丹波の村寺 浄土真宗 竹内山 真證寺

京都府亀岡市曽我部町にある真宗寺院。
アクセス 亀岡駅から学園大行きバス10分、南条局前下車、徒歩3分。

仏教における形式と実践について

2017-01-17 05:57:27 | 日記
大乗仏教に多く見られる、儀式重視の仏教。上座部に見られる、実践
重視の仏教。どちらが良いのかは、これまでも先学達が多く論じ、
また実践をされてきたであろうから、ここで改めて書く必要はないのかもしれない。
 しかし、布教の現場では、儀式の型ばかりを強調する場面や、また無駄に(?)
過酷な肉体的な実践を修行として行う場面に出会うことも多く、そのどちらもが
適切な仏道実践とは思えないことがある。
 釈迦が初転法輪で悟ったとされる内容を、理論として知識的に理解しても
それは知識であり、智慧とはならない。実践してはじめて、意味を発するのであろう。
 では、日本仏教における型や儀式は意味を持たないのであろうか?
 個人的な経験であるが、最近、仲の良いご夫婦であった方が、ご主人を
亡くされた。その還骨法要の折にお伝えしたのは、「毎日仏壇のお花・ロウソク・お香を
取り替え、御仏飯を新しく供え、短い読経をしてください」ということであった。
 その老婦人は、このアドバイスに従って、毎日の自ら行う法要によって、
亡き夫と、「改めて会話をすることができたように思えて、心が落ち着いて
行きました」と申されたことがある。また、重い病に起こされたご婦人が、
私財を多く使って、本堂の仏具の多くを新調してくださったことがある。
その後、そのご婦人は亡くなられたが、その時に「これで心が落ち着いて、
感謝する気持ちになりました。」とおっしゃった。これは、
喜捨による慈悲の喚起と捉えていいだろう。
 一方、長年に亘り仏教と自認して生活しながら、真実の救いがどんなものか
わからないまま苦しむ方々も多い。
 儀式や型が不要なのか?実践が重要なのか?
 これは、医学における医師と患者の関係に似ている。
 医師がいくら優れた治療方を知っていても、それを患者に施術しない
限り、治療としては意味を持たない。問題は、医学的理論ではなく患者の
体の状況である。 同様に宗教が”心”の問題を扱うとするなら、問題は
その仏教徒である方々の各々の”心”の状況がどうなっているかである。
 患者の体調によって治療方を変えない医師はいないように、僧侶や仏教徒も
また、相対する方の”心”の状況が見えていること、それに合わせた対応を
することが必要なのである。
 これは当たり前のことであるが、現実の布教の現場では、教団や
宗派の力が強く働いて、個人の心の状況が「置いてけぼり」になったり
していることも散見される。
 ティクナット・ハンが「 one Buddha is not enough」と述べられて
いるが、「それぞれがブッダと同じ道(方法ではなく)を歩み、目覚めること
につながれば良い」、と思うことであります。

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