元気になるに従って、マンローは次第に考古学にのめり込むようになりました。
ここで当時の日本の考古学の状況について少し話しておきましょう。
教科書でもおなじみですが、日本の考古学のはしりとなったのが、アメリカ人教師エドワード・モースによる大森貝塚の発掘でした。
モースについてはいろいろな評価がありますが、そのエネルギッシュな進化論の普及活動で日本の考古学の骨格を作り上げました。(「種の起源」の発表は59年で、モースの活動開始は77年)
まずはそれを評価すべきです。
モースの活躍があったとはいえ、考古学研究の中心はイギリスやドイツ系の学者でした。
最初中心になったのはドイツ人シーボルトでした。大シーボルトの次男で、名も同じだったので小シーボルトと称されていました。
彼らの頭には91年にインドネシアで字発見された「ジャワ原人」のことがあったのではないでしょうか。
それは33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが発見し、「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられました。「第二の原人」探しは考古学者の密かなあこがれであったと思います。
おそらく95年ころから、考古学好きグループの刺激を受けて発掘にのめり込んでいったようです。
はっきりしている記録としては、1904年、マンローとベルツの共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘したことです。このときマンローは41歳。
多分それは今までの発掘とは比較にならない大規模なものだったのでしょう。
岡本孝之さんは次のように書かれています。
この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。この病院は1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる。
翌1905年、今度はマンロー単独で箱根の発掘作業に入りました。そこは早川沿いの河岸段丘で何層かの礫層が露出していました。
そこから旧石器時代の遺物とみられるものを発見しています。旧石器と言っても、日本で言う縄文時代です。
しかしこれらは小手調べに過ぎませんでした。この年の秋、横浜市内三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見したのです。
そこは宝の山でした。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などが掘り出されました。
それどころではありません。竪穴住居群が発見され、その一つからはこども1体、大人4体の、ほぼ完全な人骨が発掘されたのです。
これだけの大発見の割に、世間的には知られていないというのも不思議です。さらにいえば全くの個人の意志と私財によって成し遂げられたというのも評価されるべきではないでしょうか。
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