新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。

渡り鳥

2025-01-07 15:15:00 | weblog


=2013年03月22日=

凍る風が吹く頃、その川に彼らがいたのはほんの数日のことだった。
渡り鳥。
寒さに耐えうる気温に違いはあれど、みな暖かさを求めて海を渡り山を越える。
その川にいたのは鴨だった。彼らはずっと北の方からやってきて、日本の冬で寒さを凌ぎ、そして春にまた北へと帰っていく。春が北上するのに合わせ、一足先に彼らは北を目指すのだろう。

鳥になりたいか?
手が使えないのは嫌だ。でも彼らが一生をかけて渡る距離を、風を、体感してみたいとは思う。きっと世界は今よりぐっと近くなり、生きているという実感も、きっと内側と一体となるのだろう。そんな気がする。

どうしてだか、いつの頃からか、その場所に居続けるという意識が希薄な子どもだった。何処にいても自分はいつかそこからいなくなるのだと、いつも思って生きていた。転校すると聞かされたとき、表面上の態度とは裏腹に、内心では知っていたことのように受け入れていた。ほら、やっぱりそうなんでしょ、と。違う場所に移り住むことが、自分にとってはごく自然で、当たり前のことなのだと。

悲しきジプシー。モンゴル移動民族。流浪の民。
砂埃の風の匂いや新しい夜明け、最後の夜。そういう少し乾いたセンチメンタルが心の片隅にいつもあった。
でももうそろそろ、ずっとその場所にいようと思えるところへ辿り着きたいと思い始めている。
ずっとその場所で、羽を休め、同じ朝を迎える日々を。

何年か前に、友人が『今年はここに根をおろそうと思います』と年賀状に書いてよこした。何年もそこに住んでいた彼女がわざわざそれを言うのは、もしかすると彼女もずっと、何か私と似た感覚を持ち合わせていたのかもしれない。
そしてそれが緊張を孕んだ覚悟なのか、安らぎを見出した決意なのか、とにかく彼女は背負っていた荷物を下ろし、「う――ん」と大きく伸びをして、まっすぐな眼差しでその荷を解いたのだろう。たぶん、少し微笑みながら。

季節が巡り、また吹く風が凍りその川が彼らを迎える頃、私はその場所を見つけただろうか。

(過去別サイトにて投稿分を修正)



=2025年01月07日=

12年の月日を経て、今もなお問い続けていることに少々戸惑う。
問い続けることが、飛び続けることが、実のところ自分の本来の安らぎなのだろうか。
年明け早々、腕を組む。




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元日の午後

2025-01-03 20:00:00 | weblog

冬ざれの遊歩道を行く。
晴れて川音が心地良く、水面の青がきれい。
   

一糸まとわぬ冬の桜並木。
近づけばもう固く小さな塊にとじこめた春がある。
     

脱ぎ捨てた寂しさよりも、潔く伸びゆく細枝の先は未来を向いて脹らみ、自分もまたそんな風に季節を亘ってゆけたならどんなにいいだろう。
じきにまた咲き誇るであろう木々に新春の歓びを授かる元日の午後。


本年もどうぞよろしくお願いいたします。



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『川瀬巴水・特別展』へ行く

2024-11-27 07:00:00 | weblog

先週末、大阪歴史博物館にて開催されている、木版画家・川瀬巴水の特別展へ行った。
知らなかったが2021年から全国巡回をしていたらしく、この2024.大阪での開催が一連の最終地となる。

  

約150点もの大展覧会。大阪での大規模な巴水の展覧会は10年ぶりとのこと。どれもこれも足を止めたくなる作品がずらり。途中、化粧室への導線の空間で制作工程の動画上映があり、座ってひとやすみできる。

カテゴリーにもよるが、好きなものはひとつかふたつあればいい主義の私。そんな、あまり多くのものを取り込めない自分だが、川瀬巴水は群を抜いて間違いなく別格だ。私の中の特別室に彼はいる。
以下、褒めまくる。

