まるで落ち着かない。
今、勝男の奴、どの辺なんだ?
勝男に電話を掛けてみた。あ、すぐに出たな。
「もしもし勝男か。今、どこら辺にいるんだ?」
「え、えーと…、マンションを出たところだよ」
「まだそんなとこかよ……」
「だ、だってさー、エ、エレベーターはなかなか来ないし、い、入り口のとこで怖いヤクザみたいな男にぶつかってしまい、た、大変だったんだよ……」
ヤクザみたいな男だって?
鳴戸は一見、見かけは普通のサラリーマンみたいに見えるはずだ。まともに対峙して初めてその恐ろしさが分かる男。
ただ、妙に気になった。鳴戸がヤクザを使い、俺たちのマンションに来させる事も考えられる。
「ヤクザみたいな男? どんな特徴だった?」
「え、ええーとね…、み、見かけはパッと見、普通のサラリーマンって感じなんだけど、声が妙に甲高くて、オ、オーラっていうのかな…。と、とにかくおっかない感じだったんだ。し、白のコートを着てて……」
絶対に鳴戸の事を勝男は言っている……。
勝男の下手くそな説明でも、充分に鳴戸だという事が分かる。
本当に紙一重だったのだ……。
想像すると冷や汗がドッと出る。俺の勘は間違っていなかった。紙一重でも俺のほうに運がついている証拠だ。
「勝男、そいつには気をつけてくれ」
「え?」
「そいつが俺を狙ってるんだ」
「ね、狙ってる?」
あと区役所通りで待ち合わせだと、すれ違う可能性もあるな。
「まーいい、今からタクシーを捕まえてくれ。区役所通り沿いにバッティングセンターがあるだろ? そこに急いでダンボール持って来てくれ」
「え? だ、だってタクシーって言ってもさー……」
「金なら払うから! 頼むから言う通りにしてくれよ、勝男。ほんとに今、ヤバイ状況なんだ。俺たち、幼馴染だろ! 出来る限りすぐ、俺のとこ来てくれ」
「わ、分かったよ…。で、でもあとで詳しい事、ちゃ、ちゃんと説明してくれよな」
「ああ、頼むぞ」
電話を切る。
よし、これで何とかなりそうだ。金さえ受け取れば問題はない。勝男に事情を話してマンションを引き払ってもらっておしまいだ。
また、携帯が鳴りだす。
何だよ…、勝男の奴まだ何かあるのか? 電話を取ろうとして、慌てて思い留まる。着信はあの鳴戸からだった。危ねえとこだったぜ……。
俺はバイブにして放っておく。
今、鳴戸はおそらく俺たちのマンションの八階にいるはずだ。いくら部屋のチャイムを鳴らしても返事がなく、メーターをじっくり見る。中にひと気がないのが分かり、俺に電話を掛けているんだろう。
あいつのイライラしている様子が目に浮かぶ。
一度、鳴戸からの着信は切れ、間髪入れず携帯が鳴る。
「クックック……」
自然に含み笑いが出た。
いくら金を抜いたとはいえ、俺に散々殴る蹴るの暴行をあれだけしたんだ。いずれあいつは地獄に落としてやる……。
この体の痛みを俺は絶対に忘れない。俺がどこにいるのか分かるまい。今のとこはとりあえず悔しい思いをさせて、地団駄を踏ませてやるよ。
キーンッ…。ズドンッ。
バッティングセンターから音が聞こえてくる。
勝男が初めて歌舞伎町に来た時は、あいつ、このバッティングセンター見て一発で気に入り、よくここに付き合わされたっけな。
勝男が新宿に来て、二年が経とうとしている。時間が経つのは本当に早いものだ。
俺はバッティングセンターに入り、自動販売機でコーヒーを買ってベンチに腰掛けた。体の節々が痛む。
鳴戸の野郎、まさか俺がこんな場所にいるとは想像もできまい……。
あの馬鹿からのしつこい着信。念の為、留守番電話をチェックしてみた。
『一件です…、ピー…。あーもしもし鳴戸です。岩崎、あなたも随分とふざけた人ですねー。とりあえず私の持てる力、すべて使って、あなたの人生を地獄と後悔の連続にするよう頑張りますよ…。いいですね? ガチャッ……』
靖史、大丈夫かな……。
携帯を切ってからむつきちゃんを見る。
「と、友達がね、さ、さっきのヤクザみたいな奴に気をつけてくれって……」
「一体あなた、何しでかしたの?」
「ぼ、僕だって分からないよ。な、何が何だか」
「まー、勝男って今日会ったばっかりだけど、嘘つけるようなタイプじゃないっていうのは私、分かっているから」
いつもあれだけ冷静に物事を運ぶ靖史が、あれだけ慌てているのはよっぽどの事だろう。ちょっとズルイところはあるけれど、昔から僕には良く接してくれたよな。
電話で睦月ちゃんの事を言っとくべきだったかな……。
まあ、その事はしょうがない。
「む、むつきちゃん。タ、タクシー捕まえてくれないかな?」
「いいけど…、そろそろどこに行くかぐらいは話してくれてもいいんじゃない?」
「い、今、本当に急いでいるんだ。ぼ、僕の友達が大変な事になっている」
「分かったわよ……」
