2025/02/06 thu
前回の章
いつも遊び場となっている家の近くの連繋寺。
今日はパン屋の健ちゃんと一緒に遊んでいた。
お小遣いをもらってあるので、大きなテントのようなものの中で作っている焼きそばを食べる。
キャベツと挽肉ぐらいしか入っていないけど、麺が太くとても変わった焼きそばだった。
このお寺は何故か映画『鬼畜』の中でも映っているが『ピープルランド』というデパートの屋上にあるゲームセンターような感じの施設がある。
子供が乗るおもちゃの汽車もあって、もっと僕が小さい頃はその汽車に本物のお猿さんが乗っていた事もある。
姿が伸びたり、縮んだりする変な鏡もあっていつもみんなが集まる面白い遊び場だった。
この『ピープルランド』も同級生の家で、男三兄弟。
真ん中の河野隆二と僕は同級生。
そういえば一緒にいる健ちゃんも三兄弟。
でも彼の家は一番下が妹だから、偽者の三兄弟だ。
一緒に通学するラーメン屋『幸楽』の安達すみれの家は凄い。
姉、兄、すみれ、妹の四人兄妹。
焼きそばを食べて残ったお金でインベーダーをプレイしたり、駄菓子を買ったりする。
健ちゃんは雑誌の半分ぐらいの大きさの紙を買い、その紙を千切っては口の中に入れ「ペッ」と吐き出す。
「何それ?」
「甘い紙」
「お菓子?」
「多分そうでしょ、売っているんだから。ちょっと食べてみる?」
「ありがとう」
健ちゃんの持つ甘い紙を少しだけ千切り、口の中へ入れる。
確かに甘いが、すぐにただの紙だけになってしまう。
何だか気持ち悪くなり、僕も「ペッ」と吐き出した。
この『ピープルランド』の中は、駄菓子以外にくじ引きや小さなカップラーメンも売っていた。
健ちゃんはさっき焼きそばを食べたばかりなのに、四角いカップラーメンを買い、お湯を入れてもらっている。
とても食いしん坊だ。
楽しそうにテーブルの上でニコニコ待つ健ちゃん。
僕も前の椅子に座り、ラーメンができるのを待った。
「おいしそうな匂いじゃない」
声のする方向を振り向くと、馬みたいに鼻の穴が大きな女が立っていた。
僕らよりもちょっと年上みたいだ。
馬の鼻のような女は、「ちょっと匂い嗅がせてよ」と健ちゃんのカップラーメンに鼻を近づけ、クンクン嗅いでいる。
何か嫌な人だ。
「ねえ、健ちゃんの知っている人?」
僕は小声で囁く。
「ううん…、全然知らない人」
時間が経ちラーメンができあがると、フタを外しテーブルの上に置く。
プラスチックの小さなフォークで食べようとした健ちゃんに、馬の鼻のような女が声をまた掛けてきた。
「ねえ、ちょっと私にもちょうだいよ」
「え…、だって僕の……」
「そんなケチケチしなくてもいいでしょ? ほら、このフタの上にちょっとラーメンを乗せてよ。じゃないと頭をぶつよ?」
「わ、分かったよ……」
健ちゃんは泣きそうな顔でラーメンをフォークですくい、フタの上に乗せた。
女は「ズズズ」とフタに口をつけてラーメンを啜る。
あまりにも気持ち悪かったので僕は女をつっぺして、「健ちゃん、逃げよう」と手を引っ張る。
「あ、待ちなさいよ?」
女が僕たちを追い駆けてくるので、必死に『ピープルランド』から外へ逃げた。
お寺の境内の中を走り回り、ブランコの方向へ向かう。
チラッと後ろを振り返ると、馬女は健ちゃんが買ったラーメンを持ちながらあとをつけてくる。
「待ちなさいよ? このラーメン捨てちゃうよ?」
その言葉で健ちゃんの足がとまる。
まだ一口も食べていないから、惜しいのだろう。
「あんたたちさ、家はどこなの?」
「言いたくない……」
僕がそう言うと、馬女は頭を叩いてきた。
何て乱暴な女なんだろう……。
「ちょっとそこのベンチに座りなさいよ。お姉さんが面白い話をしてあげるから。このラーメンをもらったお礼にね」
「え、別にラーメンなんてあげていないよ」
健ちゃんが泣きそうに言うと、今度は彼の頭まで叩いてくる。
「うるさいっ! いいから私の話を聞きな」
こいつ、馬女なんてもんじゃない。
凶暴馬だ……。
「分かったからぶつのはやめてよ……」
「うん、大人しく聞きなさいよ? あんたたちは『ジョルジョおばさん』っていう話を聞いた事あるかい?」
「ジョルジョおばさん? 知らない。健ちゃんは?」
「ぼ、僕も知らないよ」
「では私が聞かせてあげようじゃないか」
そう言いながら馬女は、ラーメンを一口啜ってから喋り出した。
「あ、そうか。ラーメンもらったお礼をしなきゃね」
