むつきはスースー寝息を立てて僕の横で寝ている。寝顔も可愛らしい。
今のこの光景が自分でも信じられなかった。時計を見ると十時半過ぎになる。
今日仕事が休みで本当に良かった。もし仮に仕事があったとしても、今と同じ行動をとっていたと思う。
でも、これで昔からの幼馴染を裏切ったのは事実である。
むつきは、ある時は本当に天使のようでいて、とある瞬間小悪魔に変わる。一人の女によって、靖史との二十三年間の絆も終止符が打たれた訳だ。
自然と涙が出てきた。何の為の涙なんだろう……。
自分でも最低な行為をしたのは自覚していた。分かっていながら彼女の魅力にとり憑かれ、逆らえなかったのだ。
その裏切った代償の変わりに、天国にいるような快楽を与えてくれた彼女。
僕は、むつきの胸をいじってみた。ピクンと体が揺れる。彼女を手放す事など、できやしない。二十三年間生きてきて、初めて手に入れた僕の宝物。
また性欲が吹き出してきた。寝ていようが構うものか……。
僕は布団を剥ぎ取り、むつきへ襲い掛かる。
「ちょ…、ちょっと…。あっ、あんっ…。何、すんのよ!」
寝ていたところをいきなり挿入する僕。さすがにむつきは気付き、目を覚ます。抵抗していたが、僕は構わず腰を振った。
一度、犬の交尾を見た事があるけど、オス犬は回りなど一切気にせず、懸命に腰を振っていた。
きっと僕の今の状況もそれと大差ないんだろうな。
むつきも最初は抵抗していたが、その内感じ始めたのか、自分から腰を振り出してくる。靖史を裏切ってしまった罪悪感を振り払うように腰を動かした。
今日だけで何回やっているのだろう……。
体が止まらない。もっと快感を求め、その為だけに腰を振る。
今の僕は本能で動いている動物と一緒だ。何て言われてもいい。このむつきの感覚を知ってしまったら、広い世界中の男、すべてが僕と同じ行動をとるだろう。
圧倒的な快楽の中、あっという間に僕は果てた。
「もう、疲れているんだから、ゆっくり寝かせてよー。まったくー……」
「ハァ、ハァ…、しょ、しょうがないよ」
「何がしょうがないのよ。ほんと勝男ってスケベなんだから」
「む、むつきちゃんだからだよ」
「フンッ…、もう私寝るから、ゆっくり寝かせてよね」
そう言うと、彼女はあっという間に寝てしまった。
テレビをつけても起きそうなので、ダンボールの中のバラバラになっているお金を数えてみる事にした。
一、二、三、四、五、六、七、八、九……。
んっ、待てよ……。
今ならむつきのバックから僕の携帯を取り出して、靖史に連絡取れるかもしれない。
靖史を裏切ったと思っていたが、今から連絡すれば問題ないだろう。
二兎追う者一兎も追えずと言うが、僕はむつきという一兎の獲物を追って手に入れた。もう一兎、靖史との友情を求めるのは自然な流れだ。
本来、人間は欲張りに作られている。
忍者のように忍び足でバックの置いてあるテーブルに向かう。音を立てずにバックから僕の携帯を取り出した。慎重に浴衣を着る。ドアのところに置いてあるキーカードを手に取り、ソーッと部屋を出ようとした。
静かに振り返ると、むつきちゃんはグッスリ眠っていて起きそうな気配がない。確かエレベーターを出たところが広い空間だったから、電話するには丁度いい場所かもしれない。
結局江島の野郎、五万も渡したのに部屋の番号を教えなかった。クソが……。
俺は仕方なしに、二十一階の喫煙場所で待つ事にした。幸いに椅子が置いてある。西新宿の景色でも眺めながら待つか。
いくつもの高層ビルが俺を見下ろすように建っていた。あのビルの中ではエリートのサラリーマンたちが忙しそうに仕事をしているのだろう。俺や歌舞伎町にいる連中とは明らかに住む世界が違う人種が、このホテルを境に分かれる。新宿って本当に面白い街だ。
しばらく眺めていると、巨大な高層ビルが俺を嘲笑っているかのように見えてくる。
「けっ、ふざけやがって」
独り言を呟きながら自動販売機でコーヒーを買う。
煙草に火を点け、再び窓の外を見回した。
俺も真面目にやっていればこんな状況にならず、向こう側の世界にいれたのだろうか?
やめろ、やめろ。
そんな有りもしない妄想は……。
今までの自分の生き方に誇りを持て。俺と同世代の連中で、一体誰がこんな金を稼げている? 仮に俺と同じぐらいの額を稼いでいる奴がいたとしても、様々な欲望を我慢してコツコツ貯めてきた奴ぐらいだろう。つまらない日々を送りながら。
俺の生き方は正しい。これ以上迷うな。そう自分自身に対して言い聞かせた。
時計を見ると十時ちょっと過ぎ。腹が減ったなあ。今日何も食べていなかったっけな。
しかしここから動く訳にはいかない。いつ、勝男とあの女が部屋を出るか分からないのだ。今の俺にはここであの二人を待つ以外、方法は残されていない。
あの女、電話で話した感じの印象だとかなりずる賢く、感情的な性格の持ち主である。あいつの目的はダンボールの中の俺の金、二千万円。
そういえば何で勝男の奴、あれから電話一本もくれないんだ?
勝男は悪い奴ではない。天然でボケているが、真っ直ぐな性格のいい奴だ。そんな男が何故あんな女の言いなりに?
