~三章 演技~
勤めている会社の後輩である澤井知世から電話があったのは、私がちょうど駅のホームに到着した頃だった。
さっきまで一緒に飲んでいたのに、何でまたこんな時間に? 何かあったのかな。
面倒だったので、私は鳴りっ放しの携帯電話をそのまま放置して、道を歩く。本当に重要な用事なら、再度また電話が掛かってくるでしょう。
十回ほど呼び出し音が鳴ってから、携帯電話が切れる。
リカーショップの前を通り過ぎてから、慌てて戻り、店内を物色する。まずはシャンパーニュのボトル一本と缶ビールを一ダースと…。つまみに柿の種と、クリームチーズを選ぶ。そうそう、チーズを乗せるクラッカーも買わないとね。
帰り道を歩きながら、最近私って飲み過ぎだよなと反省する。でも、あくまでも頭で反省しているだけで、日常生活がそれで変わるかと言うとまったく。
先日の件をふと思い出す。
二十八歳と三十を間近になった私は、結婚というよりも、未だ五年間彼氏ができていない状況に焦っていた。
会社の同僚である酒巻君を誘って酒を飲み、酔ったふりをして部屋まで連れ込み、彼は見事その誘惑にハマった。ある意味計画的犯行とも言える一晩の情事であったけど、肝心の酒巻君は会社でも何もなかったかのような顔をしてトボけられてしまった。それ以来、私が何度か声を掛けても、以前より冷たい対応をされるようになり現在に至る。
年上の女は嫌なのか…、それとも私が嫌なのか……。
目の前で明るく見せようと努めているけど、やっぱい内心はとても辛い。中途半端なぬるま湯の中にいるような感覚を覚えながら、部屋に到着した。
私は携帯電話をベッドの上に放り投げ、冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを取り出した。この時期この冷えたビールが、どの店で飲むよりも一番おいしいかも。
ベッドの上に手をそっと置き、約一ヶ月前の酒巻君との事を振り返った。
あの時私を激しく求めてきたのって、単なる勢いだけだったのかな……。
今日の社長の命令で始まった朝の会議。『世界で一番怖いホラー映画』を作れるなんて、無理に決まっているけど、酒巻君はああいった事が好きそうだった。うまい具合にそれを利用すれば、何とかうまくいくんじゃないかな……。
「……」
いくらアイデアを思案したところで、彼の本当の気持ちは分かっている。後輩の澤井知世…。彼女を何かあるにつけて気にしているから……。
「あーあ…、結局タダのやられ損じゃん……」
飲み干した缶を乱暴にゴミ箱へ投げた。
もう一本、ビールを冷蔵庫から取り出してタブを開ける。酒でも飲んでいないと、この寂しさでどうにかなりそうだった。
誰でもいい…、寂しさで、心にポッカリと穴が開いた私を癒してくれる人がほしい。
テレビでお笑い番組がやっているけど、まったく面白くなかった。明日持って行く、お弁当の用意でもしようかな。
飲み掛けのビールをテーブルの上に置き、ゆっくり立ち上がる。酒巻君の分も作って持って行ったら食べてくれるかな? いや、またウザいなあって目で見られて拒絶されてしまうだろう……。
冷蔵庫から卵を取り出し、お椀に割って入れる。砂糖、塩コショウ、そして醤油を少しだけ垂らし、厚焼き玉子の準備をした。隠し味に少量のマヨネーズも入れる。これは卵をふっくらさせるのに欠かせない。
圧縮鍋に多きめのジャガイモを二つ入れて、火を掛ける。二十分ほど加熱して固めに茹で、一つはコロッケ用、もう一つはポテトサラダ用に使おう。
ジャガイモを茹でている間に卵焼きを作り、ソーセージに切れ目を入れてを炒める。
空いたガス代に鍋を置き、パスタを茹でる事にした。お弁当だから手抜きでいいよね。麺を茹で終え、タマネギ、ピーマン、ベーコンを炒め、塩コショウ、そしてコンソメを少量のお湯で溶かして入れた。最後に麺を投入し、ケチャップで味付けをして完了。
茹で終わったジャガイモの皮を剥き、一つは水で冷やしておく。包丁である程度細かく切ってからタマネギと挽肉をボールに入れて、一緒に混ぜ合わせた。小麦粉とパン粉を中に入れ、ある程度の固さにして、形を整えパン粉をつける。あとは油で揚げるだけ。
揚げている間、ポテトサラダの準備を取り掛かった。レタスとキャベツを細かく千切りにして、タマネギも薄く切り刻む。塩コショウとマヨネーズで和え、冷蔵庫に冷やして寝かせる。これで完成っと。
短時間でこう簡単に料理ができる女なんて、そうはいないと思うんだけどなあ。何で世の中の男連中は、私の良さを分かってくれないんだろう……。
あ、ビールのつまみにちょっと持って行こうかな。あとソーセージも。
弁当を作りついでに酒のつまみまで用意した私が部屋まで戻ると、ベッドの上にある携帯電話の光が点滅していた。知世からまた電話あったのかな?
