[種別:臨時(団体) 長野電鉄屋代線 2412X 屋代10:49→須坂11:29]
《屋代10:49発》
長野電鉄の歴史を語るうえで、屋代線を抜きに語ることはできません。ここでは屋代線と2000系の両方をあわせて説明していきたいと思います。
《以下は読みたい人向け。読まなくても、当旅行記を見る上では何の問題もありません》
屋代と須坂を結ぶ長野電鉄屋代線は、1922年、河東鉄道の手によって開業しました。河東の『河』とは、千曲川(信濃川の長野での名称。富士川が山梨で釜無川と呼ばれているのと同じ)のこと。既に千曲川の西岸には1888年に信越本線が開通。1921年には飯山線の前身となる飯山鉄道が豊野~飯山を開業させていました。小布施・松代など、江戸時代から続く古い街が残る東岸側が、鉄道によって栄えていく西岸(飯山・豊野・長野・篠ノ井など)に危機感を覚えたのでしょう。実際須坂は千曲川を挟んで長野と相対しています。1923年には豊野の対岸にあたる信州中野、1925年に飯山の対岸・木島まで到達しました。信越本線に接続する屋代では、国鉄からの貨物を受け入れを始めます。
ちなみに、この開業には小海線の前身となった佐久鉄道が一枚かんでいるのですが、甲府から直江津までを結ぶ壮大な計画を立てていました。さすがに開業免許は下りなかったようですが。
偶然にも、同時期に長野電気鉄道が長野市と千曲川東岸を結ぶ鉄道の計画をしていました。善光寺に近い権堂駅から須坂までの路線を建設していた長野電気鉄道と河東鉄道の思惑は合致。1926年、屋代~木島の電化と同時に2社は合併。長野電鉄となりました。翌1927年には信州中野から湯田中までの平穏(ひらお)線→山の内線が誕生。実は長野電鉄にとって湯田中は終点ではなく、計画段階では志賀高原の奥にある渋温泉まで敷こうとしていました。志賀高原は当時からスキーで知られていました。最終的に幻となりますが、この路線計画が、長野電鉄の志賀高原開発の第一歩となります。1928年に権堂から国鉄長野駅前まで延伸し、利便性が増しました。
……が、結果的に見れば最終的に屋代線を追いやった原因もこの延伸にあります。元々、上田・長野・飯山といった都市を抱える河西に比べ、河東の人口はそこまで多くありません。ましてや長野は県庁所在地。客の流動は河東→河西の向きでした。この時点で既に、河東を南北に結ぶ旧河東鉄道区間――河東線は3つの区間に分かれていました。国鉄からの貨物を受け入れる屋代から須坂までの区間(通称:屋代線)、長野から湯田中までのルートの一部を形成していた須坂から信州中野までの区間、そして末端の信州中野から木島までの区間(通称:木島線)。特に両末端は、長野線(旧長野電気鉄道の区間)に客を供給するだけの培養線になっていきました。
戦後になって、その勢いは増します。長野市のベッドタウンとして須坂・小布施・中野といった沿線の街が開発されるようになり、長野に向かうベクトルはさらに大きくなります。長野電鉄では車体の小さい中古車の置き換えとして新車を製造しますが、それでも車両が不足する始末。同時に志賀高原の需要も増加。まだマイカーが普及しないこの時代、《信越本線→長野電鉄》というのが志賀高原へのゴールデンルートでした。在来車による急行はあったものの、長野電鉄の新車は通勤向けのロングシートで、観光客輸送に適してはいませんでした。
そこで長野電鉄は1957年、長野~湯田中間で観光客向けに新たな種別・『特急』を新設しました。そのための車両として作られたのが2000系です。