むつきちゃんは優しく微笑んでから、道路に立ち手を振っている。こういう時、美人は本当に得だ。アッという間にタクシーを捕まえてくれる。彼女は得意そうな顔をして僕に手招きをした。その仕草も非常に可愛い。タクシーの運転手は、僕を見てガッカリとうな垂れていた。一体、何を期待していたんだ、このドスケベ運転手は……。
「す、すごいなー」
僕が笑顔でタクシーに近付くと、急にむつきちゃんの表情が変わりだした。
視線は僕じゃなく、別の方向を向いている。
「ど、どうしたの、む、むつきちゃん?」
言い終わるより先に、むつきちゃんが僕の手を強引に引き、タクシー内へ引っ張り込む。
「早く乗りなさいよ! 運転手さんっ! 早くドア閉めてっ! すぐに出して!」
むつきちゃんがすごい剣幕で喋り出し、運転手は慌ててドアを閉めた。
コンコンッ……。
その時、タクシーの窓を叩く音がした。
「…ちょっといいですか?」
声の方向に振り返ってみる。
「うわっ!」
さっきのエレベーターの前でぶつかった男が、タクシーを覗き込んで立っている。
口から心臓が飛び出そうなぐらいビックリした。運転手は後ろを振り返り、困った顔をしている。
「早く出してっ! 早くっ!」
ガンガンッ。
男はまったく表情を変えずに、窓を強く叩きだした。
「ちょっといいですかと私は言ってるんですよ」
「早く出してってばっ!」
「ひっ…、はいっ」
運転手はむつきの怒鳴り声で、やっとタクシーを急発進させた。男はこっちをずっと見ていたが、距離は離れていきやがて姿が見えなくなる。
「フヘー……」
思わずため息が出る。
何だって靖史はあんなおっかない奴に追われているのだろう? 僕だったら、寿命が百日縮んでしまう。
「そろそろどこへ行くのか話してよ。運転手の人だってどこ行くか困ってるわよ」
「あ、あのー…、く、区役所通り沿いのバ、バッティングセンターへお願いします」
「ちょっとー、何でそんなとこに……?」
「ぼ、僕だってよく分からないんだ。ちょ、ちょっと考えさせて……」
少し整理しよう。
今日は朝から色々な事が起き過ぎだ。
まず靖史のところへ行かないといけない。靖史に会い、これまでむつきとの経緯も説明しないと駄目だ。あとは……。
「ん?」
当たり前だけど、運転手が前を見て運転しているので後頭部がこちらを向いている。
ヤバイ…、また僕の欲望が疼きだす。
「サワレー、サワレー、サワッチマエヨ!」
僕は自然に手を伸ばし、運転手の後頭部を触ってしまう。
「あっ! で、でっぱってる!」
「な、何すんですか?」
運転手が慌てて急ブレーキをかけた。こっちを振り向いて明らかに怒った顔をしている。それはそうだろう。いきなり後頭部を運転中に触られたのだから。後ろから何台かのクラクションが鳴り響く。
「す、すいません…。つ、つい…」
「まったくー、困りますよ。今度、変な事したら降りてもらいますからね」
再度タクシーは発車する。この運転手の後頭部はでっぱっていた。
「何やってんのよ、勝男。こんな時に冗談やってる場合じゃないでしょ?」
「う、うん」
「それよりもこのダンボールの説明してよ。バッティングセンターに向かってる事といい、訳分からない事だらけじゃない? だいたいあなたは……」
まずむつきを納得させるのが、今は先決みたいだ。
タクシーの運転手もさっきの事が気になるのか、さっきからチラチラとバックミラー越しに見ている。
ん…、いや、違う。
明らかに視線はむつきのある方向を見ている。彼女が興奮気味に喋って股を開いているから、運転手にはパンティーが丸見えなんだ。
「う、運転手さん…。ちゃ、ちゃんと前見て運転しないと、あ、危ないですよ」
「す、すいません……」
先ほどとは打って変わり精神的優位度形勢逆転。むつきは不思議そうな顔して僕を見ている。そんな彼女の表情も素敵だ。
「何、ニタニタしてんのよ!」
「い、いやー…。に、二年前からさっきの僕の部屋、じ、地元の友達と共同で住んでいたんだ。そ、そのダンボールのお金、き、きっと友達のお金だと思うんだ」
「何ですって! これ、あなたのじゃなかったの? ハァー……」
この世のすべてが終わったような顔。
「そ、そんな落胆しないでよ。む、むつきちゃん……」
「あなた、そんなんで私の体を弄んで……」
「む、むつきちゃーん…。も、弄ぶだなんて、そ、そんな人聞きの悪い」
声を掛けると、すごい目つきで僕を睨んでくる。本当にコロコロ表情が変わる子だ。
「これ絶対に命令だからね。絶対に勝男の友達に会う時は、私をそばに居させる事! 分かった? これだけはしっかりしてよ、ほんとっ!」
「は、はい……」
「ちょっと、あなた! 何さっきから私のパンティーじろじろチェックしてんのよ!」
いきなりむつきに怒鳴られて、運転手の肩がビクンと震える。
「いえ、そんな……」
「誤魔化さないでよ! 今、私とバックミラーで視線合った時、目を思いっ切り逸らしたのがいい証拠よ」
