僕は欲望の趣くまま右手で優しく髪を掻き分け、部屋に連れ込んだ女の後頭部を触っていた。
女は一段と震えが激しくなる。なるほど、僕が思った通りの子みたいだ。
僕はニッコリ微笑んでから、優しい口調で話し掛けた。
「き、君はいい子だねー。せ、性格のいい優しい子だ。ちょ、ちょっと突っ張ってしまうとこあるかもしれないけど、う、うん、うん…。ぼ、僕にはよく分かるよ。そ、そんなに震えないで。な、何もしないから大丈夫だよ。ねっ?」
「ごめんなさい。何でもしますから…。ね? お願い……」
いきなり女が抱きついてきた。
いい匂いがする。黒のロングヘアーが、僕の鼻をくすぐった。女は僕に抱きつきながら、小刻みに震えている。
いつの間にか包丁を離し、自然に抱き締めている僕。
今日初めて街で出会った女が、何故か僕の部屋にいる。そして飛んだハプニングにより、こうして抱き合っている……。
興奮した僕はどんどん冷静さを失う。彼女を抱き締める両腕に力が入っていく。
弾力のある大きな胸の感触。
鮮やかな赤い唇から発せられる吐息。
理性が吹き飛んでいく。
気付けば本能の趣くままに女を押し倒して、唇を半ば強引にむさぼっていた。歯と歯がぶつかり合う。僕は少しだけ出っ歯だからしょうがない。
気にせず右手を女の服の上から入れ、胸の辺りをまさぐりだす。一瞬、女は逃げようとするが、強引に舌をねじり込むと大人しくなった。
服を丁寧に一枚一枚脱がし、下着姿のみにする。
美しい…。何て見事なダイナマイトボディーなんだ。もう僕の理性は止まらない。ブラジャーを強引に剥ぎ取り、乳首に舌を這わせる。パンティーの上から手を入れようとすると、激しく動いて女は抵抗した。
「やめて!」
「こ、ここまで来て、な、何を言ってんだよ」
僕はやりたい一心、女はやられたくない一心の攻防を繰り広げる。
何度か転げ回っている内に、部屋の本棚に激突した。その衝撃で棚の上にあった小さなダンボール箱が、僕の頭に落ちてくる。
「うげっ!」
すごい衝撃だった。僕は頭を両手で抑えて地面を転がる。
いてー……。一体、何が入っているんだ? いや、痛がっているどころじゃない。女に逃げられたらどうするんだ。
慌てて周囲を見渡す。
「あれ?」
女はパンティー一丁のまま、胸も隠さず四つん這いの格好で、ある一点を呆然としながら見つめていた。何で逃げなかったんだ、この女……。
そういえばどこを見ているんだろう。女の視線を追うと、ダンボール箱を見ているようだ。ひょっとしてこの子、強烈な箱マニアだろうか? いや、そんなのある訳ないか。
女は僕の事などまるで見えないかのようにダンボールを凝視していた。裸に近い格好で。ん、裸……。
僕は、目の前にある形のいい胸をボーっと眺めた。
「あなたって、金持ちだったのね……」
女はボソッと呟くように言った。
「はあ?」
「だから、あなたって大金持ちなのねって言ったの」
女はこちらを振り返り、僕の顔をマジマジ見つめている。何だ、この女……。
「あ、あのー…、お、おっしゃっている意味が、ぜ、全然理解できないんだけど……」
「何を言ってんのよ。こんなやり方で私を部屋へ連れ込んで強引にやろうとして…。後々お金で済ませればいいやって思ったんでしょ?」
チンプンカンプンな事を言い出す女だ。だいたい僕がお金持ち? 馬鹿言っちゃいけない。僕はただのしがないゲーム屋の従業員であって、給料が人よりも並外れていい訳でもない。女の言っている事が、何も理解できなかった。
女は先ほどから僕をずっと見つめている。さっきみたいに怯えている訳ではない。だからといって怒っている訳でもなさそうだ。
「さ、さっきから何、い、言ってん…、の……」
女が上目遣いに、色っぽい目線を送る。さっきの怯えた目もいいけど、こういう目つきの方がやっぱり似合う。心臓がドキドキしていた。
「ねぇ…。最初からちゃんと言ってくれればよ? 私、あんな怖がらなくても良かったのに……。あんな手の込んだ事しなくてもいいじゃない。別にあなたの好きにしていいのよ。こんなの見せられちゃったんだもんね。しょうがないわ、私の負け」
こんなにいい女が上半身裸で、僕に挑発というか誘惑している。信じられない光景だが、目の前に起こっている現実なのだ。僕の股間はギンギンに興奮していた。
女は気紛れっていうからな……。
据え膳食わねば男の恥とも言うし……。
だが待てよ……。
ちょっとおかしいと思わないのか?
