~二章 人間~
お喋り好きな先輩の川崎道子に誘われ、私は今、ダイニングバーでお酒を飲んでいる。今日の会社の会議で、神威さんが話した内容。あの話をすべて鵜呑みにって難しいけど、でも会社のパソコンで調べたら、本当に『新宿クレッシェンド』という本はあって、著者は同僚の神威龍一となっていた。例の先生が予言というか予測した通りの結果になっているっていう事実がすごい。
「ねえ、知世。神威さんの話ってどう思った?」
頬を赤らめ、軽く酔った口調で川崎先輩が話し掛けてくる。
「自分でも一番不思議なのが、ホラーって本当に苦手なんですね、私…。それなのに自然と興味を持っている自分がいるんです。普通だったら耳を塞いでいるような話なのに……」
「そう…。あんた、まったくそういうの駄目だもんね。あ、マスター、ホワイトレディーのお代わりちょうだい」
カクテルグラスを差し出しながら、川崎先輩はタバコに火をつけた。今日本当は見たいドラマがある日だから、そろそろ帰りたいんだけど、この分じゃ長くなっちゃうんだろうな。ま、先輩だし、しょうがないか。
問題なのが私たちで、本当に怖いホラー映画なんて作れるのかという点。神威さんの話を元にってだけじゃ、ノンフィクション系のレンタルビデオとかにもよくあるような作りの二番煎じで終わる可能性は高いだろうし。それにノンフィクション系なんて、本当に霊なんて出たら、私は多分ショック死しちゃうかも……。
目の前にあったミックスナッツの中から、ジャイアントコーンをつまみ、口へ放り込む。このガリガリした固さが私は好きだった。
「知世、あんたグラス空だよ? ここのモスコミュール飲んでみなよ。すっごく贅沢に作られているんだよ」
「でも…、私はあまりお酒強くないし……」
「いいからいいから…、マスター、モスコミュール一つ」
B型特有のマイペースさが、たまに鬱陶しくもあるけど気を遣ってくれているつもりなのだろうから、O型の私には愛想笑いをしながら合わせるぐらいしかできない。
カウンターの奥にいる口髭を生やした中年のマスターが、静かにロングタンブラーを置き、ゆっくりと氷を入れていく。バースプーンで手早くステアしてから氷を捨て、冷えたタンブラーの中へ、二分の一に切ったライムを軽く搾りつつ、ゆっくり底へ置いた。普通ライムジュースとか、もしくはレモンを薄く切って添える程度なのに、ここはこんな贅沢な使い方をするんだって思わず感心してしまう。
あとは氷を入れて、スミノフのウォッカを注ぎ、ジンジャーエールを適量入れて軽くステア。誰でも作れる手軽なカクテルなのに、プロのバーテンダーが作るとこうも鮮やかに見える。
酸味の利いたモスコミュールは飲み口も良く、とてもおいしかった。
「どう?」
「うん、おいしい!」
「でしょ?」
一杯千円もするだけの事はある。こんなカクテルを勧めてくれた川崎先輩には感謝しないと。
バーの雰囲気を楽しみながら、緩やかに流れるノンヴォーカルのジャズに耳を傾ける。これで彼氏とかいたら、完璧なシチュエーションなんだけどな。
「ん?」
私たちの座るカウンター席の右端に、暗い顔をして一人でいる女性が視界に入る。何となくお酒を飲みながら私はその人を眺めていた。しばらくすると私の視線に気付いたのか、こちらを振り向き一瞬目が合う。さりげなく視線を外し、川崎先輩のほうを見た。またカクテルを一気に飲み干してマスターにお代わりを注文している。本当によく飲むなあ。
お洒落な店だから女性客が多い。中には女性一人で来ている客も少なくない。別にそんな珍しくはないのに、何であの人が気になったんだろう。
川崎先輩と何か会話をしているけど、どこか上の空で何の内容を話しているのかさえ分からず、適当に相槌を打っていた。
カウンター端に座る一人の女性の奥に窓があり、とても綺麗な夕焼けが広がっているから、たまたま視線がそっちへ向いてしまうだけかも。私はまた窓のほうへ顔を向けて、夕焼けを見てみた。横に細長く無数に広がる雲の群れ。ある一点からモクモクとした雲が、マシュマロのようにふっくら膨れ上がり、そこへ夕日の日差しがいい感じの色合いで美しさを形成している。
一つ余計なものと言ったら、その前に無数に見える電線だろう。せっかくの綺麗な景色なのに、その電線のせいで台無しになってしまっている。これがなければ、もっと多くの人がこの夕焼けを見て、心を洗い流すような感動に気付いてくれると思うんだけど……。