奴は女にあまり面識がない。チラッとしか見てないが、確かにあの女はいい女だった。しかし天性の魔性の女だ。勝男など簡単に利用されてしまうだろう。今回の件は、あの女にたぶらかされただけの話だ。
今の俺はここにいながら勝男からの連絡を待つか、もしくは二人が部屋から出てくるのを捕まえるかしかない。
待っている時間が長く感じる。非常にもどかしかった。
鳴戸をうまく出し抜き、あとはあの女のところにある俺の金を取り戻すだけなのに……。
コツコツ……。
「ん?」
廊下を歩く音が聞こえてくる。
誰だろう?
ハイヒールで歩いているような足音で、女だと分かる。あの女か? こちらに足音はどんどん近付いてくる。
俺は息を殺しながら身構えた。
「……」
残念ながら、普通の宿泊客の女だった。自動販売機の横で煙草を吸っている俺を見て、怪訝そうな視線を一瞬だけ向けエレベーターを待っている。エレベーターが来ると、その女は中に入り俺の視界から消えていく。け、ウザいのはお互いさまだろう。俺はまた外の景色を見ながら、コーヒーを胃袋に流し込む。どうやら長期戦になりそうだ。
ここに来て三本目のタバコに火を点ける。年末だというのに無職になり、こんなところで一人時間を潰している俺は、宿泊客にとって何者に映るのだろう。
いくら金を取り戻す為とはいえ、惨めな気分になりイライラする。さらに空腹感は増してきた。
ここから四階分上に行けば、ラウンジ『シャトレーヌ』がある。そこへすぐにでも行って何かを食べたい衝動に駆られるが、今は我慢するしかない。
ジュースの自動販売機の横にスナック菓子など置いてある販売機があるので柿ピーを購入し、口に放り込む。何も喰わないよりはマシだ。そして二本目のコーヒーを買い、一気に飲み干した。
その時、エレベーターのランプが二十一階に止まり、ドアが開く。中から仲良さそうに腕を組んでいる熱々のカップルが出てきた。
「ひろゆきー、もう具合は大丈夫なの?」
どこかで聞いたことのある声。よく見るとバッティングセンターで、球をぶつけ大騒ぎしていた馬鹿なカップルだった。それにしても、ものすごい偶然である。
「ああ……」
「ほんとー…? 私、すっごい心配したんだからねー」
「ごめんよ」
「今日はひろゆきの誕生日でしょ。だからここの上のラウンジ予約とっといたんだけど、キャンセルしてお部屋で一緒に休もうね」
「別に平気だよ。部屋に荷物置いて、すぐ上に行こうよ」
「だーめ。私が心配だもん」
「分かったよ。おまえの言う通り、部屋で大人しくしているよ。その代わり今夜は寝かさないよ? うふっ」
ひろゆきはいやらしい顔で彼女に微笑んでいる。こっちにまで熱々振りが伝わってくる恥ずかしいイチャイチャぶりだ。
「ごめんね、ワガママ言っちゃって…。やっぱり、ちょっとしたらラウンジ行く?」
「いや、俺はおまえがいるだけで充分だよ。それより今日は格好悪いとこ見せちゃったな。おまえが見ているから、いつも以上に張り切ってしまい、力が入り過ぎたみたいだ」
「さっきのバッティングセンターの事、まだ気にしてるの?」
「だって、実際に格好悪いところ見せちゃったじゃん……」
「そんなひろゆきの格好悪いとこだって素敵よ。いつもはもっと素敵なんだもん」
彼女がひろゆきのホッペに軽くキスをする。ひろゆきの動きが止まった。これから何か面白そうなことをしでかしそうだ。
「キャッ」
ひろゆきと呼ばれる男はエレベーターの前にも拘わらず、彼女にいきなり抱きつきだす。遠目に見ても、男の鼻息の荒さが伝わってくる。
「やめてよ、ひろゆき。こんなところで…。人が見てるわよ」
女の視線は、俺を見ていた。
「そんなの構うもんかい!」
完全に俺の存在は無視されているみたいだ。安っぽいメロドラマを生で見せてもらっているような気がする。俺は台詞のないエキストラ役か。しかし漫才でもやっているような馬鹿カップルのおかげで、退屈だけはしないで済んだ。
「やめてって! 言ってるでしょ」
彼女がひろゆきを突き飛ばす。おや、ひろゆきの顔つきが変わりだしたぞ。
「何だよ。そんなに俺の事が嫌いなのかよ?」
「そんなことひと言も 言ってないじゃない! わざわざ、人が見てるとこで抱きつく必要なんてないでしょ? ちゃんと部屋だってとってあるんだから」
「ふざけんじゃねーよ! 俺に抱きつかれんのが嫌だったら、帰ればいいじゃん。どーせ、人がいて気になるレベルなんだろ? 何が俺の誕生日のお祝いだよ。笑わせんなよ」
話を聞いていると、どうも男のほうがムチャクチャを言っている気がする。この騒ぎで勝男たちが様子を見に来るかもしれないので、放っておく事にしよう。
「何でそんな事ばっかり言うの? いい加減にしてよ」
「それはこっちの台詞だよ」
「もー、今日はあなたの誕生日なのよ?」
「そんな事で誤魔化すなよ」
周りを一切気にしない馬鹿なカップルの口喧嘩は、まだしばらく続きそうだった……。
ドアをソーッと開けて静かに部屋をあとにした。僕の右手には携帯が握り締められている。
