岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

NEW闇 02(猫のみゃう編)

2025年02月05日 00時17分50秒 | NEW闇シリーズ

2025/02/05 wed

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2025/02/04tueパパ、ママ……。「何で僕を産んだの?」死ぬまでに、一度でいいから聞いてみたい。まだ自分の事を「僕」と呼んでいた時代。俺は、男三兄弟の長男...

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ある日学習塾から帰ると、ママはいつものようにいなかった。

徹也は「お腹が空いたよう」と僕に言い、寝起きの貴彦はただ泣いている。

またおじいちゃんのところへ連れて行こうか?

左目の上の傷が疼く。

もしまた途中でママが帰ってきたら……。

前の恐怖が蘇る。

懸命にあやすが、貴彦は泣き止む様子もない。

僕が泣きたいくらいだったけど、徹也まで釣られて泣き出す始末。

弟たちをそのままにしておけず、仕方なく僕は一階に連れて行った。

おじいちゃんは幼い貴彦を抱きながら満面の笑みを浮かべた。

おばあちゃんは食事の準備をしてくれる。

僕は料理をするおばあちゃんの後ろ姿を眺めていた。

いつママは帰ってくるのだろう。

その事だけは頭の片隅に入れておく事にする。

おじいちゃん、おばあちゃんとの食事は楽しかった。

パパの妹である伯母さんのピーちゃんも下に降りてきて、僕たちを見ると嬉しそうに笑う。

両親だけいない家族の食卓。

みんな笑顔で楽しい。

いつもこうならいいのになと、僕は思う。

いけない……。

ママがいつ帰ってくるかと注意するのを忘れていた。

笑顔で会話を続けるおばあちゃん。

途中から僕は何を話しているのか内容も分からず、ただ笑顔を作っていた。

「……!」

居間の扉が少しだけ開いているのに気付く。

僕は扉の見える位置に座っている。

ジーッと隙間から見える暗闇を眺めた。

誰もいない。

少し気にし過ぎだ。

目の前のご飯を食べる事に集中する。

おばあちゃんの作ってくれた料理はとても美味しかった。

徹也も満足そうにニコニコしている。

貴彦はおじいちゃんに抱きかかえられ、スヤスヤと眠っていた。

「おばあちゃん、おかわり」

「はいはい」

お腹いっぱい食べられるのは、こんな状況の時だけだった。

ママとの食事はいつも酷い。

家の隣にある食堂のひろむへ行き、とんかつ定食を一人前だけ注文するママ。

ご飯をもう一つだけもらい、四人でそれを分けて食べた記憶が蘇る。

まともに食事の用意をしてくれないなと、僕はいつも感じていた。

何でもいいからお腹いっぱい食べたい。

そんな思いが強かった。

ママなんていなければいいのに……。

僕はこの頃からそう思っていた。

「……!」

一瞬、心臓が止まったかと思った。

僕は扉の少し開いた隙間を見て、ご飯の茶碗をテーブルに落としてしまう。

「ちゃんとしっかり持たないと駄目だよ、智一郎」

おばあちゃんが注意をしても、僕の耳には届かなかった。

僕の全神経は、僅かに開いた扉の隙間に注がれていた。

隙間から見える暗闇。

真っ暗な部分に白い目が、一つだけ見えたのだ。

その目は怒りを表しているかのように釣り上がっている。

僕は、それがママだと直感的に分かった。

全身がガクガク震えだす。

もっと早めに食べ終わり、すぐに二階の部屋に戻るべきだったのだ。

あれほど、注意していたはずなのに……。

誰も扉の向こうにいる存在に気がつかない。

僕だけがそれを知っているのだ。

隙間から白い手が見え、ゆっくりと手招きしている。

僕は操られるかのように立ち上がってしまう。

「どうした、智一郎」

「も、もう…、お腹いっぱい……」

それだけ言うのが精一杯だった。

おじいちゃんたちに、扉の向こうにいる存在を知られたくなかった。

僕は黙って扉のほうへ、歩いていく。

誰か僕をとめて……。

お願いだから、誰か気付いて……。

いくら心の中で必死に叫んだって、誰にも聞こえやしない。

居間を出る際、一瞬だけ振り向く。

徹也がおばさんと楽しそうにはしゃいでいるのが見える。

羨ましかった。

その瞬間腕を強く引かれ、僕は廊下に引っ張り出される。

思った通りママがもの凄い形相で立っていた。

足元から震えだす僕など一切気にせずに、ママは強引に階段へ連れていかれる。

助けて欲しいのに、不思議と声を押し殺した。

一歩一歩階段を上る度に尻を叩かれる僕。

今、声を出すとおじいちゃんたちに心配させてしまう。

そんな思いが頭をよぎり、僕は懸命に涙を堪えた。

途中の踊り場まで到着すると、髪をつかまれる。

「何で帰ってくるまで待てなかったんだ?」

僕だけに聞こえるぐらいの声で、ママは静かにそう言った。

「ご、ごめんなさい……」

「何回、同じ事を言わせるんだよ?」

凄い勢いで尻を叩かれた。

髪の毛を握るママの手が無言で、上にあがれと言っている。