私が生まれ育った田舎は、電線で景色が邪魔になるようなところなんてあまりなかった。多分文明の発展と共にこうした感動を見逃し、心が荒んでいく人って、多くなったんだろなあ。
「知世…、知世ってば」
「あ、はい……」
「どうしたの? さっきから何かボーっとしているよ。もう酔っちゃったの?」
「いえ、そんな事ないですよ。ほら、あそこの窓から見える夕焼け見て下さいよ。綺麗だなって思って、つい何回も見ちゃって」
「へー、どれどれ…、あ、ほんとに綺麗だね~」
二人でグラスを片手に夕焼けを眺める。店内であの風景に気付いている人って、どれだけいるんだろ。あと数分であの綺麗な雲は、夜の闇に隠れて賞味期限が切れてしまうのに。
自然と左隅に先ほどの暗い女性の姿が映る。白い薄めのワンピースに背中まで伸びたストレートの黒髪。綺麗な顔立ちをしているけど、どこか寂しげで儚さが同居しているように見えた。一人でここへ来ている事と、顔をテーブルへうつむけているからそう感じるのかも。
「あ……」
私は何であの女性に妙な違和感を覚えたのかが、分かった。
いつからいるのか分からないけど、何であの女性の前だけお酒も食べ物も、何一つ出ていないんだろう……。
カウンターの奥にいるマスターは、あの女性の存在に気付いていないの? 女一人で来ているんだから、もうちょっとそのぐらい気を利かせて声を掛けてあげればいいのに。
「ねえ、川崎先輩……」
私は小声で囁いた。
「ん、何よ?」
「私たちの右側の端に座っている女性…。あの人って可哀相だと思いません?」
「はあ、何それ?」
ちょっと川崎先輩、声デカいっす…。私が小声であえて話しているんだから、察してよ。本当にこういうところ鈍感なんだから。
「ほら、端に座っている女性…。さっきからいるのにお酒も何も出されていないんですよ」
「はあ、女性? どこの席の?」
「私たちの右の一番端ですよ。今、こっちに体を向けているから、私からは見えないけど、先輩からなら見えますよね」
「え、どれどれ」
覗き込むようにして向こうを見る川崎先輩。
「ちょっとそんな凝視して見たら、相手に失礼ですよ」
「知世、その女性ってどれを指しているのよ?」
「私たちの席の右端ですって」
「はあ? 誰もいないじゃない」
「え……」
瞬間的に振り向く。
「……」
さっきまで一人で佇んでいるように座っていたあの暗い感じの女性の姿は、どこにもなかった。何で? さっきまでいたはずなのに……。
「どの女性の事を言っているの? お酒がないなんて、たまたま店もそこそこ忙しいから、まだ出ていないだけでしょ」
「だってさっきまで…、さっきまで、あそこに……」
声に出しながら、私は全身に震えが走っていた。
「どうしたの、知世?」
「マ、マスター、すみません!」
私はグラスを磨いているマスターへ声を掛けた。
「はい、何か?」
「さっきあの右端の席に一人で白のワンピース着た女性が座ってましたよね?」
「え、右端……」
怪訝そうな表情に変わるマスター。グラスを拭いている手の動きは止まっていた。
「ええ、私たちの右側の一番端の席です。一人の女性がいて、お酒も何も出ていなかったから、何だか気になっていて…。それで今それを話していたら、いなくなっていたから」
「お客さま…、申し訳ございませんが、当店の営業に差し障りあるような妙な言動は謹んでもらえないでしょうか?」
「え、だってさっきまであそこに……」
「すみませんが、オーダー入っていますので、失礼します」
そう言うとマスターは奥の厨房へと消えていった。
「……」
あの反応…、マスターはきっと知っている。それなのにあえて知らないふりをするなんて、何か隠しているはず。私はマスターの姿が消えた厨房の入り口をジッと見つめていた。
「ねえ、知世、ちょっとどうしちゃったのよ?」
「何でもないですよ。ただ、あのマスターの様子が変だったから」
「残留思念でも見たんじゃないの?」
「残留思念? それって何ですか?」
「死んだ人の未練が強烈に残っている場合、思い出の場所とかにそういった想いが残るの。例えばあの右端の席で何かあったとか。だから魂だけになっても、あの席へ留まってしまうという感じかな」
「残留思念……」
ゾゾゾとしたものが全身を走り、ゆっくりと右を振り向く。誰もいない右端の席。さっきまでいたあの女性は、一体何だったんだろう?
