※今回は「2013夏帰省 前半戦」第6回~第13回に対応しております。読んでない方はそちらもどうぞ。
広裕「『広裕と結那の鉄道相談室』へようこそ!」
結那「お相手をするのは、私、北浜結那と、」
広裕「那智広裕です。よろしくお願いします」
結那「ところで広裕。実は言いたいことがあるんだけど……」
広裕「何だ? ぱっと言えばいいじゃないか」
結那「あの……その……」
広裕「? なんだよ。いつもみたいにはっきり言えばいいじゃないか」
結那「上のほうから、『車両形式シリーズ飽きた』って伝言が」
(※上のほう……静岡運転所札幌派出所のこと)
広裕「ごめん。はっきり言わせて悪かった」
結那「だから言ったのに……まだ客車とか貨車とか機関車とかも残ってるよ?」
広裕「新性能電車以前の電車もまだだったな」
(※新性能電車……101系以降の電車。それまでの車両とは一線を画すシステムを多数採用し、国鉄車両の標準となった。現在現役の『国鉄型電車』は全て新性能電車(保留車ではクモハ12などがいる)。)
結那「まあ、そのうちってことだね」
広裕「それで? 今回のテーマは?」
結那「今日のテーマはこちら……『101系』です!」
広裕「って、これは秩父鉄道の1000系だろ。いや、一緒だけども」
結那「前にパンタグラフをつけたのと、冷房をつけたの以外はほとんど変わってないしね」
(※ほとんど変わっていない……外観はあまり変わっていないが、細かいところではパンタグラフ交換(その後元に戻された)・主電動機のデチューン(=パワーダウン)・簡易荷物室のためのアコーディオンカーテン設置・ブレーキシュー交換・座席の交換などがされている)
広裕「冷房化で見た目は少し残念になったけどな」
少し残念な見た目
結那「そういえば、中間のモハ1100(元モハ101)はこの平成の世の中でも冷房がないことで有名だよね……先頭車だけ冷房化しておいて、なんで中間車は残しちゃったんだろう。103系みたく、一緒に冷房化すればよかったのに」
(※103系みたく……103系は製造当初は冷房なしで登場。その後冷房つきの車両が新製されたため、既存の車両も冷房装置をつけることになった。現在現役の103系は全て冷房化済み。)
広裕「あれ、結那は知らない? んじゃ、その辺も含めて101系を見ていきますか」
広裕「101系の前の電車は、2扉クロスシートか3扉ロングシートが一般的でした」
結那「2扉クロスシートは急行電車用(例:42系)、3扉ロングシートは通勤電車用(例:50系)が基本だったけど、実際には3扉車は首都圏ばっかりで、2扉の普通列車も珍しくなかったみたい」
(※急行電車……京阪神地区で運転された列車。阪急・京阪といった高速運転を行う私鉄に対抗するため、料金不要の速達列車を設定した。急行料金の要る急行列車と区別するため、1957年に快速となった。)
広裕「そもそも、首都圏と関西を除いたら鈍行でも客車列車ばっかだぞこの時代」
結那「電車も木造が当たり前だったしね」
(※木造が当たり前……このころまでにはさすがに車体は金属製になっていたが、床板や天井など、内部は木製のままだった。このタイプの車両を半鋼製車という。国鉄では、全金属車両は101系が初)
広裕「戦争末期に登場した63系は、初めて4扉を採用しました。まあ、扉は他の車両と同じ1000mm幅(※)でしたが」
(※……2013年現在、一般的な車両のドア幅は1300mm前後)
結那「63系って、桜木町事故を起こした車両だっけ」
(※桜木町事故……国鉄戦後五大事故ともいわれる、死傷者200人近い大惨事。架線が切断されていたところに、誤って入った63系の列車が架線と接触。漏電で木製の天井が燃え、1両目が全焼・2両目が半焼に至った。)
広裕「そう。戦時中の車両だったもんで、窓を三段にしたり、電線を絶縁していなかったり、中の照明も裸電球だったり……塗装が可燃性とか、むしろそれまでで火災が起きてなかったのが不思議なぐらいだ」
(※窓を三段……窓の桟さんを増やしてガラスを節約しようとしたが、桜木町事故では乗客が脱出できずに死亡する原因となった。事故を受けて、中段は開閉できるようになった。)
結那「でも、その後に登場した72系も、見た目とかあんまり変わってなくない?」