観光輸送に特化した2000系は、2扉・回転式ロマンスシートという、当時としては豪華な設備を導入。平面ながら、運転台後ろには2列の展望席をもちます。湘南顔を持つ丸みを帯びた独特の外観や、まだ珍しかったWN(カルダン)駆動などは、当時最新鋭の名鉄5000系が参考にされたといいます。もちろん、山の内線が急勾配なのに合わせ抑速ブレーキ・発電ブレーキも完備。2両の電動車(2000形)で付随車(2050形)を挟む3両編成でしたが、需要に合わせて2050形を外して2両、あるいは繋げて4両でも運転できるよう、電動車で機能が完結するようにしてあります。
この2000系特急はかなり好評で、半年でさらに1本が増備、翌年にさらに増備され、計3本で1日5往復の特急の任に当たりました。構造上通勤に向いていないこともあって、2000系は特急専用とされ、運用は他と分けられていました。後継の1000系や2100系もこの辺りは踏襲しています。
路線こそ伸ばせなかったものの、湯田中では志賀高原行きのバスに接続し、特急は大盛況。長野電鉄では新しい特急車両としてパノラマカー構造の3000系が考案されました。しかし、タブレット区間があったためパノラマカー構造は断念(現在はCTCのため、前面展望構造を持つ1000系が活躍中)。2000系の再増備として落ち着きました。この編成こそが2000系D編成(2007-2054-2008)です。同じ2000系とはいえ、台車はコイルばねから乗り心地の良い空気ばねに変更。新造時からスカートがつくなど、N2000系とでも言うべき仕上がりになっています。
さて、河東線のうち末端ローカル線となっていた屋代線と木島線ですが、1961年、屋代線は転機を迎えます。信越本線の急行の内、一部の列車が屋代駅で切り離し、屋代線を介して湯田中まで直通運転をすることになったのです。翌年からは通年運行となり、キハ58系の亜種・キハ57系が屋代線経由で乗り入れるようになりました。1963年からは165系、1968年からは169系と移り変わります。長野電鉄の交換設備が18メートル級4両・20メートル級3両が限界だったため乗り入れは3両でしたが、上野から湯田中まで乗りとおせるとあって人気を博しました。
一方の木島線はといえば、1960年ごろに長野から直通特急「のざわ」が新設されるも、利用が伸びずわずか3年で廃止。利用向上のため野沢温泉まで延伸をしようと画策しますがこれも頓挫し、ローカル線の顔を深めていきます。
長野電鉄の栄光はここまででした。70年代以降はマイカーの時代になり、志賀高原に向かう需要は減るばかり。屋代線直通の急行も1982年に姿を消します。1989年の長野自動車道開通、1990年代の上信越自動車道の開通は、さらなる打撃を与えました。こと上信越自動車道に関しては、全区間が河東線と並行。喧嘩しか売っているとしか思えません。
経営の苦しくなった長野電鉄では1980年からCTCに、1993年からは屋代線と木島線(いずれもこの時点では通称)でワンマン運転が始まります。2000年には長野―信州中野でもワンマン運転がスタート。「OSカー」の名で知られる0系・10系がワンマン対応ができないために廃車になったのは有名な話です。
しかし、屋代線も木島線も、既に対岸の路線とは勝負になっていませんでした。人口比から見ても明らかに飯山線寄りだった豊野―中野以北では圧倒的に飯山線優位で、結局2002年に信州中野―木島間が廃止。この時に、実際の運行状況に合わせて、長野―須坂―信州中野―湯田中(旧:長野線・河東線・山の内線)が長野線に、屋代―須坂が屋代線になりました。
