晴れているとはいえ、相変わらず外に出るのが億劫なほどに寒いです。
帰省の話なのに大阪をぐるぐるしているだけでしたが、いよいよ大阪脱出の時が来ました。
翌28日。午前7時の大阪駅はまだ薄暗がりの中にありました。同郷の友人とともに、静岡へ戻ることにします。
北海道よりは暖かいとはいえ、気温は5度。それなりの格好をしないといけません。そんな寒空の下でも、9番線には私たちの他にも列を作っていました。
やがてベルとともに列車が入線。223系でやってきたのは、7:03発の米原行新快速でした。数少ない大阪始発の新快速です。車端のボックスを確保したので、あとは米原まで寝るだけです。本当は大阪近郊を乗りつぶす予定でいましたが、友人と青春18きっぷで帰ることになり(複数人で使用する場合同一行程である必要があります)早朝から帰ることになったのです。おかげで睡眠不足ですが、1時間半もあれば寝られるでしょう。
[大阪7:03→米原8:29]
大阪を出て間もなくオーシャンアローと並走します。紀勢本線の特急「くろしお」に使われる車両です。この列車は新大阪で「くろしお1号」となり新宮を目指すことになります。
新快速は元々、京都・大阪・神戸の三都市を結ぶべく登場した列車です。私鉄王国の異名を持つ関西では私鉄のシェアが圧倒的に高く、京阪間では阪急と京阪に、阪神間は阪急と阪神に差をつけられていました。一方の国鉄線はというと長距離列車が主で、地域内列車の本数は微々たるものでした。そこに華々しく登場したのが新快速です。戦前に草津~西明石の複々線化がなされており、外側が汽車(長距離列車)、内側が電車(近距離列車)となっていました。しかし、戦後は長距離列車の減少で汽車線に余裕が生まれてきました。新快速は間合いを利用する形で生まれました。今でも外側=新快速・特急、内側=普通の分配は変わっていません。ちなみに、アイデアとしては新規ではなく、戦前には同じようなコンセプトで52系による急行電車(名前は急行だが実際は快速)が走っていました。戦争時になくなり52系が被災したことで中止になっていました。
運転開始時のダイヤはデータイムのみ・1時間ごとと少ないものでした。その後人気を博すとともに時間帯の延長と増便がされ、国鉄時代末期には全時間帯で運行。本数とともに区間の充実が図られるようになります。東の端は京都から複々線の終点・草津、彦根、米原と移り、さらに北上して長浜。湖西線にも乗り入れ近江舞子、永原と延長し、しまいには2006年に敦賀まで到達。福井県にまで新快速の波がやってきました。一方西の端は複々線の終点・西明石から姫路、さらには赤穂線の播州赤穂まで延伸。2府3県にわたる広大な「新快速」網が出来上がりました。現在は敦賀発米原経由播州赤穂行が最長で、その距離は優に300キロを超え、所要時間は約4時間。道中時速130キロ運転でこれだけかかるのですから、その広さがうかがえます。
当初は余剰となっていた準急用電車153系が使われていましたが、後に新快速用として117系が登場。2ドア・クロスシートの車両は料金不要の列車とは思えないほどの充実度です。いきなりの新車の登場で他の私鉄は脅威を覚えたことでしょう。ここから新快速用の電車の開発が進むことになります。JRになってからは221系がデビュー。223系、225系と増備され新快速の顔となると同時に、余剰になった電車は支線に転属、大阪都市圏の車両更新が同時に進むことになりました。それでもまだ103系が生き残っているのが大阪らしさを感じさせます。なにせ10年で新車に変わるJR東日本と対照的に、新車と40年物が入り混じってますから。117系も新快速当時のカラーをまとって湖西線や草津線で活躍しています。ただ、単色化でもう見られなくなる可能性も……
線形が良いので新快速は全区間ぶっ飛ばします。京都まではわずか30分。滋賀県の東端にあたる米原ですら1時間半で到達します。18キッパー御用達になるわけです。
ふと目を空けるとそこは彦根。米原まではあと一駅です。
8時29分、米原着。次に乗る大垣行きの列車の発車は残り4分! 大急ぎで乗り換えます。
米原駅の端、8番線にいたのはなんと117系! 直近の21日のダイヤ改正発表で突如定期運転終了が発表されたばかりでした。色も東海色で編成も4両と短い(製造当初は6両)ですが、117系であることには変わりありません。