電話を取ると、着信履歴の多さにビックリした。全部で七件の彼女からの着信。あれから別れたあと、何かあったのかもしれない。私はすぐ知世の携帯電話へ掛けてみた。
二回もコールが鳴り終わらない内に、彼女はすぐ電話に出た。
「あ、川崎先輩っ!」
「どうしたの、知世? 何回も着信あったみたいだけどさ」
「さっき…、さっき…、私…、また見たんです……」
知世の声はとても震えていた。尋常でない出来事があったんだ。
「また見たって何を?」
「今日最初に行った店で、カウンター席の端に座っていたっていう女性……。その人が、私のマンションの同じ階にいたんです……」
「う~ん、それってただの偶然なんじゃないの? その人に何かされたわけ?」
「え、いえ…、特に何かされたって事じゃないんですが……」
「じゃあ、たまたま同じマンションだったんでしょ。細かく気にし過ぎだよ。あんた、怖がりだから、怖いほうに考えちゃうから、そうなるんだよ。何回も電話あったから、何かと思ったよ。もう十一時だよ? 早く寝なさいな」
まだ何か言いたそうな知世だったが、私は面倒だったので電話を切った。その後何度も携帯に電話が掛かってきたが、私はあえて出ずに放置する。
タバコに火をつけて、天井を見ながら大きく煙を吐き出す。大量の煙は渦を巻くように舞い上がり、徐々に広がりながら薄くなって見えなくなる。
「ついてきた訳じゃないよね……」
自然と言葉に出る独り言。
気にしないように…、そしてあえて見えないふりをしていたのに……。
今日、知世と行ったダイニングバー。私は入った瞬間から、あの右端の席に薄っすらと座っていた白いワンピースを着た女性が、この世のものでないのを気付いていた。何も見えていないふりをしながらいたけど。おそらくカウンター端の席に、とても後ろ髪を引かれるような想いがあるんだろう。
あの店にいた客で、何人が彼女の姿に気付いたか。ほとんどの人間は気付かないはず。
何故、知世に見えてしまったのか? そして彼女のマンションまで、あの人はついていってしまった……。
残りのビールを一気に飲み干すと、私は再び洋服を着替え出した。
「本当は関わるの、嫌なんだけどなあ……」
ま、会社の可愛い後輩だし、そうも薄情な事なんて言ってられないか。しょうがない、あの店に知世を連れて行ったのは私だし、少しは責任あるからね。
弁当箱に先ほど作ったおかずを詰め、明日の用意を済ませる。あ、知世にもついでに持っていってあげよう。今日はおそらく帰れないだろうし…。タッパに作ったおかずを綺麗に詰め込んで、バックに入れた。
本当はクリームチーズを食べながら、もう一杯といきたいところだけど、そうものんびりしていられないしなあ。
そうか、知世のところで一緒に酒を飲みながらチーズを食べればいいのか。私は冷蔵庫から冷やしておいたクリームチーズと缶ビールを数本取り出して、バックへ詰め込んだ。そうそう、クラッカーも忘れないようにしないと……。
再び熱帯のシャワーを浴びながら駅へ向かう私。本当に暑いなあ。こんな事なら出る前に水のシャワーぐらい浴びておけばよかった。
確か知世の駅って大塚だったっけ? いきなり行ってもしょうがないから、電話でもしておこうかな。あ、その前にタバコでも吸おうっと。
タバコに火をつけながら道を歩いていると、対面から自転車に乗った警官が二人近づいてきた。私を見ると自転車を停め、声を掛けてくる。
「ちょっと君、この辺りは禁煙区域だよ。駄目でしょ、タバコなんて吸いながら歩いていちゃ」
「あ、そうだったんですか? ごめんなさ~い。私、こっちに田舎から引っ越してきてばかりだから、全然知らなくて……」
「それじゃしょうがないけど、これからは駄目だからね」
警官はそう言うと、また自転車に乗って行ってしまう。
しばらくその場に立ち止まり、考えてみた。
見計らったようなタイミングで登場した警官。タバコの注意……。
「物は様々な形で教えてくれる……」