丸眼鏡の巴水先生。何がいいって、線がいい。青がいい。朱がいい。雪がいい。そしてささやかな営みの温かさ。

変な言い方かもしれないが、巴水先生の描く線は「かわいい」。なんだろう、とよくよく作品を観ていくと、エッジがないのだ。柱や屋根など真っ直ぐに描かれている線と線が交わる角が、その線がずっと先まで伸びてゆく交わりの一点ではなく、習字でいうところの「とめ」がある。伸び行く枝先は、空に向かっているにも関わらず、そこに〈今〉を留めている。
本当に版画なのか? 漫画やアニメのような、筆やペンで描いたように緻密で、それでいてふんわりと全部をまるく愛おしく慈しむような目線で描かれた線に惹きつけられる。川瀬巴水のフィルターを通して描かれる世界はとてもやさしくて細やか。そしておおらかに伸びてゆく。伸びてゆく〈今〉だ。移ろいゆく〈今〉を残そうと、その眼は見つめている。
この線を見事に現す彫師の匠。あっぱれ。

そして摺師の妙ここに。
まずは青。青。青。夜の墨垂れ、藍から青へ、水色へ。
川面が、空が、家々が、木々が、全ての青が優美でその青は温かい。青だけで描かれた町の一角。その中心で小さな小窓から漏れる灯。垣間見える川面に映る光。一見、画面全体は寂し気なのに、その一点の光が人の気配を宿し、途端、人々の暮らしの中に溶け込むような錯覚に陥る。しみじみとした静かな暗夜の中の救い。まるで自灯明のように訴えかける小さな灯。光を包むのは、青。

朱。薄明り、光の予感。朝焼けの雲。淡い夕暮れ。と思いきや寺や塔の、目の醒めるような鮮やかな朱。時を忘れていつまでも見入る。言葉にするには美しすぎる。

積もる雪。青の上に、朱の上に、こんもりとまるく白く。岩に、枝葉に、連なる屋根に、今にも崩れ落ちそうな白は、やはりそこに留まっている。静けさに耳が凍る。自分の吐く息が白く映るのではないか。
吹雪く町。厳しい寒さに急ぎ行く親子、艶やかな女の傘が風を受け耐え歩く。風の音が聞こえる。
しんしんと降り積もる静けさに川のせせらぎ。石段を上り雪を踏みしめる微かなる音。

ほかにもいろいろ言いたいがキリがない。雨もいい。橋もいい。舟もいい。
巴水先生の作品の物語には市井の人々への愛がある。ただの風景かと思えば手前に人影、奥に動物、とそこに万物の営みがある。
雨が降る。しとしとと土に沁み込む。駆ける足が跳ねる飛沫。屋根や葉を打つ。音が聞こえる。手を伸ばせば一粒の雫を掴むことができる。知らぬ間に彼の世界に自分が立っている。芒が揺れる。風に触れる。それは命の星での物語。
圧巻の川瀬巴水、ここに在り。

     






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日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」

2024-11-13 09:39:09 | weblog

前回の「景色の中で」は、日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』第三話を見ながら、浮かぶに任せて書き留めたもの。ショートに仕立てる前のただの素材メモなのだけれど、たまにはいいか、と書き留めたそのままを載せてみた。

『海に眠るダイヤモンド』は、出演陣に好きな顔ぶれが多かったので見始めた。
見てみると一話一話の物語としての影と光の対比やグラデーションが心地よく濃密で、まだ三話目だとは思えない。
映像にも叙情的な美しさと閑散と裏びれたものが同居していて云々カンヌンと書きかけて、コレってもう使い古された評だよね、と手が止まる。でも見終わると不思議な感覚が芽生えているのは本当。何かが心に触れる。昭和あるあるかもしれない。醸し出されるものがただ懐かしいだけなのかな。
面白いか、と訊かれれば答えに瀕するが、観たくなる。

物語を乗せた大きな揺りかごの底にある暗いものが、明るい場面や騒々しい賑わいの隙間をスルスルと流れていて、抜け出したい場所、逃げ込みたい場所、諦めた場所、当たり前の場所、離れられない場所、と各々の思いが交錯する様が妙という印象。ドラマというより関連づいたオムニバスの短編映画を観ているよう、とは言い過ぎだろうか。
閉ざされた炭鉱の島での、在りし日の暮らしに思いを馳せつつ、世間的には成功した今の自分の在りようにジレンマを抱える老いゆく女の思惑。女の過去を呼び起こす若い男。
過去と現在を呼応させながら、少しずつ開いていく物語。
第三話の一番最後の過去シーン、神木くんと杉咲花ちゃんが可愛くてほっこり。
今のところ過去の物語に主軸がありいい感じだけれど、現在の展開の如何次第ですべてが決まるんだろうな。期待していいのかどうか迷うところ。

