フェルナンデル、ジャン・ミュレ、ノエル=ノエル、ピエール・リシャール=ウィルム、ジュール・ベリー、アリー・ボールなどそうそうたる男優と共演している。
 1939年、バッセは、歌手のジャン・フレデリック・メレと再婚。いったん芸能界から引退するが、戦後の1949年、映画界に復帰。この間、第二の夫とは別れたようだ。ギャバンとの親交は断続的に続いていたようで、戦後はギャバンが彼女のことを気にかけ、自分の映画で彼女に向いた役があると出演を依頼している。ギャバンは糟糠の妻ギャビー・バッセのことを決して忘れなかった。
 ギャバンの戦後の代表作『現金に手を出すな』で、キャバレーの経営者(ポール・フランクール)の妻をやっているのがバッセである。この役は、ギャバンが監督のジャック・ベッケルに頼んで、出演するようにはからったという。


『現金に手を出すな』 バッセ、ジャンヌ・モロー、ドラ・ドール

 ほかにも端役を含め7本ほどキャバンの映画に出ているが、『殺意の瞬間』で家政婦の役をやっていたのが、私の印象に残っている。フランスのフィルモグラフィーを調べると、1949年から1962年までのギャビー・バッセの出演映画は36本である。イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーとも共演している。1962年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のオムニバス映画『フランス式十戒』の第5話でダニエル・ダリューの衣装係に扮しアラン・ドロンと共演したのがギャビー・バッセの映画女優としての最後の花道であった。
 1962年、バッセは、ヌイイ=シュール=セーヌ警察に勤めるオーギュスト・シャポンと三度目の結婚。60歳だった。

 ギャビー・バッセは、1976年にギャバンが死んだ10年後、84歳の時に、「ジャン・ギャバン」の著者アンドレ・ブリュヌランのインタヴューに応じ、ギャバンの思い出を語っている。そのほんの一部だが、引用しておこう。

――ジャンはほんとにいい男でした。女には大モテで、そのことを自分でもよく知っていたのね。あの人の優しい笑顔を見るともう何も言えなくなるの。ほんとうに優しくて、意地悪したり、皮肉を言うようなことは決してなかったわ。口がとても達者で、すぐ人をからかったけど、不愉快な気分にはさせませんでした。不思議なのは内気なくせに女の子たちにはとても大胆なの。そんな彼に私はすっかり参っていた、というわけ。食うや食わずの生活だったれど、ほんとうに楽しかった。(アンドレ・ブリュヌラン著「ジャン・ギャバン」清水馨訳、時事通信社刊)

 2001年10月7日、ギャビー・バッセは、ヌイイ=シュール=セーヌの老人ホームで亡くなった。100歳に間近い99歳であった。彼女はオート=オワール県マゼラ=ダイエの墓地で三人目の夫のかたわらに眠っている。


アナベラ Annabella (1)

2015-09-20 | 女優


 アナベラは、1930年代前半、ヨーロッパで最も人気のあったフランス人のスター女優である。日本でもフランス映画を愛好する往年の洋画ファンの間では絶大な人気があった。アナベラ・ファンを激増させたヒット作は、なんといってもルネ・クレール監督の『巴里祭』(原題『7月14日』1933年)である。アナベラが演じたアンナという可憐な花売り娘は、下町のパリジェンヌの一つの理想のタイプと見なされ、とくに日本では、この映画同様、ヒロインの彼女も愛され続けた。いや、今でもフランス映画ファンの多くの人に愛され続けていると言えよう。
 私が映画『巴里祭』を初めて見たのはもう35年ほど前だが、その時、遅ればせながら私も、アナベラ・ファンになった。映画が作られたのもアナベラが花売り娘のアンナを演じたのも、その50年前のことだったにもかかわらず、アナベラを見て好きになり、こういうパリジェンヌを恋人にすることができたらどんなに幸せだろうと思った。



 最近また『巴里祭』を見直してみた。
 ストーリーは、パリの下町に住む花売り娘(アナベラ)とタクシーの運転手(ジョルジュ・リゴー)の相思相愛の二人が一度は喧嘩別れして別々の道を歩むが、偶然再会して、今度はほんとうに結びつくという、ごくありふれたものにすぎない。この二人の周りに、老若男女いろいろな人たちが出て来て、その人間模様がポンチ絵のように面白おかしく軽快に描かれていくわけだが、ルネ・クレール独特の小気味の良さと洒落っ気に溢れた楽しい映画であった。
 石畳の街路、古いアパート、その内階段と室内、高級レストラン、ビストロなど、舞台になっているパリの下町はすべて美術監督ラザール・メールソンの作ったセットなのだが、この舞台に現れる人々が人形劇のように躍動し、モーリス・ジョベールの音楽にのせ、淀みなく流れるような映像でこの映画は構成されている。
 クレールはその前に『巴里の屋根の下』(1930年)というトーキー第1作となる名作を撮っている。この映画も最近見直したが、こちらはまだ無声映画の特色が強く、主題歌のシャンソンをうまく使ってパリの街の雰囲気を出していた。『巴里の屋根の下』は、名場面も多く、味わい深い作品であるが、『巴里祭』と主役の男女だけを比べてみれば、アルベール・プレジャンとポーラ・イレリよりもジョルジュ・リゴーとアナベラの二人の方がずっと良い。後者の方が青春カップルらしく、ういういしさが感じられるからだ。『巴里の屋根の下』は、女好きのおじさん臭いアルベール・プレジャンが主役だが、『巴里祭』は可愛いアナベラが主役だからでもあろう。プレジャンの相手役をやったポーラ・イレリも、パリジェンヌではなく、彼女の出身地同様ルーマニア人という設定だったが、娼婦のように見えて、魅力がなかった。彼女は『巴里祭』にも出て、ジョルジュ・リゴーの元恋人でアナベラの恋敵を演じていたが、こっちの方が柄に合っていた。『巴里の屋根の下』を見て驚いたのは、アナベラが端役で顔を出していたことである。ビストロに座っている客の一人であったが、しっかり確かめたので間違いない。これは今回見て初めて気づいたのだが、アナベラはクレールのトーキー第2作『ル・ミリオン』で準主役の踊り子に抜擢され、続いて『巴里祭』で主役をやるのだが、すでに『巴里の屋根の下』にも出演していたのだった。
 『巴里祭』でアナベラが扮した花売り娘は、ルネ・クレールが創り出したパリのお伽話のような恋愛物語の中だけで生きている架空のヒロインなのだろう。しかし、そうは言っても、アナベラという女優あっての『巴里祭』である。彼女の個性と人柄がこのヒロインにぴったりはまって生き生きと描き出され、輝きを放っている。もちろんそれを引き出したのは監督のクレールで、クレールは、アナベラがたたずんでいる姿を、真正面からバスト・ショットで、何度も映し出している。彼女の住むアパートの窓辺、花かごを持って入っていくレストラン、建物の入口の前での雨宿り、ビストロのカウンターの中、などであるが、彼女一人の立ち姿が実にうまく映画の中で生かされている。台詞はなく、ただアナベラがこちらに顔を向けて立っているだけなのだが、その時の表情から彼女の思いや気持ちがこちらに伝わって来て、アナベラを一層愛らしく感じさせるのだ。

 恋愛映画の名作は、ヒロインあっての名作だと言える。恋愛映画の名作が古くならず、いつみても新たな感動を与えてくれるのは、男と女の恋愛がいつの世も変わらないからだと思うが、やはり映画の中で生き生きと輝いているのはヒロインであり、映画はヒロインの美しさとともに時代を超えて永遠に近い生命を持ち続けると言えるだろう。『ローマの休日』とオードリー・ヘップバーン、『風と共に去りぬ』とヴィヴィアン・リー、フランス映画では、『うたかたの恋』とダニエル・ダリューがそうである。アナベラは決して美人とは言えないが、『巴里祭』とアナベラは、作品の素晴らしさとヒロインの輝きから言って、上記の3本にひけをとらないと思う。

 私はアナベラ・ファンの一人であるが、では、アナベラが出演したほかの映画を何本も見ているかというと、そうではない。正直言って、デュヴィヴィエの『地の果てを行く』(1935年)とマルセル・カルネの『北ホテル』(1938年)の2本だけなのだ。それでアナベラ・ファンだと言うのはおこがましく感じるが、ほんとうは、『巴里祭』の花売り娘に扮したアナベラだけのファンだと言った方が良いのかもしれない。とはいえ、『巴里祭』と『地の果てを行く』と『北ホテル』はそれぞれ7、8回見ているので、アナベラの姿が私の目に焼きつていることだけは確かだ。この3本でアナベラに関してだけ言えば、『巴里祭』が抜群に良く、『北ホテル』はまあまあで、『地の果てを行く』は別にアナベラがやらなくても良かったと思っている。


『北ホテル』 アナベラとルイ・ジューヴェ

 『北ホテル』でアナベラはジャン=ピエール・オーモンとルイ・ジューヴェを相手役に、二人の間を揺れ動くパリジェンヌを演じたが、好演しているわりには引き立っていなかった。マルセル・カルネは、『巴里の屋根の下』と『ル・ミリオン』でルネ・クレールの助監督についていたこともあり、『北ホテル』はカルネ版『巴里祭』といった作品であるが、世代も作風もルネ・クレールとは異なり、クレールのように古き良きパリを楽しく洒落っ気たっぷりには描かず、『北ホテル』は、ドラマ性が強く陰影に富んだ作品になっていた。アナベラの役は、『巴里祭』の花売り娘の延長線上にあるのだが、悲劇的な人物に仕立てたため、かえってつまらないものになってしまったと思う。また脚本と台詞を書いたアンリ・ジャンソンが恋愛話を好まなかったらしく、アナベラが生かされていなかった。『北ホテル』は、ルイ・ジューヴェとアルレッティが印象に残る作品になったが、それはそれで良かったと思う。

 『地の果てを行く』でアナベラはジャン・ギャバンの相手役だったが、この映画はデュヴィヴィエが男同士の対決を描いたもので、アナベラは脇役であった。アナベラのアイシャという役は、モロッコのベルベル族の娘でキャバレーの踊り子だった。『巴里祭』のヒロインとは似ても似つかぬような化粧と衣装のエキゾチックな娘で、これがあのアナベラなのかと見違えるような役であった。民俗舞踊を踊ったり、カタコトのように思わせるフランス語の台詞を話したりする有様で、もっとまともな役でギャバンと共演してほしかったと思ったほどである。外人部隊の兵士のギャバンと愛し合って、結婚するのは良かったが、その時、互いに腕を傷つけ合って血を舐め合う場面があって、こんなことをアナベラにやらせていいのかと思った。が、最近、ギャバンの本を読んで知ったことなのだが、『地の果てを行く』にアナベラが出演したのは、ギャバンに対する友情出演だったことが分かり、納得がいった。
 ギャバンは『地の果てが行く』の撮影に入る前に、『ヴァリエテ』(1935年)というドイツの大手映画会社ウーファ社で製作された映画で主役のアナベラと初共演した。
 『ヴァリエテ』というタイトルはドイツ語で「サーカス」のことで、主役のアナベラは空中ブランコ乗りで、同じブランコ乗りの男二人に愛され、この三角関係がこじれて、片方の男がもう一方の男を殺そうとする内容だったという。この映画はまずドイツ語版が作られ、続いてフランス語版が作られた。この頃はまだ声優による吹き替えがなく、出演者をドイツ人からフランス人の俳優に入れ替えて作り直していた。すでにヨーロッパの人気スターだったアナベラは両方に主演し、フランス語版は男優をフランスから呼んで撮ったのだが、男の一人がギャバンで、もう一人がフェルナン・グラヴェだった。ギャバンは同僚を殺そうとする男の方を演じたという。
 『ヴァリエテ』のフランス語版はフィルムが失われたらしく、現在は見ることができない。また、『ヴァリエテ』のドイツ語版は日本で公開されたが、ギャバンが出演したフランス語版は日本では知られていない。また、ギャバンのフィルモグラフィでは『地の果てを行く』のあとに『ヴァリエテ』を記載しているが、これはフランスでの公開時期に従ったもので、製作時期は『ヴァリエテ』の方が先である。

 さて、ギャバンとアナベラは、ベルリンで『ヴァリエテ』の撮影時にかなり親しくなったようだ。ただし、私生活の上ではなく、仕事をしながら互いに好意を抱き、とくにギャバンの方がアナベラにいろいろ気をつかい、親切にしたようだ。二人の関係が恋愛にまで発展しなかったのは、アナベラが俳優のジャン・ミュラと結婚したばかりだったからである。
 アナベラ自身が語っている話では(アンドレ・ブリュスラン著「ジャン・ギャバン」)、アナベラがサーカスで使う熊に襲われ、足を挫いて、撮影が遅れてしまった時、ギャバンはフランスで『地の果てが行く』の準備があるのに、一言も文句を言わず、アナベラに優しくしてくれたそうだ。また、ギャバンは『地の果てを行く』の製作に大変な情熱を燃やしていたという。この時は、『地の果てを行く』にアナベラが出演する予定はまったくなかったのだが、『ヴァリエテ』の撮影が終わって、アナベラがフランスへ帰って田舎の別荘で休養していると、ある日突然、ギャバンからの伝言を持って製作主任が訪ねに来たそうだ。ギャバンの相手役のモロッコ人の女優が使いものにならないので、是非アナベラに代わって出てもらいたいのだという。それでアナベラは、ギャバンのためならと思い、すぐにオーケーし、その日の夜行列車に乗り、ギャバンと監督スタッフが待ち構えるパリの撮影所に直行したのだった。


『地の果てを行く』 ギャバンとアナベラ

 アナベラの話を少しだけ引用しておこう。

――この役どころは比較的小さな役だったので当時、なぜ私が引き受けたのか不思議がられました。でもそれはただ一つ、ジャンから折り入って頼まれたから、というほかはありません。(中略)彼のために私は出演したのです。ということはジャンという人はそれほど他人を動かす何か魅力のようなものを持っていたのです。

 アナベラというのは、もちろん芸名である。戦前の日本では、アンナベラと書いたり、その前はアンナ・ベラと書いて、ベラが苗字のように思っていた時期もあった。フランスの俳優や歌手は、ひと頃前まで、姓か名のどちらか一方、または愛称を芸名にしている人が何人もいた。こうした一語だけの芸名の方が観客や聴衆に親しみやすかったのだろう。男優ではフェルナンデル、ブールヴィル、女優ではアルレッティが有名である。
 アナベラという名前は、エドガー・アラン・ポーの詩に登場する女性名アンナベル・リー(Annabel Leez)から取り、映画監督のアベル・ガンスが彼女を大作『ナポレオン』(1927年)に出演させた時に付けたのだという。(つづく)


アナベラ Annabella (2)

2015-09-20 | 女優
 アナベラは、本名をスュザンヌ・ジョルジェット・シャルパンティエといい、1907年7月14日、パリ(9区)で生まれた。日本の映画資料では(古いフランスの紹介記事をもとにしたのだろうが)、ずっと1910年、セーヌ県ラ・ヴァレンヌ=サン・ティレール生まれ、となっていたが、最近のフランスのデータを見ると、上記のようになっている。生年に関しては、女優にはよくあるように、3歳ほどサバを読んでいたのかもしれない。生地についても、生まれて間もなく、両親がパリからその南東の郊外にある閑静な村ラ・ヴァレンヌ=サン・ティレールに引っ越したため、アナベラはここで育ったということだ。
 アナベラは1996年に亡くなったが、その10年後に、アナベラの長年の知人でもあったジョゼ・スリランという人がアナベラのドキュメンタリー映画を製作し、テレビで放映され、その時にデータが完全に訂正されたようだ。ジョゼ・スリランは、アナベラの一人娘アンの協力も得て、2010年にインターネットでアナベラの公式サイト「アナベラ、心はふたつの岸辺に」ANNABELLA, un Coeur entre deux rivesを作成しているが、これが現在アナベラに関する最も確実な資料である。これから私が書くことは、主にこの資料を参考にしているが、アナベラの個人的なことに関しては書かれていないことも多々あり、その辺はインターネット・ムービー・データ・ベースのアナベラの経歴などを参考にした。(キネマ旬報社の「映画人名事典」のアナベラの項目は間違いが多く、信頼できない。その他の日本の映画書籍のアナベラについての記述もこれに基づいているので同様である)

 アナベラの誕生日は7月14日で、フランスの革命記念日、つまり日本でパリ祭と呼んでいる日である。パリ祭というのは映画『巴里祭』の邦題(輸入配給会社の東和商事の社長夫妻・川喜多長政と川喜多かしこが付けたという)から始まった呼び名で、この映画の原題は『7月14日』(フランス語で「カトールズ・ジュイエ」)である。フランスでは最も重要な国民の祝日で、パリだけでお祭りをするわけではない。
 アナベラの誕生日が7月14日で、映画『巴里祭』で一躍大スターになったというのは、どうも出来すぎた話なのだが、戦前からアナベラは巴里祭の申し子のように言われてきたので、信じることにしたい。アナベラの公式サイトでも、生い立ちのところで、「革命記念日と同じ誕生日が奇しくも26年後に彼女の映画のタイトルになった」とある。『巴里祭』が撮影されたのは1932年の後半なので、正確にはアナベラが25歳の時だった。もっと若いかと思ったが、意外に年がいっていたのにはいささか驚いた。

 アナベラの父ポール・シャルパンティエは、《ジュルナール・デ・ヴォワヤージュ》(旅行ジャーナル)の発行元の社長で、フランスでボーイ(ガール)スカウト活動を根づかせることに貢献した人であった。母のアリスはコンセルヴァトワールの音楽科で学び、二等賞をとったほどのピアニストだった。ショパンの演奏が得意で、家では一日中ショパンを弾いていたという。叔父はオデオン座の俳優、二人の叔母もコメディー・フランセーズの有名な女優だった。
アナベラは、子供の頃からこうした文化的家庭環境に恵まれ、しばしば父に連れられて仲間のスカウトたちとキャンプ旅行を楽しみ、また、パリでは一流劇場でクラッシック音楽や演劇を鑑賞しながら育った。『巴里祭』の貧乏な下町娘とは程遠いような、活発かつ芸術好きなお嬢さまだったのだ。
 アナベラの父は旅行を仕事にしていたため写真撮影を好み、娘の写真もたくさん撮った。その写真がたまたま映画監督のアベル・ガンスの目に留まり、彼が手がけていた無声映画の超大作『ナポレオン』に彼女を出演させた。若き日のナポレオンに恋する乙女ヴィオリーヌの役であった。これがアナベラの映画デビューになるのだが、ガンスの『ナポレオン』は1924年6月に撮影が開始され、1927年に完成するまで3年かかっているので、アナベラがいつ頃この映画に出演したかは不明である。1925年から1926年までの間だと思うが、アナベラが18歳か19歳の頃であろう。前回書いたように、アナベラという芸名はアベル・ガンスが付けたものである。
『ナポレオン』のオリジナル版は12時間に及ぶものだったらしいが、1927年、パリのオペラ座で封切られた時は約5時間で、トリプル・エクラン(三つのスクリーン)に映写され(シネラマの先駆)、大変な話題になったという。一般公開時には3時間半に短縮されたため、前半でアナベラの出るシーンはほとんどカットされてしまったようだ。
 翌27年、ジャン・グレミヨン監督の『マルドンヌ』に出演。アナベラは、この映画の製作者兼主役で舞台俳優としても著名だったシャルル・デュランと知り合い、その後彼に師事し、演技を学んだという。
 1928年、オペレッタ映画『三人の若い裸婦』に出演、タイトルにもなっている若い裸婦の一人をやっている。興味深いことに、この映画がなぜ作られたかと言えば、同名のオペレッタがパリの劇場《ブフ・パリジャン》で大ヒットし、1年以上のロングラン(1925年暮~1927年春)を記録したからで、これにはジャン・ギャバンの父(芸名ギャバンという)と妻のギャビー・バッセがずっと出演していて、兵役を終えたジャン・ギャバンも途中から出演している。もちろん、ギャバンが映画デビューする前である。ギャバンの父は映画の方にも出演していたというから、アナベラはギャバンより前に父親と共演していたことになる。
 これまでのアナベラ出演作3本はすべて無声映画である。

 日本の映画資料(キネマ旬報社の「人名事典」など)では、その後、コンセルヴァトワールでジョルジュ・ルロワの教えをうけ、1929年、卒業試験に失敗してファッションモデルになろうとしたと書いてあるが、これは本当かどうか不明である。アナベラの学歴も分からないが、コンセルヴァトワールに在籍したというのもフランス側の資料には見当たらないのだ。
 アナベラが初めて出演したトーキー映画はドイツで作られた『バルカロール・ダムール(愛の舟歌)』(カール・フローリッヒとアンリ・ルッセル監督、1930年)という作品である。主演はシャルル・ボワイエで、アナベラの名前はクレジットされ、ボワイエの妹役だったようだ。
 1929年から30年にかけてフランスでもトーキー映画が続々と作られ始めるが、アナベラは、1930年公開作品に4本出演している。前々回、クレールの『巴里の屋根の下』(1929年製作)にアナベラが顔を見せていることを書いたが、クレジットに名前はない。台詞もなくエキストラのような役だが、クレールがキャメラ・テストでもするつもりだったのかもしれない。
 アナベラがクレールの『ル・ミリオン(100万)』で準主役の踊り子に抜擢されるのは、この1年後で、1930年末のことだ。主役は人気俳優のルネ・ルフェーブルで、パリのモンマルトルに住む貧乏画家ミシェル、アナベラは彼のフィアンセでオペラの踊り子ベアトリスである。ルフェーブルの買った富くじが100万フラン当たるのだが、券を入れた彼の上着をアナベラが警察に追われた泥棒にあげてしまい、ここから上着をめぐって騒動が巻き起こるといったドタバタ喜劇であった。『ル・ミリオン』はYou Tubeに数分間だけアップされているのでそれを見たが、面白そうな映画である。『ル・ミリオン』は、1931年4月フランスで封切られ、日本では同年9月に公開されている。
 ここからアナベラはスター女優への階段を一気に駆け上り、『巴里祭』でスターの座につく。『巴里祭』のフランス封切りは1933年1月であり、その後ヨーロッパ各国で公開され、日本では同年4月に公開されている。日本では『ル・ミリオン』でアナベラが初めて注目され、『巴里祭』でその人気は爆発したが、この2作品の間にアナベラの出演作は1本も公開されず、『巴里祭』の後、6月にアナベラ主演の『春の驟雨』(原題「マリー」ハンガリー人ポール・フェジョ監督、1932年)が公開され、これがまたアナベラ人気をあおったようだ。『春の驟雨』は『巴里祭』より前に作られた映画で、輸入配給会社の東和商事が日本でのアナベラ人気にあやかり、急いで買い付けて公開したようだ。ハンガリー・ロケで撮られ、自然の美しさと哀愁に満ちた名作で、アナベラの可憐さが際立っていたという。是非、見たい映画であるが、もう見ることができないかもしれない。

 フランスやアメリカのインターネットでいろいろ調べてみると、アナベラの実像が輪郭だけ掴めてきた。アナベラ・ファンだと言いながら、これまでまったく知らなかったことが分かってきたので、書いておこう。多分、日本人のアナベラ・ファンの99パーセント以上が知らなかったことだと思う。
 まず、アナベラの一人娘のアンが、1928年4月生まれだということである。彼女はアン・パワー=ヴェルナーという名で通っているが、アンは、1939年にアナベラがアメリカの映画俳優タイロン・パワー(第三の夫)と結婚した時、養女になり、アン・パワーとなった。そして1954年、アンはオーストリア出身の国際俳優オスカー・ヴェルナーと結婚。1968年離婚し、以後アメリカのニュー・ハンプシャー州に住んでいたが、2011年のクリスマスに癌で死去している。その追悼記事を読んで、彼女の生年が分かった。
 また、インターネット・ムービー・データ・ベースでは、アナベラの初婚が1930年とあり、夫になったのはアルベール・ソーレという作家(不詳)で、1932年に死別したと書いてある。アンはこの二人の間にできた娘だとしているが、根拠不明である。別の記事では、アナベラはアルベール・プレジャンの愛人で、娘のアンはプレジャンとの間に出来た子だと書いたものがあったが、これも根拠不明である。単なる噂話なのかもしれない。アルベール・プレジャンは、前回、女好きのおじさん臭い俳優と述べたが、1920年代後半から30年代まで、フランスで最も人気のあった男優の一人であった。彼は第一次世界大戦で活躍し勲章までもらった飛行士で、芸能界入りした後、ルネ・クレールの処女作『眠るパリ』(1923年)に出演し、映画俳優としても注目されるようになった。1894年(または1893年)生まれで、『巴里の屋根の下』に出た時は35歳だった。プレジャンは女にもてそうだし、アナベラも恋多き娘であったから、二人の間に恋愛関係があっても不思議はないが、今更どうでもよいような気もする。
 いずれにせよ、アナベラは、21歳で娘を生んで未婚の母となり、23歳で結婚し、2年後には夫に先立たれ、25歳の時に4歳の娘を抱えた未亡人になっている。ちょうどこの頃、『巴里祭』に出演したわけで、私はこれを知って、大変驚いた。アナベラはスターへの道を歩んでいった一方で、個人的に大変な人生を送っていたのだ。

 アナベラの第二の夫は、フランス人俳優のジャン・ミュラであるが、彼は無声映画時代からの二枚目スターだった。1888年生まれなので、アナベラより19歳も年上である。ジャン・ミュラは、ジャック・フェデール監督の『女だけの都』(1935年)で、スペイン軍隊長の公爵を演じ、市長夫人のフランソワーズ・ロゼーに接待される役をやっている。アナベラは1931年『パリ・地中海』でジャン・ミュラと初共演し、親しくなったようだ。この頃、ジャン・ミュラは43歳で男盛りだった。アナベラは、他の作品でもミュラと共演し、1934年10月に彼と結婚した。ギャバンと『ヴァリエテ』で初共演し、続いて『地の果てを行く』で再共演するのはこのすぐ後である。
 1935年から37年までは、アナベラが映画女優として最も安定していた時期であった。『戦ひの前夜』(マルセル・レルビエ監督)で1936年度ヴェネチア映画祭女優賞を受賞し、また、イギリス初のテクニカラー映画『暁の翼』(ハロルド・シュスター監督 1937年)ではヘンリー・フォンダの相手役を務めている。ハリウッドの20世紀フォックス社がアナベラに注目し、契約を結んだのはこの時であった。1938年、アナベラは渡米し、『男爵と執事』(ウォルター・ラング監督、共演ウィリアム・パウエル)と『スエズ』(アラン・ドワン監督)に出演。『スエズ』で共演した二枚目スターのタイロン・パワーと恋におちる。タイロン・パワーは1914年生まれで、アナベラより7歳年下だった。同年秋にフランスへ帰り、マルセル・カルネの『北ホテル』に出演し、12月、ジャン・ミュラと離婚を済ますとまた渡米し、1939年4月にタイロン・パワーと電撃結婚した。


『スエズ』 アナベラとタイロン・パワー

 以後、アナベラはタイロン・パワーの妻としてハリウッドに居住し、第二次大戦前後の9年間をアメリカで過ごした。数本のアメリカ映画に出演し、またブロードウェイの舞台にも立っている。しかし、タイロン・パワーとも破局をむかえ、46年に離婚。48年、フランスへ帰り、数本の映画に出演したが、50年、スペイン映画に2本出演して引退した。
 その後、スペイン国境に近いバスク地方のサン=ペ=シュル=ニヴェルに住み、余生を静かに暮らし、1996年9月2日に死去。享年89歳であった。

シュジー・プリム Suzy Prim

2015-09-19 | 女優


 ジャン・ルノワール監督の『どん底』(1936年)で悪妻ワシリーサに扮し、ペペル役のジャン・ギャバンと共演している。ワシリーサは木賃宿の主人の妻でペペルと肉体関係があり、妹の若いナターシャを愛し始めたペペルに嫌われ、嫉妬に燃えて悪知恵を働かすという敵役だったが、シュジー・プリムはこれを個性的に見事に演じ、脂の乗った女優の本領を発揮していた。この時40歳。ギャバンとの共演は『どん底』の1本だけだった。
 ほかに、アナトール・リトヴァク監督の『うたかたの恋』(1936年)のシュジー・プリムも印象深い。シャルル・ボワイエとダニエル・ダリューの二人の恋を取り持つ陽気で世話好きな伯爵夫人の役であったが、孔雀のように着飾り、軽佻浮薄でコミカルな面を出していた。
 戦後はジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『神々の王国』で少女感化院のヒステリックな院長役を演じたが、とんだ憎まれ役であった。




 シュジー・プリムは、1896年10月11日、パリ(20区)に生まれた。本名シュザンヌ・マリエット・アルデュイニ。両親、祖父母ともに俳優だったため、物心つく前の1歳半で舞台に立った。2歳半で映画にデビュー。少女時代は可愛い子役として人気を博し、10代から20代半ばまでゴーモン社製作のサイレント映画の短篇に数多く出演した。その後10年間は、マチュラン座、マドレーヌ座、ミシェル座などに出演し、もっぱら舞台で活躍。この頃ジュール・ベリーの相手役を務め、恋愛関係にあった。
 映画がトーキーになると34年頃から本格的にスクリーンに復帰し、次々に映画出演して多くの名優と演技を競った。ミシェル・シモン、アリー・ボール、ジュール・ベリー、フェルナンデル、ピエール・リシャール=ウィルム、ヴィクトル・フランサン、シャルル・ボワイエ、レイミュ、ルイ・ジューヴェ、そして『どん底』でジャン・ギャバンと共演。40歳代前半が彼女の映画女優としての最盛期であった。
 戦中から50年代までは舞台・映画の両方で活躍。60歳を過ぎた57年から映画のプロデューサーとなり、『殺したいほど好き』(59)の製作にたずさわり自らも出演したのち、シナリオも書いて創作活動にも従事。
 76年、アンリ・ヴェルヌイユ監督、ジャン=ポール・ベルモンド主演の『追悼のメロディ』に80歳で映画出演したのが最後となった。1991年7月7日、ブローニュ=ビランンクールで死去(94歳)。
 主な出演作:『うたかたの恋』『どん底』(36)『わが父わが子』(40)『求婚』(42) 『貴婦人たちお幸せに』(43)『神々の王国』 (49)『女性の敵』(53)『脱獄十二時間』(58)『殺したいほど好き』(59)

ミレイユ・バラン Mireille Balin

2015-09-17 | 女優


 ジャン・ギャバンの一世一代の当たり役は、『望郷』のペペ・ル・モコである。パリのギャングで、実名は分からず、ペペ・ル・モコ、あるいは単にペペという仇名で呼ばれている。指名手配中であるが、フランス領アルジェの巣窟カスバに逃げ込み、警察は手も足も出ない。ペペがカスバに立て籠もって二年が経つ。
 ペペ・ル・モコには現地妻のようなカスバの女がいる。しかし、この女にはいい加減うんざりしている。そこへギャビーという愛称のパリジェンヌが現れる。このギャビーに扮したのが、ミレイユ・バランである。フランス人の金持ちの老紳士の愛人なのだが、アルジェへ観光旅行に来て、ペペと知り合うのだ。
 ペペは、パリの匂いを漂わせる奇麗なギャビーに、すっかり魅せられてしまう。ギャビーも金持ちの爺さんには飽き飽きしているから、お尋ね者のペペと危険な遊びがしたくなる。というわけで、ペペの止むに止まれぬ望郷の念と、三角関係のもつれから、最後の悲劇が生まれるわけである。
 『望郷』という映画はストーリーもありきたりだし、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画としてはハリウッド映画を真似た通俗的な作品だと思うが、この映画は、何と言っても、ジャン・ギャバンの個性と魅力で持っている。それと、ミレイユ・バランの高級娼婦が妖艶で、はまり役だったと言える。
 この女優に関しては、日本では意外と知られていないようなので、フランスの資料を覗いてみた。以下、ミレイユ・バランの略歴を書いておく。前半生の恋多き華やかなスター時代に比べ、戦時中ナチス・ドイツの士官と恋に落ちてからは悲運に見舞われ、戦後は不幸のどん底のような人生を送り、哀れな最期を遂げたことが分かる。
 



 ミレイユ・バランは、1909年7月20日、モナコのモンテカルロに生まれた。父は新聞記者だった。
 子供の頃はマルセイユで育ち、高校時代はパリで過ごす。
 20歳の頃からグラビア・モデルの仕事を始め、間もなく映画にスカウトされる。
 映画デビューは1931年、22歳のときで、“Vive la Class”という映画の端役だった。
 1932年に映画『ドンキホーテ』に出演。この年に他の作品にも二本出演し、映画女優としてキャリアを歩み始めるも、チュニジア出身のプロボクサー(フライ級の世界チャンピオンだった)と恋仲になる。
 1933年、今度は金持ちの政治家と大恋愛し、社交界の華となる。
 この年、映画『さらば美しき日々』“Adieu les Beaux Jours”でジャン・ギャバンと共演。以後、映画出演を続けるが、ヌードになった映画もあった。
 1935年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督から『地の果てを行く』の出演を依頼されるが、健康上の理由で辞退。この大役はアナベラがやることになる。
 1936年、デュヴィヴィエ監督の『望郷』に出演、主役のジャン・ギャバンと恋仲に。『望郷』は、大ヒットし、彼女も一躍スターになる。
 1937年、ギャバンと再び『愛欲』(ジャン・グレミヨン監督)で共演。ヴァンプ女優として評価される。
 この後、ギャバンとの関係は終わり、人気歌手のティノ・ロッシと恋仲になる。
 1937年10月、ハリウッドに渡り、MGMと契約するも、映画出演できずに翌年帰国。パリでティノ・ロッシと同棲生活を続けるが、浮気性のロッシに悩まされる。
 1939年、ドイツの男優・エリッヒ・フォン・シュトロハイムと共演して親しくなり、彼の映画にその後も2本出演。
 1940年、ドイツ軍のフランス侵攻。ロッシとカンヌへ転居。1941年にパリに戻る。ロッシとは破局。
 1942年、ドイツ大使館でウィーン出身の若き士官デスボックと出会い、恋に落ちる。彼と婚約し、パリとカンヌで同棲生活を続けながら、映画出演。
 1943年、戦争が激化。1944年、パリ解放。デスボックとイタリア国境近くに隠れているところを、フランスのレジスタンス運動派によって逮捕、投獄される。そのとき彼女は折檻、強姦され、デスボックは殺害される。
 1945年、釈放。
 1946年、映画出演。これが最後の映画となる。
 その後、度々病魔に冒され、アルコール中毒に。友人の好意でカンヌに暮らし、一時ニースの病院で療養。
 数年後パリに転居。世間から忘れ去られ、細々と生き続けるも、1968年パリ郊外で死去。享年53歳。


ディタ・パルロ Dita Parlo

2015-08-11 | 女優


 ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』で捕虜収容所から脱走したギャバンがドイツの片田舎の農家にかくまわれ、幼い娘とさびしく暮らす戦争寡婦と愛し合う。この慎ましい聖女のようなドイツ女を演じたのがディタ・パルロである。
 ギャバンが可愛い娘を見て、片言のドイツ語で「ロッテ・ハット・ブルー・アウゲン」(ロッテは青い目をしている)と言うと、パルロがすかさず「ブラウエ・アウゲン」と訂正するのだが、互いに言葉が通じたのはこの時だけだった。二人は、表情や身振りや行動だけで、互いに意思を通じあい、好きになっていく。クリスマス・イヴの夜が二人が深い仲になる時だった。
 そして、ついに別れの日がやってきた。ギャバンは、それを悟って涙ぐむパウロの後ろに佇み、フランス語で誠意を込め、「きっと戻って来るから」と言ってパルロの肩を抱きかかえるのだった。
 ディタ・パルロという女優は、幸運にも名作『大いなる幻影』に出演したことによって、後世まで決して忘れられない存在になった。
 ほかに彼女が出演した映画で私が見たものはアンドレ・カイヤットの問題作『裁きは終りぬ』であるが、陪審員の一人を追いかけてきた愛人で、絶望して自殺してしまう冴えない役だった。


 
 ディタ・パルロは、1906年9月4日、ドイツのシュッテティンに生まれた。本名グレーテ・ゲルダ・コルンシュタット。ベルリンのラーバン・ボーデ学校でバレーを学んで踊り子となり、さらに映画会社ウーファ社の演劇学校の生徒となった。1928年同社の大プロデューサーであるエリッヒ・ポマーの目にとまり、ヴィルヘルム・ティーレ監督の『伯林の処女』に抜擢される。引き続いて数本の映画に出て、魅力を発揮、たちまちスターの座につく。1930年ハリウッドの招きで渡米、初めはドイツ語版に出ていた。のちにアメリカ映画にも出演したが意外に人気が伸びず、失意のうちにアメリカを去る。折しも故国はナチ政権下にあり、やむなくフランスに居を構え、1939年までフランス映画に出演。第二次大戦下にはフランスの強制収容所に入れられ、ついに祖国の土を踏むことなく、1971年12月12日パリで客死。
 主な出演作:『伯林の処女』『帰郷』『ハンガリア狂想曲』(28)『悲歌』(29)以上ドイツ映画、『キスメット』(米30)『一家の名誉』(米32)、以下フランス映画『霧笛』(33)『アタラント号』(34)『大いなる幻影』(37)『クリストバルの黄金』(40)『裁きは終りぬ』(50)『スペードの女王』(65)

シモーヌ・シモン Simone Simon

2015-08-10 | 女優


 ジャン・ルノワール監督の『獣人』でギャバンと共演。鉄道の駅に勤める助役の若妻がシモーヌ・シモンで、堅物でケチな夫に嫌気がさし、機関士のギャバンの愛人になって夫を殺すように仕向ける小悪魔的な女を演じた。この役はルノワール自身が彼女に最適だと思って決めたのだという。ギャバンとの共演はこの一本だけだが、彼女にはロリータ的な少女の面影があって、汗だくになって働くギャバンが、こういう女に惑わされるのも分かる気がした。
 シモーヌ・シモンがシャム猫のような表情の愛らしさと小柄だが溌剌とした魅力を発散させた映画は、マルク・アレグレ監督の『乙女の湖』(1934年)である。『獣人』に出演する4年前で、この一本で彼女は一躍スター女優になった。『乙女の湖』は最近DVDが発売されたので、早速TSUTAYAで借りて、わくわくしながら見たが、今見てもシモンの魅力は大したものであった。美青年スターのジャン=ピエール・オーモンの恋人で、パックという名の娘がシモーヌ・シモンの役だった。夏の避暑地である美しい湖で二人は出会い、恋に落ちる。若い男と女のひと夏の思い出といった純愛映画なのだが、シモンはメルヘンに登場する妖精のようでもあり、後年フランソワーズ・サガンが小説で描いたような大人になる前の現代的な少女でもあり、不思議な娘を演じていた。



 シモーヌ・シモンは、1910年(1911年)4月23日、マルセーユ(またはベテューヌ)に生まれた。マルセーユとマダガスカルで学校教育を受け、30年頃にパリへ出てモード画などを描いていた。31年、『無名の歌手』の端役で映画デビュー。34年マルク・アレグレ監督に抜擢され、『乙女の湖』でヒロインのパックに扮し、一躍脚光を浴びた。この映画の評判で、彼女は、36年ハリウッドに招かれて数本に出演。2年後に帰仏して、ジャン・ルノワール監督の『獣人』でジャン・ギャバンと共演、若い人妻セヴリーヌの演技が話題になった。大戦がはじまって、再び渡米、アメリカ映画で活躍をみせた。解放後フランスに戻り女優を続けるが、戦前の輝きはなかった。53年10月、第1回フランス映画祭に招かれ来日。2005年2月22日パリで死去(94歳)。
主な出演作:『乙女の湖』(34)『黒い瞳』『みどりの園』(35)『四つの恋愛』(36、米)『第七天国』(37、米)『ジョゼット』(38、米)『獣人』(38)『第三の接吻』(39)『キャット・ピープル』(42、米)『誘惑の港』(46、英)『女の獄舎』(49、伊)『輪舞』『処女オリヴィア』(50)『快楽』(51)『三人の泥棒』(54、伊)『二重の運命』(55、西独)『青いドレスの女』(72)

ダニエル・ドロルム Danièle Delorme

2015-07-26 | 女優


 『殺意の瞬間』でギャバンの相手役を演じた女優のダニエル・ドロルムは、自著「明日、すべてが始まる」Demain, tout commence(2008年)で、こんなこと書いている。(フランス語版ウィキペディアより拙訳)

――『殺意の瞬間』は、私たちの青春を不朽にした映画の一つになっています。ジュリアン・デュヴィヴィエは、私とは世代が違いますが、この監督と彼の作品に対して、私は憧憬の念を抱いていました。それで、まさかデュヴィヴィエが私に声を掛けてくれるとは思ってもいませんでした。彼が私に会いたいと言ったとき、気詰まりな感じさえ持ちました。初めて彼と会ったときのことは、今でも目の前に浮かぶように憶えています。デュヴィヴィエは、非常に印象的で、愛想が悪く、几帳面でした。彼は私に自分の映画の概要を話し、シナリオを読んだらすぐに返事がほしいと言いました。採用するかどうかは別として、すでに他の女優の何人かがこの役を志願しているようでした。
 デュヴィヴィエがプレッシャーをかけるので私は唖然としましたが、ちょうど路上に駐車してあった私の車の中で台本を全部読みました。彼の説明からは前進しましたが、でもなぜ彼が私を思い浮かべたのかがますます分からなくなりました。天使の顔をしたこの悪魔的な若い娘は、嘘つきで腹黒く、殺人さえ犯せる娘で、私がこの役を演じることができるのだろうかと思ったのです。ギャバンを操って、自分の鼻先に連れてきておもちゃのように弄ぶことなどできるのだろうか。そんなこと信じられません。無謀な挑戦だと思いました。でも私はすぐに承諾しました。この役が自分をまったく別の方向へ投げ込むと感じたからです。それに、ギャバンとの共演、どうして逃げ出すことができるでしょうか。
 撮影は10週間にわたりました。ビランクール撮影所にパリの古いレ・アールが再現されました。当時の状態とまったく同じセットでした。そして、数メートル四方に小さな寝室が作られ、中にレ・アールのレストランの主人ジャンと若妻の私の婚礼用ベッドが置かれました。
 デュヴィヴィエは椅子に座り、獲物を狙う鳥のように私たちの方をじっと見ていました。
 レストランの主人を惑わし、人殺しをする女が犠牲者の犬にずたずたに引き裂かれるというこの陰惨な物語が私にとって真の贈り物になりました。個人的にも素晴らしい思い出になりました。
 この映画はいわゆるクラシックの一つになり、観客は頻繁にこの映画を見たがっています。でもそれは、ギャバンの映画の一本、デュヴィヴィエの映画の一本をまた見たいと望んでのことです。一年前にも野外スクリーンにこの映画が映写されました。そして観客はこのたそがれの世界に感銘を受け(アルマン・ティエールのモノクロの素晴らしい撮影です)、1950年代の映画に込められた嘲笑と悪意に心を揺り動かされたようでした。




 ダニエル・ドロルムは、1926年10月9日、セーヌ県ルヴァロワ=ペレに生まれた。コンセルヴァトワールのピアノ科に学び、39年2等賞で卒業ののち舞台演劇を志しシュザンヌ・デプレのオーディションに出向いたり、ジャン・ウォールの講座に通うなどしていた。42年、16歳のときマルク・アレグレ監督の『呪われた抱擁』の端役で映画デビュー。戦時中はレジスタンス運動に参加し、解放後ルネ・シモン、タニア・バランショヴァの指導を得た後、舞台、映画に復帰した。舞台では『にんじん』『人形の家』の主役を演じている。映画では、55年ジャン・ギャバンと共演した『殺意の瞬間』での強烈な演技で注目された。俳優ダニエル・ジェランと結婚、二人で巡業公演もしたが別れ、イヴ・ロベール監督と再婚した。49年ヴィクトワール女優賞、翌50年フランス最優秀女優演技賞に輝く。63年『わんぱく戦争』を製作。2008年、自伝「明日、すべてが始まる」を出版しフランスで話題となる。88歳で今も健在。
 主な出演作は、上記のほかに、『賭はなされた』(47)『レ・ミゼラブル』(57)『5時から7時までのクレオ』(61)『流れ者』(70)