(※72系……最後の旧型電車。63系のうち金属化した車両も含まれる。形式がクモハ73・クハ79・モハ72・サハ78(サハ78は63系時代から存在)と複雑なため、72・73系とも呼ばれる。末期は全国各地のローカル線で見られた。)
広裕「構造は63系を引き継いでるからな。さすがに事故の翌年(1952年)から製造が始まったから、天井も鋼製にしたし、貫通扉も開きやすくしたし、回路も絶縁した上で遮断器をつけたしで、少なくとも電気系統は大幅に改善されてるぞ」
(※天井も鋼製……新車では1956年製造の一部のみ。他は101系登場後に改造された。)
結那「クハ72形920番台ではついに全金属車になったよ。窓枠も2段アルミサッシ、照明も蛍光灯になって、初期車と比べると違和感しかないレベルで進化しかないね!」
広裕「ただ、モーターは相変わらずの吊り掛けモーター、ブレーキも自動空気ブレーキだけだっただから、駅数の多い首都圏ではそろそろ限界になってきていたんだ」
(※吊り掛けモーター……台車にモーターを吊るし、車輪の軸と接触させる方式。構造は楽だが、揺れが直接モーターに伝わるので高速運転には向かない。)
結那「それで101系の登場ってこと?」
広裕「うん。いわゆる新性能電車の幕開けとして、101系が開発されたんだ。このときはまだ車両形式は2桁が基本で、最初はモハ90系だった」
◎新性能電車の特徴(従来との変更点)
・1M→MM'ユニット(2両一組)
・基本MT比1:1(M車とT車が交互につながるため)→基本全電動車(※)
・吊り掛け式→カルダン式(101系は中空軸並行カルダン)
・空気ブレーキのみ→電気ブレーキ(発電ブレーキ、回生ブレーキなど)を併用
・扉幅1000mm(客車に合わせていたため)→通勤・近郊電車では1300mm(優等列車用は1000mmのまま)
(※……実際にはT車が入ることが多かったが、編成全体ではそれまでよりM車の比が上がった。101系の場合、中央線10両編成でM車:T車=3:2)
広裕「新性能電車で大きく変わったのはこの辺りかな」
結那「モーター周りがずいぶんと変わってるね」
広裕「変わったというか、国鉄が遅れてただけともいえるけどな。大手私鉄、とりわけ関西の私鉄は最新技術をばんばん導入してたんだ。カルダン駆動(正式採用は1953年の京阪1800系(2代目特急車)が初)や全電動車方式(京急・名鉄・阪神・南海が積極的に採用し、特に阪神ではジェットカーとまで言われる変態車両を生み出した)あたりは私鉄が先を行ってるな」
(※関西の私鉄と最新技術……当時の電車の最先端はアメリカのインターアーバン(短編成・短距離・高頻度運転の電車)で、国鉄と競合する路線の多い関西の私鉄の多くはインターアーバンを元に建設されたと言われる。標準軌を採用したのはアメリカ製の部品をそのまま使うためという説もある。
ジェットカー……阪神電車の普通電車用に開発された車両。初代ジェットカーの5000系は、常用加速度4.5km/h/s、常用減速度5.0km/s。あくまで常用。ちなみに、普通の電車では非常ブレーキで5.5km/h/sぐらい。)
結那「全電動車ってことは、全部の車両にモーターがあるってことだよね……今だったら電気がもったいないとか言われそう」
広裕「当時の国鉄は、モーターを増やせばそれだけ車両性能も――とりわけ加速についてはあがると思ってたらしい」
結那「……あれ? でも101系って、モーターのない車両もあるよね? クハ100とかサハ101とか」
広裕「そいつらは本当はないはずの形式だったんだよな……」
結那「ないはず?」
広裕「さっきも言ったように、国鉄では全電動車にして加速力アップを目指したんだけど、その前座として、一番混雑の激しかった中央線(中央快速線:東京~高尾)を101系にすることにしたんだ。ちなみに、その混雑ぶりは、10両編成を2分間隔で運転して満員ってレベル」
結那「それってもうATSの限界じゃん……今もあんまり変わってないけど」
(※ATS……国鉄では1954年に山手線・京浜東北線にB型ATSが設置されたのが始まりだが、1962年の三河島事故でATSの整備が急務となり、1966年には国鉄全線に採用(東海道新幹線のみATC))
広裕「同じ2分間間隔でも、列車全体が速くなれば本数を増やせるだろ? 要は、スジを立てればもっと詰め込めるよねってことだ」