辺りを見ると、もうじきバッティングセンターに着きそうだった。
「私のパンティー見たんだから、タクシー代は払わないからね!」
「そ、そんなー」
「超大サービスよ! 私のパンティー覗いといて、ほんとはタクシー代ぐらいじゃ足りないんだからね。感謝して欲しいわ。ほらっ、返事は?」
「の、覗きだなんて」
「へ・ん・じ・はっ?」
「ヒィー」
「ヒィーじゃ分かんないわよ。男でしょ?」
多分、むつきのパンティーをミラーで覗き見していた事は嘘じゃないだろう。さっきこの運転手のでっぱりを触った僕には分かる。タクシーの運転手は今にも泣きそうな顔をしていた。
嫌な留守電を残しやがって、鳴戸の野郎……。
これから金を受け取るだけだっていうのによ。一応、警戒はしとかないとな。
俺の目の前にいるカップルが、百二十キロのバッティングマシーンに入って行くのが視界に映った。
当然女の方は笑顔でドアの外から男を見守っている。彼氏の方は彼女の前で大張り切りだ。機械から時速百二十キロの球が出てくる。男はフルスイングで空振り。女は残念そうに見つめている。彼氏の方はめげる様子もなく次の球に備え、フォームを決めた。次の球が出てくる。
「キンッ! ズドンッ!」
バットには当たったが、ただのチップだった。
「ひろゆきーっ! 頑張ってーっ!」
彼女の声援に彼氏は振り返り、笑顔で手を振る。その間に三球目の玉が飛び出し、マットに突き刺さる音にカップルはビックリして振り返る。見ていてなかなか面白い光景だ。
四球目が飛び出すと、バットには当てたが自打球が右の足首に当たり、彼氏はその場で転げ回る。
「ひろゆきーっ! 大丈夫―っ!」
彼女が心配そうに覗き込んでいる。打てないなら、もうちょっと遅い速度のところで、格好つければいいものを……。
彼氏は彼女の心配する顔を見て、痩せ我慢したまま笑顔を作り、起き上がろうとする。そこへ五球目が彼氏の左肩にぶつかり、また転げ回った。
見ていて飽きないカップルだ。退屈しない。
そういえば勝男の奴、結構時間掛かっているな。
できれば金を受け取って、ホテルでゆっくり休みたいが…。四本目の煙草に火を点けた時に、バッティングセンターの駐車場にタクシーが停まるのが見える。
「やっと来たか」
痛い体にムチを打って立ち上がる。
ん、勝男の横に女が乗っているぞ……。
一体、どういう事なんだ? とりあえずここから離れ、陰から様子を見たほうがいいかもしれない。
俺は慎重にバッティングセンターから出て、駐車場に停めてある車の陰から勝男と女をチェックする事にした。
勝男が先にタクシーから降りて、女はタクシーの運転手と何か言い争っている。勝男はタクシーを見て困った顔していた。一体どうなってんだ? 女がタクシーから降りてくる。運転手は悲しそうな表情でタクシーを発進させ、バッティングセンターから去って行った。
「何であいつ、あんないい女連れてんだ?」
あの電話のあと、鳴戸に会ったのか。
あの留守電の内容が不信感を募らせる。ひょっとすると鳴戸の差し金かもしれない。
いや、考え過ぎか。勝男はあのダンボールを片手に持っている。
待てよ…、鳴戸の事だ。金だけ抜いて、空のダンボールを持たせているかもしれない。そして鳴戸が別の場所から監視しているかもしれないのだ。
疑いだすとキリがない。
俺はあいつに捕まったら終わりなのだ。
勝男と女はバッティングセンターの中に入り、キョロキョロと俺を探している。女が勝男の近くにいるから電話を掛ける訳にもいかない。ここまで来て焦らされるのは苛々した。
苛々するな。焦ってはいけない。慎重にいかないと……。
「ちきしょう…、勝男の奴ヘマしやがって…。あいつも女にうまい事言ってバラバラになれば、すぐ電話ぐらい掛けられるのによー」
何だ靖史の奴、あれほど人を急がせておいて……。
どこを探したってどこにもいやしないじゃないか。
むつきはドンドン不機嫌になってくるし、あー、チクショウ。
「ねぇ、勝男。あそこのカップル見てよ。面白くない?」
むつきの指差す方向を見ると、時速百二十キロの部屋から一人の男がバッティングセンターの店員に運び出されているところだった。
「ひろゆきーっ! ひろゆきーっ!」
彼女らしき女がグッタリしている男に、声を掛け、肩をつかみながら揺らしている。
「お客さん、運ぶのに邪魔ですって。離れて下さいよ」
店員が迷惑そうな表情で露骨に言った。多分、無理して球速の早いところに入り、球にでもぶつかったのだろう。
「ひろゆきーっ!」
「だから邪魔ですって」
むつきは馬鹿なカップルを見て、大笑いしている。
あの男を運んでいる店員もそうとう前からここでアルバイトしているよな。よく靖史とここに連日遊びに来たっけ…。散々通い、やり飽きてから半年ぐらい経つ。
それにしても靖史の奴、一体どこにいるんだ?