あまり変な事を考えるのは止めとこ。部屋で一人になった時、トイレにも行けなくなっちゃうから……。
「ねえ、今何となく閃いたんだけどさ、会社の怖い映画作る際ね? とにかく色々な怖い要素を全部詰め込んだらどう?」
「色々な怖い要素ですか? 例えばどんな?」
「今朝の会議で神威さんが話していたあの先生の話。あれって怖い部分も不思議な部分もあるでしょ? ああいうのを好きな人もいれば、外山さんみたいにまるで興味を示さない人もいるでしょ? 知世みたいな怖がりでも興味を示してしまったとかね」
「ええ、人間によって受け取り方って十人十色ですからね」
「さっきあなたが言った右端のカウンター席に座っていた女性って、現段階だとあなたしか見えていないのね」
「……」
じゃあ私って、ひょっとして幽霊を見たの?
「そんな怖がらないでって。でも、明らかにおかしいよね? さっきまでいたはずの人がいなくなっている。私はともかくマスターがそれにすら気付いていないって変だもん」
「確かにあのマスターの対応おかしかったですよね……」
「これってよく分からないけど、不気味な怖さって感じるのね。つまり今朝神威さんの話していたものとは、また違う種類の怖さ。こういった違うものをとにかくみんなで話し合って、どんどん詰め込むの。そうすれば人によって怖さを感じるとか、そういうんじゃなくて、どこかのシーンで人間は必ず恐怖を覚えるはずだし」
神威さんの話は、不思議な怖い話だった。
今の私たちのダイニングバーでの事は、不気味な怖さ……。
「だから今日は無理だろうけど、あのマスターからもいつか事情聞いてさ。絶対に何か知っているような顔つきだったしね」
「やっぱり川崎先輩も、そう感じたんですか?」
「だって明らかに変じゃない。今もまだ厨房から出てこないし、カウンターには私たちだけじゃないでしょ、お客さんって。それなのにあれから出てきていない。仕事中なのに、おかしいじゃない」
「ええ、違和感を覚えました」
オーダーが入っているからと料理を作るふりをして厨房に入ったマスター。私たちが料理を注文した時は、オーダーを奥にいる人に通しただけですぐ戻ってきた。つまり中では調理人がちゃんといるって事。
「とりあえず、ここじゃあれだから、一回出ようか」
「そうですね」
私たちはお勘定をして、ダイニングバーを出る事にした。
店を出る際、もう一度カウンターの右端を見る。やっぱり誰もいない。私の気のせいだったのかな。でも、何回かハッキリとこの目で見たし……。
窓から見えた綺麗な夕焼けはもう見えなくなり、暗い夜空になっていた。
外へ出るとムッとした湿気のある空気が肌を包んでくる。これだから東京の夏って嫌いだ。じゃあ何故私は、地元からわざわざ出て来たんだろう。
多分若かったんだ。都会に憧れて、大人になったらこっちで暮らして働いていれば、それだけでお洒落だと思っていたあの頃。こっちへ出てきてもう三年になる。思い描いたような世界なんて何一つなかった。あまり人混みの多さにうんざりして、家賃の高さにいつも頭を悩ませて。
あれだけ怖いのが苦手なのに、こうしてホラー映画を作るなんて状況にまで巻き込まれてしまって……。
緑が生い茂り、蝉の鳴く音がうるさいぐらい鳴り響くあの家に帰ろうかな。私のような田舎者が肌に合うような場所じゃなかったんだ。久しぶりにお母さんの料理も食べたいし、夏休みに入ったら久しぶりに帰ってみよう。それでそろそろ東京での暮らしも本当に考えよう。
「暑いね、ほんと。嫌になっちゃうぐらい」
「川崎先輩も夏ってあまり好きじゃないですか?」
「あまり好きじゃないね。彼氏がいて一緒に海やプールへ行くとかいうなら別だけどね」
「そういえば私も旅行って旅行なんて、全然していないなあ……」
こっち来て一度もないから、もう三年はしていない事になる。
