2024/10/03 thu
前回の章
朝、目を覚ますと時計の針は十時を回っていた。
打ち合わせで新宿に行くのが十二時半だから、もうちょっとして出発すればいい頃合いだ。
西武新宿駅に寄ってあの駅員二人と話せる時間は多少とれる。
素直に謝れば、こんな小さな問題でいつまでもグジグジと言いたくない。
男らしく水に流してやろう。
手早く着替えを済ませ、いつもより早めに家を出る。
最近外の空気が冷たい。
もう十二月の中旬だし、寒いのは当たり前だ。
本川越駅までの歩く距離がこうも寒いと辛くなってくる。
家から駅まで時間にして徒歩七分。
運動も兼ねるとちょうどいい場所に住んでいるが、今日ぐらいは途中でタクシーを拾いたいぐらいだった。
駅に着くと、いつものように小江戸号の特急券を買って新宿へ向かう。
本川越からだと客席はまばらだが、途中の狭山市駅、所沢駅に停車すると四号車は一気に満席になる。
煙の量も満席なので半端じゃない。
タバコが嫌いな人だと絶対に四号車は座っていられないだろう。
そういえばあれから彼女からの連絡がない。
昨夜、電話で簡単に説明したが、少しぐらい心配してくれてもいいんじゃないか。
その時タイミング良く百合子からメールが届いた。
《これから病院&買い物に行ってきます。 百合子》
メールを見て、少しムッとした。
昨日の事について少しぐらい触れてもいいものを……。
俺はデッキに出て、彼女の携帯に電話を掛けた。
小江戸号のいいところはデッキ間なら電話をしてもいいところだった。
「もしもし」
「おはよー」
陽気な百合子の声。
「……」
しばらく黙っていたが、彼女の口から昨夜の一件についての事は何も聞かれない。
単なる俺の甘えかもしれない。
しかし、ひと言ぐらい心配してくれたっていいんじゃないだろうか。
「どうしたの?」
無言の俺に対し、問いただす百合子。
沈黙を保っているのが馬鹿らしくなった。
「ん、いや…。百合子ってちょっと希薄だなと思ってね」
三十秒ほどシーンとした空気が流れる。
「昨日の電車の事を言ってるの?」
「ああ……」
「智ちんが大丈夫だと言ったから、私は気にしなくても大丈夫なんだなと思ったの」
「だからそういう事じゃなくてね。メールくれるにしてもさー、少しぐらい気に掛けてくれてもいいんじゃないの?」
「智ちんはいつも自分の事ばかりね……」
素っ気ない百合子の声。
「何だと?」
嫌な事の連続で神経がピリピリしていた。
「私、智ちんの事ばっかり気にしてられないから」
じゃあ他に何を気にするんだ?
イライラが増す。
「何だよ、その言い草は? どういう意味だよ」
落ち着かせようと思いつつも、つい感情的な言葉が出てしまう。
「どうせ、そういう風にとっちゃうんだよね……」
妙に挑発的な言葉に聞こえてくる。
「おまえなー…、自分の事棚に上げて、ふざけんじゃねえよっ! 俺の女なら普通は『昨日何かあったみたいだけど大丈夫?』ぐらい気にするだろ? それを何が病院と買い物に行ってくるねだよ」
売り言葉に買い言葉。
お互い冷静さを失っている。
「もういい……」
どういう意味合いで抜かしたんだ、こいつ……。
「おい、おまえよ…。どういうつもりで……」
「もういいよっ!」
受話器越しに百合子の怒鳴り声が聞こえてくる。
「そうかよ。なら今度会った時は別れるつもりでいろよな」
完全に勢いから出た言葉。
昨日の件も手伝ってか自分自身非常に苛立っていた。
充分に分かっているが、これは俺の八つ当たりだ。
そう自覚していても感情を抑えられなかった。
お互い口論になり、嫌な気分のまま電話を切る。
ちくしょう。こ
うなったら浮気でもしてやるか。
イライラしていると、どうでもいい方向に考えがいってしまう。
だいたい當間がいつまでも店内改装に訳の分からない時間を掛け、いつまで経ってもオープンできないから物事がどんどんおかしくなっていくんだ。
有木園の奴は、普段何をしているのかさえ分からないしよ。
考えている内に小江戸号は新宿に到着する。
まずは昨夜の一件だ。
これから片付けないと……。
改札右手にある駅員待機室に近づくと、若い駅員がボーっとしていた。
時計を見ると十一時十五分。
仕事の時間までまだ一時間はある。
簡単に昨日の事を頭の中で整理してから、若い駅員に声を掛ける事にした。