早く靖史に連絡しないと心配だ。むつきの色香にズッポリ溺れていた自分を呪う。出来る限り早足で歩いてエレベーターのとこまで急ぐ。一番端の部屋なのでちょっと遠く感じる。
「ふざけないでよ!」
「それはそっちだろ!」
通路の先から男と女の口論する声が聞こえる。何だ、何だ?。
「もういいわよ。私、帰る!」
「おう! 帰れ帰れ…。とっとと帰れ」
痴話喧嘩か。何か近寄りがたい雰囲気が辺りに漂っていた。僕がエレベーターに近付くほど、険悪な殺伐とした空気が辺りを支配している。
「じゃーね、さよなら…。もう知らないからね!」
女の声を最後にしばらくの間、静寂が漂う。なんか知らないけど良かった。これから電話するのにあんなところでうるさくされたじゃ溜まらない。
「あのー…、すいませんでした。今の一部始終見てましたよね…。みっともないたら、ありゃーしないですよね?」
「いえいえ、女ってワガママな生き物ですから……」
「ですよねー。いやー、お兄さん、話が分かる人だ」
「しょせん異性同士だから、どうしても理解し合えないとこってありますよね」
また新たに会話が聞こえてくる。今度は両方とも声が男同士だ。もう一人の男の声はどこかで聞いたことあるような気が……。
僕は、あとちょっとでエレベーターのところへ辿り着く。
「ほんと嫌になりますよね…。そうだ! 良かったら一杯飲みに行きませんか? 上にいいラウンジがあるんです。行きましょうよ」
「え、すいません、まだ自分ちょっとこれから用があるんで……」
ん…、この声って?
エレベーターのところに着く。僕は声の方向を見てみてビックリした。
「あーっ! やっ、靖史っ!」
思わず大声が出る。エレベーター前の場所には男が二人いて、一人は同じ部屋に共同で住んでいる靖史だった。どうりで聞いた事のある声のはずだ。でもどうして靖史がこんな場所にいるんだろう? それに顔中、アザだらけになっているのは一体……。
「か、勝男っ! フー…、良かった、良かった……」
僕がこれだけビックリしているのに、靖史の反応は違った。僕の顔を見て安心している様子だ。もう一人の男が、僕を見て話し掛けてくる。
「あれ、お知り合いの方ですか。じゃー、これから三人でパーッと上のラウンジ行って、野郎同士で語り合いましょうよ」
「あ、あの靖史。この人は……」
「俺も今、会ったばかりだよ。知らない、知らない…。そんな事より勝男、おまえに話があったんだよ」
「では、早速みんなで行くとしますか。こう見えても……」
靖史の目つきが釣り上がり、怖い表情になっていく。
「おまえ、さっきからグチャグチャとうるさいよ。とっととどっか消えろよ」
もう一人の男に向かって怒鳴り出した。僕にはこの状況がサッパリつかめない。もう一人の男もどこかで会ったような感じがするのは、僕の気のせいだろうか。
「ちょっとどういう事ですか? いきなりそんな怒鳴らなくてもいいじゃないですか」
「おまえ、ウザイよ。俺が消えろって言ったら、大人しく消えろよ」
靖史が凄むと、迫力に押されたのか男はビビって逃げるように自分の部屋へ消えて行く。一体、どこでこいつと会ったんだっけ?
「まったくあの野郎、部屋帰って一人でオナニーでもしてろって」
靖史は何故か急に怒り出していた。一体、何が何だか……。
「や、靖史、どうしてここに…。そ、それにそのアザは?」
「勝男、ダンボールの金を見たろ? あれは俺が今まで貯めた金だ。今日、オーナーに店で抜きがバレてこのザマだよ」
確かに改めて見るとすごいアザだ。靖史が話している時に見える歯も何本か欠けている。相当派手にやられたのだろう。可哀相に……。
「だ、大丈夫なの?」
「ああ問題ない。そんな事より、ダンボールにちゃんと金は入っているのか? それにあの一緒にいた女は誰なんだ?」
「い、一辺にそんな質問しないでよ」
「何で携帯の電源切ってんだよ?」
「しょ、しょうがなかったんだよ。と、取られちゃって……」
「金をかっ!」
「ち、違う、違う! お、お金はへ、部屋にちゃんとあるよ…。ちゃ、ちゃんと僕、バ、バッティングセンターに持ってたでしょ? そ、そこに、い、いなかったのは靖史のほうじゃないか」
「勝男があんな訳の分からない女と一緒にいるからだろ。だいたい何者なんだ、あの女は?」
「は、話すと長くなるんだよ」
「電話でヤクザみたいな男にマンションで会ったと言ったろ? 今、部屋にそいつはいるのか?」
「はっ…? な、何でヤクザが、僕の部屋に…? い、いるのは、む、むつきちゃんだけだよ」
「むつき? あの女の名前か?」
「そ、そうだよ」
「勝男、ダンボールは? 中の金は無事なのか?」
「へ、部屋にちゃんとあるよ」
強張っていた靖史の顔がゆるみ、安堵の表情に変わっていく。
「まあ、ここで立ち話してても目立つ。おまえの部屋に移動しよう」
部屋にはむつきちゃんが裸で寝ている。靖史にむつきちゃんの裸を見られたくない。
「だ、駄目だよ!」
「おいっ、勝男! テメー」
怒ると怖い顔つきになる靖史の顔が、アザのせいか、いつも以上に怖く見える。
「だ、駄目ったら駄目」
「ふざけんな、勝男。どういうつもりだ」