「ねー、勝男の友達ってどこにいるのよ? さっきから探してるのに全然いないじゃない。一体どうなっているの? だいたいさっきのヤクザみたいのと何の関係があるのよ」
「そ、そんな一辺に質問しないでよ」
「もうイライラするわね。あんたの友達はどこにいるのよ?」
「と、友達…、や、靖史って言うんだけど…。な、何だか僕も状況がよく分からないんだよ。あ、あれだけ散々電話してきといて……」
「馬鹿ね、あなた何で電話しないのよ。私がいるから警戒して身を隠しているのかもしれないでしょ? さっさと電話してみたら?」
「う、うん。そ、そうだよね」
僕は靖史の携帯へ電話を掛ける事にした。
あの馬鹿! 女が一緒にいるのに携帯を手に持ちやがった。きっと俺に電話するつもりだな。携帯を急いでバイブにした瞬間に着信が鳴り出す。
ここは出るしかないか……。
「おいっ、勝男か。横の女に聞こえないように、ハイかイイエで答えてくれ」
「や、靖史ー。ひ、人をここまで来させといて一体どこにいるんだよ?」
「馬鹿! 声がでかいよ! 頼むから、ハイかイイエで答えてくれよ」
「わ、分かったよ」
女は勝男のそばで聞き耳を立てている。下手な事は喋れない。
「ダンボールに金は入っているのか?」
「ダ、ダン……」
「ハイか、イイエで言え!」
「は、はい……」
よし…、いや、まだ中身を見るまで安心はできない。
「よし、ダンボールに貼ってあるガムテープとり、今いる位置から窓に向かって中を見せてくれ」
「ま、窓のほう? な、何でそんな事…」
俺は慌てて身を屈めた。
「馬鹿! ハイかイイエしか話すなよ」
こっちは二千万の金が懸かってんだから、もっと俺の気持ちを理解してくれよ……。
電話に出て話をしているのに、靖史の様子が少し変だ。窓のほうって言っているけど、ここが見える位置にいるのかな?
「もー、何してんのよ。ちょっと貸しなさいよ」
むつきが僕の携帯をいきなりひったくる。
「もしもし! あなた、勝男の友達でしょ? ここまで呼んどいて、どこ隠れてるのよ?」
「……」
すごい剣幕だ。慌てて僕は携帯を取り上げようとするが、むつきは左手を開き僕を制止した。
そして指を下に向けてしゃがんだ。僕がボーっと見ていると、手首をつかんで強引に座らせられる。
「おぉ!」
僕の目の前にはむつきちゃんが大股開いてウンコ座りしているから、黒いパンティーが丸見えだ。こういう眺めもいい。
「何か話しなさいよ! 何、コソコソしてるの? 話しなさいよ。じゃないとこのダンボールのお金、私たちでもらっちゃうからね」
「ま、待ってくれ……」
「やっと喋ったわね。どこにいるのよ?」
「な、鳴戸はどこだ……」
「ちょっとー、聞いてるのはこっちでしょ!」
「いや、先に俺の質問に答えろ。鳴戸はどこにいる?」
「ふざけないでよ! 何が鳴戸よ。もういいわ。こっちがこれだけ聞いているのに…。ダンボールの中身はもらっていくからね。でわ…、バイバーイ」
むつきと靖史が何か激しく電話で言い争っているが、僕の視線はつい黒いパンティーに行ってしまう。
「待てよ。質問に答えろ!」
「バイバイキーン……」
むつきは僕の携帯の電源を勝手に切り、自分のバックに入れてしまう。いきなり立ち上がったので、パンティーはスカートに隠され見えなくなってしまった。まるで心にポッカリと穴が開いて、そこに冷たい風が突然吹いた感覚がする。
「何、ボサッとしてるのよ」
「む、むつきちゃーん…。ぼ、僕の携帯返してよー」
「うるさいわねー。駄目よ。これからどうするかは、私が決めるから」
「む、むつきちゃーん……」
「いいから黙って私のあとついてきてよ」
「う、うん……」
むつきちゃんはバッティングセンターを出てスタスタ歩き出す。僕も慌ててあとを追い駆けていく。バッティングセンターを出る時辺りを見回したが、靖史の姿は見当たらなかった。先を行くむつきちゃんに声を掛ける。
「ど、どこへ向かうの?」
「い・い・と・こ・ろ……」
優しい小悪魔のような笑顔を僕に向けてくる。この一発で、僕は彼女の魔力の虜になってしまう。あんなに気になっていた靖史の事など、もうどうでもよくなってくる。むつきの事だけで頭がいっぱいだ。
「ほーら、勝男。タクシー捕まえたから早く乗ってよ」
気付くと電光石火のような速さで、むつきちゃんはタクシーを捕まえ乗り込もうとしている。頭の中がエッチな事でいっぱいになっている僕は、まるで犬が尻尾を振って飼い主のところへ行くよう嬉しそうにタクシーに向かった。
「運転手さーん…、う~んと~…。新宿プリンスホテルへお願いできますか」
「かしこまりました」
タクシーは発車して、僕達は再び区役所通りに出る。新宿プリンスホテルか。
むつきちゃんも積極的だなー……。
期待と想像で頭が破裂しそうだ。チラリと横目でむつきを覗き見る。彼女は何か考え事をしているみたいだ。僕が見ているのに微動だにしない。こんなむつきの表情も溜まらなく魅力的だ。
道が渋滞していてタクシーはなかなか進まない。今はむつきが何かを一生懸命考えているので、邪魔しちゃいけないんだろうな。
タクシーの運転手を見る。僕の視線は彼の後頭部へ自然といく。
また、欲望が僕の頭を支配していくようだ……。
何がバイバイキーンだ、畜生。
「あのアマ……」
思わず呟いてしまう。話している最中に携帯を切りやがって…。俺はすぐに勝男の携帯に電話を掛けた。
『こちらはAUです。お客様がお掛けになった電話番号は電源が入っていな…プッ……』
あの女、電源まで切りやがった。金はもらうだと…、ふざけやがって……。
どんな思いであの金を貯めたと思っていやがんだ。俺は車の陰から様子を見るしかない。あの女は鳴戸の差し金で来たのだろうか?