(※スジを立てる……列車の所要時間を短くすること。似た表現に「寝かす」(=所要時間を長くする)がある。ダイヤグラム上での列車の動きから)
結那「それに関しては、加減速のいい101系を入れたんだから解決じゃないの?」
広裕「と思うだろ? ところが、いざ101系にしてみたら、全電動車にしたせいで架線に大量の電気が必要になって、架線が溶ける可能性(※)が出てきたんだ」
(※……過電流による架線溶断)
結那「はあ?」
広裕「危うく桜木町事故の二の舞になるところだったんだ。三鷹事件より怖いわ……」
(※三鷹事件……三鷹車庫(現:三鷹車両センター)に停車していた63系電車が突然暴走。脱線した先の商店街に突っ込み6人が死亡、20人が負傷。)
結那「全電動車前提なのに、全電動車にしたらアウトって……」
広裕「とりあえずモーターに流す電流を減らして対応していたけど、その後は元々電動車の予定だった車両からモーターを抜いて、急遽付随車ができた」
(※モーターを抜いて……しばらくは付随車も後々モーターをつけられるように電装準備工事がしてあったが、1963年からは準備工事がなくなり、1965年からは台車も付随車用のものとなった。)
結那「そうなんだ……あれ? そういえば、101系って山手線とかにもいたよね? 中央線でこんなに失敗してたのに、こっちにも入れたの?」
広裕「101系がだめなのは国鉄もわかってみたいだが、それを改善する暇もないほど旧型電車が跋扈(ばっこ)していたってことさ――肝心のモーターの問題が解決してなかったのにな」
結那「モーターの問題?」
広裕「101系が次に投入されたのは山手線と大阪環状線だったけど、中央線に比べて駅間が短いから、よりモーターの数を減らして、MT比を1:1にまで減らす予定だったんだ。しかしここで問題が生じた――肝心のモーター・MT46に電流が流れすぎて、オーバーヒートする可能性が出てきたんだ」
(※オーバーヒート……定格電流が300Aなのに対し、旧型電車並みの加速度(2.0km/h/s)を得るために380Aも流す必要があった。なお、350A以上で発熱した模様。)
結那「え? 付随車を減らしてってことは、モーターの限界上限まで電流を流してるってことでしょ。それでオーバーヒートするんじゃ、どのみち全電動車は無理だったんじゃないの?」
広裕「そこはよくわからん。発電ブレーキのためにモーターにかかる電圧を低くしたのもあるのかな……ともかく、いろいろ実験してみた結果、MT比3:2ぐらいならなんとか運転できるんじゃないかという結論になった。山手線には4M3T、大阪環状線には4M2Tで投入された。ちなみに、山手線の101系はウグイス色じゃなくて黄色だった」
(※発電ブレーキのために……発電ブレーキを使用すると、モーターには逆向きに回転させる電流が流れるため、モーター自身の抵抗で大きな電圧がかかる。
山手線……当時、20m級車両は7両までしか入れなかった。)
結那「あ、それ知ってる。意外と知られてないんだよね」
広裕「その後ウグイス色の103系がデビューするまでの短い間(約2年)だったからな。山手線の101系は色を変えないで総武緩行線に転属して、黄色=総武緩行線が定着することになる」
結那「ここでやっと103系が出たんだ」
広裕「103系ではモーターもMT55に変更したから電流も少なくなったし、オーバーヒートもおこさなくなった。これで万々歳……だったんだけど、101系の置き換えにまではならなかった。なんせ、中央線系統だけでも500両近かった(※)からな」
(※……最終的に1535両が製造された。これは国鉄史上5番目に多い。参考までに205系で1461両。)
結那「車体は扉が広がって乗りやすくなったのは事実だしね」
広裕「そんなんで中央線を中心に活躍していたわけだけど、JRになる頃にはほとんど廃車になっていた」
結那「私が生まれたときには、101系は南武支線にしか残ってなかったもんね」
(※南武支線……正式には南武線浜川崎支線。尻手~浜川崎を結ぶ路線で、川崎市の臨海地区と新鶴見信号場を結ぶルートを形成している。現在は205系1200番台に置き換えられた。)
広裕「俺も103系に比べて廃車が早いなとは思ってた……201系が生まれたのも大きいけど、一番はやっぱり冷房化できなかったことだな。モーターの出力が小さすぎて冷房を載せられなかったんだ」