足が震えてうまく階段を上れない。

するとまた尻に痛みが走った。

そんなに悪い事を僕はしたのだろうか。

いつも学校では成績優秀だった。

あの「じっかい」という間違い以外は、いつも百点ばかり。

通信簿も大変良くできましただけなのに……。

でも、誰も僕を守ってくれない。

か弱い存在の自分が嫌いだった。

勉強ができるよりも、もっと強くなりたかった。

仮面ライダーみたいに僕がなれたら、どんなに素敵だろう。

ウルトラマンみたいに大きくなれたら、何も怖いものなどないだろう。

でもそんなものは夢でしかない。

現実の僕はガタガタ震える事しかできない。

 

部屋に到着すると、床に放り出される。

僕はそこで初めて泣いた。

泣けば恐ろしいママの顔が、涙で滲んで見えなくなる。

「何度、言ったら分かるんだよ」

頬に痛みが走る。

僕は両腕で顔を隠した。

痛みは色々なところから感じた。

容赦なく無差別に攻撃を繰り出すママ。

僕は泣くしか方法がない。

「これを持ってろ」

俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。

電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくママ。

幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。

分かっていながら怖くて離せなかった。

受話器を……。

手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。

まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。

どんどん伸びていくコード。

それでも僕は電話の受話器を震えながら持っている。

恐ろしかったのだ。

抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。

おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、ママの手元から離れていた。

「……!」

いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。

思わずその場にうずくまってしまう。

目の上が焼けるような痛みを発している。

「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」

逃げようと立ち上がり、後退した。

その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。

胸を押され、床に倒れ込む。

合気道に行った時の風景が思い出される。

稽古を始める前に正座して一礼。

そのあと正座をして目を閉じているところを不意に先生が胸を押してくる。

そこで倒れてはいけない。

精神を集中させるのが、本来の目的らしかった。

でもそんな事は、当時の僕には分からない。

「何、勝手に転んでんだ。立て!」

僕は言われるまま立ち上がる。

足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。

ママはいくつかのブロックを拾っている。

「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」

「はい……」

これから何をされるのか。

身体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。

ママがブロックを投げつける途中だった。

青色のブロックが僕の頭に命中する。

僕は再び倒れた。

「何、大袈裟に倒れてんだ!」

起き上がれば、また同じ目に遭う。

分かっていながら立ち上がった。

そうするしかないのだ。

何度もママは、僕にブロックを投げつけた。

僕はこのまま殺されるのかな。

素直にそう感じた。

その時、部屋のドアが勢いよく開く。

「おまえは何をやってんだ!」

おじいちゃんだった。

今まで見た事のないような厳しい目でママを見ていた。

二階の騒ぎを聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。

真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。

必死にその光ある方向へと向かう。

「おじいちゃん……」

自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。

床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。

そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。

「わぁっ……」

僕は目を押さえながら、床に転がった。

たくさんの血が出ていた。

僕は強くならないと、いつか殺されちゃう……。

それからあとは記憶にない。

 

