丹波の村寺 浄土真宗 竹内山 真證寺

京都府亀岡市曽我部町にある真宗寺院。
アクセス 亀岡駅から学園大行きバス10分、南条局前下車、徒歩3分。

香港プラムビレッジへ何も知らないまま行ったメモ

2016-10-13 10:40:18 | 旅行
吸って、吐いて、のブラザーが迎えてくれました
ちょっと整理してない、お浄土みたい
今、食べていることに、気持ちを、集中しているだけで、精一杯だった。
ありがとうございますや、感謝まで、いかなかった
無駄な話しはあまり、しない
仏陀ホール
食後は、皆さん、歩く瞑想してる
集中しているのを、切らさないためだろ。
仏陀ホールで、オープンスピーチ
その後、明日の朝食後まで、完全沈黙
束縛や強制ということが無い。
自分の呼吸してください、で感じ



朝、4.30起床、少しマインドフル体操、洗面、すでに、ブラザーが棒をもって、マインドフル体操してる。

これから、6時の坐る瞑想のため、仏陀ホールに行きます。
すでに、向かっている人、洗面する人、まだスッカリ寝てる人、さまざま。

サマディを経て、ビパッサナに至る。目的は、leting go. 手放す。

食べ瞑想
朝の恵みの雨

入り口、家に着いた、と書いてある
棒体操
多くの国で、マインドフルは、医療現場や教育現場に取り入れられている。
カバジン博士が、実際に取り入れて交換があったこと、

マインドフルのストレス低減法として、有名になっていて、著名なドクターや心理療法研究家が参加しています。
ファミリー毎に、sisterやブラザーがついてくださいます。自分の辛かった経験など、誠に真剣に、それぞれの話しを、傾聴してくださる。
さて、3日目です、
今日のテーマは、身体とマインドフルです。
これから、朝の瞑想に行きます。

8.14.
3日目

6時 ガイドM 今日のテーマ フィジカルについてのガイド付き。
7時 10のマインドフル体操、首を緩める、
歩く冥想:1息1歩、2息2歩、
#雨のため室内#
丹田に手を当てて、息を感じる。
息の身体の調節による心の調節、^_^
やってること、概念が、野口整体といっしょじゃないか。

8時 食べ冥想:各国人が黙って、黙々とたべる。今日は噛む回数を増やしたが、タイやブラザーは、ゆったり悠然と、食べている。鐘がなる、全員ストップモーション。また、食べつづける。
食後に本屋が開店すると、アナウンス。何か買うかな?

マインドフルが多く国で、国家規模で取り入れられている?らしい。
心身を整えるツールとして。
ただ、ハンに似た衣装を着ていたり、プラムビレッジのシャツやカバンを身につけた参加者が少なくない。ティクナット ハン様、のファンクラブ員みたいなはどうなのか?
日本人の他の参加者は、聖路加病院の精神看護科のかわばた さん。医療関係の方からで、実際に独自の実践をしているとのこと。
パネルの後、ラリーのネームカードを拾った。
係りのシスター、ゲイムに、渡すと、ああ、私のが
家族のね。た
その後、鐘を招いて、ランチ、
其処で、心境の変化に
出家したシスターが、この期間だけ、家族をもつ。当たり前のことのようだか、シスターには、大きな喜びのようだ、
食べものを前に、今日も飢えで亡くなる子どもが、世界に4万人
何故か、泣ける、
頑張ってたべよう、

午後は、トータルリラクゼーション、つまり、ボディースキャン
田舎のお ばあちゃん の広間で、子守り歌で、昼寝をしている感じ
今夜は、般若心経の塔へハイキング
その後、ギター弾いた
老師 10人部屋。ドミトリーいうの?
5時ですな

朝から、冥想、歩く冥想、食べる冥想、2.5時間のパネラ
今日のテーマは教育です。
昼食、終戦記念日なので、いよいよマインドフルに、頂きました。戦争で食べられなかった人、食べられない人のことに、おもいを馳せ、いただきます。
食後は、皆で、昼寝をします。
3日目の夜は、ファミリーごとに夕食。我が、smiling heartは.食後に担当シスターを囲んで、国ごとに歌を歌いました。日本人は2人で、アイ ハブ アライブドの日本語版、歌いました。その後、マインドフルティチャーコネクション。
ここでも、登壇させられてしまいました。英語、予習しておいたら、良かったなぁ。
明日は、朝6時から、社会福祉の会議します。早いです。
その後、ランチがあって、御別れします
ハンは、日本の仏教界に、戒の復活が、必要といいましたが、ほとんどまもれていない。