屋代線が生き残ったのは中間に松代というそこそこ大きな町があったからですが、それでも人口は2万人強。千曲川を挟んで向かい合う長野と松代は長電バスで結ばれており、屋代線の役目はほとんどありませんでした。
こうして、2000年代後半から廃止論議がなされていた屋代線は、2011年2月に協議会での廃止が決定。3月25日には廃止届が提出されました。「廃止届提出から1年過ぎれば廃止できる」というルールから、2012年3月31日をもって、屋代線は89年の歴史に幕を閉じることになりました。
一方、特急として第一線で活躍してきた2000系も、車齢が40年を超え老朽化が進んでいました。長野電鉄が置き換え用の車両を探していた丁度その時、小田急ロマンスカー"HiSE"10000形が、後継車に追いやられる形で4本のうち2本が運用を離脱しました。当初は廃車予定だったのですが、新しい特急車両を求める長野電鉄と小田急で利害が一致。なんと無償譲渡で手に入ることに。11両から4両に短縮の上、2006年に1000系「ゆけむり」としてデビューを果たします。その際、余剰となったB編成(2003-2052-2004)とC編成(2005-2053-2006)が廃車になっています。
長野電鉄の特急は、観光の足として主要駅のみ停まるA特急(主に昼間)と、通勤需要を見込んで停車駅を増やしたB特急(主に朝夕)があり、かつてはC特急やD特急もありました。A特急は1000系、B特急は2000系と区別されるようになりました。この間に特急運転開始50周年を迎え、A編成は登場時のマルーン色(ブドウ色)、D編成はクリームと赤のリンゴ色(それまでもクリームと赤の2色だったが、クリームと赤が逆転している)に塗り替えられました。
そして2011年2月26日、JR東日本から元「成田エクスプレス」253系が2100系「スノーモンキー」として現れるのと同時に、2000系は長きに渡る定期運用から退きました。3月末にはA編成が営業を終了。D編成も夏いっぱいで終了……のはずでしたが、屋代線が廃止になることから2012年3月31日まで延長。屋代線とともに、長野電鉄での生を終えることとなりました。
《ここまで》
お待たせいたしました。ここからはいよいよ2000系乗車記です。
何回も書いている通り、ツアーの定員120人に対し実際の参加者はわずか30人弱。初めは座席指定の予定だったそうですが、もはや意味がないということで全車自由席に。必然的に運転台後ろにあるボックス席に客が集まります。集まるといっても10人前後、それも全員が鉄道マニアなので、自然と譲り合う空気ができていました。なんというか平和です。
屋代を出るとしばらくはしなの鉄道と並走します。
しなの鉄道と分かれると、線路の両脇は夏の濃い緑に包まれます。いかにも夏らしい車窓です。
屋代線のトンネルは3本。いずれも100メートル前後の短いトンネルで、残る区間は夏空の下に広がっていました。空は雲一つない快晴。最後の夏を迎えた2000系にとっても嬉しい天気だったことでしょう。
《信濃川田 11:10着》
途中の信濃川田で停車します。
「町川田」として開業した信濃川田は、屋代線で3カ所ある交換駅の一つです(屋代側から順に、松代、信濃川田、綿内)。かつては雨宮と金井山にも交換設備がありました。
拡大。
編成外観。
2両分しかホームがないので、3両目の2008はホームに入りきれていません。
中間の2054。1989年に冷房化されるとき、先頭の電動車の床下に余裕がないため、補助電源をインバータに交換した上で中間に移されました。このため、現在の2000系では2両運転はできなくなっています。でもこれで秩父鉄道1000系のようにはならなかったよ! やったね!