「え、ぼ、僕はあげてないよ……」と泣きそうな健ちゃんを無視して、馬女はポケットから、あんこの入った小さいドーナツを取り出した。
あんなところにそのままドーナツを入れるなんて、不潔だなと感じる。
「ほら、あんたたちにあげるよ、これ」
「え、いらないよ……」
「食わないとまたぶつよ?」
仕方なく受け取る僕たち。
嫌だったけど、口にドーナツを持っていく。
「駅にあるタンツボを知っているかい? まああんたたちは駅なんか、親と一緒に出掛けない限り利用なんかしないか。タンツボって言うのはね、大人がタンを吐き捨てるツボの事なんだよ」
「大人の人が『ガー、ペッ』ってツバを捨てるやつ?」
「そうそう、それがタンだね。そのタンがいっぱい詰まったツボにさ、ストローを差し込んで『ジョルジョ』って音を立てながら素早く飲んでしまうおばさんがいるのさ。それが『ジョルジョおばさん』って巷じゃ呼ばれているらしいんだ」
ドーナツを食べている時に、何て気持ち悪い話をするのだろうか……。
「も、もう僕、このお菓子いらない……」
健ちゃんは投げ捨てるようにドーナツを放り投げた。
「おい、躾のなってないクソガキだね。ちゃんと出されたものはキチンと食べろ」
「だってお姉さんが気持ち悪い話をするんだもん。もう食べたくないよ」
「駄目だ。食べなっ!」
「いらないよ」
「いいから食えって言ってんだよ」
馬女は道路に落ちたドーナツをつかみ、強引に健ちゃんの口へ持っていく。
「い、嫌だっ!」
必死に抵抗する健ちゃん。
口の周りがアンコでいっぱいになっている。
気付けば僕は馬女をつき飛ばし、健ちゃんの手を引いて逃げ出した。
「待ちやがれ、このガキ共っ!」
背後から怒声が聞こえる。
だけど止まる訳にはいかない。
捕まったら何をされるか分からない。
運動会の時より懸命に僕たちは全力で走った。
ブランコの近くにあるベンチに作業服を着たおじさんがいて、僕たちに近づいてきた。
そして両手を広げ、とうせんぼしてくる。
このおじさん、何を邪魔しているんだよ?
馬女に捕まっちゃうじゃないか。
「ぼうやたち、落ち着いて。おじさんがあの子を注意してあげるから」
「ほんと?」
「ああ、もう大丈夫だよ」
そう言っておじさんはニコリと微笑む。
馬女が息をゼイゼイ言いながら来ると、作業着のおじさんは「小さい子供たちを苛めちゃ駄目だよ」と注意してくれた。
「お、覚えてらっしゃい……」
何を覚えるのか分からないけど、馬女はこっちを睨んでから去っていく。
右手にはラーメンを持っていて、歩きながらスープを飲んでいた。
だいたい向こうから声を掛けてきて、健ちゃんのラーメンを奪ったくせに、何であんなに怒るのだろう。
どっちにしてもこのおじさんに、僕たちは助けられたんだ。
「おじさん、ありがとう」
「助かったよ、おじさん」
僕と健ちゃんは頭を下げてお礼を言う。
「いいんだ、いいんだ。それよりそっちの子、口の周りが汚れているぞ? ちょっとこのベンチに座りなさい」
言われた通り健ちゃんが腰掛けると、おじさんは妙に薄汚れたハンカチをポケットから取り出し、「ペッ」っとツバを吐き掛けた。
そしてそのまま口を吹き出す。
健ちゃんは嫌そうな顔をしながらも、ツバのついたハンカチでおとなしく口を拭いてもらっている。
「ぼうやたちの手ってちっちゃいなあ~、ちょっとおじさんの手を握ってみ」
さっきのツバのついた手を触るのが嫌だったので、ついおじさんの手を握るのを躊躇ってしまう。
健ちゃんは強引に手を握られ、今にも泣きそうな表情で必死にこらえていた。
何かこの人も変だぞ……。
おじさんの目つきを見て、そう感じた。
健ちゃんの手を両手でこねるように触るおじさん。
「ぼうやの手って、本当にスベスベだなあ~」
「お、おじさん、もういいでしょ?」
「いいから、いいから」
手をおじさんはなかなか離そうとしない。
そういえばさっきの馬女、本当に行っちゃったのかな……。
少し不安になり、境内の中を色々見回した。
参拝客や赤ちゃんを抱っこしたお母さんが何人か歩いているぐらいで、馬女の姿は見えない。
良かった。
連繋寺の中にあるしょうゆ味のだんご屋『名代焼き松山』の看板が見える。
さっき健ちゃん、ラーメン食べそこねちゃったから、だんごでも奢ってあげようかな。
「健ちゃん、だんご……」
振り向きながら話し掛けると、途中で声がとまってしまう。
何故か健ちゃんは泣いていた。
何で急に泣いているんだろう?