(※冷房を載せられない……冷房用電源を新たに載せることでなんとか冷房をつけたが、その数は92両にとどまった。)
結那「だから秩父鉄道のデハ1100は冷房が……あれ? そしたらデハ1000は?」
広裕「デハ1000(元クモハ100)にはパンタグラフを増設してるだろ? 足りない分の電気はあそこからとってるんだ。ちなみに、クハ1200は床下にSIV(静止型インバータ)をつけてる」
(※SIV/静止型インバータ……インバータは直流から交流に変換する装置のこと。冷房用電源などに用いるインバータは、VVVFインバータなど走行用に使うものと区別するためSIV(静止型インバータ)と呼ぶことが多い。)
結那「そうだったんだ……」
広裕「というわけで、『101系』はこれで終わりです」
結那「1000系もあと少しで見られなくなっちゃうから、乗りに行くならお早めに!」
(※見られなくなっちゃう……2014年3月で全車引退予定)
広裕「あー……なんか話してたら乗りに行きたくなってきた」
結那「なんなら土日で行ってくれば? 日帰りだとちょっと厳しいし」
広裕「えー、折角だし結那も行かない? あ、ホテルは別々に取るけど」
結那「そんなの当たり前でしょ!!(……広裕とふ、二人旅って、つまり、そういうことだよね……)」
広裕「(1000系に乗りに行く旅なんて、結那ぐらいしかついてこれないからな……)」
ということで、久しぶりの当シリーズ。
今回は夏帰省前半の主目的だった秩父鉄道1000系こと国鉄101系を取り上げました。本来なら前半戦投稿期(9月前半)に投稿すればよかったのですが、一度はお蔵入りとなっていました。だって、調べれば調べるほどボロが出てくるんだもん……まとめるのにずいぶん苦労しました。
余談ですが、この1週間後、荒川鉄橋(上長瀞~親鼻間にあるガーダー橋で、秩父鉄道随一の撮影スポット)を渡る1000系を川べりから眺める二人がいたとかいないとか。
広裕「『広裕と結那の鉄道相談室』へようこそ!」
結那「お相手をするのは、私、北浜結那と、」
広裕「那智広裕です。よろしくお願いします」
結那「ところで広裕。実は言いたいことがあるんだけど……」
広裕「何だ? ぱっと言えばいいじゃないか」
結那「あの……その……」
広裕「? なんだよ。いつもみたいにはっきり言えばいいじゃないか」
結那「上のほうから、『車両形式シリーズ飽きた』って伝言が」
(※上のほう……静岡運転所札幌派出所のこと)
広裕「ごめん。はっきり言わせて悪かった」
結那「だから言ったのに……まだ客車とか貨車とか機関車とかも残ってるよ?」
広裕「新性能電車以前の電車もまだだったな」
(※新性能電車……101系以降の電車。それまでの車両とは一線を画すシステムを多数採用し、国鉄車両の標準となった。現在現役の『国鉄型電車』は全て新性能電車(保留車ではクモハ12などがいる)。)
結那「まあ、そのうちってことだね」
広裕「それで? 今回のテーマは?」
結那「今日のテーマはこちら……『101系』です!」
広裕「って、これは秩父鉄道の1000系だろ。いや、一緒だけども」
結那「前にパンタグラフをつけたのと、冷房をつけたの以外はほとんど変わってないしね」
(※ほとんど変わっていない……外観はあまり変わっていないが、細かいところではパンタグラフ交換(その後元に戻された)・主電動機のデチューン(=パワーダウン)・簡易荷物室のためのアコーディオンカーテン設置・ブレーキシュー交換・座席の交換などがされている)
広裕「冷房化で見た目は少し残念になったけどな」
少し残念な見た目
結那「そういえば、中間のモハ1100(元モハ101)はこの平成の世の中でも冷房がないことで有名だよね……先頭車だけ冷房化しておいて、なんで中間車は残しちゃったんだろう。103系みたく、一緒に冷房化すればよかったのに」
(※103系みたく……103系は製造当初は冷房なしで登場。その後冷房つきの車両が新製されたため、既存の車両も冷房装置をつけることになった。現在現役の103系は全て冷房化済み。)
広裕「あれ、結那は知らない? んじゃ、その辺も含めて101系を見ていきますか」