先頭の2007。
全国でも数が減った構内踏切に群がる一行。人数が少ないので譲り合い精神が発揮されています。
11時15分ごろ、反対ホームに営業列車がやってきました。元は営団(現:東京メトロ)日比谷線の3500系です。
肩を並べたところで、2000系貸切列車も発車します。
《信濃川田11:17発》
交換設備の残る綿内を通過。須坂はもうすぐです。
《須坂11:32着》
屋代線24.4㎞の旅は、いったんここで終了。
2000系も引き上げます。
須坂駅北方にある引き上げ線から、車庫に入ります。
といっても、これで2000系の出番が終わるわけではありません。この後、車庫での撮影会が用意されているのです。
屋代駅での撮影会は他のツアーでもよく行われていましたが、須坂車庫での撮影会はなんと長野電鉄初とのこと。これは期待です。
移動前に構内を散策します。
須坂駅は3面5線のホームがありますが、駅舎に面した1面は現在使われていません。残る島式ホームのうち一番駅舎に近いホームが屋代線に使われていました。
その、屋代線ホームと廃ホームの間にある側線に、4月に営業運転から退いたA編成(2001-2051-2002)が留置されていました。ぶどう色の塗装はやや剥げ落ち、4か月でかなりぼろぼろになってしまったのが分かります。実際、定期運用離脱直前の2011年1月に乗った時に比べると、疲れている印象がぬぐえません。整備あっての車両だということを実感させます。
気を取り直して、車庫に向かいましょう。
須坂駅南方にある木造の風格ある車庫に、長野電鉄を代表する車両が集まっていました。左から、2100系「スノーモンキー」、2000系、1000系「ゆけむり」、3500系です。
特筆すべきは、長野電鉄の特急車両がすべてそろっていること。1000系は、2006年デビュー以来、元来の特急車両2000系とのコラボは良く見かけられました(導入に合わせ2000系B/C編成の引退があったのも一つ)。また、2100系についても、次世代の長電を担う車両として1000系と並べられ、特急車両の交代で2000系とも顔を揃えています。しかし、3つすべてが一度に会す機会はこれまでありませんでした。ここに集ったのは奇跡といってもいいでしょう。
ここでも100枚近く撮ったため、前回(屋代駅撮影会)と同じように、写真はフォトチャンネルにまとめ、ブログでは一部をピックアップすることにします。
追い出すものと、追い出されるもの。
2006年から5年近く、2000系と1000系が並ぶ光景は日常的にみられました。朝はB特急(2000系)からA特急(1000系)へ、夕方はA特急からB特急へ、この須坂駅で対面乗り換えになるようになっていました。
そんなわけで2000系の「特急 須坂」は毎日のように見れたわけです。だが3500系。てめーは駄目だ。おとなしく鈍行運用につきなさい。
それって幕にする必要ある?
よく考えてみると試運転には種別も何もないので、営業運転ではありえない幕です。
車庫の脇を、8500系の527列車(長野発信州中野行)が駆け抜けていきます。当時現役だった車両が一堂に会した貴重な瞬間です。
後追い。
続けて8500系の210列車(須坂発長野行)が留置中の10系「OSカー」を尻目に須坂駅を発車。
長野方面へと消えていきました。
撮影会の様子。30人弱しかいないので好きな場所で撮り放題です。
あまりに暑いので、撮影会の途中で抜け、駅に戻りました。隣接するイオンに寄って一休みです。
イオンを出ると、撮影会を終えた2000系が再び入れ替え作業に入るところでした。一行は2000系で再び屋代駅に戻ることになります。
屋代線の営業列車を見送ります。
しばらくして、同じ場所に2000系が入線。
見ての通り2000系同士が並んでいるわけですが、A編成自体がホーム端(にあたる位置)に留置されているうえ、D編成も微妙な位置に停車した(A編成の湯田中側先頭車2001とD編成の長野側先頭車2008が重なる位置)ため、2本を同時に取ることはできませんでした。
発車までに、これまで見てこなかった車内を見ておきましょう。
運転台。正面は曲面2枚窓。運転台後ろもガラスになっているので、前面展望は抜群です。
座席。ロマンスシートがずらりと並びます。
湯田中側から2007-2054-2008です。
さあ、再び2000系で屋代線の旅に出発です。
続く!
