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行基活躍の時代背景と事績

2021-02-25 00:51:25 | SDGs

歴史を未来へ!
行基活躍の時代背景と事績

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前田秀一 プロフィール

1.八世紀以前、在地の支配と土師氏の出自
 5世紀前後、葛城地域の豪族集団と紀伊地域の豪族集団が結びつき、泉北丘陵に居住した中小の豪族勢力を配下に取り込みつつ、渡来人を配して「陶邑」が形成された。
 「陶邑」が日本列島各地へ技術移転の役割を担っていたが、神直(みわのあたい)など三輪系氏族の三輪祭神祭祀に用いる神酒の容器に関しては王権が直接関わるなど制約もあり、6世紀後半から7世紀前葉には三輪系氏族に移譲された。
 河内、和泉地域では、渡来系氏族や中央豪族氏族など在地に基盤の無い氏族集団は、農業生産を基盤としておらず、特定の職務をもって奉仕する代わりに生活の基盤は王権に依存していた。
 古代氏族の一つである土師氏は、天皇や高官たちの墳墓造りや喪葬儀礼への関与という重要な職掌を担っており、百舌鳥古墳群や古市古墳群の造営にも関わっていたと考えられている。
 『日本書紀』によると、土師氏の祖先は天穂日命(あめのほひのみこと)だが、直接の祖となったのは野見宿禰(のみのすくね)であった。
 垂仁天皇32年に皇后が亡くなると、野見宿禰が、出雲国の土部100人を呼び寄せ、彼らを使って土で人や馬など様々な物の形を作り天皇に献上した。天皇は喜んで、それらを埴輪と名づけ皇后の墓に立てて殉葬の風習を止め、天皇は野見宿禰を土部職に任じた。
 これが、土部連らが天皇の喪葬をつかさどるようになった由縁であり、野見宿禰は土部連らの始祖であると伝えられることになった。土部連は後には土師連と書かれるようになった。 
 野見宿禰の野見は、石を削る工具であるノミにも通じ、土部を率いて埴輪を作るだけでなく、石棺、さらには墳墓そのものの造営にも携わることを職掌としていた。 

 

 6世紀後半になると、巨大古墳群の築造は下火になり、土師氏の仕事は大幅に減って、伝統的な土師器の生産や陵墓管理だけでは豪族としての地位を保つことが難しくなってきた。
 その対策として、寺院建築に乗り出し、仏像の造立、仏教祭事の取り仕切りなどこれまでとは
違った難しい局面を乗り越えるため地元で抜きんでた豪族として中央行政府のお墨付きを得る努力が必要であった。

 土師氏は、全部で四腹(四つの血統)あり、8世紀末桓武天皇の代に、喪葬や陵墓管理からくるイメージを変えるため居住地に因んて改名を願い出て許された。
   ① 毛受(もず)氏:百舌鳥古墳群地区に居住
   ② 秋篠氏:佐紀古墳群(4世紀中頃~5世紀後半の大型古墳)地区に居住
   ③ 菅原氏:垂仁天皇地区に居住
   ④ 道明寺(土師氏氏寺):古市古墳群地区に居住