僕は健ちゃんをジッと見たあと、作業着のおじさんのほうも見てみた。
「あっ!」
泣いている健ちゃんの手を強引に自分の股のほうへ持っていきながら、おじさんはズボンからチンチンを出して先っちょをいじらせている。
このおじさん、汚いなあ……。
僕は二人に近づき、おじさんのチンチンを思わず蹴飛ばしていた。
「あーっ……」
チンチンを押さえながら、おじさんは地面に座り込む。
僕は怖くなって健ちゃんの手をつかむと「逃げよ」と一緒に走り出す。
この時代、昭和五十年代はこのような変態がたまに出没していた。
クラスで乱暴者として、みんなから恐れられている亀田という男子がいた。
この亀田君は自分が気に入らないと、すぐに同級生をグーで殴った。
女子も構わず殴るので、凶暴だとみんなから恐れられている。
一、二年生から同じクラスだった亀田君。
少し彼はませていた。
僕に「なあ、岩上君よ。俺さ、あいつの事好きなんだよな」と平然と言う。
亀田君の指した方向には、同じ班で通う歯医者の娘である間中和江がいた。
そういった感情のない僕は「ふーん、そうなんだ」ぐらいしか言えない。
「ちょっと見てろよ」と亀田君は言うと、間中和江の背後に近づきいきなり髪の毛をつかむ。
そして顔を上に上げ、そのままキスをしたのである。
間中和江にとって、おそらくファーストキスだったんじゃないだろうか。
泣きながら亀田君の頬を叩いていた。
恐るべし男である。
ある日、僕は亀田君ともの凄い抗争になる。
最初は些細な事だった。
「岩上」
「なーに」
前まで君付けで呼んでいたくせに、何で呼びつけになるんだろう。
イライラを感じたが、僕はとりあえずそう答えた。
「岩上がよー、持っている鉛筆さあ。あの銀色の格好いい鉛筆あるだろ?」
「それがどうしたの?」
「あれ、俺にちょうだいよ」
「何でだよ?」
「俺が気に入ったからだよ」
「何でそんな理由で、いちいち亀田君にあげなきゃいけないんだよ」
「口答えするなよ。殴るぞ」
亀田君の理不尽な要求。
クラスのみんなが奏でる雑音は次第に静かになり、僕たちを注目していた。
「ふん、できるもんならやってみろよ」
僕は精一杯強がる。
亀田君はクラスで一番背が高く、内心は怖くてたまらなかった。
でも、みんなの見ている前なので引く訳にはいかない。
「そうかよ」
亀田君のパンチが僕の顔にヒットした。
床に倒れる僕。
身体を丸めつつ、顔を押さえた。
指の隙間から見える教室内。
その時、亀田君の上履きが目の前に見えた。
その上履きが視界からゆっくり遠ざかると、すぐ僕の顔面に向かってつま先が飛んでくる。
「キャー」
女子の悲鳴が聞こえた。
僕は目から火花が散り悲鳴を上げる。
倒れているところを顔目掛けて蹴飛ばされたのだ。
激しい痛みからか、僕の視界は狭まったように見える。
ママに振るわれた数々の暴力が頭の中に投影された。
ずっと暴力に屈してきた僕。
ここで泣いたら、学校でも卑屈な生活を送るようになってしまう。
やらなきゃ、こっちがやられる……。
「うわぁー!」
僕は片手で目を押さえたまま、無我夢中で亀田君に突進した。
不意をつかれた亀田君は床に倒れ、僕はその上に乗っかる。
気づけば馬乗りのような格好になっていた。
テーブルの上に置いてあった大和のりのチューブタイプが目に入る。
迷わず僕はのりを手に持ち、亀田君の片目をこじ開け、チューブを絞り上げた。
「あ~、目、目がぁ~!」
亀田君の右目は、乳白色の大和のりで塞がれていた。
クラス中で悲鳴がこだまする。
何も気にならなかった。
やらなきゃ、僕がやられる…。
頭の中はそれだけだった。
あまり見えない視界の中、構わず何度も亀田君の顔や頭を殴った。
泣きながら無差別に殴った。
これが初めて振るった暴力でもあった。
あとの事はハッキリ覚えていない。
クラスメイトに聞くと、担任の福田先生に止められるまでその状態だったらしい。
この件で、僕も乱暴者としてクラスで認知されるようになる。
先生はこの件で僕たち二人を職員室に呼び出し、真っ赤な顔で怒っていた。
でも怒るだけで、親とかには知らせないでいてくれた。
躊躇もせず目の中へ、のりをぶちまけた男。
しばらく僕にはそんなレッテルが貼られた。
良江ちゃんが再び登校してくるようになった。
集合場所に向かう途中、バッタリ会った僕は素直に謝る事にする。
「良江ちゃん、この間はごめんなさい…。ほら、徹也も一緒に……」
「ごめんなさい」
僕たち兄弟の言葉を聞き、良江ちゃんは冷たい視線でこっちを見る。
「ふん、冗談じゃないわよ。人に責任なすりつけて。漏らしたのは、智ちゃんでしょ」
まだコイツ、あの時のウンチを漏らした事を言うのか。
僕はイライラしてきた。
「僕は漏らしてなんかないよ」
「あなたしかいないでしょ?」
「やってない」
「今日、みんなにちゃんと言うわ。あなたがデパートでウンチ漏らした事」
「ふざけんなよ」
僕はつい手が出てしまった。
しつこくウンチネタを言う良江ちゃんの頭を気がつけば、叩いていた。
「やったわね……」
僕らは取っ組み合いの喧嘩になった。
横で徹也は不安そうに見ている。
二歳離れていても、僕のほうが男なんだという気持ちだ強かった。