この女の急激な態度の変化は一体……。
「さっきまでの勢いは、どこいっちゃったの? ねぇ……」
女が俺の太ももをさすりだす。
「はうっ」と思わず声が出てしまう手馴れた手つき。それでいて嫌味じゃなく非常に気持ちがいい…。どこかまったりした……。
いや、これは違う。料理番組じゃないんだから。
くだらない事を考えている間、女の手は千手観音のようにせわしく動き回りだす。頭の中が真っ白になりそうだ……。
気付けば僕は、ズボンとパンツを一緒に脱ぎ捨て女に突撃特攻隊のごとく、真っ白な灰になるまで腰を振り続けた。
何回、名も知らない女とのセックスを重ねたのだろう……。
いつの間にか、僕と女は二人して一緒に眠っていたようだ。
気が付くと、時計の針は夜の八時を過ぎている。
「良かったー。あなたって見かけに寄らずパワフルなのね…。もう私、クタクタ……」
こんな美人の女を抱けただけでも奇跡に近い気分なのに、こんな言われ方されちゃうなんて男冥利に尽きる。ほんと、生きていて良かった。親に生んでくれてありがとうと感謝の気持ちでいっぱいだ。
「ねぇ、あれ。あなたの携帯でしょ? あそこに転がってるの…。さっきからバイブ鳴っているわよ」
ズボンを脱いだ時にポケットから飛び出たのか、部屋の隅でバイブの着信ランプが点滅していた。
誰から? そんなの今の僕には関係ない。誰からの電話だって構わない。
しばらくこの余韻に漬かっていたいんだ。
女が悪戯っぽい目で僕を見つめている。僕はまたまた元気になって女に襲い掛かった。
いくら鳴らしても電話に出やしない……。
何してやがんだ、勝男の野郎?
寝ているにしたって、いつまで寝てやがる。どうでもいい時はしつこいぐらい連絡するくせに、肝心な時はいつもこうだ。本当に使えない奴め。
しょうがない。自分で金を持ってくるしかないか。でも、この体でマンションまで歩いて行くには少々辛過ぎる。まずタクシーを捕まえないと……。
辺りを見回してみるが、こんな時に限ってタクシーの姿はまったく見つからない。
この通りじゃ無理か。区役所通りに出ないと……。
花道通りを風林会館のある方向へ向かってを歩く。
いつもならポン引き連中が嫌ってほど声を掛けてくるのに、さすがに今日だけは誰も声を掛けられない。
すれ違う通行人は、ウザいぐらいに俺の顔をジロジロみていきやがる。
風林会館の前をやっとの思いで通り過ぎ、ようやく区役所通りまで辿り着いた。いつものようにタクシーは結構走っている。
弱々しく手を上げると一台のタクシーがすぐに止まる。運転手は血だらけの俺を見ると、無言で何も言わずにドアを閉め、逃げる様に走り去って行った。完全な乗車拒否だ。
確かにこの格好じゃしょうがない。だが今は一刻も急いでいるのだ。やるせないものがあった。結局どのタクシーも同じ対応で、俺を乗せてくれる運転手は誰もいなかった。
仕方なく新大久保に向かって歩き始める。妙にイライラしていた。もう一度勝男へ電話を掛けてみる。
足が痛い。肩もアゴも痛い。全身が軋む……。
それなのに勝男の野郎は、いくら電話しても出てくれない。
「チキショーウッ!」
大声を張り上げたので、アゴに痛みが走る。思わずその場でうずくまってしまった。
しつこいくらいバイブの振動と、着信ランプが点滅している。
どこの馬鹿者だ。人の幸せな時間を邪魔するとは……。
馬にでも蹴られて死んでしまえばいいのだ。
「ねぇ…、私をあなたの女にしてよ。体の相性だっていいと思うし……」
「きゅ、急にどうしたんだよ? きょ、今日、へ、変な出会い方をしたばっかりで……」
僕は寝返りを打つと、背中に固いものがチクッと当たり、飛び跳ねる。
「な、何だ、こりゃ?」
「何、驚いているの? ほんとに訳分からない人ねー」
僕の目の前には一万の札束が……。
一体、一万円札の札束が何個あるんだ? 棚から落ちた小さなダンボール。そこから札束が飛び散っている。
僕には身に覚えがまったくない。これは絶対に靖史の金だろう。あいつそんな羽振り良さそうな事、言ってなかったのに……。