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広裕「101系の前の電車は、2扉クロスシートか3扉ロングシートが一般的でした」
結那「2扉クロスシートは急行電車用(例:42系)、3扉ロングシートは通勤電車用(例:50系)が基本だったけど、実際には3扉車は首都圏ばっかりで、2扉の普通列車も珍しくなかったみたい」
(※急行電車……京阪神地区で運転された列車。阪急・京阪といった高速運転を行う私鉄に対抗するため、料金不要の速達列車を設定した。急行料金の要る急行列車と区別するため、1957年に快速となった。)
広裕「そもそも、首都圏と関西を除いたら鈍行でも客車列車ばっかだぞこの時代」
結那「電車も木造が当たり前だったしね」
(※木造が当たり前……このころまでにはさすがに車体は金属製になっていたが、床板や天井など、内部は木製のままだった。このタイプの車両を半鋼製車という。国鉄では、全金属車両は101系が初)
広裕「戦争末期に登場した63系は、初めて4扉を採用しました。まあ、扉は他の車両と同じ1000mm幅(※)でしたが」
(※……2013年現在、一般的な車両のドア幅は1300mm前後)
結那「63系って、桜木町事故を起こした車両だっけ」
(※桜木町事故……国鉄戦後五大事故ともいわれる、死傷者200人近い大惨事。架線が切断されていたところに、誤って入った63系の列車が架線と接触。漏電で木製の天井が燃え、1両目が全焼・2両目が半焼に至った。)
広裕「そう。戦時中の車両だったもんで、窓を三段にしたり、電線を絶縁していなかったり、中の照明も裸電球だったり……塗装が可燃性とか、むしろそれまでで火災が起きてなかったのが不思議なぐらいだ」
(※窓を三段……窓の桟さんを増やしてガラスを節約しようとしたが、桜木町事故では乗客が脱出できずに死亡する原因となった。事故を受けて、中段は開閉できるようになった。)
結那「でも、その後に登場した72系も、見た目とかあんまり変わってなくない?」
(※72系……最後の旧型電車。63系のうち金属化した車両も含まれる。形式がクモハ73・クハ79・モハ72・サハ78(サハ78は63系時代から存在)と複雑なため、72・73系とも呼ばれる。末期は全国各地のローカル線で見られた。)
広裕「構造は63系を引き継いでるからな。さすがに事故の翌年(1952年)から製造が始まったから、天井も鋼製にしたし、貫通扉も開きやすくしたし、回路も絶縁した上で遮断器をつけたしで、少なくとも電気系統は大幅に改善されてるぞ」
(※天井も鋼製……新車では1956年製造の一部のみ。他は101系登場後に改造された。)
結那「クハ72形920番台ではついに全金属車になったよ。窓枠も2段アルミサッシ、照明も蛍光灯になって、初期車と比べると違和感しかないレベルで進化しかないね!」
広裕「ただ、モーターは相変わらずの吊り掛けモーター、ブレーキも自動空気ブレーキだけだっただから、駅数の多い首都圏ではそろそろ限界になってきていたんだ」
(※吊り掛けモーター……台車にモーターを吊るし、車輪の軸と接触させる方式。構造は楽だが、揺れが直接モーターに伝わるので高速運転には向かない。)
結那「それで101系の登場ってこと?」
広裕「うん。いわゆる新性能電車の幕開けとして、101系が開発されたんだ。このときはまだ車両形式は2桁が基本で、最初はモハ90系だった」
◎新性能電車の特徴(従来との変更点)
・1M→MM'ユニット(2両一組)
・基本MT比1:1(M車とT車が交互につながるため)→基本全電動車(※)
・吊り掛け式→カルダン式(101系は中空軸並行カルダン)
・空気ブレーキのみ→電気ブレーキ(発電ブレーキ、回生ブレーキなど)を併用
・扉幅1000mm(客車に合わせていたため)→通勤・近郊電車では1300mm(優等列車用は1000mmのまま)
(※……実際にはT車が入ることが多かったが、編成全体ではそれまでよりM車の比が上がった。101系の場合、中央線10両編成でM車:T車=3:2)
広裕「新性能電車で大きく変わったのはこの辺りかな」
結那「モーター周りがずいぶんと変わってるね」