良江ちゃんは、必死な形相で襲ってきたが、僕はひるまずに戦う。
お尻を蹴飛ばすと泣き出した。
背中を見せたので、僕は飛び膝蹴りをぶち込んだ。
良江ちゃんは泣きながら家に戻っていく。
「勝った」
「お兄ちゃん勝った」
「いぇー」
「わー」
二人で勝利を喜び合った。
それでも僕が以前デパートで、ウンチを漏らしたという事実は無くならない。
あの女め…、僕は良江ちゃんが入った扉を睨みつけた。
すると扉が勢いよく開き、良江ちゃんの泣き顔が見えた。
彼女の目は釣りあがり、僕を睨んでいる。
「……」
無言のまま、良江ちゃんは出てきた。
右手には包丁を持っている。
「智ちゃん…、覚悟しなさいよ」
凍るような冷たい声で良江ちゃんは静かに口を開く。
包丁が一瞬、キラリと光る。
僕は身体が震えた。
良江ちゃんが動き出した瞬間、僕と徹也は慌てて家に逃げ込んだ。
この頃学校ではドッジボールが流行っていて、休み時間や放課後になると、いつもみんなでグランドへ出て遊んだ。
適度な場所と、バレーボールが一つあればできるものなので、スペースがあればどこでも僕らはドッジボールに熱中した。
クラスではパーマ屋の柴崎義明君が一番上手かった。
家に帰っても近所の同級生や年下の子供たちを集め、暇さえあれば没頭する。
家の斜め裏に住む一つ上の野口光夫も混ぜてくれとやってきた。
「あっ!」
隣の定食屋『ひろむ』の間にある細い路地から、太った女が歩いてくるのが目に入った。
近所なのに小学校が違うので、僕はこの子の名前すら知らない。
この世代は『第二次ベビーブーム』と呼ばれ、とにかく子供が多い時代だった。
なので受験に打つ勝つ為に、教育熱心な親など急増した時代でもあった。
僕の家からは近くに三つの小学校がある。
自分が通う中央小に第一小学校、そして川越小学校。
どこへ行ってもそんなに距離は変わらない。
なので親が通った今の小学校に行った訳だが、隣近所でもまったく違う小学、中学校という子もいた。
「おい、デブがいるぞ!」
僕はその子を見つけると、みんなに言った。
「やっちゃえ」
誰かがそう言いながらドッジボールの球をぶつける。
みんな、その辺の石を拾い、足元目掛けて投げつけだした。
必死にその子は逃げるが、焦っている為途中で足をもつれさせ、道端に前のめりに転んだ。
「うわ~ん」
道路で潰れたヒキガエルのような格好で泣き出す女。
「この野郎、泣いてんじゃねえ」
僕はその上から容赦なくドッジボールをぶつけた。
今になって思うと、本当に酷い事を平気でやったものだ。
子供は残酷と誰かが言ったが、まさにそれを象徴するような出来事だった。
パパがビデオデッキを買ってきた。
「この機械凄いんだぞ! 十何万もしたんだからな」
「何をするの?」
「テレビで放送してある番組を録画できるんだよ」
「録画? 何それ?」
「うちの目の前の映画館あるだろ? あれは八ミリフィルムを使って映しているんだけど、それと同じような事ができるんだ」
「へー、よく分からないけど凄いね」
「いいか、やり方を教えるから、これから放送するアントニオ猪木の異種格闘技特集を録画しといてくれ」
「ア、アントニオ猪木?」
やり方がいまいち分からない僕の頭をパパがぶつ。
「こんなのもすぐ覚えられないで馬鹿な野郎だな! おまえみたいな奴は、ここでプロレスでも見て少しは考えろ!」
僕は謝りながら一人部屋で泣いた。
テレビ画面には顎の大きな黒いタイツを履いた大男がリングの上で戦っている。
空手家、ボクサー、柔道家など色々な人と戦っているのを番組は映していた。
気付けばテレビに見入っている僕。
プロレスラーのアントニオ猪木。
見ていて格好いいなあと思った。
この日を境に僕は毎週金曜日の夜八時に放送する新日本プロレスを欠かさず見るようになった。
小学校一年生の徹也は、近所のパチンコ屋『ジェスコ』の息子と同級生でよく道端で遊んでいた。
この子の家も僕らと同じ男三兄弟で、徹也の同級生の吉川は長男だった。
顔立ちが特別格好いいという訳ではないが、映画館『ホームラン』で見たジャッキーチェンに似た顔立ちをしていたので、とても強い奴だと僕は思っていた。
よくパパに連れられ『ジェスコ』で床に落ちている球を拾い、台に設置されている手打ちのバネで弾いて遊んだ。
当時『アレンジボール』というパチンコ台とは一風変わった台があって、百円玉を入れると「ガッガッ」とすごい音を出しながら二枚のコインが出てくる。
内容は決まったパチンコ玉の数を手打ちで調整しながら打ち、画面に表示された数字のパネルをビンゴすればメダルが出てくるというもの。
僕は、相撲取りが動く台のパチンコを好んでよくやった。
強くなりたいと常に思っていた僕は、そのパチンコ屋の息子の吉川の頭を叩いたり、蹴ったりするようになる。
ジャッキーチェンに似た男をやっつける事で、強くなれると勘違いしていた訳だ。
外見とは逆にすぐ泣き出してしまう吉川。
それでも僕は構わず叩いた。
ある日、連繋寺の『ピープルランド』にパン屋の健ちゃんと遊びに行く約束をして、家の前の路地を歩いている時だった。
道沿いの右手にはパチンコ屋『ジェスコ』がある。
電信柱があり、その陰に吉川が隠れていた。
僕からは見えないとでも思っているのだろうか?