こんなとこに金をヘソクリとして貯めていたんだ? 無用心な。
なるほど、ようやく理解できた。この女は僕が金持ちだと思って態度が急変したんだ。
「ねぇ、一体どうしちゃったの? そういえば私たち、同じ日に二回も逢っているのよ。なんか運命的なもの感じない? まだ、お互い名前すら知らないのにさ……」
「ね、ねー…。こ、このお金……」
僕の携帯はさっきからずっと、バイブの振動音を鳴らしている。
「ちょっと、さっきからしつこいぐらい、あなたの携帯鳴ってるわよ。おかしくない? もしかしたら他の女からなんじゃないの? じゃなきゃあ、そんなしつこく電話なんてしてこないわよね?」
色々あり過ぎて頭がパニックになっている。とりあえず、携帯を手に取ってみた。
「ゲッ!」
着信履歴を見ると、靖史からの着信ですべて埋まっている。一体何回掛けたんだ?
只事じゃないことだけは理解できた。
「ねぇー、絶対に女でしょ? ハッキリ言いなさいよ」
「ち、違うって…。ご、ごめん、と、友達に電話するからちょっとの間、し、静かにしててよ。た、頼むからさー」
「何、誤魔化してんのよ。絶対に女でしょ? そうなんでしょ?」
何て説明してもこの子は理解してくれないだろうな。僕はとりあえず女を放っておいて、靖史に電話を掛ける事にした。靖史からの異様な着信回数。きっと何か大変な事が、あったに違いない。
プルルル…、プツッ……。
「おいっ! 勝男! ぐっ…、あいててて…。何で電話、出ないんだよ? 何回、電話したと思ってんだよ。いつもは起きている時間だろ?」
「あ、あー、ご、ごめん、ごめん…。じ、実はね……」
「今は事情なんてどうだっていい。今から俺が言った通りにしてくれ。分かったな、勝男?」
しどろもどろしている僕の話を途中で強引に遮る。僕の後ろで女は聞き耳を立てていた。
「い、いきなりどうしたんだよ? だ、だいたい、い、いつもは……」
「いいから聞いてくれって! 本棚の上に、ダンボール箱があるだろ?」
いつもは冷静なはずの靖史が、珍しく怒鳴り口調だ。
「ダ、ダンボール…? あ、あー!そ、そういえば……」
「それを持って、すぐ外に出てきて欲しいんだ」
「で、でもあのお金、ど、どうしたの?」
「おい、何で中身が金だって知ってんだ? まーいい…。今は一刻も急ぐんだ! 早くダンボールごと持って、部屋を出てきてくれよ」
「あ、あのさー…。も、もうちょっと、ちゃ、ちゃんと説明してくれないとさー……」
「うるせーっ! 時間がないって、さっきから何度も言ってんだろ! いいから俺の言われた通りにしてくれよ、勝男。なっ? 出て、そのまま区役所通りに向かって来てくれ」
「わ、分かったよ…。靖史……」
携帯を切って少し考えてみる。
今現在、靖史の身に何かあった事だけは確かなようだ。
ダンボールと金……。
そして岩崎靖史……。
これから何が起こるのだろうか? 僕は奇妙な面倒事に無理やり引きずり込まれたような気がする。
「ねぇー、何なの? 今の会話は何を一体話してたのよ」
この今日、出会ったばかりの女もそうだ。
何がなんだか分からない内に、面倒事に首をつっ込もうとしている。もちろんこれだけの金が掛かっているからだろうけど…。興味津々の目で僕を見ていた。もっと詳しい情報を聞きたいのだ。
「わ、訳はあとで話すからさー、い、一緒についてきてちょうだいよ。ね?」
「今、話してちょうだい! じゃないと私、ここ動かないもん」
女はむくれだす。綺麗な顔の女のふくれっ面というのも悪くないものだ。ただ、今は靖史が気に掛かる……。
僕はすぐに立ち上がって服を着替えだした。
「ねー、ちょっとー…。あなた、何してんのよ?」
「た、頼むから早く服を…、き、着ておくれよ。ほ、ほんとに僕は今急いでいるんだ」
女に懇願する。女は納得のいかない表情で仕方なく、ゆっくりと立ち上がった。
形のいい大きな胸が揺れ動き、僕は思わず見とれてしまう。女は僕が見とれているのなんてまるで気にせずに、可憐な手つきで服を身につけだした。
