2024/10/03 thu
前回の章
今日仕事終わって帰ったら、百合子と食事に行く約束をしていた。
ひょっとしたらいつもより帰るのが長引くかもしれない。
ひと言連絡を入れておこう。
俺は携帯電話を取り出して、一号車のデッキで電話を掛けた。
「もしもし、俺だ。ちょっと小江戸号の中でトラブルがあってさ…。うん、大丈夫だよ。問題ない。こっちには何の非もない事だから…。ああ、本川越駅に着いたら少し話し合いしようと思ってる。ああ…。だから今日は遅くなるかもしれないから寝ちゃいなよ。明日詳しく話すよ。うん、お休み……」
電話を切ったぐらいにちょうど高田馬場に止まる。
電車が出ると場内アナウンスが掛かった。
西武新宿を出発してから時間にすると六、七分ほど待っている事になる。
一体あの駅員二人は中で何をしてるんだ?
そう思うと無性にイライラしてくる。
「おい、いつまでしらばっくれているんだよ? 開けろよ!」
車掌室のドアを乱暴に叩く。
少ししてドアが開いた。
出てきたのは先ほどの駅員二人とは違い、まったく別の若い駅員だった。
「あれ、あの二人はどうしたの?」
「新宿駅にいますけど……」
あいつら、あれだけ場を乱しといてあのまま駅に残っただと?
「何考えてんだよ。俺は十年この電車に乗ってるけど、こんな失礼な真似は初めてされたよ。俺のどこに落ち度があるってんだ? ふざけやがって…。ま、あなたにこんな事言っても筋違いだけどな」
「すみません…、アナウンスだけさせてもらってもよろしいですか?」
「全然構わないですよ」
「ありがとうございます」
車掌はそう言うと車掌室に入り、車内アナウンスを始めた。
終わると申し訳なさそうな表情で出てきて頭を下げてくる。
「あの駅員は何考えてんだ? 公衆の面前で赤っ恥かかしといて」
「いえ、お客さまのおっしゃる通りです。私も話を聞きましたけどお客さまは間違っておりません。あの女性の乗客とうちの駅員の応対が明らかに悪いです。お客さまはあの座席の切符を持ってらっしゃるのですから、当然の行動だと思います。本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる駅員。
初めてまともな感覚の駅員に出会えた。
熱くなっていた頭の中が徐々に冷静になってくる。
これで落ち着いて話ができそうだ。
「いえ、駅員さんが謝る事じゃないから…。あなたのおかげで冷静になる事ができた。ただあの馬鹿な女とさっきの駅員二人は絶対に許せない。自分たちで騒ぎをよりデカくして客に罪をなすりつけ、電車が動くと駅に逃げてしまう。そんな都合いい事ってありますか? 俺はそんな真似されて黙って見ているほどお人好しじゃないですから」
「ええ、お客さまの気持ちはとても分かります」
「そうでしょう、駅員さん」
「え、駅員じゃなくて、車掌なんですけど」
「ああ悪かったね。車掌さんはあの二人の駅員の名前分からないか?」
「すみません。今の段階ではまだハッキリとは分からないです。私も本川越に着いたら、向こうの駅員から呼ばれているので、色々と状況を話さなければなりません」
大方特急が何故遅延したのかという事だろう。
考えてみたらこの車掌さんも、飛んだとばっちりを食らった犠牲者なのだ。
この人に罪はない。
ただ俺もこのままこの件をうやみやにする訳にはいかない。
悪いのはあの女と駅員二人なのだから。
「車掌さんは本川越に着いたら呼ばれているんですね?」
「はい」
「では、その場に俺も一緒に行かせて下さい。駅員の名前だって知りたいですし…。この件に関して俺は引かないし、逃げるつもりもありませんから」
「はい、分かりました」
