前回のあらすじ:長電2000系で屋代線完乗→須坂車庫にて2回目の撮影会。
[種別:臨時(団体) 長野電鉄屋代線 列車番号不明 須坂13:11→屋代14:00]
須坂駅からは、再び2000系D編成で屋代線を旅します。
真夏の太陽の下、2000系はのんびりと屋代線を走ります。行きで交換待ちのため小休止した信濃川田は、帰りは何事もなく通過しました。
車内の様子は行きとほぼ同じで、先頭に10人ぐらいの人だかりがある以外は悠々と座席を使えました。帰りも前面にかぶりついていた――さすがに行きも前面にかぶりついていたので若干遠慮はしましたが――私は、2000系の走りを満喫していました。
事件が起きたのは、松代駅到着目前のこと。特に何もない直線区間で、2000系はいきなり警笛を鳴らしました。何事かと思えば、前方の踏切に身を乗り出している撮影者がいるではありませんか。しかも、三脚を踏切の中に立てていました。このまま進めば列車と掠ってしまうかもしれないと、列車からでも分かる場所です。運転士もそれを分かっていたのでしょう。何度も警笛を鳴らしますが、撮影者は一向にどきません。どくどころか、こちらに向けるカメラさえ変えない始末。運転室に添乗していたもう一人の運転士さんが怒声で立ち退くよう指示しますが、向こうは全く聞く耳持たず。
減速しながら立ち退きを促しますが、最終的には踏切まであと10メートルというところで停止。業を煮やした添乗していた方の運転士が列車から降り、直接叱りつけました。この人は相当お怒りで、ガラス越しに聞こえるほどの怒声が飛んできました。
結局、その人が直接松代駅で聴取することになり下車。5分遅れで列車は発車しました。その時の所感については、今年2月のしなの鉄道の一件を含め、こちらの記事に譲るとします。
《松代13:38着(約5分遅れ)》
信濃川田の代わりに停車したのは松代。路線の中間にあたる駅です。
開業以来の木造駅舎が残ります。残っているのは駅舎だけではなく、硬券切符も健在。2012年3月の廃止まで、JRの乗り換え連絡も含め最後まで硬券で取り扱っていました。
2000系と木造駅舎。
重厚感ある木造駅舎は昭和初期ならではのもの。
間の2番線に停車する2000系。長野電鉄ではタブレットを取り扱っていた関係で右側通行の駅が残っています。松代以外では、小布施と信濃竹原が右側通行です(2013年現在も変わっていません)。
2000系のアップ。かつての機能を匂わせる広い構内です。
今となっては貴重なスナップ写真たち。
3500系の対向列車を待って、こちらも発車します。
《松代13:50頃発》
《屋代14:10頃着(約10分遅れ)》
14時過ぎに屋代駅に到着。これにて、2000系による屋代線往復の旅は終わりです。屋代線初乗車にして2000系での往復乗車ができて、これ以上の幸せはありません。
お別れを前に、2000系を隅から隅まで撮り尽くします。廃線が近づけばこうして車両に近づくことさえ一苦労になるでしょう。他の人たちが列車を降りた今を除いてチャンスはありません。
ここを立ち去る前に、屋代駅も見ておきましょう。
長野電鉄ホームにある「長野電鉄乗り換えの表示」。なんで?