道明寺天満宮 土師氏由緒

2.行基の出自と修業 
 行基(668~749)は、749年(天平21年)2月平城京の菅原寺で82歳で生涯を終えた。
 行基墓誌『大僧正舎利瓶記』に「人慈悲を仰いで世に菩薩と称す」とあり、行基は生前から慈悲の深さや民衆利益の活動に感銘を受けた人々から菩薩とよばれていた。
 奈良時代の国家編集歴史書『続日本紀』(797年)は、210余字を費やして行基の伝記を記し褒めたたえた。行基より文字数の多い伝記を持つ僧侶は、道昭(700年没)・鑑真(763年没)・道鏡(772年没)の三人にすぎず、否定的評価の道鏡を除けば、行基は鑑真とともに奈良時代の高僧の代表例として人々に意識されていた。
 行基は和泉国大鳥郡蜂田郷家原村(現堺市西区)の生まれで、父・高志才智(こしのさいち)は百済から来た王仁博士の子孫にあたり、母は蜂田首(はちたのおびと)虎身の娘・古爾比売(こにひめ)といった(『舎利瓶記』)。後に、寺に改造した家原寺は、行基の母方の実家であった。
 行基は、生まれつき優れた才能を持ち人の手本となる徳風があったと伝わり(『続日本紀』天平勝宝元年二月二日の条)、渡来人系の中級氏族として出家するには恵まれた環境にあり、15歳で出家して沙弥になり、24歳で葛城山の中腹・山林修業地にある高宮山寺の戒師・徳光から比丘戒を受戒した(『行基菩薩伝』)。
 受戒した行基は、戒師徳光のもとで比丘戒の研究と戒律を具体化した威儀行儀の修得に励む一方、山林修業に関する知識技能を学んだ。
 比丘戒を学んだ後、戒律・禅定・智慧の三学研究のため平城京の元興寺(飛鳥寺)に入寺し、経典の解説と研究に励んだ。元興寺には、三蔵法師・玄奘のもとで禅学『瑜伽唯識論』を学んで持ち帰った道昭がおり師事した。大乗仏教の修業者は山林の生活を捨て、在家者への布教活動に従事すべきであると主張する教えに触れ戦慄するとともに深い疑義にとらわれた。
 山林修業の価値を全面的に否定する教えとの出会いは、十余年にわたる山林修業の生活を否定された行基は、慶雲元(704)年、37歳にして自分の生き方に疑念を抱き故郷・大鳥郡へ帰り、生家を改めて家原寺とし母への孝養を尽くす生活を初めた。
 郷里の人々は、行基を偉大な修業者として迎え入れ、請われて行基は須恵器生産の斜陽化しつつあった大村里に大須恵院(現・高倉寺)の建設に貢献し「衆生の仏教」へ踏み出した。
 
3.行基が活躍した八世紀前半の社会的環境
 皇極天皇4年(645年)6月14日、「大化の改新」によりそれまで豪族支配の国政を天皇を中心とした国政に改革が行われ、これを機会に、国号を「日本」と称し、年号が「大化元年」と制定され、以後今日まで年号制が継続している。
 唐の律令の法体系に習って(1) 公地公民制,(2) 国郡里という行政区画の制定,(3) 造籍,班田収授法(*1)の実施,(4) 租・庸・調制(*2)の実施などを基礎とする中央集権的官僚制の導入が検討された。
     *1:「班田収授法」:土地の分け与え(男子6歳以上2反、女子男子の2/3)
    *2:「租」:口分田(土地)の広さに応じてイネを納める。「庸」:労役またはその代わりに一定量の布を納める。
    「調」:その土地の特産物を納める。「租」は地方の財源,「調」と「庸」は中央政府の財源として使われる。
 大宝元 (701) 年、刑罰(律)を備えた行政法(令)として大宝律令(『大宝令』 (11巻) ,『大宝律』 (6巻))が施行され、奈良~平安時代の国家体制を確立した。
 律令制の施行が強力に推進され、それまでの社会慣習・社会規範との間に種々の軋轢を引き起こし、庶民の生活にも大きな労苦を生じていた。特に、和銅元(708)年前後に開始された平城京の本格的な建設は、短期間に大規模な数の役民を酷使して多くの逃亡者を生んだばかりか、その徴発によって畿内外の戸に過重な負担を強い、結果として戸籍地よりの浮浪逃亡を引き起こすことになった。