気付かないふりをしてそのまま歩くと、吉川は絵の具で使うバケツを持っていて、僕目掛けて水を引っ掛けてきた。
いたのは予測していたので水をかわすが、横っ腹に少しだけ掛かってしまう。
「この野郎っ!」
僕は吉川の髪の毛をつかみながら、グーでボコボコに殴りつけてやった。
しかし彼は鼻血を出しながら、僕に掛けた水の染み付いた洋服を見ながら、「やった」と満足そうに笑っていた。
薄気味悪さを感じた僕は、この日を境に吉川を苛める事はしなくなった。
それからしばらくしてパチンコ屋『ジェスコ』は潰れ、吉川の家族はどこか別に場所へ引っ越してしまった。
今ではもう二度と連絡すら取れない。
僕はクラスの女子をよく苛めるようになった。
男の子は好きな女の子を苛めるものだと、誰かが言っていたが、残念ながら僕には該当しなかった。
ただ、苛めて困る顔を見るのが楽しかった。
だから僕は無差別に女子を苛めた。
ジャッキーチェンに少し似た隣のクラスの島崎秋乃が廊下を歩いていると、後ろから近付きアントニオ猪木の必殺技を真似て、延髄切りをする。
男子の中では英雄扱いでも、女子には嫌われた。
でも、全然へっちゃらだ。
休み時間になると、数名で女子は固まり僕を警戒するようになった。
比較的大人しく苛めたらすぐ泣きそうな女の子は、苛めのリストから外していた。
ある日、クラスの中で些細な事から男子対女子の対立が起きた。
僕の前に座る隣同士の男女が口喧嘩から始まった。
この時はまだ休み時間である。
「おまえって猿みたいだよな」と男子生徒の大沢史博が言った。
この男、ひょろッとしているが、クラスでも頭一つ分つき抜けた身長が馬鹿デカい男である。
「何よ、あんたなんてウドの大木じゃない」と女子生徒の益子清美が言い返す。
後ろの席で、どうでもいいような言い合いを眺めていた。
ただお互いを罵っているだけの言い合い。
途中で益子が涙ぐんでいた。
「もうこんな奴の隣は嫌だ」
「俺だってごめんだよ。おまえがどっか行けよ」
大沢の言葉に、その子は爪で腕を引っかきだした。
益子は引っかき技が得意なせいか、あだ名は『キーちゃん』と呼ばれている。
いや、名前が清美だから『キーちゃん』なのか分からない。
でも凄い勢いで引っかいている。大沢は泣きながら髪の毛をつかみ出す始末。
目の前で取っ組み合いの喧嘩に発展した。
たまたま益子の振り回した腕が、僕の頭に当たる。
僕はその中に飛び込み、戦火はどんどん拡大した。
ただ見ている男子にどんどん号令を掛けた。
「おまえら、女どもをやっちゃいよ。男を舐めるんじゃねえ」
僕の号令で面白いように喧嘩の輪があちこちで勃発する。
男子の司令官はいつの間にか僕になっていた。
この小さな戦争にクラスの半分以上は参加した。
クラス内の男女戦争とも言うべき結末は惨めなものだった。
ママから殴られ慣れていた僕は、同級生の攻撃が怖く感じなかった。
隣の女子が泣き出すと、あちこちで悲鳴や鳴き声が聞こえ出した。
授業が始まるチャイムが鳴り、自然とみんなの動きが止まった。
みんな、地べたに座り込んでへとへとになっている。
小さな戦争に参加した大部分の子が怪我をしていた。
結果的には男子の優勢勝ちだったろう。
でも、そんな事はどうでもよくなっていた。
「何をしてるんだ、おまえら」
気がつくと、教室の入り口に福田先生が立っていた。
驚いた表情で、教室の状態を見てから怒った顔に変化する。
あれだけ騒がしかった教室は一気にシーンと静まりかえった。
「岩上君が悪いんです」
誰かが泣き叫んだ。
僕は声をした方向を睨んだ。
すると、女子が一斉に僕の名前を言い出した。
見る見る内に先生の顔は赤くなり、僕だけを見ていた。
「岩上が首謀者か?」
先生は僕に真面目な顔で聞いてきた。
緊張が走る。
「はい、クラスの女子が生意気だったんです。だから男子にやれって号令掛けました」
僕がそう言うと、先生は近づいて腕をつかんだ。
かなり怒っている、ヤバいなあ…。
僕は内心とは裏腹に、みんなの見ている前だからと無理して強がった。
「岩上、先生と来い」
強引に立たされる僕。
涙が出そうになるが、一生懸命こらえた。
「みんなも先生のあとをついてこい。いいか、全員だぞ」
福田先生に腕をつかまれた状態で、僕は廊下を歩いている。
クラスのみんなも無言であとからついてきた。
体育の授業でもないのに、一クラスの生徒が一斉に廊下を歩く姿は、他のクラスにどのように見えたのだろうか。
行き先を告げられないまま、着いた到着場所は体育館だった。
僕の腕をつかむ先生の手が離れた。
体育館の中にいるのは、僕と先生の二人のみで、残りの生徒は扉の外から様子を伺っている。
先生は無言で用具室へ向かい、運動マットを引きずり出していた。
そのままマットを横に三枚並べると、ちょうど正方形に近い形を作った。
「みんな、中へ入れ。早く入れ」
先生の声は顔と同様に厳しかった。
うな垂れながら重たそうな足取りで、体育館に入るクラスメートたち。
僕一人だけが違う場所にいた。
「岩上、上履きを脱いでマットの上にあがれ」
先生に言われるまま、マットの上にあがる僕。
僕にとって、目の前のマットはロープの無いプロレスのリングのように見えた。
「クラスの女子に手を出したように、先生にも掛かって来い」
「……」
いくらそう言われても、先生に突っ掛かるなんてできる訳がない。
掛かったところで、コテンパンにやられるのが分かる。
「どうした? 女とか弱いものには暴力を振るえても、先生には掛かって来れないのか?」
「くそぉー」
僕はみんなの見ている前だというプライドもあり、先生に突進した。
大きな手が頭を押さえ、僕の突進は簡単に止まる。
先生はそのまま力を入れて頭を強引に押す。
僕はマットに転んだ。
悔しい……。
何で僕だけがこんな思いをしなきゃならないんだ?