広裕「変わったというか、国鉄が遅れてただけともいえるけどな。大手私鉄、とりわけ関西の私鉄は最新技術をばんばん導入してたんだ。カルダン駆動(正式採用は1953年の京阪1800系(2代目特急車)が初)や全電動車方式(京急・名鉄・阪神・南海が積極的に採用し、特に阪神ではジェットカーとまで言われる変態車両を生み出した)あたりは私鉄が先を行ってるな」
(※関西の私鉄と最新技術……当時の電車の最先端はアメリカのインターアーバン(短編成・短距離・高頻度運転の電車)で、国鉄と競合する路線の多い関西の私鉄の多くはインターアーバンを元に建設されたと言われる。標準軌を採用したのはアメリカ製の部品をそのまま使うためという説もある。
ジェットカー……阪神電車の普通電車用に開発された車両。初代ジェットカーの5000系は、常用加速度4.5km/h/s、常用減速度5.0km/s。あくまで常用。ちなみに、普通の電車では非常ブレーキで5.5km/h/sぐらい。)
結那「全電動車ってことは、全部の車両にモーターがあるってことだよね……今だったら電気がもったいないとか言われそう」
広裕「当時の国鉄は、モーターを増やせばそれだけ車両性能も――とりわけ加速についてはあがると思ってたらしい」
結那「……あれ? でも101系って、モーターのない車両もあるよね? クハ100とかサハ101とか」
広裕「そいつらは本当はないはずの形式だったんだよな……」
結那「ないはず?」
広裕「さっきも言ったように、国鉄では全電動車にして加速力アップを目指したんだけど、その前座として、一番混雑の激しかった中央線(中央快速線:東京~高尾)を101系にすることにしたんだ。ちなみに、その混雑ぶりは、10両編成を2分間隔で運転して満員ってレベル」
結那「それってもうATSの限界じゃん……今もあんまり変わってないけど」
(※ATS……国鉄では1954年に山手線・京浜東北線にB型ATSが設置されたのが始まりだが、1962年の三河島事故でATSの整備が急務となり、1966年には国鉄全線に採用(東海道新幹線のみATC))
広裕「同じ2分間間隔でも、列車全体が速くなれば本数を増やせるだろ? 要は、スジを立てればもっと詰め込めるよねってことだ」
(※スジを立てる……列車の所要時間を短くすること。似た表現に「寝かす」(=所要時間を長くする)がある。ダイヤグラム上での列車の動きから)
結那「それに関しては、加減速のいい101系を入れたんだから解決じゃないの?」
広裕「と思うだろ? ところが、いざ101系にしてみたら、全電動車にしたせいで架線に大量の電気が必要になって、架線が溶ける可能性(※)が出てきたんだ」
(※……過電流による架線溶断)
結那「はあ?」
広裕「危うく桜木町事故の二の舞になるところだったんだ。三鷹事件より怖いわ……」
(※三鷹事件……三鷹車庫(現:三鷹車両センター)に停車していた63系電車が突然暴走。脱線した先の商店街に突っ込み6人が死亡、20人が負傷。)
結那「全電動車前提なのに、全電動車にしたらアウトって……」
広裕「とりあえずモーターに流す電流を減らして対応していたけど、その後は元々電動車の予定だった車両からモーターを抜いて、急遽付随車ができた」
(※モーターを抜いて……しばらくは付随車も後々モーターをつけられるように電装準備工事がしてあったが、1963年からは準備工事がなくなり、1965年からは台車も付随車用のものとなった。)
結那「そうなんだ……あれ? そういえば、101系って山手線とかにもいたよね? 中央線でこんなに失敗してたのに、こっちにも入れたの?」
広裕「101系がだめなのは国鉄もわかってみたいだが、それを改善する暇もないほど旧型電車が跋扈(ばっこ)していたってことさ――肝心のモーターの問題が解決してなかったのにな」
結那「モーターの問題?」
広裕「101系が次に投入されたのは山手線と大阪環状線だったけど、中央線に比べて駅間が短いから、よりモーターの数を減らして、MT比を1:1にまで減らす予定だったんだ。しかしここで問題が生じた――肝心のモーター・MT46に電流が流れすぎて、オーバーヒートする可能性が出てきたんだ」
(※オーバーヒート……定格電流が300Aなのに対し、旧型電車並みの加速度(2.0km/h/s)を得るために380Aも流す必要があった。なお、350A以上で発熱した模様。)
結那「え? 付随車を減らしてってことは、モーターの限界上限まで電流を流してるってことでしょ。それでオーバーヒートするんじゃ、どのみち全電動車は無理だったんじゃないの?」