その動作はとても神秘的で、妖精が舞っているような印象を受ける。アッという間に僕が着替え終わるより先に身支度を整え終わった。
当たり前か…、僕は女の仕草に見とれていただけなんだから……。
「ちょっとあなた、急いでいるんでしょ? 早く着替えなさいよ。真相をちゃんと聞くまで、私は絶対にあなたのそばから離れないからね」
「わ、わかったよ……」
女っていうのは恐ろしい生き物だ。初めは僕を気味悪がり、マンションで会った時は怯え、部屋で金を見てから急に媚を売り出し、それから僕とセックスして…。今はヤケになっているのかちょっぴり怖い。
未練たらしく女の体を見ていたが、仕方なく着替え始めた。今は急がなきゃいけない。落下した衝撃で飛び散った札や札束を二人でダンボールにぶち込む。金を詰めたダンボールを手に取り、立ち上がる。
「駄目よ。これ持って表に行くんでしょ? このままじゃ目立ち過ぎるわ。ちゃんとフタを閉じて、せめてガムテープぐらい貼らないと駄目よ」
「そ、そうだよね」
女ってこんな時でも冷静だ。
「それにしても汚い部屋よね。ほんと……」
「ご、ごめんよ。で、でもね、僕一人が掃除しないって訳じゃ……」
「いいから早くガムテープを探しなさいよ!」
「は、はい……」
「どこに置いてあるの?」
「い、いや、ふ、普段使わないものでしょ? そ、そんな急に言われたって、わ、分からないよ」
「口動かす前にとっとと探しなさいよ」
「は、はい……」
色々探し出してようやくガムテープを見つける。ガムテープをダンボールにきれいに貼り付ける。
「じゃ、じゃー行こうか……」
部屋を出ようとして僕の携帯が鳴り出す。靖史からだ。
「も、もしもし……」
「今、どこだ!」
「えっ、ま、まだ部屋出ようとしているとこなんだけど…」
「何してんだよ! 早く出ろって! あっ、そーそー、もし部屋に誰か来て、俺の事聞かれても知らん振りしてくれよ。マンション内で声掛けられても同じだ。誰かそっちに向かっているかもしれないんだ。勝男、頼むぞ!」
「え、えーと…、ど、どういう事かな?」
ガチャッ……。
靖史は言うだけ言って、さっさと電話を切ってしまう。まったくせっかちな奴だ。女はジッと僕を見据えている。真剣な眼差しの表情もまたいい。僕はこんないい女と体を重ね合わせたんだ。できればこのまま余韻に浸っていたい気分だった。
「何、ボーっとしてんの?」
「い、いや……」
「知り合いのとこ行くんでしょ?」
「う、うん……」
「もちろん私も一緒に行くんだからね! 分かってるの?」
「わ、分かってるよ……」
女と一緒に部屋をあとにする。ダンボールを持ったまま歩くなんて引越しの時以来だ。マンションの八階の通路を歩いていると、女が再び喋り掛けてきた。
「そろそろちゃんと、私に話してくれてもいいんじゃないの?」
「ぼ、僕だってよく分からないんだよ」
「しらばっくれないでよ! だいたいそんな大金持ってどこへ行くっていうのよ」
「しっ! し、静かにして…。エ、エレベーターのボタンを押そうとしたら、そ、その前に上に動き出したんだ。ぼ、僕の相棒が言ってたように、だ、誰かが探しにきたのかもしれないんだ」
女は静かに頷いた。僕と彼女はエレベーターの上昇してくるデジタルの数字を黙って見守る。
「……」
エレベーターは八階を通過してそのまま上昇していく。ホッとして思わず出る吐息。これだけの金の量だ。悪い奴がこれを狙っている可能性だってあるだろう。もっと慎重に動かなきゃいけない。下の階に向かう三角のボタンを押して、僕と女はエレベーターを待つ事にした。
本当、あいつは昔っからトロイところがある。
携帯を切ってポケットにしまう。
まだマンションから出ていなかったとは……。
鳴戸が来たら一貫の終わりだ。命までは取られる事はないが、二千万はすべて失う事になる。
冗談じゃない。あれを貯めるのに丸二年は掛かったんだ。金を失う事だけは絶えられない。俺はこの展開をうまく行くよう祈るしかない。