以前言われたあの台詞を思い出す。多分、知世のところへ行く前にしなきゃいけない事があるんだ……。
そうか、知世のところへ行く前に、知っておかなきゃいけない事があった。
まずは上野のさっき行ったあのバーへ顔を出して、マスターに事情を聞いてみよう。あの時のマスターの表情。絶対に何か関係があるはず。私は再び駅へ向かい、上野を目指した。
時刻は夜の十一時半。こりゃあ、下手したら終電なくなるかもね。まあ知世のところに泊めてもらって、明日は一緒に出勤すればいいか。
「はぁ~……」
本当に溜息が出るぐらい因果な人生だなあ。普通に人並みに生活して、恋して生きられたらっていつも思っているのに、絶対こうやっておかしな方向へ引きずり込まれてしまうんだから。
『あなたがいくらそう願っても、逆らえない道になってしまうわ。それならあなたも始めてみたらいいのに。そんなに普通のOL仕事がしたいの?』
ええ、したいです。OLと言うよりも、普通の恋をして普通に生活して、幸せに余生を送りたいだけなんです。
本人のいない前で言ってもしょうがないか。私はあんな人みたいに人間ができていないし、物欲だって性欲だってたくさんある。だからあの人のような真似は無理。結婚にも夢を持っているし、子供だってほしいから。
「カーカー」
見上げると、隣の紺色の屋根の家の上を黒いカラスが数羽飛び回っていた。何となく分かる気配。あの家で今夜誰かが亡くなる……。
私のこういった予想は、不思議とこれまで当たってきた。確固たる証拠とかそういったものでなく、何となくとしか説明のしようがないから誰にも言っていない。いや、学生の時付き合っていた彼氏にだけ、一度話した事がある。だけどそれが原因なのか私の事を気味悪がるような感じになり、いつの間にか避けられるようになっていた。
嫌われるぐらいなら、誰にも言わないほうがいい。私がこれまで生きてきた経験上で出した答えである。
色々な事を考えている内に、電車は上野へ到着した。
店が閉まりひと気のなくなったアメ横を歩きながら、先ほどのダイニングバーへと向かう。あ、店に入る前に知世へ電話でも入れておこうかな。きっと今頃一人部屋で震えているだろうから。
「あ、川崎先輩っ! 私…、何度も電話したんですよ~っ!」
案の定ワンコールもしない内に、知世はすぐ電話に出る。
「電話じゃ埒あかないなあと思ってさ、これからあんたのところまで行くから」
「え? 来てくれるんですか、うちのマンションまで」
「嫌なら別にこのまま自分の家に戻るけど?」
「いえ、絶対にお願いしますっ! 時間も時間だし、泊まっていって構わないですから」
夜中に同僚が家に向かう。普通に考えたら迷惑以外何ものでもない行為。しかし知世は私が来る事を待ち望んでいるかのような言い方だった。
例のバーで見てしまったカウンターの端の席へ座る白い女性。それが知世のマンションまで着いてきたという事実。推測…。今の電話の応対からだと現状では、特にこれといった被害はない。
「川崎先輩、私の部屋分かりますよね? 前に数回来た事あるから覚えていますよね?」
「う~ん、もう数ヶ月前だったから、道がいまいち覚えていないかも」
「そんな~…、私、今ここから外へ出られるような状態じゃないんですっ! お願いだから、そのまま来て下さいよ~」
「分かったわよ…、部屋の番号は何号室だったっけ?」
「二〇七号室です」
「了解、大塚駅に着いたら、電話一度入れるから」
「早く来て下さいね」
電話を切ると、私は軽くひと呼吸入れてから、ダイニングバーのエレベータへ乗った。先ほど飲んでいた頃と比べると、店内の客の数もずいぶんと減っている。そろそろ切り上げないと終電を逃す時間なんだから当たり前か。
「いらっしゃいませ、お一人様でいらっしゃいますか?」
若い店員が近づいてくる。
「ええ、カウンター席をお願いします」