《屋代10:49発》
長野電鉄の歴史を語るうえで、屋代線を抜きに語ることはできません。ここでは屋代線と2000系の両方をあわせて説明していきたいと思います。
《以下は読みたい人向け。読まなくても、当旅行記を見る上では何の問題もありません》
屋代と須坂を結ぶ長野電鉄屋代線は、1922年、河東鉄道の手によって開業しました。河東の『河』とは、千曲川(信濃川の長野での名称。富士川が山梨で釜無川と呼ばれているのと同じ)のこと。既に千曲川の西岸には1888年に信越本線が開通。1921年には飯山線の前身となる飯山鉄道が豊野~飯山を開業させていました。小布施・松代など、江戸時代から続く古い街が残る東岸側が、鉄道によって栄えていく西岸(飯山・豊野・長野・篠ノ井など)に危機感を覚えたのでしょう。実際須坂は千曲川を挟んで長野と相対しています。1923年には豊野の対岸にあたる信州中野、1925年に飯山の対岸・木島まで到達しました。信越本線に接続する屋代では、国鉄からの貨物を受け入れを始めます。
ちなみに、この開業には小海線の前身となった佐久鉄道が一枚かんでいるのですが、甲府から直江津までを結ぶ壮大な計画を立てていました。さすがに開業免許は下りなかったようですが。
偶然にも、同時期に長野電気鉄道が長野市と千曲川東岸を結ぶ鉄道の計画をしていました。善光寺に近い権堂駅から須坂までの路線を建設していた長野電気鉄道と河東鉄道の思惑は合致。1926年、屋代~木島の電化と同時に2社は合併。長野電鉄となりました。翌1927年には信州中野から湯田中までの平穏(ひらお)線→山の内線が誕生。実は長野電鉄にとって湯田中は終点ではなく、計画段階では志賀高原の奥にある渋温泉まで敷こうとしていました。志賀高原は当時からスキーで知られていました。最終的に幻となりますが、この路線計画が、長野電鉄の志賀高原開発の第一歩となります。1928年に権堂から国鉄長野駅前まで延伸し、利便性が増しました。
……が、結果的に見れば最終的に屋代線を追いやった原因もこの延伸にあります。元々、上田・長野・飯山といった都市を抱える河西に比べ、河東の人口はそこまで多くありません。ましてや長野は県庁所在地。客の流動は河東→河西の向きでした。この時点で既に、河東を南北に結ぶ旧河東鉄道区間――河東線は3つの区間に分かれていました。国鉄からの貨物を受け入れる屋代から須坂までの区間(通称:屋代線)、長野から湯田中までのルートの一部を形成していた須坂から信州中野までの区間、そして末端の信州中野から木島までの区間(通称:木島線)。特に両末端は、長野線(旧長野電気鉄道の区間)に客を供給するだけの培養線になっていきました。
戦後になって、その勢いは増します。長野市のベッドタウンとして須坂・小布施・中野といった沿線の街が開発されるようになり、長野に向かうベクトルはさらに大きくなります。長野電鉄では車体の小さい中古車の置き換えとして新車を製造しますが、それでも車両が不足する始末。同時に志賀高原の需要も増加。まだマイカーが普及しないこの時代、《信越本線→長野電鉄》というのが志賀高原へのゴールデンルートでした。在来車による急行はあったものの、長野電鉄の新車は通勤向けのロングシートで、観光客輸送に適してはいませんでした。
そこで長野電鉄は1957年、長野~湯田中間で観光客向けに新たな種別・『特急』を新設しました。そのための車両として作られたのが2000系です。
観光輸送に特化した2000系は、2扉・回転式ロマンスシートという、当時としては豪華な設備を導入。平面ながら、運転台後ろには2列の展望席をもちます。湘南顔を持つ丸みを帯びた独特の外観や、まだ珍しかったWN(カルダン)駆動などは、当時最新鋭の名鉄5000系が参考にされたといいます。もちろん、山の内線が急勾配なのに合わせ抑速ブレーキ・発電ブレーキも完備。2両の電動車(2000形)で付随車(2050形)を挟む3両編成でしたが、需要に合わせて2050形を外して2両、あるいは繋げて4両でも運転できるよう、電動車で機能が完結するようにしてあります。
この2000系特急はかなり好評で、半年でさらに1本が増備、翌年にさらに増備され、計3本で1日5往復の特急の任に当たりました。構造上通勤に向いていないこともあって、2000系は特急専用とされ、運用は他と分けられていました。後継の1000系や2100系もこの辺りは踏襲しています。