 畿内周辺の要路では、「調」を都まで運んできた運脚夫や造京の任を終えた役民たちが、帰国途中に飢え疲れて不慮の死という悲惨な状況が頻発していた。
 行基は慶雲2(705)年、病気を患った母親を伴って土師氏ゆかりの大和国添下郡佐紀郷に移り佐紀堂に安居して孝養を尽くした。慶雲4(707)年、平城京造営に伴う立ち退き命により母とともにさらに大和国平群郡生駒仙房へ移り住んだ。母の死後も仙房に留まって服喪の生活の中「衆生の仏教」への思索を深めていた。
 山林苦修業への懐疑の苦しみを乗り越え、「衆生の仏教」へ路線変更した行基は、行路民救済のために周辺交通路沿いに休養・看護施設として布施屋や初期道場(恩光寺、隆福院)を相次いで建立していった。
 郷里を離れた行路民の信仰心は、救済者・行基へ集中し、官の許しも得ず私人として得度し行基の活動に協力する者があらわれ、後に平城京にて盛んな托鉢行を展開する行基集団の母体となった。
 「布施屋」は、交通の要地に設置された簡易宿泊施設で、「調」、「庸」という税物を背負い都に届けに行く農民たちに一夜の宿と飲食物を供給する施設であった。
 「院」は、民衆のための寺院であり修業の道場でもあったが、寺院を私的に建設することは法律で禁止されていたので「院」を名乗っていた。
 施設を建設する資材の調達のため、出家の弟子に乞食修業(*3)を勧め、在家の弟子に罪とがを滅ぼす布施行を勧め活発な活動を始めた。
   *3:乞食(こつじき):比丘(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。
 717年(養老元年)、行基らの活発な布教活動は行政府の注目するところとなり、元正天皇は詔を発して「小僧行基ならびに弟子ら」は僧にあるまじき非行(弟子と徒党を組む、釈迦の教えに違反し法令を犯す、報酬を強要する)を犯しているものとして、行基の名前をあげて糾弾した。
 平城京では下級官吏層を支持者として加え、721年(養老5年)彼らの一人・寺史乙丸(てらのふとまる)から平城京内の屋敷地の布施を受け菅原寺を建設して布教活動の根拠地とした。
 722年(養老6年)、民間布教を行う在京の僧尼に対して実刑を伴う極めて厳しい太政官符が発せられ、行基は民衆の強制送還を避けるため在京の知識集団を解散して一時的に故郷・和泉へ撤退した。
 722年(養老6年)、行政府はそれまでの土地の公有制を改めて、土地の開墾促進を目的として太政官符「良田百万町開墾計画」を発し、723年に「三世一身法」(*4)を施行した。
   *4:「三世一身法」:灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合、三世(本人・子・孫)所有を許す。
            既設の灌漑施設を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す 
 私有耕地の拡大は、農民たちの望むところであった。
 行基は地元の農民や帰依者の力を結集して灌漑用のため池・用水路を造り、これの建設および維持管理のために院を建設して用水路の利用者を知識(*5)に結集させ院と池の永続性を図った。
   *5:「知識」:仏道に帰依するために財物や労力を提供する者、団体、その行為、また寄進された財物。
 溜池・用水路にはじまる土木工事は、さらに堀川・橋・道路へと拡大し、本来、公権力がなすべき事業を行基とその弟子たち(知識)が代行して実行したことにより行政府の抑圧は軽減した。
 731年(天平3年)、行政府は、行基知識集団に対する警戒を解き(官の政策転換)、行基に帰依する知識集団の内、男61歳、女55歳以上の高齢者について、国家による調査・試験を経ることなく出家することを許可し、出家者としての特権(課税免除、刑罰軽減等)を許した。
 734年(天平6年)、大地震が発生し、つづく735年(天平7年)、聖武天皇が朝鮮半島の新羅や唐に派遣した使節団が道中で天然痘に感染し、緊急帰国上陸した大宰府管内で大流行し多数の死者を出した。737年(天平9年)使節団が平城京に帰ると、国政を担っている藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)百官の官人に蔓延、病死するなど行政府を閉鎖するほど大きな被害が発生した。
 聖武天皇は、災害を収め国家を安寧ならしめるため仏教への帰依を深め、宮中と大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺の四つの寺に『大般若経』を読み上げる法要を実施させた。
 740年(天平12年)、聖武天皇は、難波宮行幸の際、河内国大県郡智識寺にあった盧舎那仏に礼拝し、知識集団や民衆によって建立、運営されていた智識寺のあり方に印象を強く持たれ、後の大仏造立に詔に反映された。

 741年(天平13年)、聖武天皇が恭仁京に繋がる泉大橋(木津川)近くの泉橋院に行幸され行基と会見し、摂津猪名野の地を与え給孤獨園(*6)とすることを許し、さらに泉橋架設に参加した優婆塞ら750人に得度を許すなど、行基に対する国家の姿勢が大きく変わった。
   *6:「給孤獨田」-孤:父なきなり⇒孤児、獨:老いて子の無き者⇒「身寄りのない老若に給する施設」

 