五戒
日本のお寺のと違う
クリスチャンのチャント、みたいな

気づき
深い呼吸を続ける。:命題。すると、すべてのものが、当たり前に観察できる。当たり前に見える。呼吸が深いから、渇愛、タンハーが働かない。

呼吸は、入るもの、出て行くもの。観察する。コントロールしない。
身体の調節によって、長く、短く、深く、浅く なる。長く深くなるよう、身体を使ってあげる。8.15.2015の気づき。釈好宏


歩く冥想の時に、マインドフル体操の1を行う。
あさ6じから、シアワセの国際学会
ブータンとタイから
マインドフル体操
朝食冥想
働く冥想


魚川裕司氏の「だから仏教は面白い!」の読書メモ

2016-10-13 10:35:12 | 日記
⒈異性とは目も合わせないニートになれ:社会には役に立たない(涅槃・解脱)を求めた教え:なぜそのようなヤバイ教えを2600年間も
 受け継いできたのか?( 現世利益(私利・私欲)を満たそうとする考え方に、問題があるからではないか?)
 書評:
「私たちは「刺激ジャンキー」になっていて、常に新しい刺激を求めながら生きている。
本書では仏教のいう「苦」を「不満足」な状態だと解説しています。生きることを「苦」と いうのは知っていましたが、遥か昔のインドは遥かに生きにくい環境だったのか?くらいな 認識でした。
それを普通に生きていることがどうしても満足できずにジャンキーになってしまうモード と 表現されると、「あ、はい。」とじっとガジェットだらけの自宅を見渡してしまいます。
・仏教というのは、そういう生き方だけじゃなくて別のモードを探しましょうという教え だからです。
言い換えれば「良い暮らしをするために、もっと稼ぎたい。持ち家も欲しい」など、普通の 人が普通に生きているなら持つ、当たり前の感覚。乱暴に言えば、そういう自然に感じるこ とを全部リセットしてクリアにしなさい...ということです。悟ればできますよ、と(汗)
「I Can’t Get No Satisfaction」を卒業するために実践まで教えるの が仏教
そのような認知に至るための方法を私は教えることが出来るから、そのとおりにやれ ば、あなたは自らそれを「知る」ことができますよ。ゴータマ・ブッダの仏教のスタン スは、そういうものであるということですね。
そして、新しい刺激・欲望の対象を思い浮かべては、頑張ってそれをゲットして、そう したら今度はまた次のものをどんどん欲しがる。

仏教で特徴的なことは、そうした「いつも満足できない」という「苦」から抜け出ましょう という教えに留まらず、「どうしたら抜け出られるかも教えてあげるよ」というところまで踏 み込んでいること。
ここいらへんで私もちょこっと齧っている瞑想、マインドフルネス(気づき)に繋がってき ました。
 満足できないこと、欲望、煩悩をすべて捨てる、そういう行為を禁止するだけでなく、考え ることもNG。通常の認知は欲望をともなったカタチなのでNG。
ではどうするのか?
瞑想、マインドフルネスの実践
サマタ:*強烈な集中力を鍛えることにより、ある意味では無理やりに、自分の知覚を通常の状態 から引き剥がすということをするわけです。
*
瞑想を実践することで、尋常ならざる集中力を鍛えられるということなんだそうです。よく言 われる「ゾーン」とか「フロー」の状態に、常にあるようになりなさいと。仏教関係なく瞑 想をしている私のような一般人ケースは、この仏教での集中力アップ方法の部分だけを 悪用 している活用しているといえるのかもしれません。
ヴィパッサナー:
さらに「マインドフルネス(気づき)」...自分の日常の行為について細かいことまで自覚的 であることの実践について。
立っているときは「立っている」と知り、歩いているときは「歩いている」と知る。

無自覚に生活すればふと浮かんだ欲望や衝動が背景にある思いを、自分の考え・自分のもの
と誤認してしまう。だから「欲望のゾンビ」になれ果てるのではなく、「己こそが己の主
人」になるように、常に自分が何をしているのかをとても些細なことまでしっかり知るよう
研ぎ澄ましましょうと。
果たしてそこまでしっかり実践できるのか?というと、私の場合はなかなか疑問ではありま す。ただそうしたバックグラウンドがあってマインドフル瞑想があるというのは知っておく べきことですよね。
私の関心が、瞑想の実践にあるので、直接関係するところだけに触れました。何となく「瞑 想をすると良い感じ」...で、そもそも「仏教はなんでそれをするの?」という漠然とした私 の思いに少しだけ筋が通ってきたようにも感じます。引用先 http://hakadorian.com/archives/11272