気に入ったドラマや映画は、何度も何度も観返してしまうが、このドラマはそういうのとも少し違う。今のところ。
二度目を見るまでに、少し時間が欲しいと思ってしまう。時間をかけないと、自分の中に芽生えたものが育たない。そんな気がする。
「そんな気がする」ままの展開で物語が進めばいいのにな、と思う。



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セピアの中にあるもの

2024-10-13 02:06:20 | weblog

2014年08月10日

晴れた日にはいつかの晴れた日のことを、雨の日にはどこかで降っていた雨のことを思い出す。台風の日には遠き日の荒れた大気を記憶の底から呼び起こす。

ところが今日の台風は、なぜだか若き日の冬のある場面が脳裏に浮かんだ。
まだ二十代の終わり頃、都会で働いていた当時の職場の上司にあたる女性と、後輩になる男の子と三人で、乾いた風を受けて横断歩道を渡る場面。

それは特にどうということもなく、何があったというものでもなく、ただ淡々と過ぎた時間のひとコマに過ぎない。今までその場面を思い出したことが果たしてあったのだろうか、というくらい、自分の人生においては流れゆく背景でしかない場面。

けれどその何もない背景のひとコマを脳裏に見た時、何故だかとても大切なものがそこにはあったのではないだろうかという気がした。
それが何なのかは分からない。
その場面そのものなのか、その時期なのか、それともその人たちとの関係なのか。

過ぎてしまった遠い過去の、とりとめのないそういう場面は、確かにその時そこに存在したにも関わらず、まるで雪がとけるように儚く、ただ己の中だけでの想像に近い産物と化する。

だとすれば、今この瞬間とて未来の私にとっては、もはや現実なのか夢なのかの区別も危うくなるほどの、はかない時間を紡いでいるだけなのでは?
そして、いつか年老いた私はまた思うのだろうか。
あの時あの瞬間、確かに大切な何かがあった気がするのだと。

色褪せる前に、そういうものたちを取り出しそっとリボンをかけて、大切にしまっておけたらいいのにな。

(別サイト投稿分)


2024年10月13日

10年前にわからなかった「何か」とは、「若さ」なのではないかしら、と10年後の私は思っている。
分からなかったのは、まだあなたが若さの中に居たから。

10年前のあなたは、その日のことを風の匂いまで思い出し、それでも過ぎて行ってしまう日々をはかなく、無意味なのではと思ったけれど、未来の私は、この記事を書き置いてくれたあなたの行為が、その思いが、とても嬉しい。

ちゃんとリボンをかけて大切にしまっていたじゃないの。



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長物とショート

2024-10-02 22:12:00 | weblog

長い物語を書いていると、どこかで必ず次の文章が途切れる。
ほかの人は知らないが、私はものを書く時、ひとつのフレーズを元に頭の中で景色が動いて行くのを書きとめる。全部を頭で考えているのではなく、見えているものを言葉に変換している作業の方が多い。だから、頭の中の動画が止まれば、それでいったん文章は切れることになる。

比べて短い文章は、頭を使い倒す。ここにアップしているものの殆どが、ノートにきっかけの言葉をいくつか書き、そこからイメージを膨らませるのだが、長物のように動画を見ているのではなく、自分で絵を描く、という方が近い。全部がそうというわけではないが、頭の中で意識的に絵を描く。そしてそれを文章に起こす。これはなかなか疲れる。とても楽しいのだけれど。

ある程度自動的に浮かぶものを写し取るのと、強制的に描いたものを個別にいくつも変換するのとでは、脳の疲労度が全然違う、ということに気づいた。ショートをババッと沢山書いて長物に戻ったので、それが如実にわかった。