鏡を見ると、左まぶたのところに小さな傷が一つ増えていた。

視力には何の影響もないみたいだ。

目の前で覗き込むようにしないと、傷は分からない程度だったが、僕は学校と塾を一週間ほど休んだ。

これでまた左まぶたの上に消えない二つ目の傷ができた。

今まで当たり前だった習慣が少しだけ変わった。

そしてその間、おじいちゃんとおばあちゃんの部屋で寝る事になった。

それが原因かどうかは分からないが、ママは前より優しくなったような気がする。

ご飯もお腹いっぱい食べられ、幸せを感じるようになった。

家の人たちはいつも笑顔で僕に接してくれる。

塾を休んでいる間、従業員の健ちゃんは二回ほどデパートのホットドック屋に連れて行ってくれた。

そして僕にハンバーグドッグを食べさせてくれた。

せっちゃんもあの喫茶店へ再び連れて行ってくれた。

その時初めてピザトーストというものを食べた。

おばあちゃんの作る和食とは、タイプの違う食べ物に僕はビックリした。

それからピザトーストは大好物になった。

映画館で働く酒井のおじさんも、僕を見掛けると中に入れてくれる。

いつものようにアンパンとコーラの入ったビンをくれて、僕は内容も分からずスクリーンをただ眺めていた。

でも、楽しくて仕方がなかった。

そんな一週間の間、一日だけママのおばあちゃんの家に泊まりに行った。

おばあちゃんの家とうちは距離にして三百メートルも離れていない。

だから歩いていける。

おばあちゃんの家は小さな本屋をやっていて、遊びに行くと必ず好きな漫画本を一冊プレゼントしてくれた。

僕は『まことちゃん』の楳図かずおのコミックをいつも好んだが、反対されて仕方なく『ドラえもん』を選んだ。

 

小学校二年生になって新学期を迎える。

クラス替えもなく、担任の先生も変わらなかった。

新学期になって最初の日曜日。

ママは僕を連れて、近所のデパートのニチイへ行った。

物心ついてから、ここまでゆっくりとデパートを見て回ったのは初めてだった。

中でもおもちゃ売り場と、最上階のゲームセンターに目を惹かれる。

エスカレータを上り終わった二階にあるガラス張りのレストラン。

そこのショーウィンドーに飾られたお子様ランチが僕の食欲をそそる。

まだ一度もお子様ランチを食べた事がない僕は、羨ましそうに眺めた。

洋服売り場をママと一緒に歩いていると、従兄弟の舞衣子ちゃんの京子伯母さんが、向かい側から歩いてきた。

僕の姿に気付くと、「あら、智ちゃん」と言いながら笑顔で手を振ってくれる。

僕は少し照れ臭そうに、はにかみながら手を振り替えす。

僕の手を握るママの手に力が入る。

しまった……。

僕は笑顔を封印して、澄ました顔に変えた。

でも遅かった。

家に帰ると、凄い形相でママは言う。

「あんた、何をあんな奴に愛想を振りまいているんだ」

また痛い目に遭わされる……。

僕は歯を食い縛った。

予想とは別に、軽く頭を叩かれただけだった。

この間、酷い傷を負わしたばかりなので、ママも少しは手加減してくれたのだろう。

だけど次に同じ事をしたら……。

想像すると、身体が震えた。

ママの前でむやみに笑ってはいけないのだ。

いや、ママが好きな人の前じゃないと笑顔を見せてはいけない。

僕はそう反省した。

その日から僕はあまり笑わなくなった。

心から笑えなくなった。

僕はママと二人だけで出掛けるのが怖かった。

週に一度の日曜日を憂鬱な気分で迎えるようになる。

毎日、学校があればいいのに……。

塾通いだらけで忙しい平日でも、ママと二人っきりでいるよりはマシだった。

 