 743年(天平15年)、聖武天皇は盧舎那仏造立の詔(*7)を発令し、行基は知識集団を率いて参加し勧進役を命じた。
   *7:「・・・自ら当に念を存し、各廬舎那仏を造るべし。もしさらに人の一枝の草、
       一把の土を以て像を助け造らんを情(こころ)に願う者有らば、ほしいままにこれを聴(ゆる)せ。」
 聖武天皇は、知識という僧侶、俗人をまじえた喜捨集団による行基の活動のあり方を認め、知識の一人として国民へ大仏造立への参加を呼び掛けた(*8)。
   *8:『東大寺要録』縁起章第二所引「造寺材木智識記」
       ◆利波志留志(献物叙位にあずかる大口の布施)    
        ・材木智識(五萬一千五百九十人)、・役夫知識(一百六十六萬五千七十一人)、・金知識(参十七萬二千七十五人)、・役夫(五十一萬四千九百二人) 
       
 人口が増加する一方耕地不足が生じ、さらに私有化期限が迫ると耕作意欲が落ち荒れ地が広がり問題化してき墾田永年私財法を制定し、新たに開墾した土地の永久私有化を認め労働意欲を促した。結果的には、開墾資力に恵まれた貴族や寺社など有力者の耕地集約(荘園)や豪族の配下支配(自衛武士発生)に繋がった      
 745年(天平17年)、聖武天皇は、行基を「僧正」の位を超え、初めての「大僧正」に補任した。

4.行基の事績
第Ⅰ期:704年(慶雲元年)~710年(和銅3年)
 母への孝養の生活と、山林における苦修行への疑念に苦しむ時期
 山林苦修行を断念し故郷・堺へ帰り生家を家原寺に改修して和泉を中心に小規模活動を始めた。
 郷里の人々は、行基を偉大な修業者として迎え入れ、請われて行基は須恵器生産の斜陽化しつつあった大村里に大須恵院(現・高倉寺)を建立し「衆生の仏教」へ踏み出した。
 特に、光明地区では、瓦のほかに仏鉢型土器(托鉢)、硯、舎利瓶器型小壺(火葬後の骨壺)が生産され、民衆は和泉地方における行基の活動を支え、行基に帰依し在地の行基知識集団の母体となった。
 大須恵院では、これら須恵器の生産に携わっている人びとや階級、身分を無視して広く民衆に根差した布教を目的とした。
 707年(慶雲4年)、母親の病気療養と看病のため、ともに土師氏ゆかりの大和国添下郡佐紀郷に移り佐紀堂で孝養を尽くす。その後、平群郡生馬仙房に移り住み、710年に母親没しても仙房にとどまり喪に服していた。 

 

第Ⅱ期:710年(和銅3年)~723年(養老7年) 
 疑念から解放されて大和へ布教(乞食修業、布施行)を始め、行政府から抑圧の始まった時期
 平城京の建設が本格化するに従い酷使から逃亡する役民が増え、「調」を都まで運んできた運脚夫および造京の任を終えた役民たちが、帰国途中に飢え疲れて不慮の死という悲惨な状況が頻発し溢れた行路民の救済のために周辺交通路沿いに休養・看護施設として布施屋や初期道場(恩光寺、隆福院、石凝院、菅原寺)を相次いで建立した。
 施設を建設する資材の調達のため、出家の弟子に乞食修業を勧め、在家の弟子に罪とがを滅ぼす布施行を勧め活発な活動を始め、717年(養老元年)、元正天皇より「小僧行基」と行基名指しで糾弾され、行基は、民衆の強制送還を避けるため在京の知識集団を解散し一時的に故郷・和泉へ撤退した。

第Ⅲ期:724年(神亀元年)~729年(天平元年) 
 良田計画と三世一身法の成立を受け和泉地域の開墾事業に注力
 民間・衆生への布教に確信を持ち、女性のために院と尼院を分け(清浄土院・尼院、大野寺・尼院)、道場(久修園院、檜尾池院)と併せて溜池や用水路、山崎橋などを造営した。
特に、山崎橋の架設は、師・道昭の先行事業を継承し、淀川三川(木津川、宇治川、桂川)合流地点に架設する本格的事業として、その後の淀川流域における事業展開の準備期間と位置付けるものであった。
 糾弾を受けて帰郷の中、行基は、地元での民衆布教の拠点として大野寺(*9)の建設に取り組み、その南方に百舌鳥古墳群の築造に貢献した地元の大檀越・土師氏の協力のもと和泉、河内を主体とする在地の行基知識集団を結集して一辺約53.1mの四角形の基壇に13段の階層を有する国家安寧・鎮護および祖先追善供養など祈りの象徴として土製の作善行の塔・土塔を築造した。
   *9:四十九院の内、「寺」の呼称は、2.恩光寺、5.菅原寺、10.大野寺のみで、その他は「院」の呼称とした。
    「僧尼令」で寺を私的に建設することを禁じられていたので、民衆のための修業道場として垣根をめぐらした建物という意味で「院」を名乗った。

