「静香さん、DVDに映っていた変な首を吊ったような感じの男の人。どのような格好で映っていたんですか?」
不安、恐怖、安堵……。
この三つを交互に組み合わせ、感情の起伏を激しくさせる。
大抵の人間は精神が高ぶり、中には異常をきたす人間もいると、どこかでそう聞いた事がある。
僕もうまく静香を揺さぶれているはずだ。
「は、はい…。背景に透けているのでハッキリとまでは言えませんが…。確か灰色っぽいスーツを着ていました。サラリーマンみたいな感じでした。顔までは混乱していたので、よく覚えていません。さすがに繰り返して見る気にはなれませんでした」
「僕も実際に見に行った訳じゃないんですが、その自殺した男性の特徴。あくまでも近所の人に聞いただけの話ですけどね。静香さんが今、話した格好と、非常に似通っていたと思います」
静香は小刻みに肩を震わせだした。
僕は近いほうの肩に手を掛けた。
「落ち着いて、静香さん」
自分でそうさせといて、僕もよく言うものだ。
笑いが込み上げてきそうだった。
「す、すみません……」
「まあ、お子さんの件は別段、何も異常がなければ特に問題はないと思いますよ」
「でも、何でうちの子に、そのようなものが映ったのでしょうか? 私、心配で……」
「お子さんはそれを見たのですか?」
「いえ、さすがに見せられません。新しいDVDだから、すごいねだられました。でも、親としては……」
僕は満面の笑みを作り、優しく言った。
「分かりますよ。静香さんは正しいです」
「うちの主人には相談しようと言い掛けても、仕事で疲れているみたいで全然取り合ってもらえないですし……」
本当に取り合ってもらいたいのは自分だろうが?
その豊満な体が疼いてたまらないんだろ?
僕が鎮めてやるよ。
静香が下をうつむいているので、僕は丹念に体を横から舐めまわすように眺めた。
一気に股間が熱くなる。
「ちょっとそのDVD、今度、僕に見せてもらえませんか?」
「そんな事までお世話になってしまったら、私、どうしていいか……」
お礼は体で払ってもらうよ。
そっと自分の中で呟いた。
ヤバい、もうじき我慢の…、理性の限界だ……。
ほのかに香る静香の甘い匂い。
肩をつかむ手が、じっとりと汗ばんできた。
とうとう僕の切り札を使う時がきたようだ。
深夜、公園の赤いベンチで、自分のすぐ隣で座る四十歳の気持ち悪い男が、肩に手を置いている現実。
そんな状況すら彼女は把握できていないのであろう。それほど疲労しきっているのだ。
「気にしないで下さい。だって旦那さんが助けてくれなくて、心細いんじゃないですか?」
「……」
「こんなに美しい女性が悩んでいるなんていけない事です」
「女性だなんて……」
僕の台詞に静香は頬を赤らめた。
「結婚してからは女としてなんて……」
「何、言ってんですか。お子さんだって綺麗なお母さんで絶対に喜んでますよ」
「そ、そんな……」
「ご主人だって帰ってくるのが、楽しみでしょうがないんじゃないですか?」
「い、いえ……」
「そんな謙遜しないで下さいよ」
「謙遜だなんて……」
もう我慢の限界だった。
気がつけば、僕は彼女の両肩に手を掛けていた。
自然と向かい合う格好の二人。
静香は何が起こったのかも分からず、キョトンと目を丸くしている。
彼女の甘い体臭が鼻をくすぐる。
理性が吹っ飛んだ瞬間だった。
「か、亀田さ…ん……」
自然に顔を近づけた。
静香の顔がどんどん近づいて見える。
僕のささくれた唇が彼女の優雅な唇に迫った。
頭の中が真っ白だ。
「い、いや……」
悲鳴に近い声を出しながら、静香は立ち上がった。
ふと、現実に引き戻された瞬間だった。
今さらながら後悔しても遅い。
僕は焦り過ぎた。
静香は、虚ろな顔でその場に立ちすくんでいた。
「す、すみません……」
「……」
彼女は何も答えてくれなかった。
まともな女性経験のない僕が馬鹿だった。
一瞬だけ触れた静香の柔らかい唇。
それだけで僕は射精をしていた。
精液が下に向かってゆっくりずり落ちている感覚。
ズボンを見ると、股間が湿っていた。
「ごめんなさい。静香さんが、あまりにも魅力的だったので……」
言い訳にも何もならない滑稽な台詞。
もう、何を言っても彼女には届かなかった。
「静香さん、本当にすみません。失礼な真似をしてしまい……」
僕の言葉は何も聞こえてないかのように、静香はゆっくりと歩き出した。
マズい、このままでは絶対にマズい……。
頭が混乱してきた。
「静香さん……」
公園の入り口に向かって歩く静香。
反対に精液をズボンに滲ませながら、あとを追う僕。
最悪の展開になってしまった。
何度、声を掛けても無言の静香。
微塵も後ろを振り返ってくれない。
愛しさ、せつなさ、絶望感……。
色々な感情が僕を渦巻く。
アパートの階段に差し掛かろうとした時、僕は駆け足で静香を追い越した。
階段の前で立ち塞がる僕。
まるで犯罪者のようだ。
静香は何のリアクションもせずに、ゆっくり歩くのを止めた。
何故、僕はこんな事をしているのだろう。
静香の表情からは何の感情も見られなかった。
まるで人形のような冷たい視線を僕に送っている。
果たして彼女には僕の姿が映っているのだろうか。
いや、映っているからこそ、立ち止まったのだ。
「本当にすみません!」
目をつぶって、勢いよく頭を深く下げる。
もう、謝るしかない。
それしか道はないのだ。
足音が僕の横を通り過ぎる。
顔を上げると、静香は階段を上ろうとしていた。
瞬間に芽生えた殺意……。
彼女の背中を睨みつける。
自然と両手を挙げながら近づいた。
僕の両手が彼女の首に迫る。
本当にこれは、僕が自分で命令しているのだろうか?