店員にアテントされ、カウンター席へ向かう。右端の席を見るが、そこには誰も座っていない。席に腰を下ろすと、マスターが私の顔を見て怪訝そうな顔をした。今日で二度目の来店。さすがに気になるのだろう。
「ドラフトビールを下さい」
「か、かしこまりました」
本当ならカクテルを頼みたいところだけど、すぐに出せる生ビールをあえて注文する。今回来たのはマスターに話があるからなので、余計な手間は省きたい。
黒のベストを着たマスターの後姿をジッと眺めた。彼は気になるのか何度かこちらを振り返ってチェックしている。プライベートならストーカー行為っぽく思われそうだけど、店と客の関係なので問題なし。
生ビールを一口含み、タバコを吸って間を置く。幸いカウンター席には私以外の客はいない。頃合いを見て声を掛けてみた。
「マスター…、すみません」
「は、はい……」
「先ほど若い子と一緒に来た者なんですが、覚えてますか?」
「ええ、数時間前にお見えになられていましたよね」
「はい、そうです。その時変な質問を私がしたと思いますが、覚えてますでしょうか?」
知世を待たせてあるというのも手伝い、早速本題を切り出す事にする。
「……」
マスターは無言になり、返事を何も返そうとしない。
「このカウンター席の右端に、白いワンピースを着た女性がいたと同僚が言っていたと思うんですね。その件を聞きに、お邪魔させてもらいました」
「その件でしたら、そんな女性などいないと答えたと思いますが」
「マスター…、変な噂を流したいとかそういうんじゃないんです。実はその白い服の女性が、同僚のマンションまで着いて行ってしまったそうです。意識がシンクロしたのかどうかまでは分かりませんが、あの時あの女性の存在に気付いたのって、私と同僚の子だけなんですね」
「そ…、そんな馬鹿な……」
何か隠していると丸分かりな動揺を見せるマスター。
「他言はしません。ここであなたとその女性の間で、何があったのか…、それを聞かせてもらえませんか?」
「……」
「マスター…、お願いします」
彼は黙ったまま背を向けて、厨房のほうへ消えてしまう。少しやり方が強引過ぎたか…。しかし、そうでもしないと情報を何も聞き出せないような気がする。
ビールを半分ほどまで飲み、店内をゆっくり見回した。私を含め、客は全部で七組。内カップルで来ているのは三組。女性同士が三組。一人で飲みに来ているのは私ぐらいだ。
二本目のタバコに火をつけようとした時、ホールにマスターが姿を現す。彼は私の顔を真面目な表情で見ながらテーブルの上に一枚の名刺を置いた。
【ダイニングバー シャネル 香田智典】
私は名刺に書かれた名前を見てから口を開く。
「マスターは、香田さんとおっしゃるんですか?」
「はい…、香田…、香田智典と申します」
「何故私に名刺を?」
「裏に手書きで私の番号が書いてあります。先ほどの話…、店の中ですと抵抗ありますので、後日時間とってお話できないでしょうか?」
なるほど、確かに名刺の裏側に、携帯電話の番号が書いてある。でもこんな簡単に私へ教えちゃっていいのかしら。
「後日と言いますと、だいたいいつ頃でしょうか?」
「今日は一時になれば、お店が終わります。後片付けありますので、二時ぐらいからなら問題ないですが」
二時…。さすがにそれだと知世のところへ行けなくなる。連絡先も聞いた事だし、今日はとりあえず退散しようかな。
「それですと終電なくなりますので、香田さんがお休みで、お手すきの時にどうでしょうか?」
「ありがとうございます。それですと明日私は休みになります。でもお客様はお仕事ですよね?」
「ええ、では明日…、会社が夜の七時頃には終わると思いますので、その時にお時間を取らせて下さい。それでよろしいでしょうか?」
「分かりました。では、明日の七時にと言う事で」
「場所はどうしますか?」
「御徒町駅の北口改札でどうでしょうか? アメ横の目の前にある」
「分かりました。では明日、七時に御徒町駅北口改札口で」