歩いていると体中に痛みが走る。通り過ぎる人が俺の顔を見てビックリしていた。手で自分の顔を触ってみる。両目が腫れて視界が狭まり、あっちこっちがアザで腫れてボコボコだ。両手を広げるとベッタリ血がついている。
確かにこのままじゃ目立ち過ぎるな……。
新大久保のマンションに近付いたところで、鳴戸とバッタリというのは避けたい。確立を減らす為、近くの薬屋に入ることにした。
「いらっしゃ…、ひっ!」
薬屋の店員は、俺を見てビックリしている。
「そんなにビックリしないで下さいよー。いやー、階段から落ちてしまいまして…。血を拭う為の濡れティッシュやマキロンとかもらえますか」
「だ、大丈夫ですか?」
「時間急いでいるのでお手数ですが、すぐお願いできますか?」
「は、はいっ。かしこまりました」
店員が慌てて応急処置をしてくれる。鏡を見ると以前鏡で見た顔とは別人の俺が写っていた。血だけは拭えてもアザは残り、歯は欠け、見事醜い顔になり代わっている。鳴戸に散々蹴られたことを思い出す。また憎悪が沸きだしてきた。
「鳴戸の野郎……」
「えっ、ど、どうか致しましたか?」
「いえ、何でもないです」
怨み言がつい、出てしまっていた。
会計を済まし、薬屋をあとに再び区役所通りを歩く。
勝男の奴、ちゃんと持ってきてくれるんだろうか。まさかダンボールの金を見て、考えが急に変わって……。
いや、あいつとはただの同級生じゃない。幼馴染なんだ。そんな奴じゃないって事は、俺が一番よく理解している。
幼稚園からずっと一緒だった。
高校を出てすぐに俺は東京に、勝男は地元でそのまま就職。俺も初めは普通のサラリーマンをやっていたが、上司のくだらない苛めに嫌気をさし一年半で仕事を辞めてしまったんだよな。
二十歳に新宿へ出てきて、ゲーム屋を転々とした。そして三年前に一円ポーカーゲーム屋の『フロッガー』へ入る。ここに入ってから俺の人生は一変した。当時店長だった鳴戸との出会い。あのエグさは大変勉強になった。店での金の抜き方も参考になった。まだあの頃は店長と部下という図式だから良かったのだ。
今は違う。二年半前に鳴戸は前オーナー水野と組み『ダークネス』という店をオープンさせた。そして半年ほど経って、勝男が上京。俺との共同生活になった。
鳴戸がオーナーで、俺は店長。経営する立場から見れば、俺の存在が非常に煙たかったのだろう。『フロッガー』時代に散々抜いて、金を貯めた鳴戸の背中を見て育っているのだから……。
あれから俺は色々と考えるようになった気がする。いかに人を出し抜くかを。常にそれだけを考えて生きてきた。鳴戸もある程度、俺が抜いていたのは分かっていたろう。ただ証拠を押さえられなかっただけなのだ。見つかりそうになった時は、部下のせいにしてうまく切り抜けてきたのだ。だから二千万もの金を貯める事ができた。
うまくいっていた歯車が狂ったのは、おそらく一ヶ月前に入ってきた赤崎隼人との出会いだろう。
自分がゲイなんだと自覚した相手でもある。あれほど性格も顔も体も好みの男はいなかった。いや、それ以外に赤崎の持っている何かに強烈に惹かれた。普段なら女にしか興味がない。だが赤崎だけは特別だった。たった一度でいいから抱かれてみたい。赤崎と接していると、自分の中にある女の部分が出てきてしまう。
だから俺は赤崎に対し、つい親切心が出てしまうのだ。一ヶ月間だけで彼に百万近い金をあげた。自分が抜いた取り分のほとんどをあげた。すっかり派手な生活に慣れていた俺は、金が足りなくなり必要以上に売上から抜く。だから鳴戸にバレたのだ。
グチャグチャになってもつま先で何度も顔を蹴られた。そんな状況なのに、赤崎の身を案じている自分がいた。
違う……。
辞めた店の事を思い出している場合か? 今は二千万円の事だけを考えろ。勝男がちゃんと裏切らず、俺のとこへ金を持ってきてくれれば何の問題もないが……。
二年前に勝男が地元から新宿に出てきてから、俺と勝男の同居生活が始まったんだよな。こんな俺でも勝男は数少ない友達の一人だと言えよう。