マインドフルネスとブッダと親鸞

2016-10-12 16:47:51 | 日記
27年の比叡山での厳しい修行に挫折された。

 親鸞においては、いづれの行?にても及ばぬ身。


 そして、念仏でしか救われない境地に至られた。

 親鸞が語った言葉の端をいくら集めても、親鸞の真の他力本願にはたどり着かない。

 聖人に徹底していることは、無我の実践である。自我を捨てることが、彼の目的であるなら
ブッダの身教えに叶うことである。

 しかし、今日、一般的に真宗の教えとされるのが、例えば、親鸞がいずれの行にても及ばぬ身
と述べたのは、厳しい修行を行い、比叡山を降りることにしたからこそ、いずれの行も及ばない
私が見たのである。本来ならば、浄土真宗を体得?しようとすれば、親鸞と同じ所業をして
それに耐えられない、またそれでは自我を捨てられない私であることが、体験される必要が
あろう。そのような、親鸞の生涯に貫かれていたのが、前述の自我を捨て無我を実践することで
ある。
 親鸞は、方向・日などを選ばない。というのは自分の都合で、物事を判断しないということで、
阿弥陀の図らいによるもので、よく思っても、悪く思ってもそんなことは関係ないとする。
これも無我の働きの気づきのためであるが、
門徒やから、好きな日に、好きな方向を選んでもいいという考えには当たらない。
 
結婚についいて:これまた無我の実践となっている。戒律を破らざるを得ない自分に
気づき、六角堂の如意輪観音への100日の参詣で、如意輪観音が妻になって
現れようという夢告を受けて、恵信尼と結婚したのは、自分の好きな人と結婚した
わけではない。

肉食については、佐渡島に島送りになり、僧籍を剥奪されたため、
出家者のように精進料理を食べるから、汚れない自己型の脱出が
見られる。全ての命を平等に、深い感謝の気持ちを持っていただこう。
 ここでも、出家して修行を完就(カンシュウ)すれば悟れるという、
 自我から解き放たれ、他力(無我)によってのみ救われる境地に
至ったと考えられる。

これらの親鸞の言動は、本来ならば親鸞と同じ経験をしなければ辿りつけないで
あろう。それも厳格な悟りへの深い追求を持ってしか、たどり着けないもので
あろう。
 自然法爾とは自己の図らいをやめて、あるがままを、そのまま受け取ることである。
 これはブッダが、無我という自我にたどり着いたのと同様であろう。

ならば、我々は親鸞の行ったことを、修行に挫折した経験もなく、真似ても、
真実の目覚めには辿りくことができないであろう。と言って、27年間の修行を
して失敗することなどできはしない。
 (真宗僧侶は、元より修行すること自体を良しとしないが、それは親鸞の言説を
捉えての、判断であり、親鸞がなぜ修行は自分に相応しくないと判断したかの
経験なしに、その判断は適当ではない。

そこで、現在、ブッダの行った実践と同じ内容の体験をし、それが心身の改善に
非常に役立つことが、アメリカの大學の調査で判明した方法が、マインドフルネスと
呼ばれる、上座部仏教の流れにある瞑想法である。
座禅とも違う:集中(心の安定をもくてき)
マインドフルネス:集中(サマーディ)ー観察(ヴィパッサナー)ー気づき(サティ)ー
手放し(ニルバーナ)

ブッダの初期法輪の四諦・八正道の教えの実践法である。
ブッダの実践したことを自分でもやってみると、親鸞がなぜこのように語り、なぜ
そのような行動を行ったのか?という疑問の答えが見えてくる。

 風邪は阿弥陀さんに、もらいものと、自分で考えたらダメ。阿弥陀さんからのもらいものと、受け止める。?受け止めようとする努力はダメ?なのか?それはOK。

日を選ばないのは、与えらたものを、都合のいい悪いで、区別しない。暦を見て選ぶのや、自分の都合で暦に関係なく選ぶのも、どちらも自力。タンハーの働き。


ある法事の朝の瞑想での気づき

2016-10-12 16:40:42 | 日記
① 今を味わう。(今ここ 喜び  今ここ 幸せ)

 今は次への準備ではない。

② 合掌は丹田に力が集まる位置でする。指先が鼻の高さで、前後は手のひら縦一つ前にて行う。
 形は、両手のひらの間に少し空間ができ、小さな蓮の花の蕾のようにする。

 ③簡易瞑想:気持ちを呼吸に向け、呼吸を観察し続ける。気持ちが逸(そ)れたことに気づいたら、
      また呼吸に気持ちを向ける。