習字の塾のあと、家への帰り道に映画館『ホームラン』の前を通ると、酒井のおじさんの姿が見えた。

おじさんはこっちを見て笑いながら手招きしている。

いつものように映画館の中に入れてくれるのだろう。

このあとの塾はもうないので、僕は駆け足でおじさんに近づく。

「塾の帰りかい?」

「うん!」

「智ちゃんも、どんどん大きくなっているなあ。もう二年生になったんだっけ?」

「うん、二年生」

「そうか、そうか」

生まれた時からの僕の成長をずっと見てきているせいか、酒井のおじさんは目を細めながら、満足そうに微笑んだ。

「今日はね、中に入れば智ちゃんが好きそうなやつ、上映してるんだよ」

「僕が好きそうなの?」

「うん、チビっ子にはこの映画、すごい人気があるんだ。絶対に智ちゃんも、気に入ると思うよ。さあ、もうじき上映時間だ。入りなよ。あ、あれ……?」

おじさんが僕に視線をずらし、遠くを見つめだした。

僕もその視線に釣られるかのように振り向くと、弟の徹也がいた。

道路を挟んで家の前でボーっと突っ立っている。

僕はその姿にゴマシオを何故か連想させた。

「おーい、こっちおいでよ」

おじさんは徹也にも声を掛ける。

信号が赤に変わり、横断歩道をテクテクと、早歩きで歩いてくる徹也。

僕の顔を見ると、嬉しそうに笑った。

「徹也ちゃんも、お兄ちゃんと一緒に映画見るかい?」

弟は返事をする代わりにニコニコ笑っていた。

そして僕の手にしがみついてきた。

「よし、じゃあ、早く行こう。もう始まっちゃうぞ」

いつものように料金も払わず、二階席へ通される。

この近所でも僕ら三兄弟だけに許された特典だろう。

映画を見る時はいつも二階席の一番前だった。

僕にアンパンとコーラ。

龍也にはアンパンとオレンジジュースを手渡して、おじさんは映写室へ消えていった。

僕と弟は真剣にスクリーンを見つめる。

おじさんが言っていた面白い映画。

期待に胸を膨らませていた。

やがてスクリーンに映像が映りだす。

上半身裸の筋肉質の男が、一人で画面上を所狭しと激しく動き回っている。

少しおどけたユーモラスな感じの表情で、カンフーの演舞をやっていた。

当時、カンフーなど知らない僕たちは、仮面ライダーを見ているような熱心さでスクリーンを真剣に見つめた。

アクションの連発やユーモラスを誘う場面に、僕たちは一気にのめり込んだ。

やがて白髪頭のおじいさんが、その主人公を鍛え始め、苦しそうな表情が映し出される。

新しいヒーローが、トレーニングを必死にして強くなっていく姿は好感が持てた。

次々と襲い掛かってくる敵をバタバタと倒しながらいく主人公。

痛快でたまらない。

瓢箪に入ったお酒を飲みながら、強くなる主人公。

やがて一番悪い奴との対決シーンになり、苦戦しながらもやっつけて映画は終わった。

館内が明るくなり、スクリーンに幕が掛かると、見ていた観客は歓声をあげた。

僕たち兄弟も、もちろん歓声をあげていた。

興奮が全身を包み、身体が熱くなっていた。

他の客と一緒に外へ出ると、おじさんが笑顔で出迎えてくれた。

「どうだい智ちゃん。面白かったろう?」

「うん、凄い面白かった」

「うん」

徹也も隣で興奮気味に返事をしていた。

出てくる客の大半が満足そうにしている。

意味もなく様々な映画を見てきた中で、今日の映画は抜群に楽しかった。

「何て映画なの?」

今まで映画のタイトルなど気にもした事がない僕は、初めておじさんに尋ねた。

「酔拳って映画で、主演はジャッキーチェンって言うんだよ」

「ジャッキーチェン……」

「ジャチーチン」

弟も僕の真似をしようとするが、うまく言えないらしい。

家に帰ると、兄弟でカンフーの真似事をして遊んだ。

ジャッキーチェン……。

ウルトラマンや仮面ライダーの他に、新しいヒーローとして、僕たちの脳裏にインプットされた。

 

僕の好きなものを考えてみた。

メロンソーダ、インベーダー、ガチャガチャ、ジャッキーチェン。

それにピザトースト。

不思議と飲み物のメロンソーダは好きでも、フルーツのメロンは食べられなかった。

そうだ、あとピアノの先生も大好き。

先生は僕の現状を理解してくれて、自分の味方をしてくれている。

僕は少しだけ幸せな気分になった。

ママに怒られると、いつもかばってくれるおじいちゃんとおばあちゃんも大好きだった。

いつもニコニコいたいのに……。

ママと一緒にいる時は、常に緊張していた。

普段は笑顔のママも、突然ヒステリックになると、恐怖しか感じられなかった。

いつ、僕は怒られるのだろう。

そうやって常にビクビクしていた。

何故、怒られたのか。

幼いながらも僕はずっと考えている。

だから同じ失敗は繰り返したくなかった。

日曜日になり、ママは再び僕だけを連れ、デパートのニチイに向かう。

手を繋いで仲良く買い物に来ている親子。

多分、他人の目にはそう映っているのだろう。

誰にも知り合いに会いたくない。

僕は内心、そう思いながら一緒に歩く。

二階のレストランのところを通過する。

ショーウィンドーの中で飾られたミートソースが目に映った。

パスタを巻いた状態で宙に浮かんだままのフォーク。

見ていてよだれが出てきた。

僕は後ろ髪を引かれる思いで、もう一度だけ恨めしそうに見た。

地下の食料品売り場に行くと、また伯母さんのピーちゃんの姿が見えた。

こっちに気付かないでほしい……。

懸命に願う。

僕は品物を色々見ているふりをして、ピーちゃんの視界へ映らないように努める。

「何、やってんの。ほら、こっちに行くよ」

強引に手を引かれ、僕の努力は水の泡になる。

正面にピーちゃんが立っていて、僕の姿に気付いてしまう。

笑顔で近づいてくるピーちゃん。

僕は知らんぷりをして横を向いた。

「あら、智ちゃん。また会ったねー」

ピーちゃんが声を掛けてきた。

僕は笑顔で対応したかったけど、この間の事が思い出された。

だから一瞬だけピーちゃんを見て、ろくに挨拶もせず横を向く。

自分のした行動が嫌でたまらなかった。

でも恐怖のほうが罪悪感を遥かに凌駕している。

その日は家に帰っても、ママに怒られる事はなかった。

これでいいんだ……。

必死に自分を納得させるようにした。

だけどモヤモヤとした感じは、いつまで経っても消えない。

 