歴史を感じさせる柱。
廃止間際の屋代線は90分ヘッドという変則的なダイヤでした。
ホームに残る待合室。今、ここで列車を待つ人はいません。
最後に一枚。ありがとう2000系。
機会があればもう一度来て、しっかりお別れを言いに来よう――そう誓いました。もっとも、3月までは受験で手いっぱいで、屋代線最後の1ヶ月の間は北海道受験があり、しかもそれに受かったがために準備に追われ、廃止に駆け付けることはできませんでした。
2000系の旅が終わり、後は軽井沢までの帰路を残すのみ。屋代駅からの帰りはおなじみ169系S52編成です。
しばしの撮影タイム。169系はかなりの枚数を撮っているので、今日はこの辺で。
[種別:臨時(団体) しなの鉄道 101 屋代14:47発→軽井沢16:01]
《屋代14:47発》
楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、気が付けばツアー終了まであと1時間を残すだけとなってしまいました。
ツアーの中で出会った方たちと語らっている間にも、169系はしなの鉄道の線路を南下します。元急行型車両だけあって、高速域での安定性は抜群。JR時代に換装されたリクライニングシートにもたれていれば、景色が飛ぶように過ぎていきます。
《小諸15:29着》
およそ40分で、小海線と繋がる小諸駅に到着。
西からの日差しでかなり眩しいです。
小海線ホームには、ハイブリッド気動車E130形が停車していました。
燃料電池とエンジンを組み合わせたハイブリッド気動車は、169系が走り出した頃には理論すら出来上がっていなかった代物です。 それから40年。碓氷峠の廃止・新幹線開業・第三セクター(しなの鉄道)化などで信州の鉄道はがらりと変わりました。新時代を担うE130形は、果たしてどんな信州を作り出していくのでしょうか。
運転台から上田方面を眺めます。
丁度お腹が減っていたので駅そばを食べようかと思ったのですが、10分の停車時間で注文→食べる→器を返すまでできる自信はさすがになく、泣く泣くあきらめました。
169系は定刻で小諸駅を発車。開けた二段窓から流れこんでくるそばつゆの香りに涙を呑みました。いよいよラストスパートです。
《小諸15:40発》
《軽井沢16:01着》
28日の16時過ぎに、169系は定刻で軽井沢駅に到着。最後まで古さを感じさせない走りでした。
ありがとう169系!
これで最後の乗車になるかもしれないとの覚悟だったのですが、169系はしぶとく生き残り、前回の帰省で最終乗車をしてきたのは知っての通りです。
屋代→軽井沢の運行表。運転台に掛けてあって撮りづらかったのを、運転士さんがご厚意で運転台後ろのスペースまで持ってきてくださいました。本当にありがとうございます。
ツアーはここで解散。このツアーは軽井沢発着の設定ですが、東京の人向けに横浜・新宿~軽井沢のバスがセットになったプランもありました。多くはこのバスセットプランで、軽井沢到着後、添乗員さんに連れられてバスターミナルに向かっていきました。
私は方向的にはバスを使ってもよかったのですが、結局バスはセットにしませんでした。行きのバスの時間が早かったのが理由です。
軽井沢から静岡に帰るには、まずは新幹線に乗って東京に出るのがセオリー……ですが。
私は軽井沢駅北口バスターミナルにいました。
お目当ては、このJRバス関東の「碓氷線」。名前からもわかる通り、碓氷峠で廃止になった横川―軽井沢間の代替バスです。え?
素直に帰れ? だってまだ時間があるから仕方がないじゃない!
(写真は横川駅で撮影)
意外だったのはバスが混雑していたことです。もう夕方の時間帯。小さな観光バスサイズで、定員は40人というところでしょうか。そのバスが、到着早々にして座席が埋まったのです。何とか座った座席は一番後ろ。それも、荷物のスーツケースがに棚に乗らないというハプニングのせいで真ん中になってしまいました。この写真は、座った時の写真です。
その後も乗客は増え続け、出発直前には予備座席もすべて埋まるほどのすし詰めになってしまいました。
[JRバス関東碓氷線 軽井沢16:40→横川17:14]
軽井沢から横川までのルートは急勾配なうえに車が多いため、昔から渋滞の名所でした。1971年に碓氷バイパス、1993年に上信越自動車道が開通したことで、信越本線とほぼ同じルートをたどる国道18号線の渋滞はある程度緩和されました。