ただ長物は、次の画が動き出すフレーズを探し続けなければいけない。書き続けるのではなく、動き出すのをその世界で待つ時間が必要になる。
そういう意味ではショートの方が効率はいい。でもだからと言ってショートの作業に戻ってしまうと、長物の世界に薄く重なりつつあったものたちが霧散してしまう。

そういうわけで、私はいま、この場所ではあまり求められていないであろうweblogを書いている。つまり、勝手に自分のスタンスで始めた場所に、勝手に言い訳をしにきたのである。

霧散しない程度に、書き溜めたものをアップできればと思う次第です。



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オオカミの罪

2024-09-21 01:01:09 | weblog

昔、別サイトに載せたものをそのまま載せてみようかな・・・。
(2011年5月3日投稿)

子供の頃、グリム童話の全集が家にあったのでおとぎの世界をたびたび楽しんでいた。
童話や民話というのはある種の真理や戒め、教訓などがそこかしこに埋め込まれている。時には目に見えるように少し顔を出していたり、時には深く潜り込まなければ気づかないところに隠してあったりする。そしてそれは話を受け取る側によって、そのあるものを見せたり見せなかったりするのではないかと思う。

悪者の題材としてオオカミがたびたび登場するが、最後には痛いお仕置きが待っている。そしてよかったよかったと幕は下りるが、時々私はモヤモヤとした気持ちが残るのを感じていた。

たとえば7匹の子ヤギや赤ずきんちゃんでは、悪さをしたオオカミは腹を裂かれるが、これは救出の為だから仕方がない。ここで終わりならオオカミが死んでしまっても私のモヤモヤは起こらない。

しかしその後石を詰め込まれ腹を元通り縫われた挙句、目覚めて水を飲みに川へ行ったオオカミは石の重さで川に落ち、嫌われ者だからと誰にも助けられず死んでしまう。
これは話としてやり過ぎではないだろうか。

知らぬままに死んでしまう事は許されず、一度苦しみを与えるために生き返らせ、そして再び殺すのだ。犯した罪以上の罰を善の名のもとに「当然のこと」としてとり行っているような気がしてならない。
もちろん人を傷つけてはいけないという事を徹底的に知らしめているのだろうが、これは取りようによっては、先にやられたならそれ以上にやり返してもよい、という事にはならないだろうか。

そしてここでのポイントは、子ヤギたちは無事だったと言う事だ。
死んでしまったのなら話は少し違ってくるし、原初の赤ずきんちゃんはそうだったらしいが、無事に生きて助けることが出来、しかも恐怖を与えたその存在はもう死んだのだから、それでいいのではないのか? なぜわざわざ生き返らせる必要があるのだろう。

手塚治虫氏の「ブラック・ジャック」でもこの思いと似た話がある。
凶悪殺人犯を追い詰めたが崖の上から転落し瀕死の重傷を負う。もしかしたら過去を悔い自分から身を投げたのちに発見されたのだったかもしれないが、とにかくもう死んだも同然だからこのまま死なせてやれとB.Jは言うが、どうしても裁判にかけて法の裁きを受けさせると言うのでしぶしぶ命を助ける。
しかし結局死刑になって彼は二度死ぬことになる。なぜ生き返らせたんだと苦悩するB.Jが印象に残っている。

3匹の子ぶたでは、ちゃんとオオカミも恐怖と教訓を与えられ助かっている。こんなのがいい。
悪さをしたオオカミを懲らしめてやろうと、石を詰めるように子ヤギや赤ずきんちゃんに指示する大人たち(母ヤギやおばあさん)に対して、子供心に得体の知れぬ恐怖を感じていたのは私だけだろうか。


こんなことを考えてたんだなぁ・・
と懐かしい思いがしました。



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リアクションとコメント閉じます

2024-09-07 10:28:00 | weblog

一旦、リアクションとコメントは閉じます。


2024.09.09 追記
スマホの不具合にて、文字化け、訪問先不明など、原因わからずまだしばらく閉じます。すみません。




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空蝉

2024-08-25 23:07:30 | weblog

気づいたら蝉の声がもうしない。
「そろそろ蝉があちこちでひっくり返る季節が近づいて来ましたね」なんて書こうとしていたのに、季節は容赦なく過ぎて行ってしまう。いつもいつも。