「それに車掌さんがこの件で責任問われるのはおかしいから、俺は車掌さんを守りたいんです」
「い、いえ…、そんな……」
「もし車掌さんが始末書とか書かされるんでしたら、俺が絶対に止めさせます」
明確な強い意志を持って相手に伝える。
自分の理を通したかった。
「車掌さんは俺に対して冷静に対処してもらって、これでも感謝してるんです。俺が怒っているのは、馬鹿な女とあの二人の駅員だけですから」
「分かりました」
「それとあの女の首根っこつかんで、ここに連れて来ていいですか?」
「お客さま、それは困ります。お気持ちは分かりますが、他のお客さまのご迷惑になります。ここは私の顔に免じて許してもらえないでしょうか」
自分に責任がないのに、低姿勢で礼儀正しく謝れる車掌。
ここはこの人の顔を立てたかった。胸についてる名札を見ると『石川』と書いてある。
「石川さん…、で、いいんですよね?」
「はい」
「分かりました。ここは石川さんの顔を立てます」
「ありがとうございます。あ、お客さま。ずっとデッキでお立ちになってられますのも失礼なので、私が空いている席を探してきます。少々お待ちになってもらえますか?」
「いいですよ、そこまで気を使ってもらわなくても。どこが空いてるかぐらい自分も分かりますから。そのぐらい自分で探せますよ。車掌さんの誠意はよく分かったので、もう車掌室に戻って運転に専念して下さい」
「すみません。ただ、四号車はできたら控えてもらえますか?」
「それは無理ですよ。タバコ吸いたくてこの電車乗ってんですから。こっちが悪い事した訳じゃないし…。大丈夫ですよ。車掌さんと約束したから、あの女と揉めたりしないって約束しますよ。その辺は安心して下さい」
石川さんは少しの間、考え込んでから俺のほうを見て頷いた。
「分かりました。それでは私は車掌室に戻らせていただきます。本当にすいませんでした。ご迷惑をお掛けしてしまい」
「とんでもないです。これ俺のプライベート用の名刺なので」
「すみません。受け取っていいんですか?」
「当たり前じゃないですか。逃げるつもりはないって言ったはずです。俺もそろそろ席に座りますよ」
車掌と別れて四号車に向かう事にした。
通路を歩いている最中に車内アナウンスが鳴る。
まもなく小江戸号は所沢駅に到着しようとしていた。
三号車まで歩いていると所沢で降りる乗客が列を作って通路まで並んでいた。
俺は少し距離をあけて待つ事にする。
所沢駅に着くと、乗客の半分ぐらいが次々に降りていた。
さっきまで満席状態だった席はガラガラになっている。
「……」
四号車に入ると本来の俺の席『2A』の横『2B』にメガネの女はしれっとして座っていた。
通路を挟んだ反対側の『2C』、『2D』席がちょうど空いているので、俺はその席へ座る事にする。
ゆっくりと腰掛けてから女を見た。
「おい、ねえちゃん……」
俺の言葉に反応してメガネの女はこちらを振り向く。
「いいか? 俺はこの件に関して絶対に逃げないからな。あんたもあれだけの事を言ったんだ。絶対に逃げるなよ? 俺はとことん行くところまでいってやるからな。この切符が俺の手元にあるという事は、誰がどう見たって俺の席なんだよ」
「あのー……」
迫力押されたのか、不意に女は俺の右腕に手を重ねてきた。
ゾワッと鳥肌が立つ。
俺は女の気安く乗せた手を振り払う。
「気持ち悪いから、気安く触らないでくれ。別件としてセクハラで訴えてもいいんだからな。頼むから絶対俺の腕に触らないでくれ」
「ほんとおかしいですよね、この会社って」
まるで言い訳にもなってない答えが返ってくる。
本当にこの女は頭がおかしいんじゃないか?