東海の117系の特徴は4両編成であるのに加えて、1両のみ100番台の先頭車を含んでいることが挙げられます。短編成化のために新規で作られた車両ですが、窓の高さなど微妙に違う点もあります。元の6両編成を3両ずつに分割して足りない側の先頭車を新造したので、外から見ると1両だけ違うように見えます。
一応もう一枚。
[米原8:33→大垣9:07]
新快速の客の半分以上を吸い込んだ117系は、定刻に米原を後にしました。乗っているのは大きな荷物を抱えた客ばかりです。東海道本線は18キッパーのゴールデンルートともいうべき路線なので、18きっぷの時期はどこもこんな感じです。
米原~大垣間は豪雪地帯として有名です。北海道ほどではないものの、地面は白く染まっています。新幹線もこの区間の雪で止まることが多々あります。
新幹線とのクロスを渡る117系。
あっという間に時は過ぎて、117系は大垣に到着しました。
大垣駅での列車の接続はかなり良く、この列車も9:11発の新快速(2316F)に接続しています。素直に行けば静岡までほとんど待ち時間なく行ける……はずでした。
ところが、2316Fに乗ろうとして唖然。6両編成のどこにも座る場所がないのです。終点の豊橋までは1時間半。18キッパーなら途中で降りないでしょう。ただでさえ眠いというのに、1時間半立ちっぱなしは苦行です。
結局、2316Fは断念。後続の9:26発の快速(2518F)に乗ることにしました。28日が平日だったのは幸運でした。これが土休日だったら、後続の列車は9:22発の特別快速(5108F)。米原始発なのでさらに座れない状態だったでしょうから。
[大垣9:26→豊橋10:56]
313系の快速は大垣を5割程度の乗車率で発車しました。立ち客もいた新快速とは雲泥の差です。どうしてそこまで急ぎたがるのでしょうか。そんなに急ぎたいなら大阪6:33発の新快速を使えばいいのに(大阪7:03にしても、姫路からの一番電車で間に合うかどうかのレベルなので、事実上大阪・京都に泊まらない限り使えない)。
大阪からの静岡まで鈍行で帰るのは2度目なので、道中起きていないといけない要素もありません。安心して眠りにつきました。
[豊橋11:04→磐田11:52]
そろそろおなかの空く頃合いですが、豊橋の乗り継ぎも8分しかないので、ただ乗り換えるだけです。
乗り換えた電車は1時間に1本しかない掛川行。多くの列車は浜松で乗り換えをさせられる中で数少ない豊橋直通列車なのですが、どのみち静岡に帰ろうとすると浜松で興津行を待つ羽目になるので変わりません。
友人が磐田の人間なので、18きっぷの制約から私も降りることになりました。1つ手前の豊田町で友人を起こす(ここまでずっと寝ていて、降りるたびに起こしていました)と、彼はこう言いました。
「あ、豊田町で降りたいんだけど」
……マジで?
何も言わないのでてっきり磐田で降りるものだと思っていたら……
[磐田12:03→豊田町12:06]
磐田到着後すぐに下り(浜松方面)の乗り場に並びました。
およそ10分ほどで211系の豊橋行きが到着。トイレがない・ロングシート・座ると足だけ熱くなる、と県内外に嫌われる211系ですが、一駅なので気にはなりません。
豊田町の改札に向かうと、なんと駅は無人。青春18きっぷは自動改札機に通せないので有人改札を通る必要があるのですが、無人なので切符を見せるまでもなく改札を通過。これなら自分は必要なかったのでは……と思いつつも、儀礼的に自分も改札をくぐりました。
改札外の滞在時間は約30秒。再び無人の窓口に切符を見せ(見せる人はいないのに)、上り線のホームに向かいました。
[豊田町12:18→静岡13:21]
やってきた興津行に乗車します。さっきよりも18キッパーの姿は多くありませんでした。米原~大垣が30分おき、大垣~豊橋(快速)が15分ごとなのに対し、豊橋以東は20分おきなので、必然的に3本のうち1本はうまく接続せず、18キッパーが少ない傾向にあります。この浜松12:10発の782Mもその例にもれず、米原~大垣の列車に接続していません。そのせいか、バックパックやスーツケースを手にする人の数は先ほど乗った列車より少ない気がします。少ないというだけで3割近くが旅行者風なのですが。 大阪を旅立って約6時間、無事に静岡に到着しました。まずはご飯です。
29日以降は家を出ることなく、かくして年末年始はゆっくりと家で過ごしましたとさ。おしまい。
と、なるはずがありませんでした。
次回は年明けからスタートです。
書いた感想↓