「じゃあさ、今度休みの時さ、プール付きのホテルで一泊なんてどう? 小旅行にもならないかもしれないけどさ。プールサイドでトロピカルドリンクでも飲んでさ」
「あ、それ、いいかも!」
「プールで水着姿の女二人組ならさ、格好いい男に声掛けられる可能性もあるしね」
「嫌だな、先輩は…。ナンパされ目的ですか?」
「ふん、別にいいじゃない。夏なんだし」
私たちは明るい話題をしながら夜道を歩いた。もうちょっとで駅に到着する。彼女とはそこでお別れだから、また一人寂しい時間を過ごすようだ。
いつもなら普通に別れるけど、さっきのあの変な女性の一件で、どうも今日は一人になるのを嫌がっている自分がいる。もう一軒誘ってみよう。
「先輩…、もう一軒どうですかね」
「え、珍しいじゃない。いつも早く帰ろうってばかりのあなたが」
「え、ええ…、何だかさっきの女の人の事で気になっちゃって……」
「しょうがないな、知世は。じゃあもう一軒行こうか」
こんな時だけうまく人を利用しようとしている私ってズルいのかな。それでも川崎先輩の付き合いの良さには感謝しなきゃ。
私たちは、上野駅不忍池口近くのバーへ入る。
モエ・エ・シャンドン・ブリュット・インペリアルのシャンパーニュをボトルごと注文し、早速乾杯した。ちょっと辛口だけど、キリッとした味わいと冷えた炭酸の心地良さが喉をくすぐる。
「ねえ、会社の話の続きだけどさ」
「ホラー映画のですか?」
「そう…、いくら社長がとか世界で一番怖いのをといっても、制作費なんてそうそう掛けられないでしょ? 例えば大物の芸能人を起用するなんて絶対に無理だしさ。下手したら出演も私ら従業員が出るようになると思うのね」
「確かに……」
「だから、やっぱりドキュメントタッチで作るようになると思うんだ。そこで一つ、思いついたの」
「何をです?」
「都市伝説も加えるのよ」
「都市伝説ですか? 例えば?」
川崎先輩はシャンパーニュを一気に飲み干してから、口を開いた。
「例えば有名どころでは、『口裂け女』とかが有名でしょ。あと『不幸の手紙』とかさ」
「はいはい、事故か何かで耳元まで口が裂けてしまった女性がマスクで顔を隠し、『私、綺麗?』ってやつですよね。あとこの手紙を何名にいつ以内に回さないと、不幸が訪れるとか。最近だと携帯電話を誰でも持っているから、チェーンメールに切り替わっていますよね」
「そうそう…、怖いの嫌いな割にはよく知っているじゃない」
「だって学生時代そういう話を聞くのって、一回や二回じゃないですからね」
同じクラスにいた松永君って本当に意地悪だったっけ。何度嫌だと言っても当時笑顔で毎日のように私に怖い話をしてきたなあ。
「うん、そうそう。誰もが知っているような都市伝説。そういう広まりそうな話を私たちで作るのよ。日常に潜む恐怖…、そんな具合に」
「神威さんのあの不思議な話とかも、うまく交えながらですか?」
「もちろんそうよ。まだうまくまとまらないけど、ある程度の人間が聞いたら、『えっ!』とするような話は全部、この際入れてしまうの。怖いのを最後だけドンって持ってくる手法はね、おそらく今の現代社会だと、ちょっと無理のような気がしてさ」
「今の現代社会が無理って?」
「携帯電話一つ取ってもそうだけど、世の中が便利になり過ぎてしまっているから、人間自身が努力するというよりも、自然と楽な方向へ流れていっているのね。まあちゃんとやっている人もいるけど、ほとんどが楽な方向へと」
いまいち彼女の言いたい事が分からなかった。何故便利さと楽な方向へとが、同時進行なのか。
「最後にドンって怖いのを持ってくるって、例えば?」
「ホラー映画は日常的な描写から、ほのぼのした日々を描き、最後の最後で恐怖シーンを流すのが一番怖いって定説があるのね。だけど、今の時代ではそれが必ずしも適切ではないって事」