路線こそ伸ばせなかったものの、湯田中では志賀高原行きのバスに接続し、特急は大盛況。長野電鉄では新しい特急車両としてパノラマカー構造の3000系が考案されました。しかし、タブレット区間があったためパノラマカー構造は断念(現在はCTCのため、前面展望構造を持つ1000系が活躍中)。2000系の再増備として落ち着きました。この編成こそが2000系D編成(2007-2054-2008)です。同じ2000系とはいえ、台車はコイルばねから乗り心地の良い空気ばねに変更。新造時からスカートがつくなど、N2000系とでも言うべき仕上がりになっています。
さて、河東線のうち末端ローカル線となっていた屋代線と木島線ですが、1961年、屋代線は転機を迎えます。信越本線の急行の内、一部の列車が屋代駅で切り離し、屋代線を介して湯田中まで直通運転をすることになったのです。翌年からは通年運行となり、キハ58系の亜種・キハ57系が屋代線経由で乗り入れるようになりました。1963年からは165系、1968年からは169系と移り変わります。長野電鉄の交換設備が18メートル級4両・20メートル級3両が限界だったため乗り入れは3両でしたが、上野から湯田中まで乗りとおせるとあって人気を博しました。
一方の木島線はといえば、1960年ごろに長野から直通特急「のざわ」が新設されるも、利用が伸びずわずか3年で廃止。利用向上のため野沢温泉まで延伸をしようと画策しますがこれも頓挫し、ローカル線の顔を深めていきます。
長野電鉄の栄光はここまででした。70年代以降はマイカーの時代になり、志賀高原に向かう需要は減るばかり。屋代線直通の急行も1982年に姿を消します。1989年の長野自動車道開通、1990年代の上信越自動車道の開通は、さらなる打撃を与えました。こと上信越自動車道に関しては、全区間が河東線と並行。喧嘩しか売っているとしか思えません。
経営の苦しくなった長野電鉄では1980年からCTCに、1993年からは屋代線と木島線(いずれもこの時点では通称)でワンマン運転が始まります。2000年には長野―信州中野でもワンマン運転がスタート。「OSカー」の名で知られる0系・10系がワンマン対応ができないために廃車になったのは有名な話です。
しかし、屋代線も木島線も、既に対岸の路線とは勝負になっていませんでした。人口比から見ても明らかに飯山線寄りだった豊野―中野以北では圧倒的に飯山線優位で、結局2002年に信州中野―木島間が廃止。この時に、実際の運行状況に合わせて、長野―須坂―信州中野―湯田中(旧:長野線・河東線・山の内線)が長野線に、屋代―須坂が屋代線になりました。
屋代線が生き残ったのは中間に松代というそこそこ大きな町があったからですが、それでも人口は2万人強。千曲川を挟んで向かい合う長野と松代は長電バスで結ばれており、屋代線の役目はほとんどありませんでした。
こうして、2000年代後半から廃止論議がなされていた屋代線は、2011年2月に協議会での廃止が決定。3月25日には廃止届が提出されました。「廃止届提出から1年過ぎれば廃止できる」というルールから、2012年3月31日をもって、屋代線は89年の歴史に幕を閉じることになりました。
一方、特急として第一線で活躍してきた2000系も、車齢が40年を超え老朽化が進んでいました。長野電鉄が置き換え用の車両を探していた丁度その時、小田急ロマンスカー"HiSE"10000形が、後継車に追いやられる形で4本のうち2本が運用を離脱しました。当初は廃車予定だったのですが、新しい特急車両を求める長野電鉄と小田急で利害が一致。なんと無償譲渡で手に入ることに。11両から4両に短縮の上、2006年に1000系「ゆけむり」としてデビューを果たします。その際、余剰となったB編成(2003-2052-2004)とC編成(2005-2053-2006)が廃車になっています。
長野電鉄の特急は、観光の足として主要駅のみ停まるA特急(主に昼間)と、通勤需要を見込んで停車駅を増やしたB特急(主に朝夕)があり、かつてはC特急やD特急もありました。A特急は1000系、B特急は2000系と区別されるようになりました。この間に特急運転開始50周年を迎え、A編成は登場時のマルーン色(ブドウ色)、D編成はクリームと赤のリンゴ色(それまでもクリームと赤の2色だったが、クリームと赤が逆転している)に塗り替えられました。
そして2011年2月26日、JR東日本から元「成田エクスプレス」253系が2100系「スノーモンキー」として現れるのと同時に、2000系は長きに渡る定期運用から退きました。3月末にはA編成が営業を終了。D編成も夏いっぱいで終了……のはずでしたが、屋代線が廃止になることから2012年3月31日まで延長。屋代線とともに、長野電鉄での生を終えることとなりました。