「いいかい? あなたが切符を買ったという事実。できれば俺は信じてあげたい。本当に買ったのかもしれない。本当に切符を無くしたのかもしれない」
「ほんとに買ったんです。さっきはお兄さんが最初にキツイ言い方をしたから、私もついカッとなっちゃって…。切符だってほんとに落としてしまったんですよ」
人の話をまるで聞かず自分の言い分だけを話す頭の悪い女。
とりあえず相手の言い分はちゃんと聞いてやろう。
俺の言いたい事はそれからでいい。
「うん、それで?」
「それでさっきの駅員さんに無くしたけどいいって聞いたら、ちゃんといいですよって言ったんです。だから私はいいと思ったまでで…。これで今回みたいなこういうトラブルが今までで三回もあるんですよ。参りますよ。ほんとにこの会社っておかしいですよね? そう思いませんか?」
「俺から言わせてもらえばね、まずあなたが何回もトラブル起こそうが、俺にはそんな事まったく関係ない、どうでもいい話なんだ。駅員が切符なくしても大丈夫と言ったのかもしれない。ただ、俺はあなたより早い時間にこの席の切符をすでに買っている。その時点でこの席は俺の席なんだよ。あなたが切符をなくそうが何しようが、俺には何も関係ないんだ。もしあなたの話を信じるとしたら、券売機のコンピューターが狂っているとしか、言いようがないよね?」
「私、ちゃんと買いました。この席は子供用の切符ですけど」
「そう…。できれば信じてあげたいよ。でもそれはさっきから何度も言っているでしょ? ただ、それだと矛盾が発生するんだよ。切符を持っているけど席を座れない俺が悪いのか、それとも切符を買ったけど無くしてしまい、駅員がいいと言っただけで席を譲らないあなたが正しいのか。この件は逃げないで、俺はとことん出るところへ出て話そうと言ってるんだよ。あれだけ自分の主義というか、簡単に言えばあれだけの事を俺にしたんだ。そのぐらいの覚悟は、もちろんあるよな?」
「だからー…、それはこの会社がおかしいからなんですよ」
これだけ言っても分からないとは、なんて物分りの悪い女だ。
それともワザと分からないフリをしているのだろうか?
何でも駅のせいにすれば済むとでも思っているのか。
「おい、お姉さん…、分からないみたいだからハッキリ言ってやるよ。俺はな…、おまえにムカついてんだよ。おまえが言った事、全然俺には関係の無い事ばっかりだ。あんたも引けないんだろ? あれだけの事を偉そうに抜かしたんだろ? だったら今さら引くなよ。俺は出るとこ出て決着つけようって言ってるんだよ。あれだけの事を俺に対して言ったんだ。そのぐらいの覚悟はあるよな? 今さら逃げるなよ。裁判になってあんたの証言が通用するか、俺の証言が正しいのか。どっちが正しいか白黒をハッキリさせよう。多分、あんたには名誉棄損。同じく西武新宿の駅員に対しても名誉棄損の対象になる。それと西武は小さい事かもしれないが、契約詐欺も該当するだろうな」
「ええ、私もこの事は駅に文句言います。ほんとにおかしいですからね。そう思いませんか? まったく失礼な話ですよね」
そう言いながら、女はまたしても私の腕に手を乗せようとした。
これだけの騒ぎになっても、自分の女の色気ごときで誤魔化されると思っているのか? だとしたら本当に馬鹿だ。
こいつに合う言葉は……。
すぐに出てこないけど、ようするに己の身の程を知れって感じだ。
「頼むからいちいち触ろうとしないで、本当にお願いだからさ」
「でも私は切符を…、この席は子供用の切符ですけど確かに買ったんです。」
頭が悪過ぎる。
何回も同じ事ばかり言ってもどうにもならないというのに……。
言い方を変えて言ってやろう。
「分かった。とりあえず切符を買ったのは信じるとしよう。ようするにあなたの座ってる席は四百十円の通常の切符。俺が座るはずだった席のところは、お金をケチって子供用の切符をちゃんと買いました。そういう事でしょ?」
「だからそうだって言ってるじゃない」
「ああ、それは信じるよ。だがな…、社会的な良識、または常識を言っておくよ」
「はあ?」
「いいか? この時間帯は放っておいたって、いつも満席になるぐらい混んでいるんだ。小江戸号は全部で七車両。でもタバコが吸える車両は、この四号車一車両のみ。だからタバコを吸いたくても四号車の切符が売り切れて、我慢して乗っている人もたくさんいるんだ。それをあなたはゆっくり座っていきたいという理由だけで、子供用の…、もっと簡単に言えば、セコい半額料金で二席とろうとした。誰がそんな事してる? そんなやつを見たの、あんたが初めてだよ。みんながみんなさ、あんたみたいな事したら、小江戸号はどうなるよ。話にならないだろ? そのぐらい社会の一般常識だからちゃんと覚えておきな。分かったか?」
「わ、私…、子供はちゃんといますから」
めげないというか、馬鹿というか……。
今、俺が話した言葉をちゃんと認識しているのだろうか?