「適切ではない?」
「時代が発達し、便利になり過ぎているから楽な方向へとさっき言ったでしょ? つまり、人間一人一人の我慢が足りなくなっているのね」
「我慢? それと映画の最後にって言うのと何の関係が?」
「つまり、徹底した平穏無事な描写があって、最後が生きるんだけど、その肝心なプロセスに堪えられる人間が少なくなってきているって事」
「すみません…、おっしゃる意味がいまいち理解できないです」
「いい、知世? 今、レンタルビデオ屋さんだって苦しい時代になっているでしょ? それにもう置いてある商品はビデオじゃなくDVD…、そろそろブルーレイと変わりつつあるしね。いつでも好きな場面をDVDなら見られるし、場面場面を簡単にスキップできてしまう。つまり、それをさせないような面白いシーンの連続じゃないと、始めから終わりまでちゃんと見てくれないと思うの。映画館で上映とかなら別だけどね」
「なるほど」
「だから様々なものを投入して、視聴者を飽きさせない方向で行くしかないと思うんだ」
たまに思うのが、川崎先輩ってこういう頭の回転がすごい時。普段、男を追い求めているような餓えている印象ばかり目立つけど、頭はきっといい人なんだろう。
今朝の神威さんの話といい、今の川崎先輩の方法論。他の人のアイデアとかもすべてがうまく重なったら、本当に面白いものが作れそうな感じがしてきた。
上野駅の改札を潜り、私たちは別方向のホームへ向かう。
向かい側のホームへ出ると、川崎先輩は先にいて私を見ると、大袈裟に手を振ってきた。ちょっと恥ずかしいけど、私も手を振り返す。
東京、品川方面行きの山手線の電車が到着すると、川崎先輩の姿は見えなくなる。
私は先輩の乗った電車が見えなくなるまで、ただボーっと見送った。やがて池袋、新宿方面行きの電車が来る。この時間だと酔っ払った人が多いせいか、車両の中も酒臭い。まあ私もさっきまで飲んでいたから酒臭くしている原因の一部だよね。
ネオンとビルだけの変わらない光景。とても目の癒しにはならない。何で東京ってこうも人がいっぱい集まるんだろうな。そんな事思いながら地元からこうして私も出てきているんだから、みんなそんな感じなのかもしれない。どうでもいい事を考えながら電車は鶯谷の駅へ到着する。
五分、十分で毎回来る電車に揺られながら、毎日同じような生活をする私。特別これといった楽しみもなく、同じ時間に会社へ出勤して、たまに帰り道飲みに行くぐらいで…。こうまでして何故私はこっちへ留まっているんだろう。
隣にいる顔を真っ赤して酔った中年男性が、時たま私のほうをジッと見つめてくる。嫌だな、変な風に声掛けられなければいいけど……。
日暮里、西日暮里と、私の最寄りの駅である大塚へどんどん近づいて行く電車。時間にして十分ちょっとで上野に着くのが便利なぐらいで、何の特色も楽しみもない街。
大塚駅へ到着してホームへ降りる。重い足取りで階段を上がりながら、自然と横の手すりにつかまる私。二十四歳なのに、おばあちゃんみたい。今度スポーツクラブでも通おうかな。
「ん?」
階段を上がり終わろうとする時、手に何かが触れた。振り向くとそれは人の手だった。慌てて手を離し、触れた手の持ち主を見る。
すると、さっきまで電車で私の隣にいた中年の男性だった。男は真っ赤な顔のまま、ジッと私を見ている。
「お姉さん…、良かったらこれから一杯どうだい?」
「す、すみません…。遠慮しておきます……」
それだけ言うと私は、早歩きで改札口へ向かった。嫌だな、あの人もこの駅を毎日使っているのかしら。何で私が見ず知らずの中年男性なんかと、お酒なんて飲みに行かなきゃいけないのよ。冗談じゃないわ。
定期入れをカバンから取り出しながら、自然と改札口で並ぶ列に紛れ込む。