エレベーターが八階で止まる。扉が開き、僕と彼女はエレベーターへ乗り込んだ。一階のボタンを押す。
女はどこを見つめているのか、壁の片隅をジッと見つめている。考え事をしているのかもしれない。僕がずっと彼女の横顔を見ているのに、一向に気付く様子がない。今、何を考えているのだろう。
「ね、ねえ…。お、お互い名前も知らなかったよね。ぼ、僕は鈴木勝男。か、勝つ男と書いて勝男っていうんだ。き、君の名前は?」
「ん、私? むつきって言うの。変?」
「い、いや…。と、とても、す、素敵な名前だよ。き、君にとっても似合うよ」
「ありがとう」
女は僕に微笑み返す。とってもチャーミングな笑顔だ。僕も思わずニヤけてしまう。不思議な魅力を持った綺麗で華麗でエレガントな女。
歌舞伎町での出会い。マンションのエレベーターの乗り合わせた偶然。彼女とは運命的なものを感じる。むつきちゃんと出会えて僕は最高に幸せ者だ。神に感謝したい。
「何してんのよ。おいてっちゃうよ」
「え……?」
すでにエレベーターは一階に着いて止まっていた。むつきちゃんは先に出て、僕を待っている。慌ててエレベーターの外に飛び出した。
「あっ!」
その瞬間、誰かにぶつかり、僕は尻餅をついてしまう。
何が起きたんだ?
その状態で顔を見上げると、真っ白なロングコートを羽織った鋭い視線を投げ掛ける男が立っていた。
すごい威圧感だ……。
まるで僕の視線が、その男に吸い寄せてしまうような魔法をかけられたような気分だ。見かけは普通のサラリーマンぽいのに……。
「勝手に人にぶつかっておきながら、謝る事すらできないのですか?」
「はっ……?」
妙に甲高い声を出す男。ただ、その声を聞くと、妙に体が委縮してしまう。
「分からない人ですねー、あなたはー…。人にぶつかっておいて謝る事すらできないのですかと、私は言ってるんですよー」
「す、すいません」
「初めから素直にそうしておけばいいんですよー。分かりましたか?」
「は、はい…。すいませんでした」
「そうです。分かってくれればいいんです。ちょっとお聞きしますけど、このマンションはクリスタルバカラ第一マンションですよね?」
「は、はい……」
「そうですか。ありがとう」
恐ろしい男はそう言って、エレベーターの中へに消えていく。
後ろ姿はどこにでもいそうなサラリーマン。いや普通のサラリーマンがあんな白いロングコートなんて着ないか。恐ろしいオーラと妙に甲高い声の男だった。まだ全身に鳥肌が立っている。マンション名を聞いてくるぐらいだから、同じマンションの住人じゃない事だけは分かる。
「ちょっと、大丈夫?」
むつきが僕に駆け寄ってくる。腰に力が入らずなかなか立てない。
「こ、怖かったぁー……」
「でも私の言うとおり、ガムテープ貼っといて良かったでしょ?」
「は?」
「勝男が転んだ時にダンボールまで派手に転がったじゃない。ガムテープでしっかり固定してなかったら、絶対にお金飛び出していたでしょ? そしたらさっきのヤクザみたいな男、勝男に何だかんだ治療費だとか無茶言って、絶対にお金取り上げられちゃってたよ」
横を見ると、小さなダンボールは横向きに倒れていた。
確かにガムテープで固定してなかったらお金は飛び出しいた。あのヤクザみたいな男に何を言われていたか分からない……。
僕は急いでダンボールを拾いだすと、むつきちゃんの手を取ってマンションを出た。
「い、急ごう、むつきちゃん!」
この場でモタモタしていて、さっきの男がまた因縁つけてこられても嫌だ。靖史のところへ早いとこ行かないと……。
「ちょっとー、これからどこ行くのよ?」
「く、区役所通りだ」
「それのどこら辺よ?」
「ぼ、僕だってよく分からないよ」
「まったくー……」
「ご、ごめん…。ん? で、電話だ」
携帯を見ると、靖史からだった。
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