私はチェックを済ませると、ダイニングバーをあとにした。
駅に向かいながら、これまでの状況を整理してみる。
まず、今日の仕事帰りにあのバーへ寄った際、カウンター席右端に白い服を着た女性が座っていた。これは同僚の澤井知世も確認している。
次に彼女が自分のマンションへ戻ると、バーにいた女性が立っていたと電話があって…。そこで私は知世の元へ向かう事に決めた。
途中で先ほどのダイニングバーへ寄り、マスターから事情を聴取しようと思ったが、営業中という事もあり断られ、後日に会って話を聞く機会を設ける。マスターの名前は香田智典。
電車に揺られながら大塚駅に到着する。私は知世に電話を掛けた。彼女は部屋から出るのも怖がっているようで、マンションまでの道順を詳しく教えてくれる。
「何か欲しいものは?」
「特にありません。早く先輩に来てほしいぐらいです」
仕方なく早歩きで彼女のマンションへ向かう。お酒が入っているせいか、足取りが妙にフラフラした。両手に持っているカバンと手作り料理。このせいで歩くのが億劫になっている。
蝉の鳴く音を聞きながら蒸し暑い夜道を歩いていると、夏真っ盛りなんだなと実感した。今度知世に付き合ってもらって、プール付きのホテルでも行きたいな。まだ今年になってから水着を一度も着ていない。日焼けをしている最中にプールサイドで、ダンディーな男性に声を掛けられたりして……。
ダンディーと言えば、バーのマスターである香田もなかなか渋い男である。会話の途中で彼の左手薬指にあるリングを見なければ、明日会う約束ももっと別のときめいたものになったかもしれないのにな。いい男はモテるから、他の女もすぐものにしようとする。だから世の中独身であぶれた寂しい女性が多いんだ。
どうでもいい理屈を考えている内に、知世のマンションへ到着した。
二〇七だから、二階だよね。エレベータを使おうと思ったけど、健康の為にも階段を利用する事にした。
「……」
二階へ上がると、少し空気が変わった感じなのに気付く。視界の見える片隅でザワザワとした気配がある……。
知世が言っていたのは、おそらくこの気配だろう。私はその気配に気付かないふりをしながら、陽気に鼻歌を唄いながら歩いた。全身に広がる鳥肌。毛穴の一つ一つが大きく開いていくのが分かる。ゆっくりと空気を吸い込み、目を閉じて大きく息を吐き出す。
二〇七号室へ辿り着くと、呼び鈴を押した。
「あれ?」
さっき電話にはすぐ出たはずなのに、応答が何もない。一分ほどドアの前に立っていたけど、知世はなかなか出てこない。おかしいな…。私はもう一度押してみた。
耳を澄ませ、中の様子を探る。物音一つもない。
普通なら寝ている時間だけど、十数分前にこれから向かうと電話で話したばかりなのに……。
隣近所には迷惑だったから避けたかったけど、こうする以外方法はないだろう。
「知世ー。ねえ、知世。寝ちゃったの?」
声を掛けながらドアをノックした。そのあとでまた呼び鈴を押す。すると中から内鍵の開く音が聞こえ、やっと知世が顔を出した。
「あんたさー、何ですぐに出てこないのよ?」
「……」
心なしか知世の表情が青褪めている。
「どうしたの? 何かあったの?」
「先輩ですよね? 本当に川崎先輩ですよね?」
「はあ?」
意味不明の台詞に私は顔をしかめた。
「とにかく早く中へ入って下さいっ!」
「ちょ、ちょっと……」
彼女は手を引っ張り込むようにして、強引に私を中へ入れた。靴も脱ぐ暇さえ与えずに、部屋へ上がらせられる。
「知世っ! 落ち着いてよ。一体どうしちゃったのよ?」
部屋まで行くと、彼女はホッとしたようにその場へへたり込み、両腕で肩を抱きながら小刻みに震え出した。
「ねえ、私がさっき電話してからここに来るまでの間に、何があったの?」
「……」
「黙ってちゃ分からないよ。何があったのか教えてくれない?」
「あ、あの…、本当に川崎先輩なんですよね?」
「本当にって私以外、川崎道子って誰がいるのよ」
