新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。

セピアの中にあるもの

2024-10-13 02:06:20 | weblog

2014年08月10日

晴れた日にはいつかの晴れた日のことを、雨の日にはどこかで降っていた雨のことを思い出す。台風の日には遠き日の荒れた大気を記憶の底から呼び起こす。

ところが今日の台風は、なぜだか若き日の冬のある場面が脳裏に浮かんだ。
まだ二十代の終わり頃、都会で働いていた当時の職場の上司にあたる女性と、後輩になる男の子と三人で、乾いた風を受けて横断歩道を渡る場面。

それは特にどうということもなく、何があったというものでもなく、ただ淡々と過ぎた時間のひとコマに過ぎない。今までその場面を思い出したことが果たしてあったのだろうか、というくらい、自分の人生においては流れゆく背景でしかない場面。

けれどその何もない背景のひとコマを脳裏に見た時、何故だかとても大切なものがそこにはあったのではないだろうかという気がした。
それが何なのかは分からない。
その場面そのものなのか、その時期なのか、それともその人たちとの関係なのか。

過ぎてしまった遠い過去の、とりとめのないそういう場面は、確かにその時そこに存在したにも関わらず、まるで雪がとけるように儚く、ただ己の中だけでの想像に近い産物と化する。

だとすれば、今この瞬間とて未来の私にとっては、もはや現実なのか夢なのかの区別も危うくなるほどの、はかない時間を紡いでいるだけなのでは?
そして、いつか年老いた私はまた思うのだろうか。
あの時あの瞬間、確かに大切な何かがあった気がするのだと。

色褪せる前に、そういうものたちを取り出しそっとリボンをかけて、大切にしまっておけたらいいのにな。

(別サイト投稿分)


2024年10月13日

10年前にわからなかった「何か」とは、「若さ」なのではないかしら、と10年後の私は思っている。
分からなかったのは、まだあなたが若さの中に居たから。

10年前のあなたは、その日のことを風の匂いまで思い出し、それでも過ぎて行ってしまう日々をはかなく、無意味なのではと思ったけれど、未来の私は、この記事を書き置いてくれたあなたの行為が、その思いが、とても嬉しい。

ちゃんとリボンをかけて大切にしまっていたじゃないの。




長物とショート

2024-10-02 22:12:00 | weblog

長い物語を書いていると、どこかで必ず次の文章が途切れる。
ほかの人は知らないが、私はものを書く時、ひとつのフレーズを元に頭の中で景色が動いて行くのを書きとめる。全部を頭で考えているのではなく、見えているものを言葉に変換している作業の方が多い。だから、頭の中の動画が止まれば、それでいったん文章は切れることになる。

比べて短い文章は、頭を使い倒す。ここにアップしているものの殆どが、ノートにきっかけの言葉をいくつか書き、そこからイメージを膨らませるのだが、長物のように動画を見ているのではなく、自分で絵を描く、という方が近い。全部がそうというわけではないが、頭の中で意識的に絵を描くのだ。そしてそれを文章に起こす。これはとても疲れる。とても楽しいのだけれど。

ある程度自動的に浮かぶものを写し取るのと、強制的に描いたものを個別にいくつも変換するのとでは、脳の疲労度が全然違う、ということに気づいた。ショートをババッと沢山書いて長物に戻ったので、それが如実にわかった。

ただ長物は、次の画が動き出すフレーズを探し続けなければいけない。書き続けるのではなく、動き出すのをその世界で待つ時間が必要になる。
そういう意味ではショートの方が効率はいい。でもだからと言ってショートの作業に戻ってしまうと、長物の世界に薄く重なりつつあったものたちが霧散してしまう。

そういうわけで、私はいま、この場所ではあまり求められていないであろうweblogを書いている。つまり、勝手に自分のスタンスで始めた場所に、勝手に言い訳をしにきたのである。

霧散しない程度に、書き溜めたものをアップできればしようと思う次第です。




オオカミの罪

2024-09-21 01:01:09 | weblog

昔、別サイトに載せたものをそのまま載せてみようかな・・・。
(2011年5月3日投稿)