蝉についてはいろいろ思うところのある不思議な生き物のひとつ。
そして空蝉というのは本来の実在が飛び去ってしまった抜け殻な訳だけれど、その抜け殻が何故か多様な表現の場で題材にされる。季節になると画像も出回る。

空蝉を見て人は何を思うのでしょう。この抜け殻の何に心を囚われるのか。
それは、今は無き《そこにあった存在》を肌に感じるからでは、と思うのです。
土に暮らしたこれまでも、飛び去った本体の残り香も、そこにはあるから。
やっぱり不思議。過去と未来が、『今』この空蝉というものに同時に在る。
蝉の抜け殻がただそこにある、それだけなのに。

そのかつてと、新たに飛び立った生命の力の名残を漂わせた、物言わぬ静かな縁取り。
そこで何故だか浮かんでくるのが、
黒田三郎さんの「紙風船」。

「紙風船」
  落ちて来たら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く

  何度でも
  打ち上げよう

  美しい
  願いごとのように


とても静かに心に響いてくるものが、空蝉の美と重なるのです。
静かの中に全てが集約されているような。
自分の中の騒めきも、大切なものも、
ぽーんと静かに昇っていくような。



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ご挨拶 / マルチじゃないから

2024-08-18 12:55:33 | weblog

 
2019.06.04 撮影

お盆が終わって寂しいと感じるようになったのは、ここ何年かです。
この16日、送り火をして夜眠りにつき、私は昨日一日眠り続けました。
途中何度か目覚めましたが、少しだけスマホを触り、少しだけ食し、そしてまた眠りました。最近うまく眠れなくて疲れていたのもありますが、ああ今年もお盆が終わったなあ、という虚脱感にも似たものが私を眠らせたような気がします。

もの凄く嬉しいことや悲しいことがあった時、言葉にならない、言葉にできない、と言ったりしますよね。
嬉しい時はまあいいとして、言葉にできないくらい悲しいことやショックなことがあった時、それはどうすればいいのだろう、と随分昔に考えたことがあります。
自分の場合は、習慣というほど読書に精通しているわけでもないけれど、言葉にできないものが、本の中に刻まれていないか、誰かが代弁していないか、共有できうるものがそこに投射されていないかを、怪しげな精神世界、心理学、啓発本や物語の中に探していました。

言葉にし得ないものをどう伝えればいいのか。
難しいですよね。

さて、本来の (?) 長物の創作に戻るため、しばらくこちらは不定期にします。
まだ終わっていない話もあるので、余裕のある時に続きやこぼれ球を時々こちらで書かせていただこうと思います。その時はまた遊びに来てください。
これまでのものも、良ければたまに読み返して頂ければ嬉しいです。

ご訪問くださった皆さま、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。


※都合により一部書き替えました。(2024.08.29)



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軽やかに

2024-08-05 12:30:00 | weblog

『ザ・クロマニヨンズ』の曲に《鉄カブト》というタイトルの曲がある。2008-9年くらいに発表された楽曲ではなかったか。アルバム【MONDO ROCCIA】に収録されている。大好きな曲のひとつだ。

この曲の詩の中に、『届かない手紙を書く』や、『あの人の思い出は守ってくれ鉄カブト』というフレーズがある。
ライブのDVDを観るたび、ヒロトが伸ばすその手に、訴えかける声に、メロディに、胸の奥の大切なものを鷲掴みにされる思いになる。かなり好き。

そして私は考える。
「届かない」と思って何もせず諦めてしまうと本当に届かない。
物事を見極める、ということとは勿論違う意味で。あ、法律と誰かへの尊厳は守ってください。あなた自身の尊厳も。

届かないかもしれないが、手をそっと前に出してみると意外とそれは近くにあるのかもしれない。
手を出してみても届かない、と感じたとしても、手を伸ばす前よりは近くにあるはずだ。そして少し身を乗り出してみる。そうすればまたほんの少しそこに近づく。もう少し、もうちょっと。
そんなことを繰り返し、乗り出した体が転ばないように一歩、また一歩と足が前に出る。知らず知らずに少しずつ近づいて行く。