こんな脳みそを持った女は絶対に子供を産んじゃいけないと感じた。
「あんたのお子さんって、まだ小さいだろ?」
「ええ、小学生です。今日は連れてないだけで、いつもは横にいますから」
よくも抜け抜けシャーシャーと……。
本当に親って自覚があるのかと問いたいぐらいだ。
「いいか? 今度は教育について語ろう。こんなタバコの煙がモクモクなっている四号車に、よく小学生の自分の子を座らせられるな? 子供の身体にとって良くないぐらいは分かるだろ? だから世の中、変なガキが多くなったって言われるんだよ」
「それは私と子供の問題だから関係ありません」
「確かに俺には関係ない話だ。ただな、その子供が大きくなって俺の前であんたみたいに偉そうな事を抜かしてきたら、遠慮なくギャフンと言わせるからな」
ここまでマシンガンのように喋ると、さすがにメガネの女は黙ってしまった。
それにしてもこの女はあれだけい俺に失礼な事をしときながら、まだひと言も謝っていない。
こんなもんで許す訳にはいかない。
「おい、姉ちゃん」
「な、何ですか?」
「世の中の男が弱くなったって言われてるけどな……」
俺は胸を張りながら相手の目を見て、力強く話した。
「ここにな…、目の前に強い男がいるんだよ。分かったか? 今日は本川越まで付き合えよ? とことん話し合ってやるから。タクシー代だって出してやるから安心しなよ」
『お待たせ致しました。次は狭山市駅、狭山市駅に到着です』
車内アナウンスが鳴り出す。
もうじき狭山市駅に到着だ。
女は放送を聞いて立ち上がる。
「おい、どこに行くんだよ?」
「私はここで降りますから」
「何だよ、あれだけほざいて逃げんのか?」
「逃げる訳じゃありません。降りたら駅でちゃんとこの事について文句言います」
「うまい言い草だな。まあいい、逃げたいのならサッサと逃げな。もし本当に駅へ文句を言うのなら、自分の氏名、電話番号、住所をハッキリ言っておきな」
「ええ、そうします」
「期待しないで待ってるよ。それができなきゃ二度とこの電車に乗るな!」
「駅員に私はちゃんと言いますから」
「おい」
俺は自分の顔を指差しながら、相手を見る。
「最後によーく覚えておきな。俺って人間はどうですかって、川越でも新宿でも行って、聞いてみな。ああ、あの人はこういう人ですって、みんな口揃えて同じ事言うからよ。俺はおまえみたいにコソコソ生きてねえんだよ!」
女は無言だった。
小江戸号が狭山市駅に着くと同時に、逃げるように降りてしまう。
果たしてあの女は、ちゃんと連絡先を言うだろうか?
絶対に言わないだろう。
ああいうタイプは自分が悪いと分かっていても、とりあえず騒げば何とかなると思っているはず。
過去に三回もこういうトラブルがあったとあの女は言った。
俺以外の二回のトラブルはこうやって騒いでやり過ごしてきたのかもしれない。
確かにあんな女と関わるのは非常に疲れるし面倒だ。
だから馬鹿は相手にしたくないといった感じで無視して自分から引いたのかもしれない。
しかし今回ばかりは相手が悪かったなとあの女に言いたい。
俺のした事は、少しぐらい男としての面目躍如になったのか?