「そ、そうですよね……」
無理に笑顔を作ろうとする知世。立ち上がろうとすると膝がガクガクと揺れだし、またその場へしゃがみ込む。相当強烈なショックを受けたのだろう。私は彼女の両肩に優しく手を置いて安心させるように努める。
「もう大丈夫だからね。私が来たんだから。この数分で、何があったの?」
しばらく何も言わずに優しく頭を撫ぜた。五分ほど経って、知世は口を開く。
「先輩との電話を切ってから五分ぐらい…。すぐインターホンが鳴ったんです。駅からここまで普通に歩いたら十五分ほど掛かるので、ずいぶん早いなあと思って、ドアを開けたら……」
そこまで話すとガタガタと激しく震え出す。
「大丈夫、知世?」
「は、はい……。すみません……。もうお大丈夫です…。実は…、ドアを開けたら…、誰もいなかったんです……」
「……」
「てっきり先輩が驚かしているんだと思って私…、外へ出たんですね…。そしたらさっきのバーにいた白い女性…。その人が……、まだ…、通路の同じ場所に……、立っていたんです……」
やはり先ほど感じたあの妙な気配がそうだったんだ…。視界の片隅でザワザワと何かがいるような気配。あえて無視を決め込んでやり過ごしたけど、完全に知世のところへ付いてきてしまっているのかも……。
「私が来る時同じ場所を通ったでしょ。その時はもう誰もいなかったよ」
このままじゃ彼女は明日からの仕事に支障をきたすだろう。安心させる為に嘘をつく私。
「で…、でも…、わ、私……。嘘なんてついていないんですっ!」
「嘘をついていない事ぐらい分かっているから、ね? 少し落ち着こうよ」
「は、はい……」
「そうだ。来る前に手料理作ってきたの。お腹減ってない? 良かったら一緒に食べようよ、ね?」
私は持ってきた袋からタッパを取り出して、テーブルの上に置く。
「あまり食欲がありません……」
「駄目よ、こういう時こそ食べないと。一口だけでも食べようよ。そうだ、あんた、冷蔵庫にビールある? ちょっと一緒に飲もうよ」
「は、はあ……」
知世はゆっくり立ち上がり、キッチンのほうへ消えていく。
しかし何でまたあの白い女性は、知世のところになんて付いてきたんだろうか? 彼女とその女性が、特別何か関係があるとは思えない。
おそらくあの店の中にいる客のほとんどが、白い女性を誰も見えなかったのに、知世はその存在に気付き、それを周囲に気付かせるよう働き掛けた。私に話を振る事で…。だからあの白い女性は、知世なら何とかしてくれるかもと思い、そのままあとを付いてきてしまったのではないか。推測に過ぎないけど……。
「キャッーッ!」
知世の悲鳴が聞こえる。私はすぐ彼女の元へ向かった。
「どうしたの、知世」
キッチンに入ってきた私に、泣き叫びながら抱きついてくる知世。数回声を掛けても胸にうずくまるようにして、ただ震えているばかり。私はキッチンを見回してみる。今のところ、どこも異常はないように思えた。
「夜中の二時近くなんだよ。そんなに大きな声で叫んだら、いい近所迷惑でしょ。落ち着いて話してみようよ、知世」
「す、すみません……」
抱かかえるようにして彼女を部屋まで連れて行く。ピンクのソファーへ座らせると、私はキッチンからビールを持ってこようと思い、立ち上がる。すると、私の手を知世はガッチリつかんできた。
「い、行かないで、先輩…。私を一人にしないで……」
つかんでいる手から伝わる震え。尋常じゃない怖がり方をしている。
「ビールを持ってくるだけだから。すぐ戻るから」
「……」
指を一本ずつ離し、私はキッチンへ向かう。冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、すぐ部屋へ戻った。
両膝をソファーの上に乗せ、腕で抱え込むようにして縮こまっている彼女。やっぱり今日ここへ来ようと思って正解だ。あの電話のあと気にせず一人で今頃いたら、どうなっていたのか…。テーブルの上にビールを置いてから、声を掛けてみる。
