匈奴の歴史 年表
戦国時代
紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。
紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。
紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。
紀元前200年 匈奴は太原に侵入し、晋陽に迫る。漢の劉邦(高祖)は自ら出陣したが惨敗を喫し、以後匈奴への臣属を強いられる。
紀元前180年 匈奴、敦煌の月氏を駆逐し、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を支配下に収める。月氏残党はサマルカンドに大月氏国を建てる。
紀元前177年 漢が匈奴に反撃。西方進出に集中していた匈奴はこれを容認。
前141年 漢の武帝が即位。漢は河南の地を奪取することに成功。
前121年 漢の総攻撃開始。匈奴は重要拠点である河西回廊を失う。
前119年 漢が漠南の地(内モンゴル)まで侵攻。形勢は完全に逆転し、匈奴が朝貢を行うようになる。
前102年 漢の李広利が西域に遠征。匈奴の西域に対する支配力は低下し、オアシス諸国は漢の支配下に入する。
前80年 匈奴に内紛発生。漢の干渉にあい、戦力は大幅に低下。服属していた丁零や烏丸,鮮卑も離反した。
前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する
前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する
前31年 匈奴国内が分裂。一時期は5人の単于が並立する。
紀元9年 王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国する。王莽の蛮族視政策は西域にも及ぶ。これに反発した西域諸国は、匈奴に従属するようになる。
紀元13年 新は匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させる。匈奴は恭順せず反抗を続ける。
紀元23年 新が滅亡。その後光武帝による後漢が成立する。
紀元46年 匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡する。匈奴は南北に分裂し、親漢派の南匈奴が北匈奴を撃破。
87年 東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴を大破する。北匈奴はその後消滅。南匈奴もその後内紛により自滅。
匈奴の起源は謎となっている。現在のところ、北上する黄色人種(N系)、北方の古いアジア人(C系)、中央アジア遊牧民(QR系)が混合してで形成された集団だとされる。(二重三重にいい加減な定義)
匈奴は遊牧を専らとし、農耕は行っていなかった。しかし連れ去った農耕民奴隷による農業生産が確認されている。匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。
戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。
戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。
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