「すいません」
すいませんとすみません。正しいのはすみませんだが、俺は状況に応じてあえて使い分ける事にしている。
「はい」
「ここのトップを出してくれ」
「は?」
「ここのトップだ」
「トップと言われましても……」
「ここのトップって言ったら普通、駅長だろ?」
「は、はい。失礼ですがお名前は?」
「昨日揉めた者だって言えば通じるよ」
理不尽な絡み方をしている俺。
さっきの百合子とのイライラを若い駅員にぶつけているだけだった。
「は、はあ…。分かりました」
困惑の表情で若い駅員は窓口にある電話を手に取った。
財布の中に昨日書いてもらった一筆の紙は入っている。
一度取り出して紙を確認すると、若い駅員も電話を切り終えたところだった。
「すみません。そこの改札口を出た右手にあるドアの前でお待ち願いますか?」
「分かりました。すいません」
改札に定期券を通して出ると、すぐ右側にドアがあった。
中に通されないで、外で待たせるなんて、本川越駅とは同じ系列駅でもずいぶん対応が違うものだ。
昨日の事を思い出すと静かな青い炎が音を立てずに体内で燃え上がってくる。
十分ほど待たされてからようやくドアが開く。
しかし出てきたのは昨日の駅長、助役とは違う人間だった。
胸についている名札を見ると、駅長と書いてある。
「駅長の間壁です。昨日の件ですが本当に申し訳ございませんでした。話は聞いております。こちらの対応が悪く、お客さまに大変ご迷惑をお掛けし、不愉快な思いをさせてしまいまして本当にすみませんでした」
間壁はとても低姿勢で好感の持てる印象を受ける。
しかし間壁がいくらいい人そうでも、昨日の駅長である峰を出してもらわない事には何も話は進まない。ここはちゃんと言い分を言わないといけない。
「とんでもないです。駅長の間壁さんですね。私、こういうものです」
間髪入れず、名刺を間壁に差し出す。
「いただきます」
「あの…、西武新宿駅の駅長さんて一体何人いるんですか?」
「駅は三勤交代なので、各番に一人ずついます」
昨日本川越駅の駅長、村西に書いてもらった紙を出して見せる。
「昨日いた、ここの駅長の峰って人を出してもらいたいのですが」
「本日、峰はお休みになっています。私が今日の勤務ですので代わりに来た次第です。この度は本当に申し訳なかったです」
改札口の近くなので結構人がいる。
そこで周りの目を気にせずに深々と頭を下げる間壁駅長。
非常に男気を感じるが、俺は慌てて制止した。
「こんな若輩者の私に頭を下げるのは辞めて下さい。別に間壁さんが悪い訳じゃないんですから。私は昨日の駅長と助役に会いに来たのです。本川越駅駅長の村西さんに、今日ここに来ると伝えといたはずですが……」
「はい、お話は聞いております。ただ峰が休みなので、私が承らせていただいているのですが……」
内心こんなに丁寧で人の良さそうな人に、俺の言い分を話すのは辛かった。
「生意気な事を言わせてもらいます。私は昨日の峰さんと朝比奈さんが対応してもらわないと、話にならないんです。本川越の村西さんが昨日、あの二人が大変申し訳ない事をしたと反省していると言っていましたが、どういう事だが私には理解に苦しみます。今日、私は西武新宿に来ると言ったんですよ? それが今まであの二人から連絡は一切ない。駅に来ても休みでいない。謝っていると言っても、何も誠意が感じられません」
「申し訳ないです。本当にお客さまのおっしゃる通りです」
すまなそうな表情で俺に頭を下げる間壁。
その後ろから年配の駅員がまた一人こちらに近づいてきた。
俺の顔を見ると、年配の駅員は頭を下げてから口を開いた。
「突然すみません、助役の福島と申します。先日はお客様に大変無礼な事をして、申し訳ありませんでした」
駅長共々助役の福島も一緒になって深々と頭を下げてくる。
俺は周りにこんな二人の姿を見せたくないという思いでいっぱいになった。
「頭を上げて下さい。別に間壁さんや福島さんが悪い訳じゃないのですから。嫌な言い方ですけど、あの二人が直接謝ってもらわないと、何も意味がないんです。お願いですから私に頭を下げるなんて止めて下さい。周囲の目だってありますから」
一心不乱に頭を下げる二人の姿に自分の怒りはなくなりそうになる。
だが、それ以上に今日いないあの二人が許せない。
「すみません、少しお時間ありますか?」
間壁さんが問い掛けてくる。
時計を見ると、まだ仕事まで四十分ほど時間があった。
「はい」
「よろしかったら中にお入り下さい」
「分かりました」
改札口横の駅員待機室へ入ると、他の駅員は不思議そうに俺を見ている。
「よろしかったらお掛け下さい」
「失礼します」
ドアのすぐ近くに折りたたみ椅子が置いてあり、俺はその椅子に腰掛けた。
「間壁さんや福島さんに言っても仕方ない事だとは思いますが、昨日の騒ぎの駅員二人がいません。今日ここへ来ると言ったのにもかかわらずすっぽかされ、連絡の一つすらありません。これが西武鉄道のやり方ですか?」
「いえ、お客さまのおっしゃる通りです。本当に申し訳ありませんでした」
「間壁さんに謝ってほしくて、こんな事を言っているのではありません。頭を上げて下さい。問題は昨日の二人は駅長、助役という立場です。その二人がこんな無責任な対応で、西武鉄道はこれでいいのかと問いたいんです。今日、休みでここにいないにしても、結局は間壁さんや福島さんにこの場を無責任に押し付けて、自分たちはのうのうと知らん顔。よくそれでここの駅長が務まるなと思います。今現在、峰さんからここに連絡一つないですよね?」
「は、はい…。ただ峰、朝比奈たちも非常に反省していまして……」
「申し訳ないですが、本人たちの行動を見ていると、反省していますっていくら人づてに聞いたところで何も誠意は感じられません」
「確かにそうです。はい……」
厳しい事を言っているのは自分自身百も承知だった。
話していて心が痛かった。
見ただけで人の良さそうな感じが滲み出ている間壁に福島。
この人たちに冷たい言い方する自分が嫌だった。
それでも後戻りできない。
自分が納得いくまでは……。
百合子と揉めた件もあってか、変に意固地になっている。
「それと昨日の問題を起こした女性客ですが、狭山市駅で降りる時、駅員にちゃんと話をして、名前や連絡先を言うと言っていました。その件で何かありましたか?」
「いえ、何の報告も受けてないので、今のところは何もないです」
予想通りだ。
あの馬鹿な女の言葉は何一つ信用していなかったが。
「やっぱりそうですよね。そう思いました。それで昨日言っておいたんです」
「はい」
「あれだけの騒ぎ起こしておいて、都合よく逃げるなら二度と小江戸号に乗るなと」
「はい」
「もし乗っているのを私が見つけたら、あの女は許すつもり一切ありませんので、今度は逃がしません。駅員のみなさんにも協力してもらいます」
間壁さんは返事をどう返したらいいのか、困った表情で黙っている。
無理もない。
自分の立場を考えると、すぐ簡単には返答を出せないだろう。
俺は話題を変える事にした。
昨日の経緯を細かく話し、この部分がどうしても納得できないと伝えた。
「要は私が許せないのはここの駅長の峰さんに助役の朝比奈さん。それにあの女だという事です」
「すみませんでした。こちらの峰と朝比奈の対応が悪く、お客さまにご迷惑掛けてしまい申し訳なかったです。お客さまの言い分は正しいです。その女性客も切符をなくしたと言っても、実際にお客さまが持っているのですから、その座席の権利は当然お客さまの席となります。その女性客の言い分はおかしいですね」
「ええ、あの女は私の座る予定だった席に対し、自分は子供用の料金でその席を買ったと言っていました。しかも私よりも遅い時間の購入です」
「それはありえないです。こちらもコンピュータで座席管理していますので、切符が重複するというのも考えられません。まあ、万が一と言う可能性はあるかもしれませんが……」
「あの女にはもし本当に切符を買ったとしても常識がないと言いました。そんな半額の特急券を買って二席分とろうと誰がしているんだって。私はここ数年間、冗談混じりながらも喫煙車両をもっと増やしてくれって訴えてきました。実際朝の上りと夜の下りなんてほぼ満席で、タバコを吸いたくても吸えない人がたくさんいるじゃないですか?」
「ええ、おっしゃる通りです」
「それでも喫煙車両を増やさないというのは、西武鉄道も世の中の禁煙運動もあって現状維持というのがやっとという事ですよね?」
「はい、その通りです」
「でもそこまで世間体を気にするなら、唯一喫煙車両の四号車の切符を買うのに、子供料金で購入できるようしてあるというのはおかしいと思います。親のエゴで四号車に乗る子供たち。体に悪いというのは誰にでも分る事です。西武鉄道が世間に対して格好つけるなら、四号車は二十歳未満の乗車を禁止するぐらいの格好のつけ方をしてほしいです。そうすれば昨日みたいな件は起こらないし、いい方向にいけると思います」
「本当にそうですね。そうできればいい方向にいくと感じます」
チラッと時計を見ると、十二時十五分になっていた。
そろそろ打ち合わせの時間だ。
話を切り上げないといけない。
せっかく間壁や福島ともいい感じの雰囲気になってきたのに。
残念だが仕方がないか。
「すみません。私、そろそろ仕事の時間なんです。出来る限り間壁さんや福島さんの顔を立てる形にしたいと思います」
「よろしくお願いします」
「ただ、この件は今度あの二人と直に話してからじゃないと、何とも言えません」
「何とぞ穏便にお願いします」
「忙しい中、お邪魔して申し訳なかったです。それでは失礼します」
俺が遠くまで歩いても二人はずっと深く頭を下げたままだった。
仕事に向かう前にスッキリして良かった。
まだ物事が解決した訳じゃないけど、間壁や福島と話せて良かったと感じる。
正直昨日の怒りはほぼ消えていた。
あとは今日うまくすっぽかした峰と朝比奈の二人と話すだけだ。
できれば事を荒立てたくない。
間壁や本川越駅の村西の顔を立ててあげたいものだ。
歌舞伎町へ到着すると、俺は西武新宿線での一連の騒動をオーナーの一人である村川に話してみた。
横で興味深そうに當間も聞いている。
「これはいいチャンスじゃねえか。うまく出し抜いて金をもぎ取れるかもな」
村川は悪人面でほくそ笑んだ。
まったく給料の出ない日々に嫌気を差していた俺は、「よかったら西武新宿相手に一緒にやりますか?」とおどけてみる。
しかし村川や當間たちは「相手がデカ過ぎる」と逃げ出した。
しょせん口先だけなら、はなっから言わなければいいものを。
「まああの電車を利用する人間が喜ぶように、終電を二時にしろとか言ってみますか。それとも自分の書いた小説あるんで、それの広告を作って車内すべてにタダで貼れとか」
「そりゃ無茶だよ」
「分かってますよ。言ってみただけです」
打ち合わせと称して集まっているが、まるで意味のない会話。
まずは當間が店舗の改装を仕上げない限り、何の進展もないのだ。
一向に店の女の写真すら持ってこないので、ホームページもあれ以上進めようがない。
「當間さん、一体いつになったら店舗できるんです?」
本当にやる気があるのかどうか分からないので、當間に強く口調で質問する。
「俺だってちゃんとやってんだよ。ゴウの奴が夜しか動けないから、俺も一緒になって壁紙貼ったり色々してんだ」
「あなたのおかげで一週間と踏んだオープンが、大幅に遅れているんですよ?」
「俺のせいじゃないよ。ゴウの奴が金を使い込むから」
見苦しい責任転換をし続ける當間。
もうこういったやり取りにはうんざりだ。
「そのゴウって奴に頼んだのは當間さんでしょ」
「だったら岩上ちゃんもたまには夜こっちに来て仕事を手伝ってくれよ。何もしてないじゃん」
この台詞にはさすがに頭に来た。
こいつのせいですべての予定が狂っているのに、まったく反省の色がない。
「悪いけど、もうあんたとはやってられない。俺は降りるよ……」
そもそも百合子との仲がおかしくなったのも、こいつのせい。
この馬鹿がいい加減でいつまで経っても店がオープンできず、給料が入らない。
きっと百合子はそんな俺に苛立ちを覚えていたのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ホームページだってまだできてないんでしょ?」
「それは女の写真すら何もないからじゃないですか! くれればすぐにでも完成できるようにはしていますよ。店で使うパソコンだって店舗さえ完成していれば、すぐにだって持ってこれます。いい加減自分の非を少しは認めて下さいよ。どれだけ給料が出てないと思ってんですか?」
「分かったよ、分かったから」
「まだ店のチラシや割引券、どこのホテルやレンタルルームを使うかとか何も決まってないんですよ? ほんといい加減にして下さいよ」
村川らオーナー連中も、何でこんな馬鹿を陣営に加えたのだろうか?
不思議でしょうがない。
ここまで何もできない奴だとは思いもよらなかった。
「やるよ、やるから……」
「俺、子供ができたんですよ。遊びでこの仕事に関わっているつもりはないんです。本当に頼みますよ」
電車の一件といい、百合子との些細な行き違い。
そして『ガールズコレクション』のグダグダ感が俺をイライラさせていた。
結局この日はいつも通りに家に帰ったが、百合子から連絡はなかった。
そしてあれだけ間壁に言ったにもかかわらず、峰からの連絡も何一つない。
携帯番号まで教えているのだから、すぐに謝ってくればいいものを……。
考えていると峰と朝比奈に対する怒りが増してくる。
裏ビデオ屋メロン時代の姓名判断の客が三十三歳になったらなんて言っていたけど、いきなり警察に捕まり、新しく関わった仕事がこの有様。
そして電車のゴタゴタ。
百合子とも別れそうだし、扁桃腺もいきなり腫れた。
ひょっとしたら、俺にとって厄年なのかもしれない。
いや、そういう風に思うのはやめよう。
もっと前向きに考えないと……。
「ん?」
今回のこの話を小説として書いたらどうだろう?
嘘偽りなくありのままに書き綴る。
いいかもしれない。
俺はパソコンのワードを起動し、早速書き始めた。
怒りとイライラを文字に変え、ひたすら文章を打ちまくる。
完成したら西武新宿の連中に見せてやるか。
きっと驚くはずだ。
突然携帯電話が鳴る。
百合子からだった。
あれからお互い連絡してなかったが、向こうから我慢できずにしてきたのだろう。
「はい……」
不機嫌そうに出ると、百合子はしばらく黙っていた。
「おい、もしもし?」
「何?」
「そっちから電話掛けてきて何だよ?」
どうしても言い方が冷たくなってしまう。
いい感じで執筆をしていたのに、水を差された感があったからかもしれない。
「あれから色々考えたの」
「それで?」
「好きなだけじゃ駄目だったんだなって……」
本当に三十三歳になってから、俺の歯車はどんどんおかしくなっている。
「だったんだなってすでに過去形か? 別れたいなら、ハッキリ言ったらどうだ?」
百合子の言葉に対し、意地を張る自分がいた。
「今、家の前に来てるの」
「先に言えよ。今、行くから」
すぐに着替えて外へ向かう。
何であいつは俺の子供を宿しているというのに、簡単に物事を言えるんだ?
頭の中は苛立ちでいっぱいだった。
玄関を出ると百合子が立っていた。
「何なんだ、おまえは! 一体どういうつもりだ?」
「そんな大きな声出さないで。ここじゃ話すのも何だし、私の車に乗って」
俺は黙ってあとをついて行く。
彼女の車に乗り、冷たい目線で睨んだ。
「何であれぐらいの事で別れるとか抜かしてんだ?」
「あなたとは性格が合わないかなって……」
「おまえ、そんなんでよー。よく子供が欲しいなんて抜かしたな? よく簡単に別れるなんて言えるな?」
普段は大人しめの百合子だが、今日はすごい冷たい表情をして俺を見ている。
苛立ちはどんどん増すばかりだった。
お互い口を開かずに時間だけが無駄に過ぎていく。
「だって智ちんは何かあると、すぐにキツい言い方しかしない。全然優しくないじゃない。たまには私だって優しい言葉の一つでもかけて欲しいわよ」
「甘ったれるな。俺は誰の前だって常に堂々と変わらずに自分を貫いているんだよ。おまえは何なんだよ? いつも人前じゃ無口で、こんな時だけ偉そうに物事ほざいているだけじゃねえか」
「私たち合わないよね……」
タバコに火をつけ、ゆっくり煙を吐き出す。
一本吸い終わっても、百合子は無言のままだった。
「別れるって事を言いたいならハッキリ言えよ」
「そういう事になるかな」
今までの日々は一体何だったのだろう?