第Ⅳ期:730年(天平2年)~749年(天平勝宝元年):行基死亡
 畿内全域の大規模な開墾事業が展開された期間-行政府、事業成果目録「天平十三年記」確認
 国家の支配理念と実態の乖離の中で、本来、国家がなすべき多くの社会・土木事業を、行基知識集団が成し遂げ社会矛盾を解決していった。
 これら知識集団とともにある行基の事績が評価され、731年(天平3年)行基に帰依する高齢者(男61歳、女55歳以上)への出家の許可、741年(天平13年)泉橋院で聖武天皇と会見し給孤獨(きゅうこどく)園(えん)(身寄りのない老若に給する園=理想郷)建設の許可、また、当時の行政府は行基の起用に当たって行基知識集団が取り組んだ社会的事業の記録(公文書「天平十三年記」)の提出を求め、行基の布教実践活動は高揚し、さらに淀川中下流域へ開発事業が展開していった。

 


 

5.行基活躍の特徴と功績
1)行基は、大乗的菩薩道(*10)に立って布教と社会的活動を積極的に実践、展開した。
    *10:菩薩道:すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えとする道
 「利他行」(*11)を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの菩薩道の実践そのものであった。 
    *11:利他行:仏に絶対的に帰依し,それを体現することを目ざして,他人に対する善きはからいを第一の眼目とする考え。
 最澄(767~822年)が『顕戒論(けんがいろん)』巻上(820年)に行基を理想とし、菩薩僧の養成を天台宗の目的とした、と説いた。
 「恐らく、奈良時代を通じ、行基ほど多数の弟子を養成した僧は皆無であったと言って過言ではないと思わる。」書いている。
2)民衆が行基の布教を受け止め帰依した。
 ①行基は高度な教義をなまの形で説いたのではなく耳目に入りやすい平易な説教を行った。
  この世において善行(利他行)を積めば、現生で報いを受け富を築くことが出来ると説き現実の生活に悩む民衆を引き付けた。
  社会的、経済的な問題と絡み合い、行基の教えへの傾倒が深まり、菩薩行の貫徹が民衆の心の中に強く浸透して帰依していった。
 ②豪族や上層農民には貯富の可能性を認め、仏や経典の力に頼り、功徳を積みながら生産に励むことを説き、その生産活動を内面的に支えた。
  仏教による精神的な救済のみならず、自ら達成した社会・土木事業(作善行為)の現実的効果を認めた。⇒灌漑施設、交通
 ③行基の施設造りと開発における持続性・計画性・合理性は豪族の経済的活動に結びつき豪族や上層農民が行基活動の担い手となった。
3)仏縁に結集する民衆(知識*5)組織化のシンボルとして「土塔」を築造し、その後の社会的事業推進の体制づくりに結び付けた。
 土を使って建築の専門的な技術を必要としない「塔」の築造を企画し、広く民衆が協力して自らの手で「塔」を築き上げ行基への帰依のもと団結力を高めた。
 「利他行」に通じる善行の種をまいて功徳の収穫を得る福田思想の一方、祖先追善供養、極楽往生や国家安寧(天皇尊霊)など願いを込めた行基知識集団の象徴となった。 
 発掘調査により(平成10年度~、復元整備工事:平成15年~平成20年)、多くの文字瓦が出土し(約1,250点)、中に、軒丸瓦当面に「神亀四年□<丁>卯年二月□□□<三日起>」(□:欠損、< >:復元)と記されたものが2点あって、安元元(1175)年に記された『行基年譜』に記載された大野寺の創建年代に記載と合致し、文献資料の記載と考古学的な資料の内容の一致により大野寺と土塔御建立が神亀四(727)年と確定し、『行基年譜』が一級史料であることを証明された。
 出土した人名瓦を精査すると、僧尼関係(優婆塞、優婆夷、童子)、姓を持つ氏族、持たない氏族に分類され、臣や連、宿禰などを有する有力氏族のほかに女性の参加も確認された。
4)女性の立ち位置、役割に配慮し男女同等の扱いをした。
 従来、農業や祭祀等において女性の活動が一定程度確保されていたが、律令制の導入によって男性中心制(税制、戸籍法、儒教的家族道徳強制等)になり女性の地位が大きく変化して、女性たちは家族や共同体を離れ行基の大乗的菩薩道に帰依し個人的な救済を求めた。
 行基は、故郷・和泉国に撤退するきっかけとなった太政官符〔722年(養老6年))「・・・聚宿を常となし、妖訛群をなす。初めは修道に似て、終には姦乱を挟めり。永くその弊っを言うふに、特に禁断すべし、と。」を踏まえ、誤解を避けるため、帰郷後、最初に建立した道場「清浄土院」には、別途、女性専用の「尼院」を建立し、道場四十九院の内十三院に女性専用の尼院を併設し、宿泊の設え、食事準備、看病、衣類繕い等身の回りの世話など女性の役割を確保した。
 女性に大乗菩薩道への参加の道を開いた。
      722年(養老6年)清浄土院に、別途、女性専用の「尼院」を建立した(合計四十九院の内尼院十三)。
   727年(神亀4年)仏縁と功徳を求め、作善行を目的とした土塔の築造に女性知識の参加が認められた。
   730年(天平2年)和泉国大鳥郡日下部首麻呂智識『瑜伽師地論』写経に433人の女性が参加した(男276人、計709人)。
   731年(天平3年)聖武天皇詔「行基法師に隋遂せる優婆塞(男)61歳以上、優婆夷(女)55歳以上ならば、みな入道をゆるせ。」により女性の 出家を公認させた。