「そ、そうだ。う、上にラウンジがあるんでしょ? そ、そこ行ってゆっくり話そうよ」
「誤魔化すんじゃねーよ。じゃー、ダンボールだけでもここに持って来いよ。じゃないと俺は安心できないんだよ。それにそんな格好でラウンジに行くのか?」
焦って部屋をそのまま出てきたから、僕の服装はホテルの浴衣着のままだった。私服に着替えないと、さすがにラウンジには入れてくれないだろう。
「わ、分かった。も、持ってくるよ。い、今から…。ちょ、ちょっと待っててよ」
確かに靖史にしたら何だかの事情でバッティングセンターに僕たちが来た時、出て来られなかったのだろう。まああれだけの金額だ。安心できないのも分かる。
でも、むつきが寝ているから部屋には絶対に入れられない。彼女も靖史と一緒にいるとこ見たら、何を言い出すか分からない。
僕にはどっちに転んでも修羅場みたいだ。せめて靖史と話し、今までの状況だけでもハッキリしとかないと、頭が混乱してしまう。
「駄目だ。俺も一緒に行く」
「や、靖史!」
「あれだけの金額なんだぞ。当たり前だろ?」
「そ、その気持ちは分かるよ。で、でも僕はご覧の通りこの格好だし、む、むつきちゃんが部屋でグッスリ寝ているから起こしたくないんだよ」
「分かった、分かった。でも部屋の前まではついて行くからな」
「ぜ、絶対に部屋の中までは駄目だよ。わ、分かった?」
「中で女が何かしているのか?」
「ベ、ベッドでグッスリ熟睡してるだけだよ」
「じゃー、俺も混ぜてもらおうとするか」
靖はいやらしい笑みを浮かべだす。冗談じゃない…、むつきは僕のものだ。
「や、靖史ーっ! お、俺だって怒るぞ」
「冗談だよ。冗談に決まってんだろ」
「ぜ、絶対に駄目だからね」
念には念を押しとかないと、靖史はたまに無茶するところがあるから怖い。
「分かっているよ。俺もそんな野暮な事はしねえって」
「ほ、ほんとに…、だ、駄目だからね」
「うるせーよ。何度も何度も…。早く着替えてダンボール持ってこいよ」
「わ、分かったよ」
僕はキーカードを差して、ランプが緑になったのを確認してからドアを開いた。
二十一階の一番端の部屋のドアを開けて、勝男は部屋の中へと消えた。
あいつの焦りようは大方あのむつきという名の女が素っ裸でベッドにでも寝ているからだろう。そんな事、俺にはどうだっていい。
鳴戸が絡んでないのが分かれば、あとはダンボールの金だけがすべてだ。
勝男の事で一つ願うことがあるとしたら、着替えて金を持ってくる最中、女に見つからないようにと祈る事ぐらいだ。それにしても勝男は俺を裏切った訳じゃなかったから良かった。仮に勝男とむつきという女が何かしようとしても、もう部屋は押さえてあるし、大した事はできまい。
待っている間、色々ここまでの展開を思い出した。
プリンスホテルに来るまで様々なトラブルがあったように思える。だが俺の考え過ぎのおかげで、余計な手間が掛かっただけなのだ。
あの鳴戸をうまく出し抜き、ここまではまあ理想通りの展開といえよう。
金を手に入れたら、あとは冷静に行動すればいいだけだ。
「んっ……?」
ちょっと先にある部屋からドアのキーを開ける音がした。鳴戸はもう関係ないと頭で分かっていても、ついつい警戒してしまう。
徐々にドアは開いていく。俺はそのドアの隙間を瞬きもせずに凝視して身構えた。
「ひっ!」
バタンッ! 開きかけていたドアを勢いよく閉める音が、静かな通路に鳴り響く。さっきの馬鹿カップルの男だった。さっき俺にビビって部屋に駆け込んだまではいいが、やはり気になり様子を確認しようと顔を出した。すると俺が廊下にいたので慌ててドアを閉めたというところか。相変わらず馬鹿な野郎だ。何が一緒に飲みに行きましょうだ。見物しているだけならいい時間潰しになるが、関わるとこっちまでロクでもない目に遭いそうだ。
勝男が来たら、上の『シャトレーヌ』へ行って話をする。状況を把握したら、部屋をとってゆっくり休もう。
鳴戸がいる限り、安住は訪れない。
今まで住んでいた部屋には二度と戻る事もない。もうあの部屋にはたいした物も残ってないだろう。この新宿で、俺の居場所は無くなったのだ。
金さえ戻れば、ある程度の事はできる。渋谷や池袋辺りに行ってもいい。上野でもいいか。
俺は少し、歌舞伎町のような繁華街に染まり過ぎてしまったようだ。新しい土地で自分を一から形成するのは大変な事だが、鳴戸のいる歌舞伎町にいるよりはマシである。
とりあえず、この傷が癒えるまで新宿プリンスホテルでゆっくり休み、それからどうすればいいかゆっくり考えればいい。
懐から財布を取り出す。中身を簡単に数えると百万円入っていた。ダンボールの金が戻ってくれば二千万以上ある計算になる。
金を稼ごうと夢見て地元から出てきた。五年経ち、現在の俺はこうなった。
東京に来てサラリーマンの世界には馴染めず肩身の狭い思いをしてきたが、今の俺には二千万以上の金があるのだ。当時のくだらない上司や、そのくだらない上司にへつらっている同僚に、この金を見せびらかしてやりたい。
俺を白い目で見るだろうが、きっと心の中は羨ましさや嫉妬心でいっぱいのはずだ。もしそういう時が来たら、俺は絶対に目の前で大笑いしてやるだろう。