電車の一件では確かに俺もイライラしていた。
八つ当たり気味だったかもしれない。
しかしそんなもんで、子供まで妊娠しているのに別れ話?
どんどん頭に血が昇っていく。
「そうか…。分ったよ。一時の感情で言ってるんじゃないんだな?」
「うん……」
「けっ…。お腹の子はどうすんだよ?」
「こうやって話してるのも、この子にいい影響を与えないよね……」
百合子はそう言って両手でお腹をさすっている。
「いいか? 子供は二人の親がちゃんといるからこそ、笑顔で大きく元気に育つんだ。そんな簡単に別れようって奴が、子供を産む資格なんてないんだからな」
親父や母親…、自分の両親みたいな家庭など絶対に作りたくない。
子供には寂しい想いなんてさせちゃいけないんだ。
「……」
黙ったままの百合子。
「何故黙る? 俺の言っている事は間違っているのか?」
キツい言い方をしているな。
自分でもそう分かっていた。
しかしこれから共に苦楽を乗り越えていくのに、今優しい言葉を掛けるのは間違っているような気がする。
「もう、いい……。話したくない」
目の前が真っ暗になった。
「今、別れるならおろせ…。おまえに俺の子は絶対に産ませない。ふざけんな!」
かなり酷い台詞を言っているのも自覚していた。
感情的にもなっていた。
でも自分自身の感情は止められない。
俺も悪いのは自覚しているのに、抑えが利かない。
「分りました…。子供は私が責任もっておろします」
「信用できない。本当にそう思うならちゃんと紙に書け」
俺は手帳を取り出して、白紙のページを一枚破る。
彼女にボールペンを渡した。
「……」
「本当にそのつもりなら、この紙に一筆書け」
黙って千切った手帳にペンを走らせる彼女。
その姿を見ていると俺の心は残酷な気持ちで支配されていく。
「これでいい?」
「日時もちゃんと記入しろよ」
もう後戻りできないんだな。
こんな簡単に終わりがやってきて、俺は一人の命を消そうとしている……。
百合子は書いた紙を渡してきた。
「本当にいいんだな?」
「まだ何か話しあるの? もう終わりなんだから、手短に済ませたいんだけど」
「てめぇ……」
思わず拳を握り締める。
俺の態度に身体をビクッとさせる百合子。
「安心しろよ…。俺は絶対に女は殴らねえよ」
「そんな事はしないって思ってる」
「じゃあ、何でビクッてしてんだよ? ふざけんじゃねえよ」
「もうそろそろ帰っていい?」
何でこんな女と俺は、家庭を築こうだなんて思ったんだ?
「勝手にしろ! だけどおろす費用とかどうすんだよ?」
「今まで散々智ちんに出させてばかり甘えてきちゃったから、私が全部責任もってします。こうなったのも仕方ない事だから……」
「ふざけるな。別れるのと子供の件は別だ。俺にも責任はあるんだ」
「もう今日で…、これで終わりにしたいの……」
そんなに言うほど俺は酷いのか?
いや…、かなり酷いよな……。
まるで金にならないクソみたいな環境で働きだして、百合子には冷たく当たっている。
どうしょうもないのは俺だ。
苛立ちと悲しみが頭の中を駆け巡る。
「分った…。もう何も言う事はない…。ただ掛かる費用とかで大変だったら、いつでも連絡してこい」
「それは問題ないです……」
「……。もうこれで最後だ。もう…、連絡はしない……」
こんなに醒めた百合子を初めて見た。
ショックだった。
今まで俺と付き合ってきて、もう少しでゴールインするはずだったのに……。
ずっと俺の激しい性格に対し、ただ我慢してきただけだったと言うのか。
気がつくと彼女の車から降りて外に出ていた。
子供を産むと言ったのに、何であんな覚悟しかできないんだ……。
やるせない気分で家に向かう。
振り向くと、百合子の車は発車して道路に出るところだった。
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