第2章 遍歴の時代 エジンバラから横浜まで
マンローは歴史の話や発掘の話では饒舌ですが、自分のことはあまり語りません。
とくに卒業前後の事情はあやふやです。3つの謎があります。
第一には、病気で学校を休んでいることです。最低でも1年は休んでいます。おそらく結核だったようで、チュニジアで転地療養を行っています。
第二には、きちっとした形で卒業していないことです。日本でもイギリスでも、卒業と医師国家試験とは別になっています。
ところがどうしたわけか、マンローは卒業はしたが医師免許はなかったのです。これだと診療はできません。もしやればモグリということになります。
第三には、第二の疑問とも関連しますが、なぜ卒業と同時に祖国を去ったのでしょうか。1888年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。25歳のことです。
“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)という意見もあって、たしかにそうも言えるかと思いますが、はたしてそれだけでしょうか。
それ以来死ぬまで、マンローはたった一度しか、祖国の土を踏んでいません。父親が死のうが母親が死のうがお構いなしです。むしろそちらのほうが気になります。
88年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。そして外国航路の船医となってインドへ向かいました。
インドでは各地を旅行し発掘調査に関わっています。この間、父ロバートが没していますが、ついに国に戻ることはありませんでした。
さりとてインドでの研究が順調に進んだかというと、そういうわけでもありませんでした。彼はインドの持つ巨大な「混沌」とぶつかり、かなり精神的にまいったようです。
晩年、マンローは最後の妻チヨにインドと香港で見たことを語っています(桑原による)。これをちょっと膨らませて紹介します。
「英国人は傲慢で、インドの人たちを奴隷でも扱うように接していました。それに輪をかけて昔からのカースト制度が人々を苦しめていました。人々は進んだ文明から疎外され、遅れた文明からいじめられていたのです」
このような精神的ストレスに加え、インドの厳しい気候が身体を痛めつけました。おそらくは学生時代に発症した結核が再燃したのだろうと思います。
やがて彼はインドでの研究を断念、香港に移ることにしました。
ここでマンローは別の船会社の船医に就任します。この船会社は香港・横浜間の定期航路を運営していました。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたはずです。
香港に移ったあとも病勢は思わしくなく、マンローは横浜で療養生活に入る道を選びます。これが1891年(明治24)5月のことです。
マンローは横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。その後年余にわたる療養を経て社会復帰します。
彼は横浜に来て病気療養中に「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という文章を書いて出版しています。インド滞在中に執筆した哲学に関する覚え書きのようですが、詳細は不明です。
自分の人類学者として生きていく道を模索し、整理していったのではないかと思います。
ようやく病癒えたマンローは、日本永住を決意。2年後には入院していた横浜ゼネラルホスピタルの院長に就任します。この時齢30歳、放浪の前半生に別れを告げることになりました。
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