子供の頃、グリム童話の全集が家にあったのでおとぎの世界をたびたび楽しんでいた。
童話や民話というのはある種の真理や戒め、教訓などがそこかしこに埋め込まれている。時には目に見えるように少し顔を出していたり、時には深く潜り込まなければ気づかないところに隠してあったりする。そしてそれは話を受け取る側によって、そのあるものを見せたり見せなかったりするのではないかと思う。

悪者の題材としてオオカミがたびたび登場するが、最後には痛いお仕置きが待っている。そしてよかったよかったと幕は下りるが、時々私はモヤモヤとした気持ちが残るのを感じていた。

たとえば7匹の子ヤギや赤ずきんちゃんでは、悪さをしたオオカミは腹を裂かれるが、これは救出の為だから仕方がない。ここで終わりならオオカミが死んでしまっても私のモヤモヤは起こらない。

しかしその後石を詰め込まれ腹を元通り縫われた挙句、目覚めて水を飲みに川へ行ったオオカミは石の重さで川に落ち、嫌われ者だからと誰にも助けられず死んでしまう。
これは話としてやり過ぎではないだろうか。

知らぬままに死んでしまう事は許されず、一度苦しみを与えるために生き返らせ、そして再び殺すのだ。犯した罪以上の罰を善の名のもとに「当然のこと」としてとり行っているような気がしてならない。
もちろん人を傷つけてはいけないという事を徹底的に知らしめているのだろうが、これは取りようによっては、先にやられたならそれ以上にやり返してもよい、という事にはならないだろうか。

そしてここでのポイントは、子ヤギたちは無事だったと言う事だ。
死んでしまったのなら話は少し違ってくるし、原初の赤ずきんちゃんはそうだったらしいが、無事に生きて助けることが出来、しかも恐怖を与えたその存在はもう死んだのだから、それでいいのではないのか? なぜわざわざ生き返らせる必要があるのだろう。

手塚治虫氏の「ブラック・ジャック」でもこの思いと似た話がある。
凶悪殺人犯を追い詰めたが崖の上から転落し瀕死の重傷を負う。もしかしたら過去を悔い自分から身を投げたのちに発見されたのだったかもしれないが、とにかくもう死んだも同然だからこのまま死なせてやれとB.Jは言うが、どうしても裁判にかけて法の裁きを受けさせると言うのでしぶしぶ命を助ける。
しかし結局死刑になって彼は二度死ぬことになる。なぜ生き返らせたんだと苦悩するB.Jが印象に残っている。

3匹の子ぶたでは、ちゃんとオオカミも恐怖と教訓を与えられ助かっている。こんなのがいい。
悪さをしたオオカミを懲らしめてやろうと、石を詰めるように子ヤギや赤ずきんちゃんに指示する大人たち(母ヤギやおばあさん)に対して、子供心に得体の知れぬ恐怖を感じていたのは私だけだろうか。


こんなことを考えてたんだなぁ・・
と懐かしい思いがしました。




空蝉

2024-08-25 23:07:30 | weblog

気づいたら蝉の声がもうしない。
「そろそろ蝉があちこちでひっくり返る季節が近づいて来ましたね」なんて書こうとしていたのに、季節は容赦なく過ぎて行ってしまう。いつもいつも。

蝉についてはいろいろ思うところのある不思議な生き物のひとつ。
そして空蝉というのは本来の実在が飛び去ってしまった抜け殻な訳だけれど、その抜け殻が何故か多様な表現の場で題材にされる。季節になると画像も出回る。

空蝉を見て人は何を思うのでしょう。この抜け殻の何に心を囚われるのか。
それは、今は無き《そこにあった存在》を肌に感じるからでは、と思うのです。
土に暮らしたこれまでも、飛び去った本体の残り香も、そこにはあるから。
やっぱり不思議。過去と未来が、『今』この空蝉というものに同時に在る。
蝉の抜け殻がただそこにある、それだけなのに。

そのかつてと、新たに飛び立った生命の力の名残を漂わせた、物言わぬ静かな縁取り。
そこで何故だか浮かんでくるのが、
黒田三郎さんの「紙風船」。

「紙風船」
  落ちて来たら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く

  何度でも
  打ち上げよう

  美しい
  願いごとのように


とても静かに心に響いてくるものが、空蝉の美と重なるのです。
静かの中に全てが集約されているような。
自分の中の騒めきも、大切なものも、
ぽーんと静かに昇っていくような。