世の中、金を稼ぎ、金を持っている事が一番すごい事なのだ。
金を使わないと何もできやしない。
金を使わないと分からない未知の境地がある。
ゲーム屋にしたってそうだ。一晩で十万円負けた客の気持ちなんて、自分で実際十万負けないと分かる訳ない。
競馬もパチンコもすべてそうだ。競馬で馬連一点に十万突っ込んだ時の快感。あれは突っ込んだ者じゃないと分からないだろう。
以前ここで部屋をとり、テレビをつけて競馬のレースを見た事もあったっけ……。
競馬で最後のGⅠレースの有馬記念。馬連四ー八、一点に二十五万円を賭けた。絶対に当たると思って自信満々で買った。
ホテルの部屋で優雅にくつろぎ、好きなブランデーを飲みながらベッドに座る。椅子を目の前に置いて足を乗せふんぞり返りながらテレビを見た。予想倍率は十三倍。当たれば、三百二十五万になる。
嫌でも興奮してくる。
でもレースの結果は一着三着で、二着の馬とはハナ差だった……。
せめてワイド馬券を買っておけば、四・七倍はついていたから約百二十万にはなっていた。ギャンブルにタラレバはないが、思い出すと今でも後悔してしまう。
あの日は昼の一時にチェックインしたのに、テレビを蹴飛ばし四時にはチェックアウトしてしまった。そのままヘルスに行ってヘルス嬢に話したら、同情して本番やらせてくれたっけ……。
あの時はラッキーなのか、ついてないのか分からない一日だったな。
仕事終わったあと、十円の店が新規オープンするというので、そのまま行ったらビンゴを取りまくり、五時間程度で四十七万勝って、喜びのあまりキャバクラ行って豪遊していたら完全に酔っ払ってしまい、起きたら道路で寝ていて財布が無くなっていた事もあったよな。
休みの日に歌舞伎町を歩き回っていたら、俺の好きなコニャックブランデー、ヘネシー最高級のリシャールヘネシーをコマ劇場裏にある信濃屋で見つけた時は感動したよな。定価は二十万。その時、財布を見ても十万しかなかった。すぐ貯金を下ろして財布の中身を三十万にして買いに行こうとして、つい一番街にある十円のゲーム屋に寄り道してしまった。気付いけば負けが込み熱くなり、全部その店で金を使ってしまった。
次の日信濃屋に行くと、リシャールヘネシーは品切れになっていた。
思い出せばキリがないぐらい、馬鹿な事をした思い出が蘇ってくる。俺は歌舞伎町という街が大好きになっていたのだ。その街を離れないといけないのはやはり辛い。
ギャンブルや酒の失敗とかを勝男に話すと、よくもったいないと注意されたけど、そのあとあいつはよく行く安い定食屋に連れてって無理して奢ってくれたよな。
本当にいい奴だ。
部屋の中は薄暗い。むつきはスースー寝息をたてている。僕は静かに音を出さないように私服に着替えだした。
靖史の事だ。外でイライラしながら待っているのだろう。静かに急ぐというのは非常に難しい事だけど、何とか着替え終わり椅子の上に置いてあるダンボールを取ろうとした。
「うーん……」
ドキッとして思わず振り返る。彼女が寝返りを打っていただけだった。心臓に悪過ぎる。むつきの裸体を見てまた興奮してきた。
駄目だ、今はダンボールを靖史のところに持って行かないと…。欲望を一生懸命振り切る。
「ホントニイッチャッテイイノカ? ガマンスルナヨ」
ざらついた声が頭に響く。今、僕は絶対に欲望に負けちゃいけない。
ダンボールだけを見つめ、手に取り部屋の外へ向かう。それ以外、何も考えるな。さっき出た時と同じように慎重にドアを開け、靖史の元へ向かった。ゆっくりなるべく音を立てないようにドアを閉めた。廊下で待っていた靖史が嬉しそうに近付いてくる。
「よし、じゃー、上のシャトレーヌ行ってちょっと飲むとするか」
「う、うん。きょ、今日の事、は、話すととっても長くなるんだ」
「酒でも飲みながら、ゆっくり話せばいいさ」
「そ、そうだね」
二人でエレベーターに乗り、二十五階へ向かう。僕はこういう気取ったというか、洒落たところに来るのが初めてだったので、ラウンジに着いて素直に感動してしまった。
僕が二年働いた場所、歌舞伎町。その景色が上から見下ろせて、少しだけ偉くなった気分になる。
靖史はこの街で顔が広いという事実を改めて感じた。ラウンジにいる黒服のホテルマンが靖史のところに笑顔で近付き、色々談笑したあとで美味しそうな料理を次々と運んでくれる。
もし僕が女に生まれていて、こんな光景を見たら一発で靖史に落ちてしまっただろう。綺麗な青色のカクテル。ライムの香りが微かに匂う。
「こ、これは何ていうカクテルなの?」
「スカイダイビングというラムベースのカクテルだよ。ラムとブルーキュラソーとライムをシェイクして作るカクテルだ。気に入ったのか?」
「う、うん。とてもおいしい。は、初めてこういうの飲んだよ」
「最近は市販のレモンジュースとかをフレッシュのライムの代わりに入れて作るバーも多いけど、俺からしたらカクテルはやっぱフレッシュを使わないとな」
「フ、フレッシュって?」
