丹波の村寺 浄土真宗 竹内山 真證寺

京都府亀岡市曽我部町にある真宗寺院。
アクセス 亀岡駅から学園大行きバス10分、南条局前下車、徒歩3分。

禅とマインドフルネスと上座部仏教の違い

2016-12-27 16:03:47 | 日記
釈尊は、四つの真実(四諦諦)を熟知し、八正道を実践すれば、一切の苦しみから解脱できると説かれた。
 八正道とは、ブッダがといた理想の境地に達するための八つの道で、
3つの部分(・道徳を守る・・集中力を高める・・・自己観察をし慈愛の心を育む)からなります。その第七の正念は今ここに生きている、ありのままの姿に気づくことができるという教えで、「幸せに気づく方法であり」、西洋にもたらされマインドフルネスという。第八は正定:「今、ここで」の気づきの継続(集中力)。サマーディ瞑想といい座禅による「呼吸の観察」によって行う。
第二が正思惟:雑念が起きたら、呼吸に気づき、自分にもどることで、マインドフルネスのプラクティスでも効果的に使われる。
 第一は正見:知恵や洞察力を得る(ヴィパッサナー瞑想)で、「全身の感覚をや心を心静かに、冷静に観察する」。すべては移り変わる(無常・アニッチャ)と気づき(サティ・目覚め)、無我に至り、自我を手放す。ここが、禅宗と上座部仏教の違いなんです。そして、慈愛の心を育む慈悲(メッタ)の瞑想で生きとし生けるものの幸せを祈ります。

瞑想実践の理論と技法

2016-12-13 15:09:18 | 日記
呼吸瞑想(呼吸観察)は集中力を増し、三昧(サマディ)に達する為に行うが、それだけでも呼吸が静まり、深い禅の境地を味わえる。しかし、無意識の我の働きは、静かにしている(砂を混ぜた水をかき混ぜて、それが沈殿して行く)だけ。砂(煩悩や渇愛)は無くなっていない。そこで、煩悩や渇愛自体を自分で観察し、それを自己で癒す技法が観察瞑想(ブッダが初転法輪で覚った瞑想法:ヴィパッサナー瞑想)が必要と考えられます。呼吸から体ー心の観察と進み、最後に慈悲の瞑想に繋ぐという方法は、いろんな瞑想の方法で一般的なようですね。小池龍之介さんの座禅の指導書を見てみますと、ちようど上記のような方法が実践的に描かれています。 ただ、瞑想の方法の是非は、理論や著述だけを読んで、どれが正しいとか、そうでないと言っても意味がありません。実際にご自分で体験されて、判断されるべきだと思います。ちょうど、真宗の教義に「修行は不要である」と描かれてあり、親鸞も修行を通じての救いを否定し他力へ翻ったから、修行(実践)が不要な訳ではありません。理論的に頭でわかったものは、それまでのことで、日常生活に活き、救い(タンハー渇愛と嫌悪)からの解放があってこそ、2600年息づく、釈尊の御教えであると思います。来年こそ、古くからのブッダの実践が今に残る国と聞きます「ミャンマーのバガン」に行こうと思っています。

ベネシアさんの気づき

2016-12-07 13:42:57 | 日記
 ベニシアさん(京都大原の古民家に住み、自然を愛するイギリス貴族の末裔、インドを経て日本在住)
*我々日本人が気づかないような日本の伝統的な美しさや素晴らしさに 
ベニシアさん(京都大原の古民家に住み、自然を愛するイギリス貴族の末裔、インドを経て日本在住)
*我々日本人が気づかないような日本の伝統的な美しさや素晴らしさに 
 気づいて、永住を決意する。その気づきは、ブッダの言う、苦痛(自我・自分だけが良かったらと言う気持ち)の原因(四聖諦)から楽に変える方法(八正道)の実践に
つながっていると思えます。今日は、その気づきを美しい詩に書かれたものと、音楽にされたものを、じっくり味わってください。

・友人の京都芸術大 ハルト先生
(コケに見せられ、日本庭園が大好き)視覚認知学者
 「美しいと感じた自分の気持ちに、目を向けた時、もう一つ新しい世界が
 広がってゆく。それを庭の美が教えてくれる。」とおっしゃっている。

〜ベネシアのエッセイから〜テーマ曲:「道」
 「秋は実りの季節、木の葉が落ちてしおれて行くと、人生について考えてしまします。私たちは日々の悩みや心配事で頭がいっぱいになり、身の回りの自然の美しさに
 気づかないことがよくあります。