寂しい四人だけの食卓。

この時間、パパはいつも家にいない。

幼い貴彦は別として、いつも僕と徹也はママの顔色を伺っていた。

ママが冷凍食品のコロッケを二枚だけ揚げ、白いお皿に盛って目の前に置く。

おかずはコロッケが二枚だけの食卓。

「ちょっと待ってな」

ママはそう言うと、黄色いボールを持って階段を下りていった。

「お兄ちゃん、味噌汁も飲みたいよう」

徹也が僕を見て呟く。

「我慢しろって。またそんな事を言うと、ママに怒られるぞ」

四人だけの食事は質素なものだった。

下でご飯を作っているのに、食べに行くと怒られる。

お腹が減っても、あの時の痛みを思い出すと、現状を受け入れるしかなかった。

「何でおばあちゃんたちと一緒に食べないの?」

当たり前の事を徹也は言ってくる。

僕はどう説明したらいいか、困ってしまった。

本当は僕だって、一階の居間で家族そろって食べたいのだ。

「ねえ、何でだろ?」

その時下からおばあちゃんの怒鳴り声が聞こえ、階段を足早に上る足音が聞こえた。

「シッ…。静かにしろって」

慌てて僕は弟を黙らせた。

余計な事を聞かれ、これ以上怒られたくない。

廊下から足音が聞こえ、ママが少し不機嫌そうな表情で現れた。

ママの持っている黄色いボールの中には、白い湯気の出たご飯が入っている。

茶碗にご飯を盛り付けるママ。

乱暴に各自の前へ、茶碗を置いてくる。

「ほら、早く食べちゃいな」

「はい」

刺激してはいけない。

僕は出来る限り平静を装った。

「ママー、味噌汁はー?」

徹也がママに尋ねる。

僕はギョッとした。

その瞬間、ママは徹也の頭を叩いていた。

「うるさい、早く食べろって言ってんだろ」

何故、叩かれたかすら分からない徹也は大声で泣き出した。

「うるさい」

再度、頭を叩くママ。

徹也は口からご飯をこぼしながら泣いている。

僕は可哀相に思うだけで、ママを止める事はできなかった。

怖かったのだ。

ジャッキーチェンの姿が頭の中で浮かんでくる。

あのぐらい僕が強かったらなあ……。

自分の非力さを恨めしく思う。

「ちょっと、あんた。何を子供相手にやってんだい」

後ろで怒鳴り声が聞こえ、振り向くとおばあちゃんが立っていた。

おばあちゃんの顔は珍しく怒っている。

「ご飯を下から勝手に持ってくるぐらいなら、みんなで一緒に食べればいいじゃないか。それに何で徹也を叩いているんだ」

おばあちゃんが救世主に見えた。

見ていて非常に頼もしく感じる。

徹也は泣きながら、おばあちゃんに抱きついた。

ママは黙っている。

僕は恐る恐るママの顔を伺う。

その瞬間、思わず箸を落としてしまった。

綺麗な顔立ちが、鬼のような顔つきに変貌していたからだ。

「うるさい、関係ないだろ」

立ち上がり、おばあちゃんを乱暴に押し出すママ。

おばあちゃんはよろけ、浴室のドアにぶつかる。

見ていて気が気じゃなかった。

「やめなさいよ」

いつの間にか、パパの妹である伯母さんのピーちゃんまで廊下にいた。

大人はみんな、怖い表情をしていた。

目の前で繰り広げられる修羅場。

僕たち兄弟はその光景を見て、震えているしか術はなかった。

パパは何でいつもこの時間いないのだろう。

素朴な疑問が頭をよぎる。

やがて騒ぎを聞きつけたおじいちゃんまで二階に来て、ママを怒鳴っていた。

目から涙を流すママ。

その涙は化粧が溶けたのか黒い涙だった。

身体を震わせ、三人を睨みつけている。

やがてママは、ピーちゃんを突き飛ばし階段を駆け降りていった。

「チクショー、チクショー!」

捨て台詞のように言葉を連発して、玄関の扉が開く音がした。

僕は泣いている徹也の涙を優しくぬぐい、笑い掛けた。

僕たちは助かったのだ。

 