帰省の話なのに大阪をぐるぐるしているだけでしたが、いよいよ大阪脱出の時が来ました。
翌28日。午前7時の大阪駅はまだ薄暗がりの中にありました。同郷の友人とともに、静岡へ戻ることにします。
北海道よりは暖かいとはいえ、気温は5度。それなりの格好をしないといけません。そんな寒空の下でも、9番線には私たちの他にも列を作っていました。
やがてベルとともに列車が入線。223系でやってきたのは、7:03発の米原行新快速でした。数少ない大阪始発の新快速です。車端のボックスを確保したので、あとは米原まで寝るだけです。本当は大阪近郊を乗りつぶす予定でいましたが、友人と青春18きっぷで帰ることになり(複数人で使用する場合同一行程である必要があります)早朝から帰ることになったのです。おかげで睡眠不足ですが、1時間半もあれば寝られるでしょう。
[大阪7:03→米原8:29]
大阪を出て間もなくオーシャンアローと並走します。紀勢本線の特急「くろしお」に使われる車両です。この列車は新大阪で「くろしお1号」となり新宮を目指すことになります。
新快速は元々、京都・大阪・神戸の三都市を結ぶべく登場した列車です。私鉄王国の異名を持つ関西では私鉄のシェアが圧倒的に高く、京阪間では阪急と京阪に、阪神間は阪急と阪神に差をつけられていました。一方の国鉄線はというと長距離列車が主で、地域内列車の本数は微々たるものでした。そこに華々しく登場したのが新快速です。戦前に草津~西明石の複々線化がなされており、外側が汽車(長距離列車)、内側が電車(近距離列車)となっていました。しかし、戦後は長距離列車の減少で汽車線に余裕が生まれてきました。新快速は間合いを利用する形で生まれました。今でも外側=新快速・特急、内側=普通の分配は変わっていません。ちなみに、アイデアとしては新規ではなく、戦前には同じようなコンセプトで52系による急行電車(名前は急行だが実際は快速)が走っていました。戦争時になくなり52系が被災したことで中止になっていました。
運転開始時のダイヤはデータイムのみ・1時間ごとと少ないものでした。その後人気を博すとともに時間帯の延長と増便がされ、国鉄時代末期には全時間帯で運行。本数とともに区間の充実が図られるようになります。東の端は京都から複々線の終点・草津、彦根、米原と移り、さらに北上して長浜。湖西線にも乗り入れ近江舞子、永原と延長し、しまいには2006年に敦賀まで到達。福井県にまで新快速の波がやってきました。一方西の端は複々線の終点・西明石から姫路、さらには赤穂線の播州赤穂まで延伸。2府3県にわたる広大な「新快速」網が出来上がりました。現在は敦賀発米原経由播州赤穂行が最長で、その距離は優に300キロを超え、所要時間は約4時間。道中時速130キロ運転でこれだけかかるのですから、その広さがうかがえます。
当初は余剰となっていた準急用電車153系が使われていましたが、後に新快速用として117系が登場。2ドア・クロスシートの車両は料金不要の列車とは思えないほどの充実度です。いきなりの新車の登場で他の私鉄は脅威を覚えたことでしょう。ここから新快速用の電車の開発が進むことになります。JRになってからは221系がデビュー。223系、225系と増備され新快速の顔となると同時に、余剰になった電車は支線に転属、大阪都市圏の車両更新が同時に進むことになりました。それでもまだ103系が生き残っているのが大阪らしさを感じさせます。なにせ10年で新車に変わるJR東日本と対照的に、新車と40年物が入り混じってますから。117系も新快速当時のカラーをまとって湖西線や草津線で活躍しています。ただ、単色化でもう見られなくなる可能性も……
線形が良いので新快速は全区間ぶっ飛ばします。京都まではわずか30分。滋賀県の東端にあたる米原ですら1時間半で到達します。18キッパー御用達になるわけです。
ふと目を空けるとそこは彦根。米原まではあと一駅です。
8時29分、米原着。次に乗る大垣行きの列車の発車は残り4分! 大急ぎで乗り換えます。
米原駅の端、8番線にいたのはなんと117系! 直近の21日のダイヤ改正発表で突如定期運転終了が発表されたばかりでした。色も東海色で編成も4両と短い(製造当初は6両)ですが、117系であることには変わりありません。
東海の117系の特徴は4両編成であるのに加えて、1両のみ100番台の先頭車を含んでいることが挙げられます。短編成化のために新規で作られた車両ですが、窓の高さなど微妙に違う点もあります。元の6両編成を3両ずつに分割して足りない側の先頭車を新造したので、外から見ると1両だけ違うように見えます。