タッチするだけで改札を通れるなんて、時代も本当に便利になったもんだな。昔は定期券や切符を一回一回駅員さんに見せて通るようだったのに。日本にどれだけ駅があるか分からないけど、定期をチェックする駅員さんが必要でなくなった分、駅員の数も自然と減っているのかもしれないなあ。
南口を出て真っ直ぐ自分の家に向かう。徒歩で約十五分の距離だから、通勤時間はドアトゥドアで片道三十分。もう一回乗換えがある川崎先輩はいつもそれを羨ましがるけど、別に三十分で会社に着いたから何かいい事あるかなんて言うと、何もないんだけどな。
コンビニエンスストアーの前を通り過ぎる。まだ冷蔵庫にミネラルウォーターあったよね? 今日は買い物とかしないで帰ろうっと。
駅前の賑やかな場所から徐々に住宅街へとなり、自然と通行人も少なくなる。それでも私の田舎の駅に比べると数倍も人がいた。東京って、実は憧れと寂しさだけで成り立っているのかもね。
ふと辺りを見回し、後ろを振り向く。一人の人間に目が止まった瞬間、私は全身に鳥肌が立っていた。
何故ならさっき駅で声を掛けてきた中年男性が、私の後ろを歩いていたから……。
やだ…、どうしよう……。
とりあえず気付かないふりをしながら、道を歩き始めた。
男は声を掛ける訳でもなく、一定の距離を保ちながら私のあとをそのままついてくる。住んでいるマンションまで近いけど、ちょっと違う道を歩いてそのままやり過ごそう。
いつもなら右に曲がる道をあえて真っ直ぐ進む。最悪の場合、どこかのお店に入れるように賑やかな方向へ行かなきゃ…。心臓が大きな音を立てている。落ち着いて…。動揺したのを相手に気付かせないようにしないと……。
普通、一回断ったんだから、あとをついてくるなんてありえないでしょ。何でああまでしつこくしてくるんだろう。神経を疑ってしまう。
宛てもなく三回ほど道を曲がり、ゆっくり後ろを振り返る。
「は~……」
思わず出る吐息。もう男の姿は見えなかった。たまたま帰る方向が同じだけだったのかもしれない。用心の為、しばらく辺りを見渡す。うん、もう大丈夫ね。
お酒入って気だるいのに妙な遠回りしたから、部屋までが余計遠く感じる。
気分転換に通り沿いにあるコンビニエンスストアーへ入った。誰でもいいから人のいるところに寄りたかった。中はまばらに暇そうな客が数名いただけだけど、それでもホッとする。特にほしい物がないので、とりあえず飲み物を買う。
さすがにもうさっきの人いないよね? 店内のガラス越しに外を確認して出ると、今度はちゃんとマンションへ向かって歩く。
考えてみたら、こうして大塚駅と自分の部屋の行き来以外で、別の道を歩くなんて初めてかもしれない。見慣れた道じゃないせいか、いつもよりは新鮮に感じた。いつの間に腕を刺されたのか、痒くなった部分を掻きながらマンションへ到着する。
鍵を取り出そうとカバンの中を手探りで探していると、通路の奥で人のいる気配がした。まさか、さっきの中年のおじさんじゃ……。
とっさに振り向く私。白い服を着た女性だったので、ホッと胸を撫で下ろす。ちょっと考え過ぎよね、私の……。
「ん……」
先ほどチラッと見ただけの女性…。どこかで見た事があるような……。
ううん、同じマンションなんだから、すれ違っているぐらいはあるでしょ。それかここに住む人間のところへよく来る知り合いって場合も…。自分を納得させようと色々考えてみても、どこか違和感があった。
「……」
夏の湿気を含んだ蒸し暑い空気に包まれているのに、私は鳥肌が立っていた。
本当はすぐピンと来たけど、それを自分で納得しないよう、あえて否定するように考えたんだ。でも、ちょっと無理があるかも……。
そう…、あの通路の奥にいる女性って、さっき上野のダイニングバーで飲んでいた時、カウンター右端の席にいた女性だ……。
何で、あの人がここに?
何だか怖くなり、私は急いでドアを開け、自分の部屋へ入った。