5)根源的な水資源開発を推し進め、渇水と洪水両様を講じ大規模水田開発を推し進めた。
 天平13(741)年、行政府に提出した行基知識集団が取り組んだ社会的事業(公文書「天平十三年記」)8種類のうち、6種類〔橋、池、溝(用水路)、樋(水門、樋菅)、船息(港)、堀(運河)〕が水に関わる事業であった。
 慶雲元(704)年、行基は山林修行から新たに「衆生の仏教」へ目覚め、民衆の救済に軸足を置いて故郷へ帰郷し畿内全体を視野に入れながら身近な問題に取り組んだ。
 当初は、地元民に乞われて蜂田郷に灌漑用茨城池を造り、百万町歩開墾計画に基づく「三世一身法」の施行後、丘陵ごとに小さな池を造り地域の農民救済のなかで池造りの技術を蓄積した。
 最終的には、溝、樋を活用した河道外貯留ダム方式による技術で大きな池(狭山池、久米田池、昆陽池)を補修し、開発した。
 神亀2(725)年、税物(調、租)を運ぶ運脚夫等の便宜を図って、師・道昭に習い淀川三川(宇治、木津、桂川)合流地点に苦労しながら山崎橋を架設した。
 この経験を活かして高瀬大橋(730年)、泉大橋(740年)、淀川下流部3カ所(745年:長柄、中河、堀江)など淀川中・下流域の重要拠点に架橋した。