まだ何も分からない。
今のところ分かっているのは勝男と一緒にいる女が、俺の二千万円を盗ろうとしている事だけだ。
「ん?」
立ち上がったのか、窓から女の姿だけが確認できた。勝男はどこだ? 様子を伺っていると、女がバッティングセンターから一人で出てくる。続いて勝男も後を追いかけるように出てきた。
二人は区役所通りへ向かい、勝男は俺を探しているのかキョロキョロ辺りを見回している。ここで自分の姿を見せるべきか。
いや、あの女が鳴戸の差し金だとしたら、一環の終わりだ。
勝男の野郎、女に声を掛けられて何やら話していやがる。女が笑顔で何かを言うと、デレッとしやがって……。
女はすぐにタクシーを停めて、勝男を呼ぶ。このままじゃ俺はヤバイぞ。金を持ち逃げされても終わりだ。
道は不幸中の幸いか混んで渋滞している。勝男と女が乗ったタクシーがちょっと進むのを待ってから、タイミング良く来たタクシーを捕まえた。
「どちらまでですか?」
「あの五台先にある緑色のタクシーありますよね? あれの後をつけて下さい」
「いやー、お客さん、面倒は困りますよ」
運転手は露骨に嫌な表情をした。俺は懐から財布を出して一万円札を二枚抜く。そのまま運転手の目の前に出すと、運転手は自然と金を受け取った。
「全然、面倒な事じゃないんですよ。恥ずかしい話、あのタクシーに乗っている女、あれ私の女なんですよ。最近ちょっと怪しかったから、あとをつけていましてね。まあ、情けない話かもしれないですけど、男の嫉妬みたいなもんです…。ただ許せないじゃないですか」
「お客さん! 私もその気持ち分かりますよ…。うちの女房も…、い、いや、何でもないです。では、任せて下さい」
俺の嘘に騙されて、運転手は威勢よく強引に渋滞の列に割り込んでくれた。
金を出すタイミングと巧みな話術で、ある程度の事は解決できる。こういう単純な人間には非常に効果的だ。
それにしても勝男とあの女、どこへ行くつもりなんだ? 行き先が鳴戸のところなら、すべて終わりになる。
勝男たちを乗せた車は区役所通りを左折して職安通りに入った。
前の車の運転がトロい……。
信号が黄色に切り替わった。このまま離されたら見失う。
運転手は信号がほとんど赤なのに強引に左折してあとを追い駆けた。体が遠心力で右に倒れる。
「大丈夫ですか、お客さん?」
「ありがとうございます。本当に無理してもらってすいません」
「いえいえ、これで見失っちゃー、お客さんに一生恨まれてしまいますから」
「感謝の気持ちで胸いっぱいです」
「そういえばお客さんの顔のアザ、どうしたんですか?」
「いやー、あそこのバッティングセンターで張り切っていたら、自打球を顔にぶつけてしまいまして…、起き上がったところにまた一発……」
「そりゃー、災難ですねー」
さっきのバッティングセンターでの馬鹿なカップルを思い出してしまう。自然に笑みが広がった。
「打てもしないのに格好をつけた私が馬鹿だったんですよ」
「男なんて、そんなもんですって。あれ? また前のタクシー、左折しますね」
何だかんだいって、タクシーの運転手も尾行を楽しんでいるようだ。タクシーは西武新宿駅前の通りに出た。この道の先には新宿プリンスホテルがある。
一昨日、このホテルの二十五階にあるラウンジ『シャトレーヌ』で飲んだのを必然的に思い出す。
あの時『ダークネス』の仕事がたまたま早く終わったので、俺は思い切って赤崎を飲みに誘った。彼にたくさんの金をあげ親切に接していたので、赤崎は快くついてきた。
初めて行く場所で彼はたくさん酒を飲み、上機嫌だった。ろれつが回らなくなっていた赤崎の手に、そっと自分の手を重ね合わせる。今にして思えば、ここで失敗したのだ。
「あ、あのー……、何かの冗談ですよね……」
そう言って手を引っ込めた赤崎。あれで一気に酔いを醒ましてしまった。「冗談です」と笑いながら言えば良かったのか。今となっては分からない。ただ俺はどうにか赤崎をものにしたくて焦っていた事だけは確かである。
あの時俺が、もっと赤崎を酔わせて潰していれば、望み通りの展開に持っていけたものを……。
その事がずっと悔やまれる。あの次の日から仕事で俺を見る赤崎の視線は、まるで軽蔑の眼差しを向けているようで辛かった。平然を装ってはいたが、やはり内面的にはかなりショックだったのだ。
やるせなさを感じソープランドにも行った。一回行けば六、七万円はする新宿の高級店『バルボア』に行っても、駄目だった。常に赤崎の事を考えている自分がいる。
初めて赤崎を見た時、一目惚れに近い感覚がした。彼を想いながら部屋で、よくマスターベーションをした。途中まではいい信頼関係を築けていたのだ。そんな赤崎に冷たい目で見られるのは非常にショックだった。
