丹波の村寺 浄土真宗 竹内山 真證寺

京都府亀岡市曽我部町にある真宗寺院。
アクセス 亀岡駅から学園大行きバス10分、南条局前下車、徒歩3分。

指揮の思い出

2022-11-15 10:49:57 | 日記
指揮の思い出

高校の音楽教員になった時、吹奏楽の顧問になった。
ということは、合奏の指揮をするということである。

 中学校で、田舎の小さなバンドでアルト・ホルンという中音の内声部を演奏することが多く、
あまり面白くなくて、メロディが吹きたくなってトランペットを親にねだって買ってもらった。
京都三条の十字屋という有名な楽器店で金色のを買った。直後に、学校からの帰路で転んで
左腕の骨を2本骨折するという大事故が起きた。救急車で第二日赤病院へ入院し、手術して
もらった。腕にギブスをはめてもらって、病院の屋上でトランペットを吹いた。腕の痛み
以外は元気だったので、同室の患者さんと毎日の様に、こっそり出前のご飯を注文してたべた。
 祇園のお店から届いた鰻丼の美味しさは、いまでも味の記憶に残っている。

さて、合奏の指揮をすることになって、はたと困った。大学での専攻は声楽だったし、
指揮はしたことがなっかった。ただ、大学入学前に楽理の勉強をしていたので、音楽の
構造を演奏で表現することにはいたって興味があった。ただ、合奏の練習(リハーサルテクニック)や
演奏表現と指揮動作の関連性には分からないことが多かったが、高校生相手に吹奏楽曲やポップスを
指揮していた。その頃の演奏録音を聞き返すと、恥ずかしくて聴いていられないものである。

 そこで、指揮法なるものを学ぼうと画策した。学校に大阪フィルの定期演奏会の招待券が
毎回届いていた。それをもって、大フィルの演奏会を聴くべく中之島のフェスティバル・ホールへ
学校からの帰りによく行った。オーケストラの演奏は、ホールの響きもあって、私の耳に心地よく
響いた。朝比奈先生やスイトナーの指揮を聴いて、サインをもらった。武満徹には彼の曲が演奏される
演奏会では、何度もお目にかかった。そんな指揮者のお一人に手塚 幸紀先生がおられた。
Piano コンチェルトなどの合わせ物がお得意のようだった。何度かの演奏会の後、楽屋にお邪魔して
高校の吹奏楽を指導しているが指揮法なるものがわからないので教えてほしいとお伝えした。
 すると、「リハーサルを見に来たらいいですよ!」とおっしゃるので、扇町プールの地下にあった
やや古めかしい造りの大フィルの練習場へ何度か通って、リハーサルを見学した。また、
年末の第九の演奏会の指揮のために帰国した小沢征爾先生のリハーサルが豊中であると聞きつけ、
曲石の片隅で拝見したことがある。全身が音楽に乗っ取られた様に動き、言葉よりも指揮が雄弁に
音楽の月裏方を語っていた。心が震えて、涙が出た。

 その後、兵庫教育大学大学院で保科 洋先生のゼミに入り、演奏解釈の研究をした。楽譜と演奏の
関係性や指揮法の科学的な理論を学んだ。この時の経験は、その後の音楽の聴取や考え方、演奏法に
強く反映している。独りよがりにならず、理論的に優れた演奏とはどのようなものであるかが、
ようやく分かったと思った。

 このようにして、指揮法を学んだが、それは音楽だけでなく、人生を生きる時の大きな指針になっている
ように思える。困難に出会った時は、難しいスコアを読みこなす様に、冷静な意識で最善の方法を見つける
ことを学んだ。
他にも何人かの先生に音楽を教えてもらったが、どの先生からも素敵な人生の生き方を学んだ様に思う。

 古い録音を探していたら、30年以上前に大阪のミュージアムスクエアでアムジー室内オーケストラの定期演奏会
の指揮をしたものが出てきた。バルトークのルーマニア舞曲とブリテンのシンプルシンフォニーである。
拙い演奏ではあるが、今聞き返しても なかなか味わいのある演奏ができている。
 楽譜を持って、京都の古い寺院の庭園に行き、庭の美しさを味わいながら、このような美しさを音楽で
表現するにはどのように演奏するべきなのか、頭の中で繰り返し楽譜を演奏した。