「どうした、もう終わりか?」
「ちくしょ……」
僕はそう言い掛けて慌ててやめた。
ママがヒステリックな鬼の顔になった時の台詞をあれだけ怖がっていた僕が、同じように使おうとしている。
やや、間があいて辺りはシーンと静まり返った。
「くっそー……」
再び立ち上がり、僕は先生に向かっていく。
結果は何度繰り返しても同じだった。
子供が大の大人に勝てる訳がない。
何で僕はこんな事をやっているのだろう。
身体がクタクタだ。
この場から逃げ出したかった。
でも、何故か必死に突っ掛かっていった。
「がんばれ、岩ヤン!」
誰かの声が聞こえた。
柴崎義明君だった。
隣の男子は焦った表情で見ている。
「馬鹿、ヤバいだろ。そんな事、言っちゃ……」
「うるせえ、岩ヤンは何度も倒されたって、立ち上がってるじゃねえか」
「頑張れー、智一郎君」
幼稚園の時からの同級生だった斉藤陽吾君まで、僕に声援を送り出した。
「がんばれ……」
「がんばれっ、岩上っ」
この間、殴り合いの喧嘩をした亀田君の声まで聞こえた。
「頑張れよー」
柴崎君や陽吾君の声で触発されたかのように、あちこちで声援があがりだす。
心の中に温かい何かが流れてきた。
ママの打ち方に比べたら、先生はかなり手加減してくれている。
僕がここで投げ出したらどうするんだ?
正しい、正しくないは別にして勇気が湧いてきた。
何度も向かっていき、何度も倒された。
クラスのみんな全員が真剣に注目していた。
あれだけいがみ合っていた女子からも声援が起きだした。
「分かった。もういい」
静かに福田先生は言った。
僕は汗をぬぐいながら、先生の目を見た。
「みんな、ちゃんと見ていたか。先生は女に暴力を振るう男が大っ嫌いだ。岩上は悪い事をしてしまった。ここにいるみんなもそうだ。岩上は自分で率先してやった一番悪い奴だ。だから先生は岩上を何度も倒したんだ。でもな、岩上は諦めないで何度も先生に掛かってきた。悪い事は確かにした。でも、それからこいつは逃げなかったんだ。だからみんなも勝手に声援を送り出したんだろ? 仲良くしようとしれば、おまえらできるんじゃないか。先生が何も言わなくたって分かってるんじゃないか。今の気持ちを忘れないでほしい…。岩上、よく頑張ったな……」
「ご、ごめんなさ……」
「もういいんだよ、岩上。よくやった」
先生の大きな手が頭に乗る。
今まで踏ん張っていた何かが、急に無くなった。
僕はみんなの前で泣いてしまった。
そんな僕の姿を笑う人間は誰一人いなかった。
代わりに全員が拍手をしてくれた。
自然と起きた現象だった。
今まで送られたどんな拍手よりも暖かい拍手だった。
福田先生の顔は体育館に来てから、初めて笑顔を見せた。
僕はこの件で、前よりも先生が大好きになった。
それから僕の学校生活は非常に有意義なものとなった。
クラスはあの件以来、一体感を出すようになっていた。
男は女を殴るものではなく、逆に守るものなのだ。
そんな教訓が僕の中にできた。
考えてみたら、いつも見ている仮面ライダーもウルトラマンもみんな、女を守っている。
何でそんな簡単な事に気づかなかったのだろう。
先生が間接的に男とはこうあれと教えてくれたのだ。
自分を恥ずかしく感じる。
家での生活も有意義なものになった。
色々と僕ら兄弟を可愛がってくれた伯母さんであるピーちゃんに、体育館での経緯を話すと、感心しながら笑顔で聞いてくれた。
「いい先生が担任で良かったね」
ピーちゃんは嬉しそうに言った。
「うん。一、二年の時の浅井先生よりいいよ」
「あら、そんな言い方はよくないよ。みんな、ちゃんと頑張ってやってるんだから、先生を区別してはいけないよ」
「そっか」
「うん、その福田先生は立派だけど、前の先生だって立派なんだよ」
「そうだね。じゃあ、福田先生のほうが好きって言い方にするよ」
「うーん、それはしょうがないな…。ただ、福田先生以外の前とかでは言わないようにね。家で言うだけならいいわ」
「はーい」
毎日がとても楽しい。
こんなに笑っていてもいいのだろうか。
ママの事を思い出すと、少し不安になった。
守屋淳一君のお母さんが、あの時流した涙が未だに分からなかった。
クラスで一番仲の良くなった斉藤陽吾君と、下校を共にする事が多くなった。
小学一年から四年生までずっと同じクラス。
中央小からでなく双葉幼稚園からの同級生。
お互いの家を行き来するようになり、陽吾君は僕の知らない事をたくさん教えてくれた。
ちばあきおの『キャプテン』も全巻読んだし、『プレイボール』まだ読み始めだけど面白い。
いいコンビだと自分の中で思うようになっていた。
突然僕と陽吾君の仲に、田中正義君が割り込んできた。
僕は嫌がり、陽吾君は彼を受け入れた。
必然的に三人で行動する機会が多くなったが、いまいちしっくりこない。
正義君も僕を邪魔だと口には出さないものの、態度で何となく分かっていた。
クラスで席替えをする時も、正義君は陽吾君の近くがいいとわがままを言い出す始末だ。
強引に陽吾君を独占させようという意思をクラスの男子は嫌った。