広裕「そこはよくわからん。発電ブレーキのためにモーターにかかる電圧を低くしたのもあるのかな……ともかく、いろいろ実験してみた結果、MT比3:2ぐらいならなんとか運転できるんじゃないかという結論になった。山手線には4M3T、大阪環状線には4M2Tで投入された。ちなみに、山手線の101系はウグイス色じゃなくて黄色だった」
(※発電ブレーキのために……発電ブレーキを使用すると、モーターには逆向きに回転させる電流が流れるため、モーター自身の抵抗で大きな電圧がかかる。
山手線……当時、20m級車両は7両までしか入れなかった。)
結那「あ、それ知ってる。意外と知られてないんだよね」
広裕「その後ウグイス色の103系がデビューするまでの短い間(約2年)だったからな。山手線の101系は色を変えないで総武緩行線に転属して、黄色=総武緩行線が定着することになる」
結那「ここでやっと103系が出たんだ」
広裕「103系ではモーターもMT55に変更したから電流も少なくなったし、オーバーヒートもおこさなくなった。これで万々歳……だったんだけど、101系の置き換えにまではならなかった。なんせ、中央線系統だけでも500両近かった(※)からな」
(※……最終的に1535両が製造された。これは国鉄史上5番目に多い。参考までに205系で1461両。)
結那「車体は扉が広がって乗りやすくなったのは事実だしね」
広裕「そんなんで中央線を中心に活躍していたわけだけど、JRになる頃にはほとんど廃車になっていた」
結那「私が生まれたときには、101系は南武支線にしか残ってなかったもんね」
(※南武支線……正式には南武線浜川崎支線。尻手~浜川崎を結ぶ路線で、川崎市の臨海地区と新鶴見信号場を結ぶルートを形成している。現在は205系1200番台に置き換えられた。)
広裕「俺も103系に比べて廃車が早いなとは思ってた……201系が生まれたのも大きいけど、一番はやっぱり冷房化できなかったことだな。モーターの出力が小さすぎて冷房を載せられなかったんだ」
(※冷房を載せられない……冷房用電源を新たに載せることでなんとか冷房をつけたが、その数は92両にとどまった。)
結那「だから秩父鉄道のデハ1100は冷房が……あれ? そしたらデハ1000は?」
広裕「デハ1000(元クモハ100)にはパンタグラフを増設してるだろ? 足りない分の電気はあそこからとってるんだ。ちなみに、クハ1200は床下にSIV(静止型インバータ)をつけてる」
(※SIV/静止型インバータ……インバータは直流から交流に変換する装置のこと。冷房用電源などに用いるインバータは、VVVFインバータなど走行用に使うものと区別するためSIV(静止型インバータ)と呼ぶことが多い。)
結那「そうだったんだ……」
広裕「というわけで、『101系』はこれで終わりです」
結那「1000系もあと少しで見られなくなっちゃうから、乗りに行くならお早めに!」
(※見られなくなっちゃう……2014年3月で全車引退予定)
広裕「あー……なんか話してたら乗りに行きたくなってきた」
結那「なんなら土日で行ってくれば? 日帰りだとちょっと厳しいし」
広裕「えー、折角だし結那も行かない? あ、ホテルは別々に取るけど」
結那「そんなの当たり前でしょ!!(……広裕とふ、二人旅って、つまり、そういうことだよね……)」
広裕「(1000系に乗りに行く旅なんて、結那ぐらいしかついてこれないからな……)」
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ということで、久しぶりの当シリーズ。
今回は夏帰省前半の主目的だった秩父鉄道1000系こと国鉄101系を取り上げました。本来なら前半戦投稿期(9月前半)に投稿すればよかったのですが、一度はお蔵入りとなっていました。だって、調べれば調べるほどボロが出てくるんだもん……まとめるのにずいぶん苦労しました。
余談ですが、この1週間後、荒川鉄橋(上長瀞~親鼻間にあるガーダー橋で、秩父鉄道随一の撮影スポット)を渡る1000系を川べりから眺める二人がいたとかいないとか。
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