 真っ青な空に浮かぶ傘のような雲や、
        秋のコスモスの上を軽やかに舞う2匹のチョウ。

 こんな何気ない美しさを見逃してしまいがちです。
 
 太陽は毎日みんなのために輝き、驚くほど美しい日の出と夕映えを見せてくれます。
なのに私たちは果てしない考え事で、太陽を雲のように覆ってしまいます。

 せめて時々は考えることを止めて思い出しましょう。

 人生は舞台稽古ではなく美しく生きる機会なのだと。

『美は見る人の目の中にある』ということわざは、まさに言い得て妙です。」

<時々、日々の生活の中で、この気づきを思い出してください。その方法が呼吸に気づき、自分に帰ること。これを目覚めのベル(マインドフルネスベル)とも言います。>
<考えることを止めることが、気づき、苦しみを取り除く方法でもあります>
*ベネシアさんは、瞑想実践を行なっておられるようです。

野口整体と瞑想について

2016-12-07 13:36:01 | 日記
野口先生の人生の味わい方と、ティクナット・ハン氏のプラムヴィレッジでの暮らしを見ると、似ていることが多いように思います。七夕やお月見の行事が、整体や瞑想につながっていたり、それらが自己洞察ににつながっていたりします。整体協会の七夕祭りでは「願い事のかなえ方」なる、願い事を潜在意識に入るようにしますし、プラムビレッジ(香港でのマインドフルティーチャーズカンファレンスに昨夏に出席し、ハップカム氏にお世話になりました)での歌う瞑想なんかは、瞑想に通じて自己洞察から他者への慈愛に繋がりますね。先日、10日で100時間ヴィパッサナー冥想する京都のヴィパッサナー冥想センターに行きましたが、その最後のあたりのヴィパッサナーの技法で出てきたのが、「野口整体でいう、背骨行気」そのものだったのには驚きました。野口先生くらいの方ですから、ブッダが何を考えどのような実践をしたのかは、全て検証済みで、今の整体協会での次戦法を作り上げられたのを想像すると、もっともなことですが。上記を合わせて、生活と仏教冥想として考えると、大乗仏教の教義や儀式の流れの中に、苦を楽に転じる技法としての、上座部の瞑想技法を入れる方に、共感します。また、まず先にsati(気づき)を入れて、人生や生きること(今ここが幸せ)の共感を作ってから、その流れで、アナパナ→ヴィパッサナー→歩く・食べるなどの瞑想の日常化への導入、と進んでいくのが現代社会では在家でのやり方としては、いいように感じます。また、歌う瞑想など、日常に取り入れていけばさらにいいのですが。アバロキテシュバラの詠唱くらい毎日、読経と共にしてみましょう。

大乗仏教の円環を閉じる

2016-12-07 13:31:57 | 日記
ハンは「大乗仏教の円環を閉じるために、自らを癒す技法を持つべき」言っていると、訳者の池田久代先生から伺いました。これが、大乗仏教の中に、修行はあるが、八正道に基く苦の取り除き楽の種のに変換する具体的なものがないということです。その具体的対応策にアナパナ(集中力を高める瞑想)とヴィパッサナ(観察瞑想)を取り入れている所以かと思います。ただ、気づき(サティ・私は覚り#1と言ってます)を先に感じてから行うことによって、プラムビレッジのような暖かさや楽しさに気づくことによって、人生の美しさを認識することによって、「自力で修行し・悟るんだ!」と言った力みが取れ、苦行(未来に向かって頑張る)でなく・楽しんで「今やる」実践になるんですね。また、サティを最初に入れるのは、他の上座部にはあまり例がないかと思います。ここが大乗仏教の特徴ですね。    <『覚」と「悟」はどっちも必要なんですね。悟は知ること、覚は目覚めること。気づかずに生きていることの多い私です。目覚めれば、世界は輝いていたのです。#寺訓より>と気づいて、40年になりますが、ハンのおっしゃる論理と技法が今になって、繋がりました。) しかし、実践するには、やっぱり相当な状況や期間の修行(訓練)がないと、体得することは大変でしょう。アナパナ(呼吸観察)で育てた集中力でもって、ヴィパッサナでも体の感覚を見るのです。平静な冷徹な気持ちで、観察するだけ・身体中を観察できるまで!(日常生活のマインドフルネスな気づきも大切に、致しましょう)