《ここまで》
お待たせいたしました。ここからはいよいよ2000系乗車記です。
何回も書いている通り、ツアーの定員120人に対し実際の参加者はわずか30人弱。初めは座席指定の予定だったそうですが、もはや意味がないということで全車自由席に。必然的に運転台後ろにあるボックス席に客が集まります。集まるといっても10人前後、それも全員が鉄道マニアなので、自然と譲り合う空気ができていました。なんというか平和です。
屋代を出るとしばらくはしなの鉄道と並走します。
しなの鉄道と分かれると、線路の両脇は夏の濃い緑に包まれます。いかにも夏らしい車窓です。
屋代線のトンネルは3本。いずれも100メートル前後の短いトンネルで、残る区間は夏空の下に広がっていました。空は雲一つない快晴。最後の夏を迎えた2000系にとっても嬉しい天気だったことでしょう。
《信濃川田 11:10着》
途中の信濃川田で停車します。
「町川田」として開業した信濃川田は、屋代線で3カ所ある交換駅の一つです(屋代側から順に、松代、信濃川田、綿内)。かつては雨宮と金井山にも交換設備がありました。
拡大。
編成外観。
2両分しかホームがないので、3両目の2008はホームに入りきれていません。
中間の2054。1989年に冷房化されるとき、先頭の電動車の床下に余裕がないため、補助電源をインバータに交換した上で中間に移されました。このため、現在の2000系では2両運転はできなくなっています。
先頭の2007。
全国でも数が減った構内踏切に群がる一行。人数が少ないので譲り合い精神が発揮されています。
11時15分ごろ、反対ホームに営業列車がやってきました。元は営団(現:東京メトロ)日比谷線の3500系です。
肩を並べたところで、2000系貸切列車も発車します。
《信濃川田11:17発》
交換設備の残る綿内を通過。須坂はもうすぐです。
《須坂11:32着》
屋代線24.4㎞の旅は、いったんここで終了。
2000系も引き上げます。
須坂駅北方にある引き上げ線から、車庫に入ります。
といっても、これで2000系の出番が終わるわけではありません。この後、車庫での撮影会が用意されているのです。
屋代駅での撮影会は他のツアーでもよく行われていましたが、須坂車庫での撮影会はなんと長野電鉄初とのこと。これは期待です。
移動前に構内を散策します。
須坂駅は3面5線のホームがありますが、駅舎に面した1面は現在使われていません。残る島式ホームのうち一番駅舎に近いホームが屋代線に使われていました。
その、屋代線ホームと廃ホームの間にある側線に、4月に営業運転から退いたA編成(2001-2051-2002)が留置されていました。ぶどう色の塗装はやや剥げ落ち、4か月でかなりぼろぼろになってしまったのが分かります。実際、定期運用離脱直前の2011年1月に乗った時に比べると、疲れている印象がぬぐえません。整備あっての車両だということを実感させます。
気を取り直して、車庫に向かいましょう。
須坂駅南方にある木造の風格ある車庫に、長野電鉄を代表する車両が集まっていました。左から、2100系「スノーモンキー」、2000系、1000系「ゆけむり」、3500系です。
特筆すべきは、長野電鉄の特急車両がすべてそろっていること。1000系は、2006年デビュー以来、元来の特急車両2000系とのコラボは良く見かけられました(導入に合わせ2000系B/C編成の引退があったのも一つ)。また、2100系についても、次世代の長電を担う車両として1000系と並べられ、特急車両の交代で2000系とも顔を揃えています。しかし、3つすべてが一度に会す機会はこれまでありませんでした。ここに集ったのは奇跡といってもいいでしょう。
ここでも100枚近く撮ったため、前回(屋代駅撮影会)と同じように、写真はフォトチャンネルにまとめ、ブログでは一部をピックアップすることにします。
追い出すものと、追い出されるもの。
2006年から5年近く、2000系と1000系が並ぶ光景は日常的にみられました。朝はB特急(2000系)からA特急(1000系)へ、夕方はA特急からB特急へ、この須坂駅で対面乗り換えになるようになっていました。
そんなわけで2000系の「特急 須坂」は毎日のように見れたわけです。だが3500系。てめーは駄目だ。おとなしく鈍行運用につきなさい。
それって幕にする必要ある?
よく考えてみると試運転には種別も何もないので、営業運転ではありえない幕です。
車庫の脇を、8500系の527列車(長野発信州中野行)が駆け抜けていきます。当時現役だった車両が一堂に会した貴重な瞬間です。
後追い。
続けて8500系の210列車(須坂発長野行)が留置中の10系「OSカー」を尻目に須坂駅を発車。
長野方面へと消えていきました。
撮影会の様子。30人弱しかいないので好きな場所で撮り放題です。
あまりに暑いので、撮影会の途中で抜け、駅に戻りました。隣接するイオンに寄って一休みです。
イオンを出ると、撮影会を終えた2000系が再び入れ替え作業に入るところでした。一行は2000系で再び屋代駅に戻ることになります。
屋代線の営業列車を見送ります。
しばらくして、同じ場所に2000系が入線。
見ての通り2000系同士が並んでいるわけですが、A編成自体がホーム端(にあたる位置)に留置されているうえ、D編成も微妙な位置に停車した(A編成の湯田中側先頭車2001とD編成の長野側先頭車2008が重なる位置)ため、2本を同時に取ることはできませんでした。
発車までに、これまで見てこなかった車内を見ておきましょう。
運転台。正面は曲面2枚窓。運転台後ろもガラスになっているので、前面展望は抜群です。
座席。ロマンスシートがずらりと並びます。
湯田中側から2007-2054-2008です。
さあ、再び2000系で屋代線の旅に出発です。
続く!
2011年改正まではB特急は、朝陽は通過で、須坂~小布施間の北須坂に停車してました。また信州中野~湯田中間は各駅停車でした。
またA特急も2005年12月改正までは信州中野~湯田中間は各駅停車だったようです。
2000年10月改正まではあなた記述のとおり、C特急・D特急もあり、その頃のA特急は1999年12月改正までは現行の停車駅のうち小布施を通過、1999年12月改正からは2005年12月改正までの停車駅のうち小布施を通過、いずれの時期も小布施を通過だったそうです。
B特急は、1999年12月改正までは現行のA特急相当の停車駅、1999年12月改正からは2005年12月改正までのA特急相当の停車駅で運行されていたようです。
C特急は2011年改正までのB特急停車駅のうち市役所前と北須坂を通過、D特急は2011年改正までのB特急相当の停車駅だったそうです。
しかし、特急運行開始当初は当時のA特急相当の停車駅で運行されていたものの、2000年10月改正時点において当時のA特急は実際に運行されていなかったそうです。また、D特急は朝陽にも停車した時間が1本あったそうで、その1本はE特急とも呼ばれていたそうです。
2000年10月改正からA特急・B特急の2タイプのみとなり、A特急は2005年12月改正までの停車駅となり、B特急は2011年改正までの停車駅となったようです。
2005年12月よりA特急は現行の停車駅となり、2011年よりB特急も現行の停車駅となりました。
私が初めて長野電鉄に乗ったのは2006年の夏でしたが、その時にはA特急とB特急だけになっていました(B編成が引退する少し前の話です)。なので、A特急・B特急はある程度把握していましたが、前になくなっていたC特急・D特急については資料自体がなく、全く情報がつかめない状態でした。
長野電鉄はこの時以外にも何度か行っているので、またこの件について触れるかもしれません。その時は活用させていただきます。本当にありがとうございます。