そればかりは周りが評価する事だから、俺には分からない。
そんなくだらない事を考えている内に、小江戸号は最終地点の本川越駅に到着しようとしていた。
電車を降りて、改札口の方向へ進む。
本川越駅の特急券改札のところで、割腹のいい年配の駅員が立っていた。
名札のところに目を向けると駅長と書いてある。
俺は近づいてゆっくりと尋ねた。
「どうもすみません。先ほど西武新宿駅で騒ぎを起こした者です」
「ああ、お客さま、本当にすみませんでした。駅長の村西です。とりあえず立ち話も何ですから、奥にいらして下さい」
駅長の村西に促された通り、改札右手にある駅員待機室に入った。
中にいる駅員は三人ほど。
状況を知らされてないのか、みんな不思議そうな顔をして俺を見ていた。
「さ、さ、どうぞ」
一番奥の部屋、駅長室らしい部屋に通される。
広さは八畳ぐらい。
テレビにテーブル、ゆったりとした茶色のソファが二つ。
質素だが中々快適な空間だと思った。
俺はソファの横に立ったままの状態で口を開く。
「だいたいの話を聞いているとは思いますが、私がここにきた用件は二つです」
「ま、どうぞお掛けになって下さい」
「失礼します」
ゆっくりと腰を下ろしてソファに座る。
ゆったりとしたいい座り心地だった。
「おい、お茶。冷たいお茶を持ってきてくれ」
駅長が駅員に声を掛けている。
俺は駅長が話し掛けてくるまで、テーブルに目線を向けてジッとしていた。
「駅長の村西です。今日の件はお客様に大変ご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳なかったです」
村西は丁重に侘びを入れてから対面のソファに腰掛ける。
そこで俺も相手に目線を初めて合わせる事にした。
「はじめまして、私はこういう者です」
立ってプライベート用の名刺を村西に手渡す。
「今回の件で二つの用件があるといいましたが、一つは今、小江戸号を運転していた車掌の石川さんの件です」
「はい、うちの石川が何か?」
「石川さんは冷静かつ礼儀正しく迅速な対応で私に対し、非常にいい対応をしてくれました。私がこうして冷静に話せるのも、すべて石川さんのおかげです」
「そうでしたか」
「ええ、だから今回の事で彼が現場責任を負わされるとしたら、それは大きな間違いなので、まず私はそれを止めに来ました。もし彼に始末書等の罰が下されるなら、私は西武鉄道に対して徹底的に戦います」
本心からそう思い、考えた事をそのまま素直に言葉にした。
「お客さまの言い分はもっともです。私が向こうから話を聞いたところ、間違っているのは新宿の駅員。そして女性の乗客が明らかにおかしいです。石川に対しての処分はまったくありません。それは私が約束します」
「それなら安心できます。よろしくお願いします。それともう一つの用件ですけど、あの新宿の駅員二人の名前を教えてもらいたいんです。それ以外の西武鉄道の方には何の恨みもありません。かえって良く対応してもらっているぐらいですから。ただあの駅員二人は絶対に許しません。あれだけ状況を自分たちでおかしくしておきながら、電車が動くと新宿駅に逃げて責任をなすりつける。ずいぶん都合良過ぎだと思いませんか?」
「お客さんのおっしゃる通りです。ただ…、私は電話で聞いただけなので、駅員の名前までは分からないんです」
うまい逃げ方だ。
それならそれでいい。
聞きだす方法はいくらでもある。
「分かりました。それならこれで私は帰ります。ただ一つだけ言っておきます。私は新宿の駅員の顔を二人ともハッキリと記憶しています。明日もまた新宿へ行くので、その時名前を見れば済む話ですから。きっちりと裁判であの二人を吊るし上げます。それで今の駅長さんの言葉をプラスさせるだけです。本川越駅の駅長に駅員の名前を聞いたら、『知らない』と誤魔化された。そう、証言の一つに入れるだけですから」
表情が一変する村西。
「ま、待って下さい。おい、早くお茶を持ってきてくれ。今、新宿駅に電話して聞きますから少々お待ち下さい」
村西は急いで立ち上がり、駅長室から出て行った。
入れ替わりに若い駅員がお茶を持って入ってくる。
「あの、よろしかったらお茶をどうぞ」
「あ、気を使っていただいてすみませんです」
奥で駅長の声が聞こえてきた。
新宿駅とあの件で色々話し合っているのだろう。
俺はお茶を入れてくれた駅員に一礼しながら聞き耳を立てる。
ハッキリと聞こえないにしても、電話内容の簡単なやり取りぐらいは自分の耳に入れておきたい。
駅長の村西は新宿の駅員の名前を確認している様子だった。
「いやー、お待たせしました。今、お聞きしたところ、駅員の名前も分かりました。本当にすいませんでしたと、本人たちも深く反省しております」
「お手数掛けまして申し訳ありませんでした。それでお名前を教えてもらえますか? 私は、それが知りたいだけですので」
「はい、峰と朝比奈と言います」
「峰さんと朝比奈さんですね。年配の方はどちらなんですか?」
「ええ、峰が西武新宿駅の駅長です」
「え…、駅長だったんですか?」
あれが駅長?