僕は見て見ぬふりをした。
給食を食べ終わったあと、何人かのクラスメートが僕の席に集まる。
「ねえ、岩上君」
「なに?」
「正義君さあ、ちょっと陽吾君に対して、強引じゃない?」
僕は感情を出さないよう極めて冷静に話した。
「うーん、そうかもしれないね」
「前、あれだけ斉藤君と岩上君は仲が良かったのに、最近はいつも正義君がいるじゃない」
「そうだね」
「みんなで注意しようよ、正義君にさあ」
「注意?」
「うん、斉藤君は正義君のものじゃないってさ」
「うーん。だって陽吾君がそれでいいなら、仕方ないよ」
「そうじゃないよ。斉藤君、困っているって言ってたよ」
初耳だった。
てっきり陽吾君は正義君を受け入れていると思っていた。
「みんで注意したほうがいいよ、絶対にさ」
「そうだね」
僕たちは話し合い、その五人で注意する事に決めた。
ほかの四人は、正義君の目の前に立つのをどうしても僕にやってほしかったらしい。
仕方なく引き受ける事にした。
「正義君、ちょっといい?」
陽吾君の隣で話す正義君の前に僕たちは立った。
彼は不思議そうな顔で僕を眺めている。
「正義君、斎藤君は正義君一人のものじゃないよ。いい加減に独占するのやめなよ」
みんなで口を揃えてハッキリと言う。
正義君は僕の顔を見て、キョトンとしていたのが印象的だった。
次の日から正義君は学校に来なくなった。
それから正義君の母親が、学校へ怒鳴り込みに来たらしい。
僕と陽吾君は福田先生に呼び出された。
「おまえたち、正義の件で何か関係あるのか?」
「関係あるじゃないですよ、先生。この子たちがうちの正義を苛めたんです。あの子、もう学校に行きたくないって、泣いているんです」
正義君のお母さんは僕を睨みつけてきた。
何て過保護な母親だろう。
内心、僕は思った。
「お母さん、落ち着いて下さい。今、私は生徒に意見を聞いているんです」
「でも、うちの子を苛めたのは……」
「お母さん、少し黙ってっ!」
福田先生の声が厳しく響く。
「今、私は生徒に聞いているのです。あなたの意見ばかり聞いても、一方通行です。少し彼らの意見もちゃんと聞いてあげて下さい。…で、どうなんだ、岩上? 斎藤?」
僕から口を開き始めた。
僕は正義君が強引に斉藤陽吾君を独占しようとした事、それを五人で注意した事を順番に話した。
「冗談じゃないですよ。うちの正義が……。」
「いいから、黙って」
先生は正義君のお母さんを一喝した。
「そうか、それから斉藤は?」
僕はツバを飲み込む。
陽吾君の言葉一つで、状況が変わるのだ。
彼に対する気持ちを僕はちゃんと確認しないでいた。
あくまでも人づてに正義君を嫌がっているとしか聞いていないのである。
「ぼ、僕は……」
陽吾君は静かに口を開く。
「正義君がいつも遊ぼうと思って、確かに遊んでいました。もちろん智一郎君とも遊んでいました。正行君は少し強引でした。僕はみんな仲良く遊びたいだけだったんです。でも、二人とも仲がいまいちで、正義君が智一郎君とは遊ぶなって、僕に言いました。僕がそれは無理だと言い、教室で話しているところへ、智一郎君たちがやってきました。それでみんなで、正義君に注意しただけです」
正義君のお母さんは悔しそうにハンカチを噛んでいた。
「分かった。確かにおまえたちの気持ちは分かった。だがな、同じクラスメートの正義は学校に来なくなっているんだ。おまえらもうちょっと考えてやれ。自分がもし、その立場になったらどうする? 嫌だろ? これから先生も一緒に行くから、おまえらも正義の家へ行こう。一緒に明るく迎えてやろう。仲良く先生はやってほしいし、常にそうありたいんだ。お母さんもそれで納得できますか?」
「はい…。ありがとうございます……」
さすが福田先生だ。
正義君のお母さんはハンカチで目を覆いながら泣いた。
僕と陽吾君は、先生と一緒に正義君の家に向かい、色々と話し合った。
このクラスメートで、二年近くはやっていかないといけないのである。
仲良くはしたい。
でも、僕の心の中は、いまいち晴れなかった。
陽吾君との間に割り込んできたのは正義君なのだ。
強引に物事を進め、自分の好きなようにしたからこそ、みんなに注意されたのだ。
確かに先生が言う事は理解できる。
でも、母親に泣きつく正義君を卑怯だと感じた。
帰り道、陽吾君と久しぶりに二人で帰った。
やはりこのコンビが一番ピッタリなのだ。
僕の相棒が陽吾君で、陽吾君の相棒が僕。
それが正しいのである。
僕は陽吾君に尋ねた。
「ねえ、陽吾君」
「なあに?」
「先生はああいう風に言ってたけど、やっぱりさ…。僕は正義君いまいち好きになれない」
「うん、それは分かるよ。しょうがない」
やっぱり僕の考えを一番理解してくれるのは、陽吾君だと確信できた。
「陽吾君だって、僕と一緒のほうがいいでしょ?」
「……」
陽吾君は無言だった。
何も気にせずに僕は尋ねた。
「ん、どうしたの?」
「い、いや……」
「なあに?」
「僕はさあ、誰々が一番とかそういう風には思ってないよ」