「生のライムやレモンをそのまま絞って、カクテルの材料に使うって事だよ」
「ぜ、全然、あ、味は違うもんなの?」
「飲み比べてみれば、よく分かるよ」
「ふ、ふーん」
キリッと冷えたカクテルを一気に飲み干す。
今度むつきとここに来て、彼女に飲ませてあげたいな。どんな顔をして喜ぶだろう。
「勝男、おまえ超甘党だったよな?」
「そ、そうだけど、な、何かおいしいのあるの?」
「確かアイスのチョコミントは好きだったよな?」
「う、うん。さ、三本の指に入るぐらい好きなアイスだよ」
「そうか、ちょっと待っててくれ」
靖史はホテルマンを呼ぶ。赤い短めのチョッキを来たホテルマンが礼儀正しく笑顔で、近付いてくる。
「はい、何かお持ち致しますか?」
「うーんと…、グラスホッパーとですねー、スコッチのモルトのグレンリベット十二年をダブルで、飲み方はストレートでお願いします」
「はい、かしこまりました」
ホテルマンは礼儀正しく頭を下げ去っていく。『グラスホッパー』とか言っていたな…。それがチョコミントと、どういう関係があるんだろう。
そのあとの靖史が注文したスコッチのモルトのなんたらかんたら……。
うーん、僕にはさっぱり訳が分からない。でも僕もこういうのを知っていたら、むつきの前でも格好つくんだろうな。
「今度来るカクテル飲んだら、勝男は俺に感謝するぜ」
「そ、そんなおいしいの?」
「ああ、こっちに地元から出てきて良かったって気になるよ」
「そ、そんな事は、も、もうとっくに思ってるよ。そ、そうそうむつきちゃんって今、へ、部屋にいる子いるでしょ」
「ああ、一体おまえ、あんないい女とどうやって知り合ったんだよ」
「い、いやー、さ、最初、で、でっぱりが気になってね」
「おまえ、またでっぱりが気になったのか? ほんと病気だよ。…で、でっぱりが気になって触ろうとしたんじゃないのか?」
「よ、よく分かったね」
「ほんとにそんな事したのか?」
靖史はビックリした顔をしている。僕がでっぱりを触ろうとしたのがきっかけで、むつきとどうやって今まで一緒だったのかまでは、絶対に分からないだろう。ちょっと得意げな表情をしてやった。
「エヘヘ…。ぼ、僕だってやる時はやるよ」
「おまえ捕まるぞ、その内……」
ホテルマンがカクテルを運んでくる。小さいグラスがテーブルに置かれた。琥珀色だからウイスキーなのかな。
その横にただの氷水みたいなグラスも置かれた。僕の前にはちょっとクリームっぽい緑色のカクテルが置かれる。匂いを嗅ぐと、爽やかなミントの匂いがした。どんな味なんだろうか?
「いいから飲んでみなって、そんな変な顔すんなよ」
恐る恐る口に入れてみる……。
「うっ、うまーいっ!」
「バッ、バカっ! 声がでか過ぎるって」
まさにアイスクリームのチョコミントそのものだ。感動が全身を覆いつくす。チョコレートのような甘さと、ミントのスキッとしたハーモニー。こんな飲み物があっただなんて…、ブラボーで最高の気分だ。
「ほ、ほんとに感謝しちゃうよ。と、ところで靖史が飲んでるのはウイスキーなの? よ、横にある水みたいなのって何?」
「俺が飲んでるのはスコッチシングルモルトウイスキーのザ・グレンリベット十二年。由緒正しいウイスキーだ」
「へー、ど、どう由緒正しいの?」
「スコットランドで政府に初めて容認されたウイスキーなんだ。客は初めて容認された酒として安心感があるから、このウイスキーを求める。そうすると他の会社も真似して自社のウイスキーの名前にグレンリベットと名前をつけて売り出した訳。もちろん混乱が起きるだろ?」
「う、うん。そ、それでどうなったの?」
「そうすると、このグレンリベットを作った会社は当然怒るだろ?」
「う、うん……」
「裁判を起こして勝ったんだよ。ザ・グレンリベットって名乗れるのはあなたの会社だけですって判決が決まったんだ。法的に守られ、勝ち抜いた酒なんだよ。ちょっと格好いいだろ?」
「う、うん。か、格好いい。だ、だからストレートで飲むのが正しい飲み方なんだ?」
「それは違うな。よく氷を入れずに、酒と水を同じ量だけ入れて飲むのが正しい飲み方だって言うけど、俺は間違っていると思う」
「な、何で?」
靖史の話はとても奥が深い。大変勉強になる。
「勝男、目玉焼き食べる時、何をかけて食べる?」
酒の正しい飲み方から、何故いきなり目玉焼きの話になるのだろう。
「う、うーんと醤油かな」
「そうか、俺はケチャップだ。ケチャップをかけて目玉焼きを喰う。おかしいか?」
「い、いや…、ちょ、ちょっと変わっているだけで全然おかしくないよ。べ、別にソースをかける人だっていれば、し、塩、コ、コショウだけで食べる人だっている」
「そうだろ。人の好みなんて十人十色だ。目玉焼きに何かけたって文句言われる筋合いは何もない。じゃあ酒の飲み方だって個人の自由でいいと思わないか。例えば俺は今、この酒を金出して買っている。大袈裟な言い方をすれば、この酒のオーナーだ。俺がこの酒をストレートで飲もうが何だろうが自由だと思わないか?」
確かに靖史の言葉には説得力があると思う。さらに靖史は続けた。
