お陰様で50年! 金婚の旅 ハイサイ“沖縄”
平成29年1月15日(日)~17日(火)
関西空港 ~ 那覇空港
前田秀一 プロフィール
結婚以来50年間、郷里九州(熊本県)はもとより、現住地・関西一円、さらに延べ15年にわたる関東地区単身赴任の期間を利用し、妻とともに北は北海道まで46都道府県の旅行を楽しんできました。
残るは沖縄、就職した当初、入社同期の同僚がパスポートの悲哀を語っていたイメージが強く、近くて遠い“沖縄”でした。しかし訪ねてみたい、一種の憧れを募らせて今日この時まで温めていた“沖縄”でもありました。
沖縄をよく知る人々から、1月の季節感を勧められ、旅行案内書にある説明はともかく、年代のせいかやはり「首里城」と「ひめゆりの塔」へ格別なる思いを胸に飛び立ちました!
いたるところでシーサーの歓迎!
沖縄の地を一歩踏み込むと、いたるところでシーサーの目線を感じ、若者が演じる伝統舞踊エイサーの歓迎を受けました。
「シーサー」は、沖縄の方言で「獅子」。「家の守り神」、「魔除け」、「福を呼ぶ縁起物」として沖縄では大事にされているそうです。
一見、私たちの身近にある「狛犬」のようでもあり、口を開けた方が「オス」、「福を招き入れる」、「魔を吸い込む」といわれ、口を閉じた「メス」は「福を逃がさない」と伝えられているそうです。
エイサー 歓迎の舞(国際通り)
「エイサー」は、慶長8年(1603)、まだ日本へ渡来していない経論を求めて明国(中国)へ渡航した磐城国(福島県)の浄土宗僧・袋中上人(たいちゅうしょうにん)が、その目的を果たせずに琉球に漂着して伝えた念仏踊りに源流があるといわれています。
お盆の時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するために、主に、旗頭、太鼓踊、手踊、チョンダラー、地謡で構成され、若者たちが踊りながら地区を練り歩くそうです。
国際通り散策 意外や、吉本・沖縄拠点発見! 「めんそ~りよ~」 牧志公設市場
少子高齢化の世相に慣れた目から見て、沖縄のまちの雰囲気は全体的に本土より平均年齢が低いように見受けられました。
平成27年度の国勢調査によると沖縄全島の人口は144万人(前回比+2.3%:全国4位))、出生率1.87人/世帯:全国1.39人)、平均年齢40.7歳(全国47位:最下位)、14歳以下17.8%(全国1位)、65歳以上17.4%(全国47位:最下位)、だそうです。
人口増加は、中南部に集中しており、離島などは減少の傾向かあるそうですが、基本的には出生率が高いことが挙げられ、以下の背景が指摘されております。
1.親族や地域同士とのコミュニティの結び付きが強く、相互扶助の精神が残っている。
2.男系子孫を重んじるため、男児を産むまで出産を制限せず、結果的に多産する。
3.本土から移住者の増加(例、東日本大震災後福島県など被災者の移住、比較的若い世代)
引用資料:フリー百科事典『ウィキペディア』「沖縄県の人口統計」
名勝 万座毛 東シナ海の荒波 沖縄版「アダムとイヴ伝説の島」古宇利島
大家(ふうやー) 百年古民家パーク
古民家 重要文化財 シーサーも目を見開いて歓迎
沖縄では、まち中で木造建築物を見かけることが少なく、遺産として保存され文化伝承の対象となりつつあるように思えました。民家をはじめ、まち中の建築物のほとんどが鉄筋コンクリート造(RC造)でまち全体が白っぽく見えたのが印象的でした。
その背景は、台風や湿度(シロアリ被害)対策など気候対応によるものだそうですが、米軍の占領下で米軍が使用する建物(米兵の住宅含む)が鉄筋コンクリート造(RC造)で建てられ、その影響を受けて一般の住宅もRC造のものが多くなったそうです。
那覇のまち並み
沖縄国際海洋博覧会(昭和50年)を記念して設置された国営公園