一応もう一枚。
[米原8:33→大垣9:07]
新快速の客の半分以上を吸い込んだ117系は、定刻に米原を後にしました。乗っているのは大きな荷物を抱えた客ばかりです。東海道本線は18キッパーのゴールデンルートともいうべき路線なので、18きっぷの時期はどこもこんな感じです。
米原~大垣間は豪雪地帯として有名です。北海道ほどではないものの、地面は白く染まっています。新幹線もこの区間の雪で止まることが多々あります。
新幹線とのクロスを渡る117系。
あっという間に時は過ぎて、117系は大垣に到着しました。
大垣駅での列車の接続はかなり良く、この列車も9:11発の新快速(2316F)に接続しています。素直に行けば静岡までほとんど待ち時間なく行ける……はずでした。
ところが、2316Fに乗ろうとして唖然。6両編成のどこにも座る場所がないのです。終点の豊橋までは1時間半。18キッパーなら途中で降りないでしょう。ただでさえ眠いというのに、1時間半立ちっぱなしは苦行です。
結局、2316Fは断念。後続の9:26発の快速(2518F)に乗ることにしました。28日が平日だったのは幸運でした。これが土休日だったら、後続の列車は9:22発の特別快速(5108F)。米原始発なのでさらに座れない状態だったでしょうから。
[大垣9:26→豊橋10:56]
313系の快速は大垣を5割程度の乗車率で発車しました。立ち客もいた新快速とは雲泥の差です。どうしてそこまで急ぎたがるのでしょうか。そんなに急ぎたいなら大阪6:33発の新快速を使えばいいのに(大阪7:03にしても、姫路からの一番電車で間に合うかどうかのレベルなので、事実上大阪・京都に泊まらない限り使えない)。
大阪からの静岡まで鈍行で帰るのは2度目なので、道中起きていないといけない要素もありません。安心して眠りにつきました。
[豊橋11:04→磐田11:52]
そろそろおなかの空く頃合いですが、豊橋の乗り継ぎも8分しかないので、ただ乗り換えるだけです。
乗り換えた電車は1時間に1本しかない掛川行。多くの列車は浜松で乗り換えをさせられる中で数少ない豊橋直通列車なのですが、どのみち静岡に帰ろうとすると浜松で興津行を待つ羽目になるので変わりません。
友人が磐田の人間なので、18きっぷの制約から私も降りることになりました。1つ手前の豊田町で友人を起こす(ここまでずっと寝ていて、降りるたびに起こしていました)と、彼はこう言いました。
「あ、豊田町で降りたいんだけど」
……マジで?
何も言わないのでてっきり磐田で降りるものだと思っていたら……
[磐田12:03→豊田町12:06]
磐田到着後すぐに下り(浜松方面)の乗り場に並びました。
およそ10分ほどで211系の豊橋行きが到着。トイレがない・ロングシート・座ると足だけ熱くなる、と県内外に嫌われる211系ですが、一駅なので気にはなりません。
豊田町の改札に向かうと、なんと駅は無人。青春18きっぷは自動改札機に通せないので有人改札を通る必要があるのですが、無人なので切符を見せるまでもなく改札を通過。これなら自分は必要なかったのでは……と思いつつも、儀礼的に自分も改札をくぐりました。
改札外の滞在時間は約30秒。再び無人の窓口に切符を見せ(見せる人はいないのに)、上り線のホームに向かいました。
[豊田町12:18→静岡13:21]
やってきた興津行に乗車します。さっきよりも18キッパーの姿は多くありませんでした。米原~大垣が30分おき、大垣~豊橋(快速)が15分ごとなのに対し、豊橋以東は20分おきなので、必然的に3本のうち1本はうまく接続せず、18キッパーが少ない傾向にあります。この浜松12:10発の782Mもその例にもれず、米原~大垣の列車に接続していません。そのせいか、バックパックやスーツケースを手にする人の数は先ほど乗った列車より少ない気がします。少ないというだけで3割近くが旅行者風なのですが。 大阪を旅立って約6時間、無事に静岡に到着しました。まずはご飯です。
29日以降は家を出ることなく、かくして年末年始はゆっくりと家で過ごしましたとさ。おしまい。
と、なるはずがありませんでした。
次回は年明けからスタートです。
書いた感想↓
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます