新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。

パパの大切な話

2024-08-16 10:43:43 | Short Short

少し前、パパが打ち明けてくれたんだ。
いつもならぼくが泣き虫だって怒るのに、その時はパパも元気がなくて、「ママには内緒だぞ」って少し悲しい顔をして言うものだからぼくは心配になって、でも「ママには言わない」って約束したんだ。
ずっと忘れていた大切なことを、急に最近思い出したんだってパパは言った。

ぼくが生まれるよりもママと出会うよりもずっとずっと昔のある夏に、パパは特別な恋をしたんだって。ぼくは恋ってよくわからないけど、つまりとっても好きってことらしい。
「絶対ママには内緒だぞ、男同士の約束だぞ」ってパパが何度も念を押すので、ぼくも真剣に「わかった」って何度も答えなきゃいけなかったけど、僕はパパの話を聞いて、とっても素敵だなって思って、でもなんだか泣きそうになったんだ。
だから、パパとの約束がなくても、ぼくはママだけじゃなくて、誰にも言わないって決めたんだ。だからみんなも、誰にも言わないでね。ここだけの秘密。ここは特別な《部屋》だから。リンクも貼らないからね。

パパはぼくが大切にしている何冊かの動物図鑑を持ち出してきて、その中から『水生生物』の図鑑を選んでページをゆっくりとめくった。あっちを見てはこっちをめくりと、とりとめなく図鑑を持て余すみたいに、でもきっとパパにはその図鑑が今必要なんだ。これから話すそのことに。

「なあ、パパがお前にこんなこと言うの、おかしいのかもしれないんだけどな」
「なあに? 男同士の真剣な話なんでしょ。ぼく、パパが何を言ってもおかしいだなんて思わないよ」
パパは図鑑から目を上げて、ちょっと意外そうな顔でぼくを見てから、「そうか」って嬉しそうな顔をしてくれた。

「人魚っていると思うか」
「人魚?」今度はぼくがきっと意外な顔をしたと思う。「分からない、でもいればいいなって思う」意外な顔が直っていたかは、ぼくにはわからない。
「そうか」
パパは少し黙って、それからパパの大切な話をしてくれたんだ。

その夏、パパはまだ学生で、海で人魚に出逢ったんだって。
「どうして会えたの?」
ぼくはもしかするとトンチンカンなことを言ったかもしれない。でもパパは静かな様子で答えてくれた。
「どうしてだろうな。パパにもよくわからない。気がついたら、そこに居たんだ」
パパたちはふたりでよく白い浜辺を走ったり海に潜ったり、あまり人目につかないように時間や場所に気をつけながら、楽しく過ごしたんだって。
ある日、パパたちは誰もいない小さな島まで泳いで行って、パパはこのままここでふたりで暮らそうって言ったんだ。
でも人魚さんは、悲しそうな顔になって、
「夏だけの約束でここに来たの。だからあと少しで帰らなくちゃいけないの」
「いつ」
「次の満月の夜」
それでその日がとうとうやって来て、パパたちはお別れしたんだけど、そのことをつい最近まですっかり忘れていたんだって。
「夢を見ていて目が覚める時、その夢がすっと消えてしまうことがあるだろ。そんな感じで、パパは次の日にはもうすっかり忘れてしまっていたんだ」
人魚さんはいつもの岩陰から海に潜って、それがさよならだったんだって。

「今頃思い出して、よかったのかな。本当は、俺がずっと忘れていることも、あっちの世界の約束だったんじゃないのかな。そう思うと、忘れていたことも、思い出したことも、どっちもなんだか悲しいんだ」
パパは本当に辛そうな顔をしたけれど、ぼくはパパを信じて言ったんだ。だって、パパがぼくに向かってはじめて「俺」って言ったんだもの。

「向こうの約束のことはぼくにはわからないけど、でもぼくは、パパが思い出してくれて人魚さんは嬉しいと思うよ。パパが忘れたままだったら、人魚さんはずっと独りぼっちだったかもしれないじゃない」
パパは黙ってうつむいて、少しうなずいたように見えた。

「ちょっとあなたたち、ふたりでなにしてるの。珍しい」
ママがぼくたちを見つけて部屋の戸口で言った。
「今日でお盆も終わりなんだから、きちんとみんなでお見送りするのよ」
「うん、わかってるよ。すぐ行くよ」
ぼくは元気よくパパの分まで返事をした。

「ねえ、パパ。人魚さんはひょっとして、パパに見送ってもらいたくなって、わざと思い出させたんじゃないかな」
我ながらこじつけ過ぎかなと思ったけど、パパはぼくを見て、さっきよりも少しだけ元気を取り戻した様子で、でも笑顔はちょっぴり寂しそうだった。

「行こうか」パパは立ち上がった。
「うん」ぼくも立ち上がった。
並んで部屋を出る時、パパが「お前、また背が伸びたんじゃないか」ってぼくの頭にポンと手を乗せた。
いつものパパの笑顔だった。


ぼくの意見は却下なんだってー。