沖縄本土復帰記念事業として1975年(昭和50年)沖縄国際海洋博覧会が開催され、海洋生物園が出展されました。
1979年(昭和54年)8月、博覧会跡地に国営沖縄海洋博覧会記念公園が開館しました。
2002年(平成14年)11月、沖縄本土復帰30周年に合わせて新館を開館させ、名称を「沖縄美ら海水族館」(おきなわチュらうみすいぞくかん)に改称されました。「チュらうみ」とは沖縄の方言で「清〔きよ〕ら(しい)海」という意味だそうです。
開館当時、水量1,100トンの水槽は世界最大でしたが、2005年(平成17年)にアメリカのジョージア水族館が開館されその座を譲りました。
「沖縄美ら海水族館」詳しくは、こちらから
首里城 港と領地を一望できる高台にそびえる
世界遺産 園比屋武御嶽石門〔国王が外出の際に礼拝する「御嶽(うたき)」の門〕 詳しくはこちらから
14世紀末に創建された中国や日本文化も混合する琉球独特の城
1945年の沖縄戦で消失したが、1992年11月に正殿ははじめ一部が復元
2000年12月、首里城跡として世界遺産に登録
「首里城」詳しくは、こちらから
中世から近世初頭の琉球王謁見儀式模型 石垣旧跡
1372年、琉球では中山(ちゅうざん)王察度(さっと)が初めて明(みん)国に入貢し、進貢貿易(朝貢貿易)を開始しました。明は、商船の自由な海外渡航を禁止する海禁政策をとっていたため、中国商人の活躍舞台は大幅に狭められていました。
1429年、琉球を統一して琉球王国を樹立した尚巴志(しょうはし)は、中国との進貢貿易を主軸に、日本、朝鮮および東南アジア諸国との貿易を飛躍的に発展させました。
那覇は博多、堺などの日本商人やその他の外国商人も来航してにぎわいましたが、やがて16世紀中ごろになるとポルトガル、スペインの進出、中国商人や日本商人の海外発展などが琉球の優位性を奪い始めたため琉球の貿易もしだいに衰え始めましたた。
引用資料:高良倉吉・福島 清・平良 慶監修 1992『首里城 蘇る琉球王国』6~9頁(財)海洋博覧会記念公園管理財団
ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑
「ひめゆり」とは、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称。
沖縄戦で、沖縄陸軍病院に動員された女子学生たちの総称を、戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ぶ。
積年の思いを花に託してお供えし祈りをささげました。
「ひめゆりの塔・平和祈念資料館の巡り方」詳しくは、こちらから
世界遺産登録「園比屋武御嶽」に代表されるように沖縄は歴史的に「御嶽(うたき)」と称する自然崇拝や祖先崇拝が広く浸透し、仏教やキリスト教など日本本土古来の宗教信仰の慣習は低く(観光ガイドの説明では高々20%程度とのこと)、むしろ生活慣習の一部としているそうです。
仏教宗派としては、臨済禅宗(天徳山円覚寺)、浄土宗(奥武山袋中寺)、真言宗(智山派雄翔山大願寺)など沖縄の歴史にまつわるお寺があり、それぞれの宗派の信徒がおられるそうです。その他では米軍基地が多いためキリスト教徒もおられ、沖縄のおかれた社会環境を反映して新興宗教信者もおられるそうです。
家系の長男の家には崇拝の対象とする位牌を置く沖縄独特の仏壇があり、年中行事として一族が集まって拝んだりしているそうです。
お墓も、家系の長男を中心とし集合墓で本土の場合よりははるかに大きく、亡くなったら母親のお腹の中に帰ることを想定し、子宮をかたどった独特のものがあり、建設費用も1基2,000万円ほどもするそうです。
このような死生観の違いが、本土に住む私たちとの間で、ものの見方、考え方においてどのような影響を与えるのか、今後の課題として考える余地があるように思いました。