予想していた答えとはまったく違う陽吾君の言葉が、心に突き刺さった。
「僕はみんなと仲良くやりたいだけ…。そういう意味では、智一郎君も正義君も一緒だよ」
僕は言葉を失った。
ショックだった。
陽吾君の言葉の意味が、よく理解できないでいた。
「ん、どうしたの、智一郎君?」
「ううん、何でもないよ」
「だって様子が変だよ?」
「そんな事ないよ」
動揺を表情に出さないように必死だった。
僕が陽吾君にとって、一番の友達だと思っていた。
恥ずかしい気持ちと、屈辱感が交互に行きかう。
「智一郎君は何を今、考えているの? 教えてよ」
「う、うん…。陽吾君にとって、僕は友達じゃないのかなって……」
「何、言ってんだよ。友達だよ。いつも仲良く遊んでるじゃん」
「でもさ、正義君と一緒ってさあ……」
「勘違いしないでよ。智一郎君は大事な友達だよ。ただ、正義君を僕が悪く言った部分は、自分だけで誰々とは遊ぶなって部分なんだよ。みんな、仲良くしたいのにさ。それでああいう風になっているのに…。さっき智一郎君、僕と一緒のほうがって言ったでしょ?」
「うん」
「それは智一郎君と一緒にいたら楽しいよ。でも、僕のほうがとかっていう考えは、あまり好きになれないよ。僕はものじゃないし、自分の意思だってあるもん。智一郎君だって、僕に例えば、亀田君とは遊ばないでとか、柴崎君より僕といたほうがいいでしょって、言われてもいい気分にはならないでしょ?」
「それはそうだね」
福田先生を尊敬するような感覚。
僕は初めて友達を尊敬していた。
「うん」
「それは気をつけるよ」
「うん。じゃあ、何して遊ぼうか?」
ちょっとした会話で僕のモヤモヤはなくなった。
そう感じた僕は自然と笑い顔になった。
そして数日後クラスのお芝居として『銀ギツネ』をやる事になったが、先生は国語の授業を中断して、「みんな、今度のおしばいの主役なんだけど、正義を先生は推薦したいと思うんだが、みんなはどうだ?」と大きな声で言った。
クラス全員から拍手が起きる。
僕はこの先生に授業を教わっている事を誇りに感じた。
給食の時間がやってきた。
今日は非常に楽しみだ。
何故ならハンバーグが出るからである。
ほとんどの人は好きなハンバーグ。
みんな、この日を待っていた。
ハンバーグを間に挟むパンが、二つくっついた状態で、みんなに配られる。
大抵の人はハンバーグを半分にして、それぞれのパンに入れて食べた。
全員に給食が配り終わり、席に着くと、先生は教壇からみんなに向かって話し出した。
「今日はな、先生がこのパンの正しい食べ方を教えてやる」
「正しい?」
「何だろ?」
「いつも決まっているのに……」
「何ですか?」
「そんなのないよ」
みんな好きな事を勝手に言い出した。
それにしても正しいパンの食べ方とは何だろう。
前にこの献立が出て時は先生、何も言わなかったのに……。
「はい、うるさいぞ。先生の話をちゃんと聞け」
「はーい」
「よーし、いいか。まずはみんな、ビニールに入った状態のパンを手に持って…。中から取り出して、くっついているパン同士を離してくれ」
言われた通りにした。
しかし言われるまでもなく、いつも普通にやっている行為だ。
「いつもみんなはハンバーグを半分にしてるだろ? 今日はそのまま、一つのパンに挟んでくれ」
「もう一つのパンはー?」
「先生、駄目だよ」
「何でー?」
またクラスが騒々しくなった。
僕は黙って聞いていたが、先生が何をしたいのか何も分からなかった。
「うるさいぞ。いいから言われた通りにしろ」
仕方なく言われた通りにする。
隣の生徒は小さな声で、何かをブツブツ言っていた。
「もう一つのパンがあるだろう? 今日はそのパンの正しい食べ方をこれから教える」
教室はシーンと静まり返った。
「まず、中にハンバーグを入れる前にやるように、中を開いてくれ。そしたらな……」
言い掛けながら先生は、後ろを向いてゴソゴソしている。
それから教壇の机に白い紙が掛かった灰色の箱を勢いよく置いた。
先生は上に掛かる白い紙を取りながら、笑顔で大きく言った。
「あとのパンは、今日、先生が用意したこのコロッケを挟んで食べるんだ」
「わー」
「いぇー」
「ほんとかよ」
「やったー」
「先生最高」
一気に教室の中は歓喜の声で充満した。
先生は自腹でわざわざコロッケをクラスの人数分を買って、用意していてくれたのだ。
喜ばない生徒など、誰一人もいなかった。
こんな展開を誰も想像していなかったのだろう。
その分、喜びは大きかった。
先生は満面の笑みで教室を見回した。
あまりのうるささに、隣のクラスの担任の角田先生が、僕らのクラスを見に来たほどである。
僕はこの福田先生が担任で本当に良かったと、心の底から感じた。
上尾で八枝神社の神主をしていたという福田文彦先生。
「先生、実を言うとな…。テレビで放送している水谷豊の『熱中時代』が本当に好きでな…。まあ、あんな感じの先生になれたらいいと思ってはいるんだな。あ、これ親に言うなよな」
こんなにおいしいコロッケは初めて食べたような気がする。