 今後の音楽活動の基盤となってくれます様に!と願って、感謝の気持ちでペンを置きます。

仏教における形式と実践について

2017-01-17 05:57:27 | 日記
大乗仏教に多く見られる、儀式重視の仏教。上座部に見られる、実践
重視の仏教。どちらが良いのかは、これまでも先学達が多く論じ、
また実践をされてきたであろうから、ここで改めて書く必要はないのかもしれない。
 しかし、布教の現場では、儀式の型ばかりを強調する場面や、また無駄に(?)
過酷な肉体的な実践を修行として行う場面に出会うことも多く、そのどちらもが
適切な仏道実践とは思えないことがある。
 釈迦が初転法輪で悟ったとされる内容を、理論として知識的に理解しても
それは知識であり、智慧とはならない。実践してはじめて、意味を発するのであろう。
 では、日本仏教における型や儀式は意味を持たないのであろうか?
 個人的な経験であるが、最近、仲の良いご夫婦であった方が、ご主人を
亡くされた。その還骨法要の折にお伝えしたのは、「毎日仏壇のお花・ロウソク・お香を
取り替え、御仏飯を新しく供え、短い読経をしてください」ということであった。
 その老婦人は、このアドバイスに従って、毎日の自ら行う法要によって、
亡き夫と、「改めて会話をすることができたように思えて、心が落ち着いて
行きました」と申されたことがある。また、重い病に起こされたご婦人が、
私財を多く使って、本堂の仏具の多くを新調してくださったことがある。
その後、そのご婦人は亡くなられたが、その時に「これで心が落ち着いて、
感謝する気持ちになりました。」とおっしゃった。これは、
喜捨による慈悲の喚起と捉えていいだろう。
 一方、長年に亘り仏教と自認して生活しながら、真実の救いがどんなものか
わからないまま苦しむ方々も多い。
 儀式や型が不要なのか?実践が重要なのか?
 これは、医学における医師と患者の関係に似ている。
 医師がいくら優れた治療方を知っていても、それを患者に施術しない
限り、治療としては意味を持たない。問題は、医学的理論ではなく患者の
体の状況である。 同様に宗教が”心”の問題を扱うとするなら、問題は
その仏教徒である方々の各々の”心”の状況がどうなっているかである。
 患者の体調によって治療方を変えない医師はいないように、僧侶や仏教徒も
また、相対する方の”心”の状況が見えていること、それに合わせた対応を
することが必要なのである。
 これは当たり前のことであるが、現実の布教の現場では、教団や
宗派の力が強く働いて、個人の心の状況が「置いてけぼり」になったり
していることも散見される。
 ティクナット・ハンが「 one Buddha is not enough」と述べられて
いるが、「それぞれがブッダと同じ道(方法ではなく)を歩み、目覚めること
につながれば良い」、と思うことであります。

葬儀や告別式の形と意義

2017-01-16 22:17:04 | 日記
親鸞は、自らの肉体は「閉眼せば、賀茂川に入れて魚に与うべし」と仰られました。そして、真宗教団では各派各々の立派な差定を持っていて、それを執り行うことで、優れた儀式と言われます。人間の持つ煩悩や渇愛が苦の因でありますから、そのサンカーラ(苦の継続でいいのかな?)を断ち切れればいい訳です。儀式に意味があるのか?しない事に意味があるのか?親鸞の信仰のテーマは「無我の追求」であると考える私にとって、親鸞のように「死んだら、水葬か鳥葬にして」欲しいと言い遺したいですし、遺族となるもの達は、「立派なお葬式」を上げてやりたいと、望むでしょう。(「無自我という事実が存在する」ワールポラ・ラーフラ著「ブッダが説いたこと」より:) 多くの場合、葬儀や告別式は、基本的に残された者の”癒し”としての意味をもち、その方法や内容が遺族それぞれや亡き人の意思と合致したり、しない事に気付かされる時に、自我(我が身の煩悩)が見えてきて、その反省から”無為な欲望”に気づいていただければ、儀式を通じてダルマに触れていただけるのです。 今日も、大雪の中でのお通夜から帰ったばかりで、まとまってなくて、すみません。

禅とマインドフルネスと上座部仏教の違い

2016-12-27 16:03:47 | 日記
釈尊は、四つの真実(四諦諦)を熟知し、八正道を実践すれば、一切の苦しみから解脱できると説かれた。
 八正道とは、ブッダがといた理想の境地に達するための八つの道で、
3つの部分(・道徳を守る・・集中力を高める・・・自己観察をし慈愛の心を育む)からなります。その第七の正念は今ここに生きている、ありのままの姿に気づくことができるという教えで、「幸せに気づく方法であり」、西洋にもたらされマインドフルネスという。第八は正定:「今、ここで」の気づきの継続(集中力)。サマーディ瞑想といい座禅による「呼吸の観察」によって行う。
第二が正思惟:雑念が起きたら、呼吸に気づき、自分にもどることで、マインドフルネスのプラクティスでも効果的に使われる。
 第一は正見:知恵や洞察力を得る(ヴィパッサナー瞑想)で、「全身の感覚をや心を心静かに、冷静に観察する」。すべては移り変わる(無常・アニッチャ)と気づき(サティ・目覚め)、無我に至り、自我を手放す。ここが、禅宗と上座部仏教の違いなんです。そして、慈愛の心を育む慈悲(メッタ)の瞑想で生きとし生けるものの幸せを祈ります。

瞑想実践の理論と技法

2016-12-13 15:09:18 | 日記
呼吸瞑想(呼吸観察)は集中力を増し、三昧(サマディ)に達する為に行うが、それだけでも呼吸が静まり、深い禅の境地を味わえる。しかし、無意識の我の働きは、静かにしている(砂を混ぜた水をかき混ぜて、それが沈殿して行く)だけ。砂(煩悩や渇愛)は無くなっていない。そこで、煩悩や渇愛自体を自分で観察し、それを自己で癒す技法が観察瞑想(ブッダが初転法輪で覚った瞑想法:ヴィパッサナー瞑想)が必要と考えられます。呼吸から体ー心の観察と進み、最後に慈悲の瞑想に繋ぐという方法は、いろんな瞑想の方法で一般的なようですね。小池龍之介さんの座禅の指導書を見てみますと、ちようど上記のような方法が実践的に描かれています。 ただ、瞑想の方法の是非は、理論や著述だけを読んで、どれが正しいとか、そうでないと言っても意味がありません。実際にご自分で体験されて、判断されるべきだと思います。ちょうど、真宗の教義に「修行は不要である」と描かれてあり、親鸞も修行を通じての救いを否定し他力へ翻ったから、修行(実践)が不要な訳ではありません。理論的に頭でわかったものは、それまでのことで、日常生活に活き、救い(タンハー渇愛と嫌悪)からの解放があってこそ、2600年息づく、釈尊の御教えであると思います。来年こそ、古くからのブッダの実践が今に残る国と聞きます「ミャンマーのバガン」に行こうと思っています。