その日、夜中になってもママは家に帰ってこなかった。

ただ意味もなく泣いている末っ子の貴彦。

いくらあやしても泣き止んでくれない。

徹也はベッドで熟睡している。

「貴彦、泣かないでよー」

僕が反対に泣きたいぐらいだった。

でも、小さい貴彦を責める事もできない。

その時、部屋のドアが開き、パパが帰ってきた。

僕たちを見ると、機嫌良さそう笑っている。

「何ら、まだおまえたち起きていたろか。もうひょんな時間らぞ」

「うん」

「ママはどうひた?」

「分かんない」

「何れ、貴彦は泣いているんら?」

「……」

パパの息は酒臭かった。

呂律が回っていないような話し方をしている。

僕と貴彦の頭を交互に撫でると、布団に横になりそのまま寝てしまった。

僕はその寝顔をじっくり眺めた。

もし、ママが部屋に戻ってきても、パパがいるから暴力を振るわれる事はない。

僕はホッとした。

パパのいびきが聞こえてくる。

貴彦をパパの横に寝かせると、いつの間にか泣き止んでいた。

それを確認すると、僕はベッドの二階に上って横になった。

白い毛のような模様が入った天井を眺める。

ジャッキーチェンのように強くなりたい。

映画の中のトレーニングシーンを思い浮かべる。

全身汗まみれで特殊なトレーニングをするジャッキーチェン。

凄い苦しそうな表情をするが、見ていて爽快で格好良かった。

明日から空いた時間があったら、僕も真似をしてトレーニングしてみよう。

自分自身でそう誓った。

ただ、泣いているだけなのは、もう嫌だった。

強くなりたかった。

 

家では猫を放し飼いで、一匹だけ飼っていた。

三毛猫でまだ生まれて一年ほどの可愛い猫だった。

名前はみゃう。

僕はみゃうの姿を見つけると、身体のあちこちを触った。

喉元をゆっくり撫でると、みゃうは気持ち良さそうに目をつぶり、ゴロゴロと喉を鳴らす。

ある日廊下を歩いていると、嫌な臭いが鼻をついた。

猫の小便の臭いだった。

どこで臭っているのだろう。

僕は臭いのする方向へ向かった。

店の受付のところで、ママが洋服を手にとって臭いを嗅いでいる。

僕は近づいてママに尋ねた。

「どうしたの、ママ?」

僕のほうをしかめ面で見るママ。

それほど猫の小便の臭いはキツかった。

「智一郎、猫は?」

「分かんない」

「ちょっと探してきて」

「はーい」

僕はみゃうを探しに家の中を探索した。

みゃうは気まぐれなので、いつも家の中にいる訳じゃない。

僕は二階に上り、トイレ、風呂場、キッチンと見回った。

「みゃうー」

名前を呼びながら三階に上る。

三階には十畳ほどの部屋が三室と、トイレがあった。

一番奥には伯母さんのピーちゃんが住んでいる。

「ねえ、ピーちゃん。みゃうは?」

「私の部屋にはいないよ」

「うーん、どこかなー……」

手前の一つは空き部屋になっていた。

ここにもいない。

もう一つの和室はパパの弟である修叔父さんが済んでいる。

修叔父さんはどこかへ出掛けているようだ。

二階も三階もいないなあ。

各部屋を調べても、みゃうは見つからない。

おじいちゃんやおばあちゃんのほうの家の二階かな。

「あ!」

まだこっちの家で探していないところがあった。

僕の家は造りが多少変わっていて、三階の廊下の大きな窓を開けると、鉄筋の錆びた階段があった。

そこを上ると屋上へ出られる。

四方に薄緑色の柵が落下防止用に設置されているので、僕は怖くなかった。

屋上は貯水用のタンクが一つあるだけで、あとは何もない。

僕はタンクのほうへ歩いていった。

「みゃう」

「ミィー……」

猫の鳴き声が聞こえる。

僕はタンクの奥に回ると、みゃうがうずくまっていた。

「みゃう」

僕のほうを気だるそうに見つめるみゃう。

そんな表情も可愛い。

ゆっくり近づき頭を撫でてやる。

みゃうはアクビをすると、身持ち良さそうに目を閉じた。

ずっとこうして撫でていたいが、ママが探している。

僕はみゃうを抱きかかえ、屋上をあとにした。

 