「それに対して正しい飲み方はどうだとか言う奴が、俺に言わせれば間違っているんだ。そいつがその勘定を持つって言うならまだいい。でも自分の金で飲んでいるのに、そんな不愉快な事、言われたらムカつくだろ?」
「そ、そうだね」
「そんなの自分の好きなスタイルをただ否定されただけの話だ。文句だけだったら、誰だって言えるんだよ。口先だけなら簡単だよ。人をただ否定するだけでも簡単。でも俺に言わせりゃ、そんな奴はクズ野郎だ」
「す、すごいな、靖史は。ま、まさに正論だと思うよ」
ちょっとずる賢いところはあるにせよ、靖史は妙に青臭いところがある。いつもはスマートに生きているけど、人間は本来ピュアな生き物なのだ。ただ、周りの環境や生き方によってドンドン影響を受けて左右されてしまうものなのだ。
「俺は酒が好きだから、真面目にこだわっているだけなんだ」
「う、うん」
「勝男、よくスコッチとバーボンって言うけど、言い方が比例していると思うか?」
「た、多分ね。ぼ、僕はウイスキーは飲まないから、よ、よく分からないけど……」
「ウイスキーの五大生産国っていうのがあってね。もちろん俺達の日本も入っている。あとはアメリカが作るアメリカンウイスキー。カナダが作るカナディアンウイスキー。アイルランドが作るアイリッシュウイスキー。スコットランドが作るスコッチウイスキー」
「ス、スコットランドが作るウイスキーだからスコッチって言うの?」
「そうなんだよ。そのスコッチを大別するとモルト、グレーン、ブレンデットの三つに分かれる。アメリカンウイスキーだってライ、コーン、バーボンって具合に色々と分かれるんだよ。みんなバーボンとスコッチって言うだろ? 正式な言い方をしたらバーボンとモルトっていう言い方が俺は正しいと思うんだ。ただ飲んでいる時にそんなこと言っても、つまらないし、白けるだろ? だから別にいちいち言わないだけだけどな」
充分に熱くなっているよと言いたかったが止めておいた。誰に…、何に対して言っているのかは分からないが、少なくても僕に文句を言っている訳じゃないのだから……。
「み、水みたいのは何でついてくるの?」
「チェイサーって聞いたことあるだろ? カーチェイスの語源から来たと言われている。後を追いかける意味だね。まー、酒の後を追いかける水って言っても分からないか」
「い、いや、な、何となく分かる気がするよ。す、すごいね、や、靖史は」
「偉そうに言っているが、いつも行きつけのバーのマスターの受け売りなんだ」
「へえ、そ、そうなんだ。す、すごいね、そ、そのマスターって」
「話が脱線し過ぎだ。…で、そのむつきのでっぱりを触ったのか?」
僕は今日、仕事終わってからの様子をちゃんと説明する事にした。
もちろん、彼女が金の件で、靖史とむつきのどっちを取るのかって言われ、僕が一瞬だけでも靖史を裏切ろうとした事だけは、どんなに口が裂けても言えないけど……。
ひと通り、勝男の話を聞き終える。俺の勘は最初のマンションで鳴戸をかわしただけで、あとの勝男とむつきの行動は、自分の勝手な勘違いで考え過ぎだったのも分かった。
ドッと疲れが出る。まあ、ダンボールの金も戻ってきたし、良しとするか……。
「よろしかったら、和牛ヒレ肉の黒コショウ焼きなんですけど、これサービスなんで、食べて下さいよ」
江島が色々とサービスして俺を気遣ってくれている。さっき地下一階のロビーラウンジで強引に渡した五万が効いているのか。いや、江島はそんな金を渡さなくても同じ事をしているだろう。
二日前と同じようなシチュエーション。
どうしても、赤崎とここに来た時の事を思い出してしまう。
俺と赤崎がここで酒を飲み、江島が色々とサービスをしてくれる。
「赤崎さん、グラス、空ですよ。何か頼みます?」
「ん、えーとれすねー……」
ろれつの回らない赤崎。もう一息だ。
「カクテルの王様、マティーニにしましょうか?」
「ふぁい……」
運ばれてきたマティーニを一気に飲み干す赤崎。頭の中がグルグル回っているのだろう。
「はい、赤崎さん。今度はXYZです」
「ふぁい……」
いい感じで酔っている赤崎。この男に抱かれてみたい。俺の捻じ曲がった欲望がどんどん膨れ上がっていく。
「ここ、暑いれすねー。れも、気分ちゃいこうれすよ」
駄目だ、もう我慢できない。
「こんな夜景だけど、綺麗に見えますよね」
焦った俺は、赤崎の左手の上に右手を乗せた。
「何ですか、いきなり……」
拒絶して手を引っ込める赤崎。一気に酔いも吹っ飛んだ感じに見える。
「あれ、赤崎さん、やっぱりノーマルなんですか? うーん、残念だなー」
「あ、あのー……、何かの冗談ですよね……」
「本気って言ったらどうしますか?」
もうよせ。今なら冗談で済む。それなのに俺はとまらなかった。
「あ、あの……」
「どうしたんですか?」
「やめてください……」
声を振り絞るように言う赤崎。嫌がる素振りも男らしく見えた。
「いやー、拒まれちゃしょうがないですよねー。最初見た時から、男らしくていいなって思ったんですけどね。あっ、もちろん自分、女だって好きですよ。ただね、赤崎さん…。男にくわえてもらったことってあります?」