そのうち慣れてきて、思い切り手を伸ばし、もっと前へ、あと少し、と思えた途端、届かないと知るかも知れない。

でもいいじゃん、と私は思う。
手を伸ばしたという行為そのものが、その片鱗に間違いなく触れたのだから。

後ろ髪を引かれて後悔するよりは、前のめりで倒れる方がいい。なんていうのは若かりし頃の私の理想論。実際には、前のめりに倒れ込んで転がり落ち、強打しまくった挙句立ち上がれなかったりした。そして新たな一歩に怖じ気付く。

物事やその時の精神状態によっては、手を伸ばすのがとても困難で怖いことがいくらでもある。一歩踏み出すこと自体に、何日も頭を抱え躊躇する。

そんな折、この言葉が幾度となく私の前に現れる。
スペインの建築家、アントニ・ガウディ(1852-1926)。
彼はサグラダファミリアでの一日の仕事終わりに毎回、
「諸君、明日はもっといいものを創ろう」
と職人たちに言っていたそうだ。

「明日はもっといいものを創ろう」
この短い言葉に、職人に対する賛辞と敬意と労い、そして希望が込められている。なんだか心のざわつきが鎮まっていく。

『届かない手紙を書く』
あの思いがまたほんのちょっと顔をのぞかせる。

そしてそれは、もっと軽やかでいいのかもしれない。


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む、

2024-07-28 21:50:50 | weblog

 
2019.11.18 撮影 
 
アピールチャンスに過去記事は
反映されないのですね・・・
無念にて写真投稿の練習。
今回は中央寄せ。
〉ぎゅっ〈



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いちょうと私

2024-07-28 07:45:45 | weblog

ベランダに面したガラス戸の向こうに、いちょうの木が見える。
私の与太話にはいちょうがたびたび登場するが、身近に現実にあるからだ。

今住んでいる場所は、都会と呼ぶにはほど遠く、田舎と呼べるほどの緑も不便もなく、駅前だから騒々しくもある。
いちょうの向こうに視線を移せば沿線の高架があり、電車が行くのが見え、振動は茶飯事だ。

電車に乗れば車窓から見える自分の部屋を時々見る。
流れていく景色の一部のその小さな建物の一画の小さな部屋のガラス戸の向こうに、そこにはいないはずの自分の残像を感じることがたまにある。
そういうとき、日々の気配や息遣い、流れていく日常の所作の残り香とも言うべきものこそが、物質として与えられた肉体よりもずっと確かなのではないか、なんて考える。

さて、歯磨きしながら部屋の入口あたりからベランダの方へ目をやると、二枚のガラス戸一杯にひろがるいちょうの木が青々と風に揺れているのが見える。ベランダの方へ近づくと雑多なものが目に入るので、窓いっぱいに木が映るよう距離をとる。
そしてある一点に立つと、不思議と山の中にいるような錯覚が訪れる。なんせ窓いっぱいの緑だから。今ならもれなく『蝉の謳歌』フルサウンド付きだ。

そしてほんの一瞬のその錯覚が、大切なリフレッシュとなる。
部屋の空気がしんと清らかになり、時間や場所や常識や、自分を取り巻く、自分を自分として固定させ成立させていると思わせる様々なものから解放され、びゅーんと意識は空へ昇りもうひとつの視点が自分だけをフォーカスしている。

錯覚の中でそれを錯覚と知りながら、遠くからいちょうと自分だけが見えるその瞬間は、時間という概念を超え、永遠と呼ばれるもののほんの切れっ端に触れたような、風もないのに脹らんだレースのカーテンが肩に優しく触れるような、そんな曖昧な心地良さがある。

雨の降る日は湿った葉の匂いが、風の吹く日は少し寂しげな囁きが、晴れた日には晴れやかな朝の日差しが、錯覚の風景に色を添える。
なんだか「もしもピアノが弾けたなら」みたいだけど。

十分錯覚を楽しんだら、不確かな現実に戻って私の一日を始める。
自分が存在した香をこの空間に刻むために。

   ※ ※ ※

これは2012年7月29日に書いたものに加筆修正しました。当時とあまり変わっていない感覚が殆どですが、今ではびゅーんと意識が空に昇ることはなくなってしまった気がしますね。