「あれ、智ちゃん。猫ちゃん見つかったの?」

ピーちゃんが廊下に出て、僕とみゃうを見ている。

「うん! 屋上にいた!」

「良かったねー」

「うん! ママが呼んでるから、じゃーね」

階段を下りる間、みゃうは多少の抵抗をした。

「暴れないで、みゃう。いい子にしてて」

その度に僕は立ち止まり、頭を撫でてやる。

一階に到着すると、ママが大きめのダンボールを持って立っていた。

「智一郎、猫をこっちに持ってきて」

猫を物扱いするママの言い方に気分が悪くなってくる。

でも何も言い返せない僕は、ママに黙ったまま猫を手渡した。

「上に行ってなさい」

「はい」

階段を上りかけた時、声が聞こえた。

「ミャー、ミャー」

激しく泣き出すみゃうの声。

尋常な泣き方ではないみゃうの声を聞き、僕は廊下に戻る。

目の前で見た光景が信じられなかった。

ダンボールに嫌がるみゃうを押し込むママの姿が見える。

箱の中に入れるも、みゃうは必死に抵抗していた。

みゃうの爪がママの手を引っ掻くと、赤い線が見えた。

その瞬間、ママの顔は鬼のようになっていた。

みゃうを乱暴に引っぱたき、ダンボールに押し込めると、ガムテープでメチャクチャに箱を封印している。

「やめてー!」

僕は夢中で駆け寄った。

泣きながらも必死にママを止めようとした。

それだけ目の前で起きた残虐な行為が、許せなかったのかもしれない。

しかし僕の抵抗など些細なものだったのを痛感する。

騒ぎを聞きつけピーちゃんが三階から降りてきた。

「何やってんの!」

ママは無言で箱にガムテープを巻いている。

「ちょっと何をしてんの!」

「どけっ!」

ママはピーちゃんを突き飛ばし、ダンボールを片手で持つ。

僕まで強引に手を引かれ、外に連れ出された。

「やめて。お願いだから、やめてあげて!」

必死な僕の願いなどママには、まるで聞こえていない。

届かない。

ママは車に乗り込むと、僕を睨みつけて荒々しく言った。

「ほら、早く乗んなさいよ」

「やめて……」

「早く乗れ!」

みゃうを放ってもおけず、同時に恐怖を感じた僕は無言で車に乗った。

ママの右手の甲に、赤い血が流れていた。

みゃうに、さっき引っ掻かれた傷だ。

誰か今すぐ来て……。

必死に願う。

「これを持って」

みゃうの閉じ込められたダンボールを膝の上に置かれる。

箱からはみゃうの嫌がる声が聞こえ、中で暴れている振動を感じた。

伯母さんのピーちゃんが、泣きながら玄関から飛び出してきた。

目は真っ赤で、僕たちの乗る車に近づいてくる。

「何やってんのよ? 開けなさい!」

「ママ……」

僕はドアを開けようとした。

「何してんだ、智一郎!」

その怒声で僕の身体は硬直する。

「やめて! お願いだから、やめて!」

ピーちゃんの声を無視して、ママは車を発進させた。

必死に車を追いかけてくるピーちゃん。

でも車の速度には敵わない。

僕は振り向いたまま、ピーちゃんの姿をただ眺めていた。

「いつまであんな奴を見ているんだ?」

「ご、ごめんなさい……」

徐々にピーちゃんの姿は遠くなり、やがて見えなくなった。

 