 「堀」と「溝」については、「天平十三年記」に示された仕様数字から(上表参照)、「堀」は運河(通常幅20~30m)ではなく、その使途は「洪水対策放水路」(幅:60m~200m、長さ:300m~2,100m)と考えるのが妥当で、「溝」は水資源を新たに産みだすための施設で配水施設ではないとの土木技術専門家の意見に説得力がある。
 従って、行基集団の淀川中・下流域の開発事業は、これら地域を干陸化して新たに水資源を産みだし水田にすることが目的であると考えられる。
6)氏族層の乱立によって郡司の支配が機能しづらい状況の中で、行基らの媒介で氏族が相互依存関係で協力し合う流れが出来た。
 土塔の築造に土師氏を中心として周辺氏族が参加し、それを機縁として自らに地域の道場(院)や灌漑、交通施設などの造営に支援を求めた。 
 異なる氏族・技術者を包含して移動し、各地に「院」(私設道場)を設けることによってネットワークを構築し、さらに活発化、大規模化して人、物、技術の相互支援体制が整った。
  ⇒勤労奨励、資富蓄財の肯定、生産転換(現状離脱の自助努力)、ネットワークづくり規模拡大・相互支援(氏族間、技術者間)を促した。
7)行基集団は国家の社会統合のあり方を法的官僚制(大宝律令制)から仏教的社会へ橋渡しし、国家の社会統合のあり方を誘導した  
 8世紀には、国家(聖武天皇)は仏教を利用した社会統合を企図し、律令に基づく官僚制のみならず仏教を社会統合の要と位置付けた。
 王権と支配者層のみが仏教を占有する「僧尼令」(*12)的な仏教観を一歩脱して、衆生救済の大乗仏教を思想上容認した点で画期的であった。
    *12:僧尼の禁止すべき行為と,それを犯した場合の罰則や,僧綱(そうごう)任命の原則などを規定。
 天平13(741)年、聖武天皇が泉橋院に行幸し行基との会見で摂津・猪名野の地を与え給孤獨田(*:13)とすることを許し、さらに泉橋の架設に参加した優婆塞ら750人に得度をゆるし、国家に奉仕し財政を支える存在として民衆に仏教的救済の必要性を認めた。
    *13:「給孤獨田」-孤:父なきなり⇒孤児、獨:老いて子の無き者⇒「身寄りのない老若に給する田」
 行基は惸独田(けいどくでん)150町の収穫をもって孤(親のない子)・独(子のない親)に施した施設(昆陽施院:日本後紀、弘仁3(812)年8月癸丑条)を建立した。 
 743年(天平15年)、聖武天皇は盧舎那仏造立の詔を発令し知識力によって成し遂げることを理念として掲げ、「一枝草一把土」をもって造像に協力するよう呼び掛けた。
 

6.引用文献・資料  発行(発表)年順に記載
1. 吉田靖雄1987『行基と律令国家』吉川弘文堂
2. 井山温子1987「和泉地方における行基集団の形成」『史泉』20頁、第66号 関西大学
3. 千田 稔1994『天平の僧 行基 異能僧をめぐる土地の人びと』中央公論社
4. 大阪府教育委員会1995『泉州における遺跡の調査Ⅰ陶邑Ⅷ』大阪府文化財調査研究センター
5. 井上 薫編1997『行基事典』図書刊行会
6. 瓜生津隆真1997『浄土三部経Ⅲ阿弥陀経』12頁 本願寺出版社
7. 浄土真宗本願寺派日常勤行聖典編纂委員会1998『日常勤行聖典』106頁 本願寺出版社
8. 井上 薫編1998『行基菩薩-千二百五十年御遠忌記念誌』行基菩薩ゆかりの寺院
9. 堺市博物館1998『行基-生涯・事跡と菩薩信仰』堺市博物館
10.  勝浦令子2000『日本古代の僧尼と社会』吉川弘文館
11.  堺市・文化財課編2010『史跡土塔整備記念講演会記録集 堺の誇り土塔と行基』堺市
   土塔発掘開始:1998年〔神亀4年(727年)記入文字瓦出土〕、復元:2003年~完成2008年〕
12. 吉田靖雄2013『行基 文殊師利菩薩の反化なり』ミネルヴァ書房
13. 近藤康司2014『行基と知識集団の考古学』清文堂出版
14. 溝口優樹2015『日本古代の地域と社会統合』吉川弘文館
15. 角田洋子2016『行基論 大乗仏教自覚史試み』専修大学出版局
16. 尾田栄章2017『行基と長屋王の時代 行基集団の水資源開発と地域総合整備事業』現代企画室
17. 堺市・市長公室企画部政策企画担当、環境局環境都市推進部環境政策課
         2018「持続可能な開発目標SDGs~わたしたちの世界を変革する17のゴール~」
18. 舘野和己(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)「太鼓古墳群と土師氏の関わり-墳墓造りを担った古代氏族」2019『中外日報』2019年8月30日号
19.「行基さん大感謝祭」実行委員会2019「行基さん大感謝祭2019」案内資料(令和元年10月26日)
20.森 明彦「諸国より京への運脚夫日数」2020『堺行基の会会報』第47号、1頁、堺行基の会


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