「ねえ、あの数秒の間に何か怖い事でもあったの?」
「キ、キッチンの窓に……」
「キッチンの窓? 何があったの?」
「人影が映っていて…。もう、私…、こんなところに住むのは嫌……」
「え、人影が立っていたの? こんな時間なのに」
「は、はいっ! 本当に人が立っていたんです。きっと…、きっとあの白い女性が……」
「もう、私がそばにいるから大丈夫でしょ。安心しなさい」
頭に手を置いて、彼女の額に私の額をつっくける。それで少しは落ち着いたのか、徐々にであるけど知世は冷静さを取り戻していった。
「あのダイニングバーのマスターいるでしょ?」
「え、あ…、はい……」
「今日あんたのところに来る途中で私、また寄ってみたのね。知世が言っていた白い女性。その件で聞いたら変な対応していたでしょ」
「そういえばそうですね。何だか触れてほしくないような感じでした」
「だから何かあると思ったの。それで再び行ったら、仕事中だからとこんなものをもらったのね」
そう言いながら、香田から受け取った一枚の名刺を財布から取り出して見せた。
「これってあのマスターの名刺ですか?」
「ええ、そうよ。裏を見て」
「裏ですか? あ、電話番号が書いてありますね。これって携帯の番号ですよね?」
「そう。あのマスター、香田さんのね」
「ひょっとして…、何か分かったんですか?」
「いえ、今はまだ何も。ただ、明日香田さんが休みらしいから、会社終わって七時に待ち合わせしているの。良かったら知世も一緒に来る?」
私が誘うと、彼女は途端に表情を曇らせる。
「何て顔をしているの。相手は普通の人間でしょ。あんたもこのままで毎日を過ごすの? そんなのはゴメンでしょ? 彼から話を伺って、何故こうなってしまったのかの原因を解明したほうがいいと思うんだけど」
「原因を解明ですか……」
「だって元々何もなかったのに、私とあんたでバーに行った事が、そもそもの始まりでしょ? だからこそ、その原因を知っておいたほうがいいと思うのね」
「そ、そうですね……」
よし、これで明日は、私と知世で香田と一緒に話が聞ける。今のところ分かっているのが、白い女性との接点は、あのダイニングバーとマスターぐらいしかない。
「じゃあ、今日はもう寝て、明日に備えようよ。仕事中居眠りしたくないでしょ」
「あの~…、一つお願いが……」
「ん?」
「しばらく先輩のところに泊めてもらえませんか? ここへ一人で帰るのが怖くなってしまって……」
「もう…、ほんとにあんたは怖がりなんだから…。まあ今回はしょうがないけどね」
「良かった……」
「早くこの不可解な現象を何とかしないとね」
「はい」
「じゃあ、残りのビールを飲んじゃおうよ。もったいないし」
「すみません、川崎先輩……」
「ん、何が?」
「私の事なのに、こんな親身になってもらってしまって」
「馬鹿ね…、何を水臭い事を言ってんの。私は知世の上司でもあり、先輩でしょ。困った時はしょうがないの。それにあんたをあのまま放っておいて、仕事に支障が出るほうが嫌だしね。私の仕事量が必然的に増えるから」
軽いジャブの効いた私のジョークに、ようやく知世は笑顔を見せた。
「じゃあ、乾杯するよ」
「え、乾杯って何にです?」
「別に乾杯に意味なんてないわよ。お酒を飲むからとりあえず乾杯するだけ。あ、あんたのせいで私のプライベートがしばらく台無しになりそうなんだから、今度プール付きのホテルへ付き合いなさいよね」
「えー、そんなー」
「じゃあ、今日はこのままタクシーに乗って帰るけどいいの?」
「ズルいですよ、先輩は」
「上司命令は絶対なのだ」
そこまで話し終わると、私たちは顔を見合わせて大笑いした。隣の住民が壁を叩き、「うるせーぞ、コラッ」と怒鳴ってきたので、蚊の鳴くような声で会話を済まし寝た。
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