この間、軽い気持ちで友人にこの質問をぶつけてみたところ真剣な返答があり、期せずも討論大会になりました。
私たちの答えは「得体の知れない感情に無理に名前をつけたもの」であること。
だけれどその答えに至るまでの考え方は全く違っています。
友人は得体の知れない感情を「他者に共有するため」の言葉と言いました。私は得体の知れない感情を「自らの中で納得させるため」の言葉だと主張しました。
そしてこの違いは私たちが“恋愛感情”を抱いたときの行動の違いに出ていました。
友人は現在私の親友とお付き合いをしています。私は二人が付き合う前から今に至るまでだいたいほとんどのことを知っているわけですが、彼は私の親友に好意を持った時点でデートに誘うなど積極的な行動に出て、かなり早い段階で自らの想いを伝えています。対して私は意中の人に惹かれ始めてから、それが恋愛感情であると自分の中で線引きをするのに何ヶ月も時間がかかりました。それも大きなきっかけがあったから線引きが漸くできたのです。そうして自らの中で“恋愛感情”だと折り合いをつけてからも、これは人間としての好奇心が高まっただけではないかなどと散々“恋愛感情”かどうか疑い続けました。(未だに疑い続けています)
私と友人で“恋”という言葉の捉え方・用法が違うものだというとてもわかりやすい例だと思います。
きっと言葉の捉え方だけでなく、私たちの“恋愛感情”の中味も全く違うものなのです。
ひとそれぞれで同じ感情ではないけれど、他者に対して持つ曖昧な感情に名前をつけて折り合いをつける、それが恋なのではないか、という結論に至りました。
恋ってなにもかもが難しい!
(そういえば意中の人が意中の人になった経緯についてまだ書いていなかった…次回で書こうかしら…)
「読む」の名詞が「読み」なのと同じで、「こう」の名詞が「こい」です。
つまり、「相手にして欲しい感情」の事を指します。
「好き」は自分→他者という一方的な感情なのに対して、「恋」は、自分←他者を望んでいる状態です。
従って、どちらかと言うと、友人が正しい。
「して欲しいんですよ」という事を共有しないと、してもらえないですから。
して欲しい事がなくても、付き合う事はできます。付き合ってる関係性でも、相手にして欲しいという感情がない場合、一般的に「恋」とは言わないでしょ。
関係が長い夫婦は、相手に文句はあっても、要求は消える事が多い。相手が望む事が分かってるから、黙っていても関係性が回るので、要求の感情は消える。「恋」ではない。
でも、おっしゃる通り、自分を納得させる為、というのも、間違ってはいない。
「して欲しい感情」自体は、「好き」という感情と同じで、不特定多数にも向けられる。
例えば、私だって、今、「コメントに対して返信して欲しい」という感情を持ってる。
でも、この感情は薄くて、正直、どっちでも良い。だから、「恋」ではない。
そもそも「コメント返してください」と書いてくるコメント、ウザいでしょう?
つまり、相手にして欲しい感情を自分が持ってると自覚しないと、相手に嫌われるリスクが高くなるので、「恋」だと自覚した方が良い。
好きなだけなら、一方的に好き好き言って、引っ付いてれば良い訳で、欲してしまってるから、相手に迷惑をかけるリスクになる。
では、「して欲しい感情」が特定の人にのみ、こじれて、説明できない感情になるのは、何故か?
このブログの最新記事がきっかけの記事で、答えが書いてあるような物ですね。
自分より上位の人間から、何かをされたら、嬉しいですよね。しかし、その感情は、不特定多数の憧れてる尊敬してる人に対して抱いてる。それが、こじれた感情になるのは、その上位だと思っていた人が、自分と同等の人間に感じられた時に起こります。
自分と同等ならば、してくれるのではないか? という期待が生まれるからです。
例えば、憧れてる人と一緒に買い物にいったら、誰でも嬉しい。でも、高値の花だから、叶わない。その憧れてる人が、自分と同じ趣味を持ってたら、頼めば一緒に買い物に行ってくれそうな気がする。この妄想が、こじれてる感情です。
実際は、相手の地位が上だから、して欲しい事を伝える事はできない。この妄想と現実のギャップの苦しさが、いわゆる「恋」です。
これが男女だと、憧れてた地位を、同等の地位に確定させる事が簡単にできる。
give and takeの関係性に持ち込めば、同等になる。一般的に、男性が女性にしてもらいたい事、女性が男性にしてもらいたい事は決まってるので、相手に欲っする事ができたら(恋したら)、それを伝える前に、相手にしてあげる事を先にすると、自分の「乞い」も叶う可能性が高い。
具体的には、男性は財力を使えば憧れてる女性でも同等の地位になれる可能性が高くなり、女性は身体を使えば憧れてる男性でも同等の地位になれる可能性が高くなる。
だから、同性だと、難しいですよね。
そもそも、同性に対して、そこまで憧れる事が、普通は少ない。同性だと、競争相手か、仲間か、のどちらかに分類してしまう事が多い。異性の方が、「絶対に自分では叶わない」と思う部分を見つけやすいのが、普通。
男性全般を劣ると思ってるのか。一般的な女性より自分が劣ってると思ってるのか。その子がよほど素晴らしいのか。
相手が自分より高い地位→「自分と同等なんじゃないか?」という妄想→実力行使による地位の同等化→交際→相手の地位が自分よりも低いと感じ始める=「乞い」はなくなるので、「恋」ではなくなる。これが恋愛のパターンです。
このコメントへの返信だって、もし、あなたが有名アイドルとか、有名小説家だったら、私は返信が欲しいと強く思うでしょう。相手の地位が高いから、「して欲しい」と強く思う。
実際は、大学生の地位は、私と同等、もしくは下なので、返信を強く乞う事はない。乞い心もない。という事でしょう。
でも、ブログは、面白く読んでます。
このコメントの通り、LGBTという考え方は間違ってると確信があって、生物として性質を分類する事ではないですよ。
ある条件が揃う事によって、そういう感情が発生するだけで、その発生条件が稀であっても、そこで起きてる感情の動きは、普通です。
戦国武将や、女子校では、同性愛が増えるのは、当然であって、そういう事実がある以上、そういう感情の動きになった人を、特殊な人であると分類するのは、絶対に間違ってます。
恋はもともと乞いから来たとは知りもしないければ、考えてもみませんでした。まだまだ勉強が足りなかったようです。
コメントとても興味深く拝読し、何度も膝を打ちました。コメントありがとうございます!