が、折しもこの日は8月の最終日曜日。行楽客の帰りと重なり、道路は大渋滞。近道であるはずの碓氷バイパスが、渋滞のため詰まってしまうという有様でした。
このため、本来碓氷バイパス経由の碓氷線のバスも旧道経由に変更されました。
しかし、旧道はヘアピンカーブの続く厳しい道。バスも速度を落としているのでしょうが、最後列にいるせいか右に左に揺られ気持ち悪くなってきました。Wikiなどを見ればわかりますが、184個もカーブがあるなんて絶対におかしい。バイパス経由が好まれるわけです。
ようやく九十九折を抜けたと思った先に待っていたのは、新道=碓氷バイパス合流点からバイパス方向に延びる大渋滞でした。旧道からの車を入れてあげようという気持ちはないのか。
《横川17:22着》
合流点からだらだらと走り続け、バスはようやく横川駅に到着しました。意外と遅れなかったことにびっくりです。運転手さんパネェ。
バス停から横川駅に向かって歩きます。
横川駅駅舎。峠の釜めしの「おぎのや」の分店がここに店を構えていて、バスから降りたお客さんがぞろぞろと峠の釜めしを買い求めます。
無残にも途切れた線路。EF63がせわしなく動いてあの日々は、永遠に戻ってきません。
駅舎に隣接したおぎのやの店舗は、ホーム側にも売り場を構えています。
この駅名標に「軽井沢」が入ることはもうありませんが、現在横川駅北方の「碓氷峠鉄道文化村(碓氷峠関連の車両が集まった鉄道テーマパーク)」から、中間地点に当たる熊の平付近までトロッコを運転する計画があります。もしかしたら、新たな形で横川と軽井沢が鉄道でつながる日が来るかもしれません。
やがて、東から列車がやってきました。湘南色の115系です。
この高崎―横川を含む、JR東日本高崎支社にいる115系は、77両すべてが湘南色です。東(東北線・高崎線・JR東海)では115系そのものが消え、西(JR西日本)では湘南色が消え去ろうとする中、高崎の115系は今もみかん色を堅持しています。今後の新車投入次第ですが、まだしばらくは生き残りそうです。
車内。
高崎―横川間は信越本線とは言いながらも完全なローカル線。30分の短い道のりですが、115系のひと時を楽しむことにしましょう。
[種別:普通 信越本線 156M 横川17:39→高崎18:10]
《高崎18:10着》
高崎に着くころには、あたりはすっかり日が暮れていました。(※手ブレがひどくて申し訳ありません)
夕方ラッシュを迎えた高崎駅には、湘南色の115系がゴロゴロ。東京方面はE231系に押されて消滅しましたが、残る方面ほぼ全てに115系は残っています。
いつか115系も乗りに行きたいです。
高崎から鈍行で帰るにはさすがに時間が遅すぎます。結局、高くなるのは承知で上越新幹線と東海道新幹線を乗り継ぐことに。
[種別:新幹線 上越新幹線 あさま542号 長野17:26→東京19:12]
[種別:新幹線 東海道新幹線 こだま527号 東京19:26→新大阪23:26]
《高崎18:21発》
《東京19:12着》
東京では思ったよりも乗り換えがスムーズに済み、途中で駅弁を買ったにもかかわらず、予定(こだま685号・東京19:56発)より2本早い列車に乗れました。この時間は静岡に停車する「ひかり」が30分に一本(日中は1時間に1本)なので、19時33分発の「ひかり527号」にのれば20分ほど早く静岡に着くことができます。が、自由席が半分の数に減ることを考えると、高々20分のためだけに立席を覚悟する必要はありません。
《東京19:26発》
悠々と確保した座席で駅弁をご開帳。「炭火焼風焼き鳥重(880円)」です。
鳥めしの上に焼き鳥をはじめ様々な具材が載っています。
静岡まではあと1時間ほどですが、寝ているわけにはいきません。なぜなら、次の日(2011年8月29日)は全国模試が控えているからです。それも筆記式。暗記のしやすい理科系を中心にちゃんと復習しないと。『前日まで息抜きしていて模試ができませんでした』では話になりませんからね。
《静岡20:55着》
以上、「息抜きをしよう!」でした。
こうやって楽しんでおけば、模試の日は余計なことを考えず問題に集中できますね!
なお、私と同じように息抜きしに旅行に行って、次の日の模試に寝坊して受けられなかった場合でも、当方は責任を負いかねますのであしからず。
[種別:臨時(団体) 長野電鉄屋代線 列車番号不明 須坂13:11→屋代14:00]
須坂駅からは、再び2000系D編成で屋代線を旅します。
真夏の太陽の下、2000系はのんびりと屋代線を走ります。行きで交換待ちのため小休止した信濃川田は、帰りは何事もなく通過しました。
車内の様子は行きとほぼ同じで、先頭に10人ぐらいの人だかりがある以外は悠々と座席を使えました。帰りも前面にかぶりついていた――さすがに行きも前面にかぶりついていたので若干遠慮はしましたが――私は、2000系の走りを満喫していました。
事件が起きたのは、松代駅到着目前のこと。特に何もない直線区間で、2000系はいきなり警笛を鳴らしました。何事かと思えば、前方の踏切に身を乗り出している撮影者がいるではありませんか。しかも、三脚を踏切の中に立てていました。このまま進めば列車と掠ってしまうかもしれないと、列車からでも分かる場所です。運転士もそれを分かっていたのでしょう。何度も警笛を鳴らしますが、撮影者は一向にどきません。どくどころか、こちらに向けるカメラさえ変えない始末。運転室に添乗していたもう一人の運転士さんが怒声で立ち退くよう指示しますが、向こうは全く聞く耳持たず。
減速しながら立ち退きを促しますが、最終的には踏切まであと10メートルというところで停止。業を煮やした添乗していた方の運転士が列車から降り、直接叱りつけました。この人は相当お怒りで、ガラス越しに聞こえるほどの怒声が飛んできました。
結局、その人が直接松代駅で聴取することになり下車。5分遅れで列車は発車しました。その時の所感については、今年2月のしなの鉄道の一件を含め、こちらの記事に譲るとします。
《松代13:38着(約5分遅れ)》
信濃川田の代わりに停車したのは松代。路線の中間にあたる駅です。
開業以来の木造駅舎が残ります。残っているのは駅舎だけではなく、硬券切符も健在。2012年3月の廃止まで、JRの乗り換え連絡も含め最後まで硬券で取り扱っていました。
2000系と木造駅舎。
重厚感ある木造駅舎は昭和初期ならではのもの。
間の2番線に停車する2000系。長野電鉄ではタブレットを取り扱っていた関係で右側通行の駅が残っています。松代以外では、小布施と信濃竹原が右側通行です(2013年現在も変わっていません)。
2000系のアップ。かつての機能を匂わせる広い構内です。
今となっては貴重なスナップ写真たち。
3500系の対向列車を待って、こちらも発車します。
《松代13:50頃発》
《屋代14:10頃着(約10分遅れ)》
14時過ぎに屋代駅に到着。これにて、2000系による屋代線往復の旅は終わりです。屋代線初乗車にして2000系での往復乗車ができて、これ以上の幸せはありません。
お別れを前に、2000系を隅から隅まで撮り尽くします。廃線が近づけばこうして車両に近づくことさえ一苦労になるでしょう。他の人たちが列車を降りた今を除いてチャンスはありません。
ここを立ち去る前に、屋代駅も見ておきましょう。
長野電鉄ホームにある「長野電鉄乗り換えの表示」。なんで?
歴史を感じさせる柱。
廃止間際の屋代線は90分ヘッドという変則的なダイヤでした。
ホームに残る待合室。今、ここで列車を待つ人はいません。
最後に一枚。ありがとう2000系。
機会があればもう一度来て、しっかりお別れを言いに来よう――そう誓いました。もっとも、3月までは受験で手いっぱいで、屋代線最後の1ヶ月の間は北海道受験があり、しかもそれに受かったがために準備に追われ、廃止に駆け付けることはできませんでした。
2000系の旅が終わり、後は軽井沢までの帰路を残すのみ。屋代駅からの帰りはおなじみ169系S52編成です。
しばしの撮影タイム。169系はかなりの枚数を撮っているので、今日はこの辺で。
[種別:臨時(団体) しなの鉄道 101 屋代14:47発→軽井沢16:01]
《屋代14:47発》
楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、気が付けばツアー終了まであと1時間を残すだけとなってしまいました。
ツアーの中で出会った方たちと語らっている間にも、169系はしなの鉄道の線路を南下します。元急行型車両だけあって、高速域での安定性は抜群。JR時代に換装されたリクライニングシートにもたれていれば、景色が飛ぶように過ぎていきます。
《小諸15:29着》
およそ40分で、小海線と繋がる小諸駅に到着。
西からの日差しでかなり眩しいです。
小海線ホームには、ハイブリッド気動車E130形が停車していました。
燃料電池とエンジンを組み合わせたハイブリッド気動車は、169系が走り出した頃には理論すら出来上がっていなかった代物です。 それから40年。碓氷峠の廃止・新幹線開業・第三セクター(しなの鉄道)化などで信州の鉄道はがらりと変わりました。新時代を担うE130形は、果たしてどんな信州を作り出していくのでしょうか。
運転台から上田方面を眺めます。
丁度お腹が減っていたので駅そばを食べようかと思ったのですが、10分の停車時間で注文→食べる→器を返すまでできる自信はさすがになく、泣く泣くあきらめました。
169系は定刻で小諸駅を発車。開けた二段窓から流れこんでくるそばつゆの香りに涙を呑みました。いよいよラストスパートです。
《小諸15:40発》
《軽井沢16:01着》
28日の16時過ぎに、169系は定刻で軽井沢駅に到着。最後まで古さを感じさせない走りでした。
ありがとう169系!
これで最後の乗車になるかもしれないとの覚悟だったのですが、169系はしぶとく生き残り、前回の帰省で最終乗車をしてきたのは知っての通りです。
屋代→軽井沢の運行表。運転台に掛けてあって撮りづらかったのを、運転士さんがご厚意で運転台後ろのスペースまで持ってきてくださいました。本当にありがとうございます。
ツアーはここで解散。このツアーは軽井沢発着の設定ですが、東京の人向けに横浜・新宿~軽井沢のバスがセットになったプランもありました。多くはこのバスセットプランで、軽井沢到着後、添乗員さんに連れられてバスターミナルに向かっていきました。
私は方向的にはバスを使ってもよかったのですが、結局バスはセットにしませんでした。行きのバスの時間が早かったのが理由です。
軽井沢から静岡に帰るには、まずは新幹線に乗って東京に出るのがセオリー……ですが。
私は軽井沢駅北口バスターミナルにいました。
お目当ては、このJRバス関東の「碓氷線」。名前からもわかる通り、碓氷峠で廃止になった横川―軽井沢間の代替バスです。え?
素直に帰れ? だってまだ時間があるから仕方がないじゃない!
(写真は横川駅で撮影)
意外だったのはバスが混雑していたことです。もう夕方の時間帯。小さな観光バスサイズで、定員は40人というところでしょうか。そのバスが、到着早々にして座席が埋まったのです。何とか座った座席は一番後ろ。それも、荷物のスーツケースがに棚に乗らないというハプニングのせいで真ん中になってしまいました。この写真は、座った時の写真です。
その後も乗客は増え続け、出発直前には予備座席もすべて埋まるほどのすし詰めになってしまいました。
[JRバス関東碓氷線 軽井沢16:40→横川17:14]
軽井沢から横川までのルートは急勾配なうえに車が多いため、昔から渋滞の名所でした。1971年に碓氷バイパス、1993年に上信越自動車道が開通したことで、信越本線とほぼ同じルートをたどる国道18号線の渋滞はある程度緩和されました。
が、折しもこの日は8月の最終日曜日。行楽客の帰りと重なり、道路は大渋滞。近道であるはずの碓氷バイパスが、渋滞のため詰まってしまうという有様でした。
このため、本来碓氷バイパス経由の碓氷線のバスも旧道経由に変更されました。
しかし、旧道はヘアピンカーブの続く厳しい道。バスも速度を落としているのでしょうが、最後列にいるせいか右に左に揺られ気持ち悪くなってきました。Wikiなどを見ればわかりますが、184個もカーブがあるなんて絶対におかしい。バイパス経由が好まれるわけです。
ようやく九十九折を抜けたと思った先に待っていたのは、新道=碓氷バイパス合流点からバイパス方向に延びる大渋滞でした。旧道からの車を入れてあげようという気持ちはないのか。
《横川17:22着》
合流点からだらだらと走り続け、バスはようやく横川駅に到着しました。意外と遅れなかったことにびっくりです。運転手さんパネェ。
バス停から横川駅に向かって歩きます。
横川駅駅舎。峠の釜めしの「おぎのや」の分店がここに店を構えていて、バスから降りたお客さんがぞろぞろと峠の釜めしを買い求めます。
無残にも途切れた線路。EF63がせわしなく動いてあの日々は、永遠に戻ってきません。
駅舎に隣接したおぎのやの店舗は、ホーム側にも売り場を構えています。
この駅名標に「軽井沢」が入ることはもうありませんが、現在横川駅北方の「碓氷峠鉄道文化村(碓氷峠関連の車両が集まった鉄道テーマパーク)」から、中間地点に当たる熊の平付近までトロッコを運転する計画があります。もしかしたら、新たな形で横川と軽井沢が鉄道でつながる日が来るかもしれません。
やがて、東から列車がやってきました。湘南色の115系です。
この高崎―横川を含む、JR東日本高崎支社にいる115系は、77両すべてが湘南色です。東(東北線・高崎線・JR東海)では115系そのものが消え、西(JR西日本)では湘南色が消え去ろうとする中、高崎の115系は今もみかん色を堅持しています。今後の新車投入次第ですが、まだしばらくは生き残りそうです。
車内。
高崎―横川間は信越本線とは言いながらも完全なローカル線。30分の短い道のりですが、115系のひと時を楽しむことにしましょう。
[種別:普通 信越本線 156M 横川17:39→高崎18:10]
《高崎18:10着》
高崎に着くころには、あたりはすっかり日が暮れていました。(※手ブレがひどくて申し訳ありません)
夕方ラッシュを迎えた高崎駅には、湘南色の115系がゴロゴロ。東京方面はE231系に押されて消滅しましたが、残る方面ほぼ全てに115系は残っています。
いつか115系も乗りに行きたいです。
高崎から鈍行で帰るにはさすがに時間が遅すぎます。結局、高くなるのは承知で上越新幹線と東海道新幹線を乗り継ぐことに。
[種別:新幹線 上越新幹線 あさま542号 長野17:26→東京19:12]
[種別:新幹線 東海道新幹線 こだま527号 東京19:26→新大阪23:26]
《高崎18:21発》
《東京19:12着》
東京では思ったよりも乗り換えがスムーズに済み、途中で駅弁を買ったにもかかわらず、予定(こだま685号・東京19:56発)より2本早い列車に乗れました。この時間は静岡に停車する「ひかり」が30分に一本(日中は1時間に1本)なので、19時33分発の「ひかり527号」にのれば20分ほど早く静岡に着くことができます。が、自由席が半分の数に減ることを考えると、高々20分のためだけに立席を覚悟する必要はありません。
《東京19:26発》
悠々と確保した座席で駅弁をご開帳。「炭火焼風焼き鳥重(880円)」です。
鳥めしの上に焼き鳥をはじめ様々な具材が載っています。
静岡まではあと1時間ほどですが、寝ているわけにはいきません。なぜなら、次の日(2011年8月29日)は全国模試が控えているからです。それも筆記式。暗記のしやすい理科系を中心にちゃんと復習しないと。『前日まで息抜きしていて模試ができませんでした』では話になりませんからね。
《静岡20:55着》
以上、「息抜きをしよう!」でした。
こうやって楽しんでおけば、模試の日は余計なことを考えず問題に集中できますね!
なお、私と同じように息抜きしに旅行に行って、次の日の模試に寝坊して受けられなかった場合でも、当方は責任を負いかねますのであしからず。
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