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君の名は知らねども

2024-07-20 20:05:00 | weblog

少し季節が遅れますが、昔の写真を見ていたらきれいだったので練習がてら up してみます。




     2020-06-17撮影

パソコンとスマホでは文字も写真の位置も変わるのですね。ひとつ発見。

たくさんの方が綺麗な花や風景などの写真をupされていて、ついつい見出しの写真に惹かれてふらふらと見に行ってしまいます。あまりにたくさんなのでキリがないのですが。

ところで綺麗と言えば、以前にどこかで聞きかじっただけですが、その言葉が私のカチカチの頭に風穴を通す思いにさせてくれました。
名の知れた哲学者のようなのでご存知の方も多いのでは。

「なぜ絵画や建物が芸術作品と言われ、私たちの人生はそうではないのでしょうか。
個人の人生はひとつひとつ異なっていて美しく、いわば一個の芸術作品ではないのでしょうか」
《ミシェル・フーコー》

この言葉に心打たれても、自分のそれと照らし合わせたとき、真には深く肯く思いにはなれず、ただただその言葉の持つ力に励まされ、自分に問い続けるのみなのですが。


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煙の中の祝福

2024-07-12 18:10:00 | weblog

早朝、埼玉の広い道路を歩いていた。
たぶん埼玉だったと思う。
もう何十年も前のことで、その頃の私は煙の中を歩いているように何も見えていなかったし、外からも本当には私は見えていないような存在だったように思う。だからいつも「ここにいる」と知らせるにはどうすればいいのかと、悲鳴をあげるように暮らしていた。暮らしていたのだろうか。ただ悲鳴をあげてなんとかその場を過ぎていっただけかもしれない。それは「生きている」とも、少し違ったような気がする。

私は友人の友人がバイトする居酒屋の二階にひと月住まわせてもらっていた。
美術学校の夏季特別講習に申し込んで、遠方だったのでそういう運びになった。
その仮の住まいから最寄り駅まではかなりの道のりがあり遠かったが、お金がなかったのでバス代も惜しんだ。五時や五時半に目覚めると、誰もいないバス通りをひたすら歩いた。2~3kmはあったと思う。3kmは言い過ぎかな。
がらんと広い道路に朝の光が広がって、空はこれから始まる一日の一番最初の希望のようなものを私だけに示しているようで、嬉しかった。
授業が終わると夕刻のその道をひとりまた歩く。朝とは逆の方角の空が、朝と同じように薄く光る。一日の一番最後の贈り物を見届けながら、暮れて行く道をひたすら歩いた。
煙の中にいるようだったけれど、それでもあの時間は何かに祝福されているように心強かった。

今日は朝から雨が降っている。
雨の音を聞くのが好きだ。部屋にいて、雨が軒や屋根や草木や道路で、いろんな音を奏でる。周波数のことはよく知らないし外出時の雨は面倒だが、屋内で聞く雨の音はどこに居ても心地いい。
ずっと続いているような気持になって安心する。続いて、繋がっている。幼い頃やそのもっと前や、それからまだ見ぬ未来の景色と。ひとりきりでずっといても、雨の音が救ってくれる。ずっと繋がっているのだよと。

欲を言えば、晴れていればいいなと思う。晴れていて、雨が降っている。それが素晴らしく理想だ。物理的に雨雲が空を覆うのだから雨の日は雲って薄暗い。でもたまに雲の切れ間から光が地上に投げかけられる時、昔の人はそれを「狐の嫁入り」と呼んだ。
化かされているような、でも喜ばしい、不思議な現象という意味合いだと思われるが、私は化かされているのではなく、その瞬間は天の慈愛を特別に受けているのだと感じる。
そういうものも、たぶん、あの祝福と同じなのではないだろうか。

ずっと同じものが私の中にある。
煙はもう消えたのか、それはもっと後にならなければ分からない。でも煙にまとわれていても、外からは見えない私であっても、内側から沸き起こるものは変わらないのではないだろうか。だってそれは、私の核なのだから。
そして私の中には喜ばしき景色がずっとある。それはとても幸せなことなのだと思う。


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