あんな対応をしておいて、よく駅のトップでいられるものだ。
俺は西武鉄道という組織そのものを疑ってしまう。
「村西さんにお聞きしますけど、西武新宿駅の駅長があの対応でいいんですか?」
「いえ、今回の件はお客さまが正しいです。本当に申し訳ないです。こちらの対応が間違っていました。向こうもさっきの電話で散々謝っていました」
「もう一人の人は?」
「はい、朝比奈は同駅の助役になります」
「そうですか…。若造だったら、次はもっとちゃんと対応しろよって笑って済ませます。でも今回の件は明らかに私より年配の方ですし、しかも駅のトップです。その人に公衆の面前であれだけ赤っ恥をかかせといて、自分は何の責任もとらずに駅に残る。それが駅のトップのする事なんですか?」
「まあ、本人たちも大変反省していますので」
「口だけじゃ、誰だって何とでも言えます。私は相手の行動しか見ないように出来る限りしています。本当に電話口で村西さんに謝っているのかもしれない。でも私にはそれじゃ何も通じません。車掌に全部責任を押し付けて逃げながら、電話でただ謝った。それだけの事じゃないですか」
「そうですよね。おっしゃる通りです」
「失礼します」
横から別の声が聞こえたのでその方向を見ると、車掌の石川が駅長室に入ってきた。
「あ、石川さん。先ほどはどうも」
「いえ、とんでもないです」
「村西さん」
「はい」
「車掌の石川さんには世話になりました。石川さんは何も悪くないんです。かえって私が救われたぐらいです。この人に対して何だかの処罰はとらせないって、私の前で約束してくれますか?」
「もちろんそうしますよ」
しつこいと自覚はしていたが、念には念を入れといたほうがいいと思った。
これで少なくとも石川の件は安心できる。
「ありがとうございます。これでとりあえず自分の言いたい事は話せました」
「いえいえ、本当に申し訳なかったですね」
後々の事を考えて、この件は一筆をもらっておいたほうが良さそうだ。
「それで村西さん」
「何でしょう?」
「紙に村西さんの名前と判子。それに車掌さんの石川さんの名前をそれぞれ直筆で書いていただけますか?」
「分かりました。あと紙にお客さまの特急券もコピーしておきます」
「ご親切にすみません」
俺の目の前で誠心誠意に応対してくれる村西駅長の態度を見ながら、時間は過ぎていく。
二人のサインをもらい、その後で西武新宿駅駅長の峰と助役の朝比奈の名前も同じ紙に書いてもらう。
その間部屋の中を無意識に眺めていると、石川さんと目が合った。
俺はニコッと微笑んで軽く会釈する。
村西さんが書き終わったのを見計らって、石川さんが口を開く。
「駅長、お客さまは所沢までずっと席に座れず、立ったままだったんです」
「え、それなら特急料金の四百十円はお返ししますよ」
何だかまた面倒臭い事を言い出してきたもんだ。
「それはいいです、結構ですよ。別に四百十円が欲しくて、ゴネたって訳じゃないんですから。私自身、あの女と新宿の駅員二人が許せないだけの話なんです」
「ええ、その気持ちは分かります。ただ切符を買っていただいたのに、席がなくて座れなかったという事に対して、こちらはお客さまから代金をいただく訳にいきませんので……」
「気遣いありがとうございます。でも、お金は返さないで結構ですよ。小江戸号に乗って帰ってきた事は確かですから。それよりも私は明日、新宿に行くのでその時にあの二人と話したいだけなんです。その事を向こうに伝えといて下さい。よろしくお願いします」
「分かりました。伝えておきます」
「それでは失礼します。お騒がせして申し訳なかったです」
駅長室を出ると、周りの駅員たちがペコペコしている。
俺は頭を少し下げながら駅構内を出た。
今日はとりあえず帰って寝よう。
明日新宿行った時、この件は一体どうなるのだろうか?
裁判まで持ち込むとは言ったものの正直面倒だった。
家に帰ると風呂がいい感じで沸いていた。
ゆっくり湯船に浸かりながら、今日一日を振り返る。
一日といっても新宿から川越に帰るまでの間だけが、今日の中心だったような気がする。
特に事を大きくする必要性は何もない。
そんな事したら西武鉄道だけでなく俺も面倒だ。
何かいい解決策はないだろうか?
風呂から出て布団に入ってからも思案を巡らせていたが、なかなかいいアイディアは出てこなかった。
風俗の件だけでも頭を抱えているのに、西武鉄道の一件まで加わってくる現実。
まずは電車の一件から片付けていくしかないか……。
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