『シャトレーヌ』の一件で俺は彼からの信用を一気に失った。タイムマシーンがあるなら、一昨日に戻りたいぐらいだ。
「お客さーん。お客さーん。前のタクシー、プリンスに停まりましたよ」
運転手の声で我に帰る。
前で勝男とあの女がタクシーから降りて、プリンスホテルの入り口に入っていくのが見えた。ダンボールは勝男が持っているようだ。
俺はどうかしている。二千万円が掛かっている正念場なんだぞ? 今は赤崎の事より、金の事を考えろ。じゃないと手痛い目に遭うぞ。自分に叱咤激励した。
あの分じゃ、鳴戸がプリンスホテルで待っている可能性は高いだろう。警戒心が強まる。
「横に男がいますね。それにしてもお客さんの彼女、すごく綺麗な彼女ですね……」
「開けてくれ」
「えっ?」
「早くドアを開けろ。それ以上無駄口を叩くな。金は最初の二万で充分足りるだろ」
俺の話し口調の急激な変化にビックリしたのか、運転手は黙ってドアを開けた。俺はすぐにタクシーを降りてプリンスの入り口へと向かう。
ホテルに入り、左側の地下一階に行く階段を見る。慎重にゆっくりと警戒しながら降りて、階段の踊り場からフロントの様子を眺めた。
勝男とあの女が、フロントでホテルマンと話しているのが見える。このままチェックインするのか?
俺は気付かれないように階段を下りて、すぐに右側に曲がる。ロビーラウンジの開いている席に、二人からは死角になる場所を探して座った。コーヒーを注文し、二人の動向を探る事にする。
勝男の野郎、あんな短時間で俺を裏切りやがったのか……。
時計を見ると夜九時を回っていた。俺はある事を閃いた。ウェイトレスがラウンジ内を歩いている。俺は手を振り、席へ呼んだ。
僕は運転手のほうへ右手を伸ばしだす。でっぱり具合はどうなんだろう?
「何やってんのよ! いたずらしてる場合じゃないでしょ」
むつきの声で我に帰る。
「ご、ごめんなさい」
運転手は不思議そうな顔で、ミラー越しに僕をチラリと見た。
景色を見ると、右手に西武新宿駅が見える。駅前の通り沿いはモダンなレンガ造りで壁を形成していて、なかなかシックでいい感じだ。
今度暇できたら、むつきといっぱいデートしながら色々な場所に行ってみたい。
新宿へ来て、今のゲーム屋で働き出して二年。その間、まったく女の子に縁がなかった。たまに行く風俗も、終わったあと、虚しさと寂しさの入り混じったせつない心境になる。考えてみたら全然プライベートでデートなんて、こっち来てからした事なかった。でも、今はこんな可愛いむつきが隣にいる。夢のようだった。
タクシーは新宿プリンスホテルで停まり、今度の運転手はむつきのパンティーを覗き見るなんて事はしなかったので、ちゃんとお金を払って降りた。
むつきは真面目な表情でプリンスホテルの入り口に向かう。僕もあとを追い、階段を一緒に降りる。むつきも相当僕のが気に入ったんだな。部屋に行ったら「ひぃひぃ」言わせてあげよう。
地下一階に受付があって、むつきちゃんがダブルの部屋のチェックインをホテルマンに頼んでいる。後姿もそそる。
彼女の裸を思い出す。形のいい、ほどよい大きさのバスト。キュッとくびれたウエスト。張りのあるヒップ。細くて筋肉質な足。ちょっと霞んだ甘い声。どこをとっても僕には、今まで見てきた女の中で最高の女だ。
こんなにいい女をついさっきまで抱きいていたのだ。そして今度は場所を変え、またロマンスが始まる。
新宿に来て良かった。「新宿バイザーイ」と大声をあげたいとこだけど、きっとむつきに白い目で見られるからやめておく。
僕はこういうシティーホテルっていうのかな…、そういう場所に生まれて初めて来た。シックで高級感あふれて、落ち着いた雰囲気だ。受付けの両サイドに二つの喫茶店があって、上品な人たちがお洒落にコーヒーを飲んでいる。ロビーラウンジって言うのか。入り口にそう書いてあった。
綺麗なガラスのショーウィンドーの中には美味しそうなケーキがたくさん飾ってある。ホテルマンはビシッとしていて、女のウェイトレスも街にある喫茶店のウェイトレスに比べるとより上品に見えて、ここは美人しかいないんじゃないかって錯覚に陥りそうだ。でも今、僕の横にはもっと美人なむつきがいるのだ。思わずエッヘンと胸を張りたくなる。
「ほーら、部屋取ったわよ。何やってんの? 追いてっちゃうわよ」
「ま、待ってよ。む、むつきちゃーん」
受付の真正面に四台のエレベーターがあった。僕たちはエレベーターに乗り込むと、むつきは二十一階のボタンを押して僕を見つめている。
ドキドキしている僕に、彼女は徐々に顔を近づけ、唇と唇を重ね合わしてきた。細くて滑らかな舌が捻り込んでくる。僕は煩悩の趣くまま、むつきの胸を右手でまさぐり始めた。肩を押されて、彼女との距離が少し開く。
「続きは…お・へ・や・で・ね……」
気が付くと二十一階にエレベーターは到着していた。エレベーターを出て、通路を右に曲がり、一番隅っこの部屋に着く。
むつきがキーカードを差し込むと、ドアのところにある小さな赤いランプが緑に変わり、ガチャッと音を立てる。僕たちは部屋に入った。
彼女はバックをテーブルの上に置いてベッドに腰掛ける。駄目だ。
もう、理性を押さえ切れない……。
ダンボールを椅子の上に放り投げて、上着を脱ぎ捨てズボンを脱ぎ出す。自分の鼻息が荒いのが分かる。
「む、むつきちゃーん!」
「待ちなさいって!」
むつきの奇麗で威圧感のある目に睨まれると、さすがに動きが止まってしまう。パンツ一丁の僕はハタから見たらマヌケだ。
「ダンボールのガムテープをはがして」
言われた通りガムテープを全部はがす。ダンボールのフタを開くとお金がいっぱいある。
一体いくらあるんだろうか?
ここまでの現金は、今まで見た事がないから見当すらつかない。
部屋で落下した時の衝撃で百万円ずつの束もあれば、バラけてしまっているお札もあり、数えるとしたらとても大変だ。
「このお金は勝男の友達のなんでしょ?」
真面目な表情の彼女。
「う、うん。そ、そうだと思うよ」
「さっきその友達の言う通りに、私たちはバッティングセンターへ行ったわよね。マンションの入り口であんなおっかないヤクザみたいな奴に会っても、私たちちゃんと頑張って行ったでしょ?」
「う、うん…。あ、あれは怖かったよね」
「だから報酬代わりに、このお金は私たちでもらって分けちゃおうよ」
「だ、駄目だよ…。そ、そんなの靖史を裏切る事になる。だ、第一この金額だよ?」
金に事になると、むつきは油断できない。
僕は昔からの幼馴染である靖史を裏切る事など絶対にできやしない。こっちに来た時もそうだけど散々世話になったし、よく面倒も見てもらった。
そういえばむつきは僕の携帯の電源を切ってバックに入れたままだ。靖史があれから何回も電話しているかもしれない。せめて留守電に設定しとくべきだった。
「そ、それよりもさー。ね、ねぇ…。ぼ、僕の携帯そろそろ返してよ」
「ダーメ……」
「な、何で?」
「私の質問にちゃんと答えたら、すぐに返すわよ」
そう言って、むつきちゃんはまた小悪魔的な笑顔で僕に魔法をかけようとしている。
「し、質問って……」
「私とその友達、どっちか一人しか選べないって言ったらどうするの?」
「えっ?」
ほんとに難しい質問だ……。
究極の選択に等しい。靖史は僕にとって一番の友達だ。むつきとは今日、奇妙な出逢いをしたばっかりだけど、僕はすっかりその魅力に虜になっている。どっちかを選べだなんてできる訳ない。
「友達を選びたいんなら、別に私は一切止めないわよ。その代わり私と勝男は、一生会う事がなくなるだけ……」
むつきは徐々に股を広げだし、黒いパンティーが見えてくる。思わず生唾をゴクリと飲み込んだ。
明らかに僕を挑発している。確かにこんないい女を失うのは嫌だ。自分の鼻息がだんだん荒くなるのを感じる。
「か・つ・お…、男と女の違いって何だか分かる?」
「え、違い?」
「男と男はセックスできないけど、女と男はできるのよ……」
むつきはスカートの中に手を入れ、黒いパンツをゆっくりと時間を掛けて細い足首まで下ろしだす。僕の視線は、彼女の手の動きに合わせて動いていく。
その光景を見ていると、理性と思考能力がなくなって、代わりに欲望が巨大化してくる。体がゆっくりとむつきのほうへ動き出す。ほんとに靖史を裏切っていいのか……。
「モット、ショウジキニナレヨ!」
欲望がざらついた声で喋りだす。罪悪感がどんどん薄れていく……。
「はい、お待たせしました」
ウエイトレスが笑顔で近づいてくる。
「あ、従業員で江島さんっていますよね? ちょっと呼んでほしいのですが」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
ん、チェックインの受付が終わったのか? 勝男たちはフロントから離れていた。
まだ江島が来るまで時間掛かるだろう。俺はトイレに行くふりをして、勝男と女のあとを気付かれないように尾行する。
エレベーターに二人の姿は消えた。他に乗った人間がいないか横目で確認する。うん、あの二人だけしか乗っていないな。乗せたエレベーターは二十一階で止まる。
ひょっとして鳴戸はその階にいるか?