夢でも見ているような感じだ。
彼女は僕の行動に何も気付いていない。
首に手が掛かる寸前に、自分の精液の悪臭が鼻を通った。
目を覚ますと、明るい日差しが差し込んでいた。
どこだここは……。
起き上がり、辺りを見回す。
ヤニのこびりついた色の白い壁。
見慣れたパソコン。
僕の部屋だった……。
夢だったのか。
いや、そんなはずはない。
昨夜の事は現実なのだ。
まだ疲れが、全身に残っていた。
疲労感からか立ち上がるのも面倒だった。
パソコンのスイッチを入れ、タバコに火を点ける。
今はパソコンにあるヤバいデータをすべて削除しなくてはいけない。
起動するまでの時間が、非常に長く感じ苛立ちを覚える。
パソコンが立ち上げるまでの間を利用してトイレに向かった。
途中でくわえタバコの灰が床に落ちる。
僕は何の気にもならなかった。
トイレでズボンを下ろすと、嫌な悪臭が鼻をつく。
昨日、射精した状態のパンツのままだったからである。
僕はパンツもズボンも脱ぎ捨て、憎しみを込めゴミ箱に放り投げた。
自分の理性のなさを呪った。
もう少しであの女を抱けたのに……。
節操のなさがすべてを台無しにしてしまった。
もうこんなチャンスは二度と来ないだろう。
後悔してもしきれない。
すべて過ぎてしまった現実だけが、僕に重くのしかかる。
用を済ませ、パソコンの前に座る。
モニターにディスクトップの画面が写っていた。僕はマウスを握り、『静香』フォルダと『公園』フォルダを消去した。
最悪のケースを考えなくてはいけない。
まず、昨日の夜の事を静香がどう対処してくるかだ。
彼女の性格を思えば、何も行動を起こさないかもしれない。
しかし、それは都合のいい考えだ。
旦那に昨日の事を話しているかもしれない……。
警察に通報するかもしれない……。
そうなったら僕はどうなる?
体が勝手に震い出してきた。
あれだけ謝っても口を開いてくれなかった静香。
もう、ここは引っ越すべきである。
どうやって、これから隣と顔を合わせろというのだろうか。
毎日ビクビクしながら生きるのは嫌だ。
ハッとして静香の黒ずんだパンティを探す。
マスターベーションの最高のおかずとして活躍したパンティ。
僕の手垢と唾液にまみれ、おぞましいものになっている。
これもゴミ箱に捨てる事にした。
これで、彼女との接点は何もない。
あとはゴミを捨てればいいだけだ。
目に涙が滲む。
とりかえしのつかない事をしてしまった自分が情けなかった。
でも、あの状況で自分を抑える事ができる男はいただろうか?
僕には到底考えられなかった。
ふと時計を見ると、朝の五時。
あれから疲れてすぐに寝てしまったのだ。
時間的に三、四時間ほど寝たのか……。
必死に昨夜の事を振り返った。
あの時、僕は自分の精液の臭いで我に帰る事ができた。
その点だけは本当に助けられた。
人殺しにならず済んだのだ。
それから静香が部屋に入ろうとした時に、僕は口を開いてしまった。
「ご主人…、昨日、浮気してますよ」
咄嗟に出た台詞だった。
切り札として温存していたものを自分のドジで言いそびれていた台詞。
その時だけ彼女は反応した。
汚いものを見るような視線で僕を睨んでいた。
可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものだ。
僕は静香の目を見た瞬間、さらに酷い言葉を浴びせ掛けた。
「昨日、僕が打ち合わせと言いましたよね。あれは大嘘です。実は駅前の風俗に行っただけなんです。まあこんなに醜い僕ですからね。お金でも払わないと誰も相手してくれないんですよ。でもね…、その時、僕は見てしまったんですよ。あなたの旦那がそのヘルスから出てくるのを…。外でじゃないですよ。当然、店の中でです。自分が待合室のソファで座っていたら、プレイを終わった旦那が出てきたんですよ。旦那、何て言ったと思います?」
「……」
「どうも、すごい良かったよって、風俗嬢相手にとても嬉しそうに言ってましたね」
無表情だった静香の目から、涙がゆっくりと零れ落ちた。
はたから見ていると魂が抜け、抜け殻だけになったような気がした。
そんな状況の中、僕はその姿を純粋に美しいと感じた。
彼女はどこまでいっても崇高で神々しかった。
静香は、ゆっくりと無言で隣の部屋に消えていく。
僕はしばらく立ち尽くしていたが、やがて自分の部屋に入った。
それから力尽きたかのように、そのまま布団に倒れ寝てしまったのだ。
何故か脳裏には、あの公園で首を吊った男の姿が鮮明に映し出されていた。
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