何を言っているんだ、俺は……。
「あ、ある訳ないに決まってんじゃないですか」
「結構というか、かなりいいもんですよ。自分は無理にとは言わないですけど、男のツボは男のほうが絶対に分かりますって…。どうですか、試してみませんか?」
「す、すいません。俺、彼女いますし……」
「黙ってれば分かりませんて……」
俺は精一杯微笑んだ。
「トイレ行ってきます」
赤崎は完全に俺を拒否してトイレへ行った。そうなるのは分かっていたが、やはりショックだった。表情に出さないようにしたが、赤崎の顔を見ていると堪らなくなる。拒絶されるのを分かっていながら、追い討ちを掛けるように話し掛けてしまい、さらに自分で墓穴を掘ってしまった。赤崎の目は、明らかに俺を薄気味悪いホモ野郎と語っていた……。
もっと酔わせてからにすれば、あの時……。
「ど、どうしたの、靖史?」
黙って赤崎との事を思い出していたのが、勝男には気になったらしい。こっちを心配そうに見ている。まさか俺が好きな男の事を考えていたなんて言える訳がない。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ。それにしても、むつきって女。俺の金を盗ろうとしやがって……」
「あ、あの場に行っても靖史が隠れて出てこないからだよ。そ、それでむつきちゃんイライラしていたんだよ」
「まあいいか。金も無事手元に戻ってきたしな」
「あ、あの見かけはサラリーマンみたいだけど、ヤ、ヤクザみたいな鳴戸って言ったっけ?あ、あれに会った時は怖かったよ、ほ、ほんと……」
「普通じゃないからな、鳴戸は」
あの特徴のある甲高い声。以前は恐れたが、もう俺には関係のない人間だ。
「ほんと悪かったな、勝男。おまえがいなかったら絶体絶命だったよ。これお礼代わりに受け取ってくれよ」
俺はダンボールの中から札束を一つ掴み、勝男に渡す。
「えー、も、もらい過ぎだよ。こ、これだいたい…、い、いくらあるの?」
「百万だ」
「そ、そんなにもらえないよ」
「とっといてくれ。どっちみち、あのマンションには、おまえだって住みたくないだろ?たまにあのヤクザみたいな鳴戸がチェックしに来るかもしれないんだぞ。新しいとこ借りんだって金は必要だぞ」
勝男は、鳴戸と今日初めて接触しただけなのに、その名前を聞くとブルブル震えだす。よほど怖かったのだろう。これで俺の持ち金は二千万円をきったけど、そのぐらいどうでも良かった。
「俺は明日になったら携帯番号を変えるから、そしたら勝男に教えるよ」
「な、何でわざわざ変える必要があるの?」
「鳴戸のクソ野郎が、俺の番号知ってるじゃないか。ああいうタイプはしつこいんだよ。ちょっとした隙も見逃さない奴だからな」
「じゃ、じゃーしょうがないね。ぼ、僕も靖史の立場だったらきっと変えてるよ」
「俺も慣れ親しんだ番号変えるの、ほんとは嫌だけどな。まあ、明日になったらすぐにでも変えに行ってくるつもりだ」
俺の抜きが見つかったのは今日。鳴戸に有無を言わさずボコボコにされた。無抵抗の人間の顔面に、思い切りつま先で蹴りができる男なんて、鳴戸ぐらいだろう。
「ようやく気付いたんだよ。岩崎ー!」
今でも鮮明に覚えている。あの時の鳴戸は表情自体変わっていないのに、声だけがいつも以上に迫力があった。聞いているだけで身がすくんだ。
「立てよ。どのくらい抜いていたんだ、あっ? 立てよ!」
またもあごに思いきり蹴りを入れられる。俺の顔が一瞬だけ上を向き、真正面の壁にあるボードの下辺りまで、鮮血が飛び散った。
「立てよー、おいっ! 私は立ちなさいと言ってるんですよ!」
あの時一緒にいた赤崎は、言葉を失い怯えていた。
「赤崎ー。おまえは、岩崎から金をもらっていたのですかー?」
鳴戸の怒りは赤先まで及びそうだった。こんな状況でも俺は、赤崎を守りたかった。抜きが見つかったのは俺だけ。彼まで巻き添えにしたくない。心の底からそう思えた。
だから俺は白い歯を一瞬だけ見せ、無理してウインクをした。絶対に自分の口から言っちゃいけないというゼスチャーのつもりで……。
「赤崎ー、私の言ってることが聞こえないんですかー?」
「い…、いえ……」
「本当ですね?」
「は、はいっ!」
「じゃー、今日はもう帰っていいですよ」
そう言って今日のでずらを渡す鳴戸。
「よし、確かに渡したぞ。じゃー、明日十時な。お疲れさま」
帰る際、赤崎は俺のほうをジッと見つめていた。それでいいんだ。君が無事ならそれで…。俺はそんな事を思いながらニヤリと笑った。
明日十時と鳴戸は言っていたが、赤崎はまだあの『ダークネス』に出勤するのだろうか?そしてちょっとは俺の事を心配してくれているだろうか? あの店の最後で、赤崎をかばえた事に関してだけは、自分を誇りたい。
それにしても鳴戸の野郎、俺をこんなアザだらけにしやがって……。
いつの間にか俺は、『ダークネス』での最後を思い出していた。
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