走っている間、僕はずっと泣きながらママに、箱から出すようにと何度も懇願した。

ママは聞き耳ををまるで持ってくれない。

途中でダンボールからみゃうの手が突き出る。

中で必死に箱を何度も引っ掻いていたのだろう。

みゃうの爪は、僕の指先を構わず手当たり次第引っ掻いた。

ママは車を一旦停め、一回り大きなダンボールに、みゃうの入った箱を入れる。

またガムテープでグルグルに巻いた。

三十分ほど走って車は停まった。

辺りは雑草が茂り、右手に川が見える。

ママは先に車から降りると、僕にも降りろと命令した。

僕は無言で首を横に振った。

烈火の如くママは怒り、僕からみゃうの入ったダンボールを取り上げる。

「ママー、やめてー!」

大声で叫びながら車を降りる僕。

ママがこれから何をするのか、何となく想像ができた。

「ママー!」

僕の声など全然聞こえないように、ママは川のほうへ向かっていく。

僕は懸命に走った。

ダンボールをつかむと、力一杯しがみつく。

「お客さんの品物に小便したんだ。だから、もう家じゃ飼えないんだよ。離しな」

「嫌だよー! みゃうを許してあげて! お願いだから許してあげて!」

「うるさい!」

顔を叩かれ、僕は地面に転がった。

痛みは不思議と感じなかった。

すぐに起き上がり、みゃうの元へ駆け寄った。

「いい加減にしなよ!」

ママはダンボールを地面に置き、僕を何度も叩いた。

そんな状況でも、みゃうの入ったダンボールだけが気になった。

「みゃ、みゃうー……」

ママはみゃうの閉じ込められているダンボールを川に放り込んだ。

「みゃうーっ!」

いくら叫んでもみゃうの入った箱は戻らなかった。

僕はその場に呆然と立ち尽くし、箱が川に流されていく様子を見ていた。

車の中での光景が蘇る。

ダンボールから突き出したみゃうの手。

僕に助けを必死に求めていたんだ。

みゃうがつけた指先の引っ掻き傷を見て、また泣いた。

僕は結局何もできなかった。

無力な存在である。

みゃうの入った箱は、どんどん流されていき、やがて見えなくなった。

「いつまでそうしているんだい?」

引きずられるようにして車内へ戻る。

車が発進しても、僕は窓からみゃうの流された方向をずっと眺めていた。

無邪気なみゃうの顔を思い出す。

僕は思い切り泣いた。

家に帰っても、悔しさやせつなさ、悲しみ、様々な感情が僕を渦巻いた。

あの時、もっとこうしていれば……。

もう遅い。

後悔してもしきれないでいた。

いくら考えても、もう遅いんだ。

みゃうは、二度と戻ってこないのだから……。

夜になってから、あどけない表情のみゃうを思い出す。

自分的には非常に可愛がっていたのだ。 

楽しいみゃうとの思い出。

今日、僕は初めてのペットを不条理にも失ったのだ。

寝る時、僕は声を出さず静かに泣いた。

 

僕の塾通いは変わらず続いていた。

それでも一つもやめたいとは思わなかった。

あの恐ろしいママの顔を見る時間が、少し減るだけでもありがたかったのだ。

自分の感情を自由に表現する事さえ、ママは許してくれない。

パパ以外の家族と仲良くしてもいけない。

毎日が嫌でたまらなかった。

僕はこのままだと、いつか殺されてしまうのかもしれない。

いつも何かに怯えている。

左目の上の傷が疼く。

テストは常に百点をとらないといけない立場だった。

だから勉強を必死にする。

先生の授業など分かりきった事しか言わないので、退屈な時間としか思えない。

僕が本来の僕でいられる時。

それは一日の内で、ママのいない時だけなのだ。

ママが怖くて仕方がない。

前に見た黒い涙。

とてもママに似合っていた。

鬼という言葉は、ママの為にあるものなのだと思った。

きっと鬼の流す涙は黒いのだろう。

家に働きに来る従業員は僕を見かけると、みんな優しそうな笑顔で声を掛けてくれた。

住み込みで働く健ちゃんやせっちゃんも親切に接してくれた。

「ぼっちゃん、お母さんは?」

「出掛けちゃって今はいないよ」

「そう……」

「うん」

「じゃあ、私とまたあの喫茶店でインベーダーでもしようか?」

「ほんと?」

「うん、今日お給料が入ったから、ぼっちゃんにまたピザトースト食べさせてあげる」

せっちゃんはそう言って、大きな口で微笑んだ。

「でも……」

前に怒られた事を思い出す。

行きたいけど、また見つかったら……。

左目の上の傷が疼き出す。

「お母さん、出掛けたのいつぐらいなの?」

「まだ一時間ぐらい前」

「じゃあ、ちょっとの時間だけなら大丈夫よ。ちょっと行って、すぐに帰ればさ」

「う~ん……」

「ピザトースト食べたくないの?」

「た、食べたい……」

ピザトースト……。

あの味を思い出すと口に中によだれが溜まった。

玄関まで来ると、弟の徹也が廊下に立ち、僕とせっちゃんを不思議そうに眺めていた。

「あら、次男ぼっちゃんがこっちを見ているわ。ひょっとして一緒に行きたいのかしら?」

次男ぼっちゃんという不思議な呼び方をしているのは、家の中でもせっちゃんだけだった。

普通に徹也って言えばいいのにと、聞くたびに僕は首を傾げてしまう。

「次男ぼっちゃんも一緒に行く?」

「うん」

徹也はせっちゃんにトコトコ近づいてくる。

玄関を出ると、徹也はせっちゃんの背中に飛び乗った。

まったく甘えん坊である。

「出発進行」

せっちゃんは陽気に元気良く号令を掛けた。

結局、この日だけは運よくママに見つからず済んだ。

こんな日がまたあったらいいなあ…。

素直にそう感じる。

 


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