あの二人は二十一階にある部屋のどれかに行る。今、追い駆けるべきか……。
いや、江島が俺の席にそろそろ来るだろう。
再び席に戻り、思案を巡らせた。
二人が向かった二十一階の部屋。そこに鳴戸がいたら俺に打つ手はない。それともあの女の独断でこのホテルへ来たのだろうか? できれば後者でいてもらいたい。
遠くから一人のホテルマンがこっちに向かって近付いてくる。江島だ。さっきウェイトレスに呼んでくれと頼んだのがもう伝わったようだ。
このホテルで働く江島は、今日まで俺が働いていた『ダークネス』の常連客である。完全なポーカー中毒者だ。いい台を教えたり、色々とサービスしたりしたので俺には愛想がいい。
「あーどうも、いらっしゃいませー」
顔は笑顔だが、視線は明らかに俺の顔にある無数のアザに向いている。
「どうも、わざわざ呼んでしまってすいません。これ、恥ずかしい話、階段から派手に落ちてしまいまして……」
左の人差し指で自分の顔を指してクルクルと回す。江島はホッと安堵の表情をやっと見せる。俺の右手の中には五枚の一万円札をあらかじめ用意してあった。
「気をつけて下さいよ。大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございます。それより江島さんにお願いがあるんです」
「お願い?」
「まず、前屈みに自分の方へ近付いてもらい、テーブルの下に左手を入れて欲しいんです。もちろん全然変なことじゃないですよ」
不審がる江島の表情をリラックスさせる為、精一杯の笑顔を作る。
「え、何でそんな事を?」
「信用して下さいよ。ほんとに変な事じゃないんですから」
「こっ、こうですか……」
すぐ江島の手に五万を手渡し、手をテーブルの上に戻した。江島は驚いた表情をしている。
「すぐしまわないと目立ちますよ。ほらっ、あっちの席の人が……」
江島は電光石火の速さで金をしまい込んだ。不安そうな表情を浮かべ、落ち着きがなくなっている。
「冗談です。誰も見てやしませんよ。これはただの私からの気持ちです」
「き、気持ちって…。い、一体なんのつもりで?」
どんな手を使ってでも、あの二人がどの部屋に泊まったのかを聞き出さないといけない。最低でも鳴戸とあの二人が繋がっているのかどうか。その確認だけはしないと、何の行動できない。
「いえ、実は今さっきチェックインしたカップルがいるんですけど、二十一階で部屋をとったんです。江島さんにはそのカップルが、どの部屋に泊まったのかを調べてもらいたいんです」
「岩崎さーん…、勘弁して下さいよー。プライベートの侵害だし、ホテルの信用問題にもなりますよ。それは勘弁して下さい」
「友達の命が係ってるんです。詳しい事は言えないですが、時間が無いんです。ホテルの信用が堕ちかねない状況になるかもしれませんよ?」
思いつく限りの嘘を言ってみた。ホテルの信用問題になるという響きに、江島は悩むはずだ。江島の態度が落ち着かなくなっている。
「いっ、命……」
待てよ。まずあの二人がチェックインしたなら、鳴戸は噛んでいないと判断してもいいんじゃないか? 鳴戸が先にいるなら、わざわざ大金を抱えたままフロントへ行く必要性など何もないはず。
「難しい事じゃないんです。そのカップルは部屋をチェックインしたのかどうかだけ分かればいいんです」
「へっ?」
「ようは今さっきの時間で二人がチェックインしたかどうか、判明できるだけでいいんです。例えば受付の子に『さっき、カップル来たでしょ? 何階の部屋とったの? さっき見掛けたんだけど、俺の知り合いなんだよね……』って、言うような感じで聞けば、簡単な事じゃないですか」
「あ、そうですね。それぐらいなら問題ないですよ。少々お待ち願えますか」
安心したように江島は去っていく。これで五万円ももらえるのだ。江島にとっても悪くない話だろう。俺が煙草の二本目を吸い終わらない内に、江島は急いで戻ってきた。
「ええ、問題ないですよ。ちゃんとチェックインしていますから」
よし、鳴戸が絡んでいると思ったのは考え過ぎだったみたいだ。これである程度自由に動ける。あとは勝男たちがどこの部屋に泊まったかだけ分かればいい。向こうは俺がここに来ているのすら知らないはずだ。
「二十一階のどこの部屋ですか?」
「えっ…、そこまでは……」
「このホテルの信用を落とす事件が起きるかもしれないんですよ? 江島さん、それでもいいんですか?」
真剣な眼差しで江島を見た。彼から部屋番号を聞き出せれば一気に終わる。ゴミ貯め場から目覚めた悲惨な一日が、ようやく終わりそうだった。
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